Welcome to Moriel Ministries...

Moriel is an international multi-faceted ministry of Jewish and non-Jewish regenerate believers one in Jesus the Messiah and is committed to the evangelization beginning with the Jews and also people of other faiths including Islam, Hinduism, Buddhism, and theologically deviant expressions of Christendom including Roman Catholicism (which we view as aberrational much as we deem Talmudic Judaism to be likewise largely unscriptural).

One Messiah - Two Comings - Japanese

ひとりのメシア ふたつの到来

ジェイコブ・プラッシュ

『彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」』(使徒 1 章 4 節-8 節)

垊興丝瞊

現代、広く教えられている偽りの“復興主義”を理解することから始めてみましょう。

「主よ。今こそ国を再興してくださるのですか。」今日私たちは復興主義運動と呼ばれるものをよく耳にしています。

「国を再興する」という言葉は新約聖書でただ一度使われており、それは教会が勝ち誇ることではなくて、イスラエルに関して使われています。

復興主義運動はかつて存在しなかった、三つのものを回復させようと取り組みます。

彼らがしようとしている第一のことは、“ 支配主義(Dominionism)” や“ 勝利主義

(Triumphalism)”と呼ばれる、一種の終末論を回復させようとすることです。それはイエスが再臨し王国を建て上げる前に、教会が世を征服するといった間違った考えです。

教会は最終的には勝利を得ますが、それはキリストの再臨にかかっているのです。

平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいますと書かれて

あります。(ローマ 16 章 20 節)

ダニエルは終わりの時代に起こる迫害を詳しくはっきりと語っています。

『私が見ていると、その角は、聖徒たちに戦いをいどんで、彼らに打ち勝った。しかし、それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、さ ばきが行なわれ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た。』(ダニエル 7 章 21 節-22 節)

“神の国はいまここに”という教理はキリスト教世界で大きな人気を得ています。特に西洋で受け入れられています。それはキリストの再臨の前に、聖徒たちが国を受け継ぐと間違って主張していますが、聖書は明らかにキリストの再臨の後、聖徒たちが国を受け継ぐと教えています。

これらの間違った信念は教会の歴史の中で何度も現れてきました。たいていは歴史の転換期に現れるのです。

ローマ帝国の衰退期にはそれはモンタヌス主義と呼ばれていました。モンタヌス主義は現代の復興主義運動に見られるような混乱を示していて、“しるしや不思議”を強調し、その教理を理解していない人たちを集めていました。予測や預言が次々にはずれました。

ルネッサンスの時期にはそれはミュンスター・アナバプテスト(Munster Anabaptist)と呼ばれる団体であり、彼らはヅィカウ(Zwickow)の預言者たち―今日のカリスマ派や福音派の中にいて人気があるにせ預言者たちと同じような者たち―に従い、でたらめで無責任な予測をしましたが、それは成就しませんでした。(注‥初期のアナバプテストではありません)

預言の権威

ふたつ目は、聖書的ではない預言の権威を回復しようとすることです。聖書的な預言の権威とは、預言者は語ったことについて責任を持つということです。

ヴィンヤード派(Vineyard)から来た人が、実際に次のようなことを私に言ったことがあります。新約聖書は「預言することも一部分」(1 コリント 13 章 9 節)だと言っているので、ジョン・ウィンバー(John Wimber)の仲間や、ポール・ケイン(Paul Cain)などは部分的に

正しくて、部分的に間違っているが、それでもなお聖書的な預言者であると。このような

考えは間違っており、ひどく危険なものです!そのような人はだまされています。

(注‥これら有名な教師たちは公に大胆なにせ預言をし、90 年代のイギリスに大リバイバルが来ると言いました)

使徒的権威

三つ目に、彼らは聖書的ではない使徒の権威を復活させようとしています。新約聖書の中の使徒の権威とはもっぱら教理に関してのことです。

十二使徒という意味において、使徒の権威は今も教会に存在しているのでしょうか?存在しています。それは聖霊によって使徒たちとパウロの書簡の中に保たれています。

教会を立てる意味において、他の種類の使徒は存在することは確かですが、新約聖書を見ると使徒の権威は複数形で書かれています。

『聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。』(使徒 13 章 2 節)

イエスは使徒たちをふたりずつお遣わしになりました。なので、聖書的な権威とはいつも複数なのです。

復興主義におけるハウス・チャーチ運動の使徒的権威のかたちとは、ピラミッド型であり、そこにおいて使徒たちは組織のトップとなっています。彼らが“使徒的権威”と呼ぶものは 結局重いくびきを負わせているのです。

加えて、聖書の中の使徒の権威はいつも責任があるものです。

パウロとバルナバはいつも、彼らを送り出したアンティオケに戻ってくる責任がありました。

そのほかに、聖書の中の使徒的権威は使徒 15 章に見られるように、互いに仕えあうものであり、決して個人のワンマンショーとはなりません。

彼らが今日、復興主義運動において“使徒的権威”と呼ぶものはくびきを重くすることであり、グノーシス主義に基づいています。これらの人は「グノーシス」(訳注…1 テモテ 6 章

20 節「霊知」)つまり個人的な啓示を持っていると主張し、それを理解できなければあなたは欺かれていると言うのです。

真の復興

それでもなお、真実の復興は存在し、イスラエルの復興に関係しています。

置換神学―これは教会がイスラエルに置き換わったという考えであり、イスラエルとユダヤ人の預言的・終末論的な目的をすべて無視していて、全く非聖書的な教えです。

ローマ人への手紙 11 章では、イスラエルがはっきりと“根”であることを語られています。その根があなたを支えているのです。あなたが根を支えているのではないのです。根とは地下に生えるものです。それを見ることができないというだけで、そこに存在しないわけではありません。もし、木が根を持たなかったら、その木は枯れてしまうのです。

もし、イスラエルが永遠に捨てられたのであったなら、教会も共に捨てられていたでしょう。もし、神がイスラエルをその罪と不信仰のゆえに退けたのなら、教会に関してもそれを退けるに十分な理由があるのです。もしかしたら、イスラエル以上にあるかもしれません。

イスラエルの罪は教会の歴史においてとても容易に再現されました。子どもを悪霊にささげることに関しても、膨大な数の治療とは関係のない妊娠中絶が西洋世界、キリスト教民主主義の中で行われているのです。

ローマ 11 章が教えていることは、悔い改めイエスを受け入れた異邦人クリスチャンたちが、そうしなかったユダヤ人と取って代わったということです。それは自分たちのメシアを退 けたユダヤ人の代わりに、異邦人クリスチャンがつぎ合わされたということです。しかし、その根はイスラエルのままなのです。

地下にあるものは旧約のイスラエルです。しかし地上にあるものは新約の教会です。教会は旧約のイスラエルに霊的につながったものであって、置き換わったものではありません。

イスラエルの復興

その根はいまでもユダヤ人です。そしてもとの枝はユダヤ人であり、最初のクリスチャン

たちもユダヤ人でした。新約聖書の著者もユダヤ人であり、最後のクリスチャンもユダヤ

人となるでしょう(黙示録 7 章・14 章)。

イエスはオリーブ山での説教によって、国としてのイスラエルの復興を語っていました。エルサレムは、異邦人のときが満ちるまで異邦人によって踏み荒らされるのです(ルカ 21

章 24 節)。

イエスはパウロがローマ 11 章 25 節で用いたのと同じ言葉を使いましたが、イエスは国としてのイスラエルについて語っていました。

ローマ 11 章において異邦人のときは救済論的に扱われていますが、ルカ 21 章のオリーブ山の説教では終末論的に扱われています。

異邦人のときが終わることの最終的な意味は、ダニエルの預言と密接に関係しています。神の世に対する贖いの計画は、イスラエルの救い、預言的にいってイスラエルの復興の計画いかんに関わっているのです。

イスラエルの復興は国としての側面も含まれていますが、ローマ 11 章 15 節で見られる救済論的なもののほうが重要です。『もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。』

神の計画

新約聖書は復興について語っています。しかし、それは今日あるようなおかしな勝利主義運動のようなものではなく、神はイスラエルの復興という計画を通して、国々を祝福しようとされているのです。

ヘブライ語の“異邦人”という言葉と、“国々”という言葉は同じ「ゴイ(goy)」というものです。神は終わりの時代にあって、ユダヤ人を通して教会を祝福しようとされています。

主はこれらの中近東での出来事をもって、キリストの再臨の証拠とされています。このことはイエスが与えた兆候のひとつです。

イエスが備え、私たちがだまされないようにと与えられたしるしを、今日、キリストのからだの中にいる多くの偽教師たちが、しるしではないと信者たちに教えています。

なぜユダヤ人がイエスを退けるのか

ユダヤ人がイエスをメシアとして信じない主な理由はふたつあります。ひとつは、ローマ・カトリック教会や東方正教会によってなされた、キリスト教の反ユダヤ主義の悲しい歴史。また、残念ながらマルティン・ルターの著作から発想を得たヒトラーによる『我が闘争』です。

ルターはすべてのユダヤ人が囲いに集められ、ナイフを突き付けてでもキリストを告白させるべきだと教えました。またルターは、「私たちドイツ人は、自分たちがクリスチャンであると証明するために、ユダヤ人を殺さなければ非難されるべきだ」と言いました。

次に多くのユダヤ人がイエスをメシアとして受け入れない理由は、イエスが世界平和をもたらさなかったためです。イエスはイスラエルの敵を征服せず、エルサレムにメシアの王国を建て上げず、国々に正義をもたらさず、世界に繁栄と平穏を与えなかったというのです。

もし、イエスがメシアであるなら、ダビデの性格に象徴されるメシアによる統治はどこにあるのでしょうか?

終わりまで戦いがある

その答えはダニエル 9 章に見出されます。メシアは第二神殿が破壊される前にやって来て、死ななければならなかったのです。

メシアは最初の到来において、世界に平和をもたらすことがその目的ではなく、問題の根源である罪を解決することを目的としていました。メシアが世界的な平和をもたらすのは再臨、二度目の到来においてです。

『その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。』(ダニエル 9 章 26 節)

ユダヤ教によると(ミドラッシュ・ベレシート ワーソー版 243 ページより the midrash Bereshith on page 243 of the Warsaw edition)メシアは A.D.33 年には死ななければならないと書かれています。私たちはタルムード的な書物でも、メシアは第二神殿が破壊される前に来て、死ななければならないということを確認できます。

サンヘドリンの者たちが嘆きながら、「なんていうことだ!メシアはどこにおられるの

か?彼は今来ていなければならなかったのに」と言っていたということを書物によって知っています。

ラビ・レオポルド・コーヘン

とても高齢であった超正統派のラビ、レオポルド・コーヘン(Leopold Cohen)はダニエル 9

章の意味を探ろうとしました。

コーヘンは古代の賢者と呼ばれるラビが書いたふたつの書物を発見しました。ひとつは、メシアはすでに到来していたはずであるというものと、もうひとつは、ダニエル 9 章を読む者は誰でも呪われるというものでした。

そこで、ラビ・レオポルド・コーヘンは彼がなしえる最善のことをしました。バプテスト派の奉仕者になったのです。

反ユダヤ的クリスチャン

反ユダヤ的なクリスチャンの問題を扱うことは、比較的簡単です。

「クリスチャンたちが私の祖父母たちを殺しておいて、イエスがメシアだと信じることがどうしてできるのでしょうか?」

この問題を扱う方法は、ユダヤ人に本当のイエスを伝えることです―イエスはユダヤ人であり、ナザレのラビ・イェシュア・ベン・ヨセフなのです。そして、ユダヤ人たち自身もモーセの名によって自分の預言者たちを殺したことを指摘してください。

エレミヤを牢獄に入れ、イザヤを半分に切り、ゼカリヤを殺したのはモーセの名によってなされたことなのです。

ユダヤ人がモーセの名によってそのようなことをしたために、モーセを退けるでしょうか?

最近ある正統派のユダヤ人がヘブロンにあるモスクに押し入って、50 人ものイスラム教徒を殺したからといって、モーセを退けるでしょうか?人々がモーセの名によって殺人を犯したために、モーセを非難すべきでしょうか?

なので、イエスの名を語って、人々が何世紀も行ってきたことのためにイエスを非難はで

きないのです。

私はモーセが言ったことに基づいて、モーセとトーラー(律法)を受け入れなければなりません。また、イエスが何を言い、何を行ったかに基づいて、イエスと新約聖書を受け入れるか退けるかを選択しなければならないのです。

すべての預言を成就する

メシアがなぜ世界平和をもたらさなかったかということは別の問題です。イエスがメシアであるためには、旧約聖書のメシアに関する預言をすべて成就しなければなりませんでした。

旧約聖書には二種類のメシアに関する預言があります。ひとつは“苦しみを受けるしもべ”についての預言であり(イザヤのしもべの歌や、ダビデの詩篇に見られるようなもの)、もうひとつは“ダビデ的なメシア”であり、ダビデのように神の敵を支配し、王国を建て上げ、エルサレムで治め、世界平和をもたらすような、勝利を重ねる支配者なる王というものです。

もし、イエスがユダヤ人のメシアでなければ、教会のキリストではありません。“キリスト”“メシア”“油注がれた者”は同じことを意味しています。

イエスは旧約聖書における預言をすべては成就しませんでした。イエスは“ダビデの子”に関する預言を霊的な意味において成就はしましたが、歴史的な意味においてはまだ成就していません。イエスがメシアであるためには、すべての預言を成就しなければならないのです。

“苦しみを受けるしもべ”なるメシアは「ハマシア・ベン・ヨセフ(HaMashiach Ben Yosef)

=ヨセフの子であるメシア」と呼ばれ、“支配する王”なるメシアは「ハマシア・ベン・ダヴィード(HaMashiach Ben David)=ダビデの子であるメシア」と呼ばれます。

シュロの主日

このことはシュロの主日(Palm Sunday)のユダヤ的な背景が分かると納得することができます。過越の祭りは「ハレル・ラバー(Hallel Rabah)=詩篇 113 篇から 118 篇」と呼ばれる

歌を歌う三つの大きな祭りのひとつです。

ハレル・ラバーにおいて最も盛り上がる部分は、『ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。 主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。』(詩篇118 篇25 節・26 節・29 節)という箇所です。

ユダヤ人は過越の祭りにおいて、手を振りながらこれを歌う習慣がありました。また、彼らは仮庵の祭りにおいてもそれを歌い、今度は手にシュロの枝を持って歌う習慣があったのです。

シュロの主日に、ユダヤ人は過越の祭りを仮庵の祭りのように祝い始めてしまいました。仮庵の祭りはユダヤ人の暦の象徴によって、千年王国と関連していました。(また過越の祭りはメシアがほふられる子羊であることを教えています)。

(ヨハネ 7 章 2 節で見られる)仮庵の祭りはエゼキエル 47 章の背景を映し出しています。そしてそれはユダヤ人の頭の中ではダビデの王国と関連しています。

イエスがモーセとエリヤと共にいて姿が変わったとき、このためにペテロは三つの仮庵、幕屋を作ろうと言ったのです。「メシアがここにいる。さあ王国を建て上げよう!」とペテロは言っていました。

シュロの主日にイエスが来られたとき、ユダヤ人は、マカベア家がギリシア人を除いたように、ローマ人を除いてメシアの王国を建て上げてくれる者を待ち望んでいました。なので、彼らはあたかもそれが仮庵の祭りであるかのように、過越の祭りを祝ったのです。

イエスの最初の到来において、イエスはユダヤ人の暦の春の三つの祭日を成就しました。過越の祭り、初穂の祭り(これは復活について)、そして週の祭り(これはペンテコステについて)です。

イエスは再臨において、秋の三つの祭日を成就します。ラッパが吹き鳴らされる祭り、贖いの日、そして最終的に仮庵の祭りです。

すべての預言を成就する

イエスの時代のユダヤ人は、過越の子羊として来られる、苦しみを受けるしもべなるメシ

アを知りたがりませんでした。彼らは支配する王を望んでおり、千年王国を建て上げる者

を求めていたのです。

“苦しみを受けるしもべ”なるメシアは「ハマシア・ベン・ヨセフ(HaMashiach Ben Yosef)」と呼ばれ、“支配する王”なるメシアは「ハマシア・ベン・ダヴィード(HaMashiach Ben

David)」と呼ばれます。

ナザレのイエスがメシアであるためにはすべての預言を成就しなければならないのです。

しかし、イエスは明らかにすべての預言を成就しませんでした。イエスはただ苦しみを受けるしもべ、ヨセフの子であるメシアの部分を成就したのです。

言い換えると、ひとりのメシアがふたつの到来をするのです。最初の到来において、イエスは苦しみを受けるしもべ、ヨセフの子として来ました。再臨において、イエスは王国を建て上げる支配する王、ダビデの子としてやって来るのです。

偽りの教理:無千年王国説・後千年王国説

無千年王国説(地上に千年王国が来ないという説)と後千年王国説(千年王国の後に再臨があるとの説)は、キリスト教がローマで国教とされたときに、コンスタンティヌスとアウグスティヌスの間違いに従ったローマ・カトリック教会が発案したものです。無千年王国説と後千年王国説は全く聖書的ではありません。

元来ユダヤ人による新約聖書の観点から考えると、前千年王国説(千年王国の前に再臨があるという説)の立場しか論証できません。

もし、千年王国が無いのならイエスはメシアではありません。また、もしイエスがユダヤ人のメシアでなければ、教会のキリストではありません。イエスは旧約聖書のすべての預言を成就しなければなりませんが、今のところ、ヨセフの子としての預言だけを成就したのです。

王国を再興する

『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。』という質問によって使徒たちが本当に聞きたかったことは、「私たちはあなたがヨセフの子だということを知っています。しかし、いつあなたはダビデの子になられるのですか?いつダビデのよ

うに王国を再興してくださるのですか?」ということです。

バプテスマのヨハネでさえ、このことを理解できませんでした。

『すると、ヨハネは、弟子の中からふたりを呼び寄せて、主のもとに送り、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか」と言わせた。』(ルカ 7 章 19 節)

使徒たちでさえも、復活の後、オリーブ山でイエスが天に昇るとき、ひとりのメシアがふたつの到来をすることを理解できずにいました。

最初の到来において、主イエスはヨセフの子なるメシアとして来られました。再臨において、イエスは王国を完全に建て上げる支配者である王、ダビデの子メシアとして来られるのです。

ヨセフの子としてのイエスを見てみましょう。

父親の最愛の子

『イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。』(創世記 37 章 3 節)ヨセフは父親の最愛の子でした。

『また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」』(マタイ 3 章 17 節)

ヨセフの子なるメシアは、御父の最愛の子であったのです。

交わりと奉仕

『また言った。「さあ、行って兄さんたちや、羊の群れが無事であるかを見て、そのことを私に知らせに帰って来ておくれ。」こうして彼をヘブロンの谷から使いにやった。それで彼はシェケムに行った。』(創世記 37 章 14 節)

ヨセフはヘブライ語で“交わりの場所”という意味のヘブロンに住んでいました。ヨセフは父と共に交わりの場所に住み、兄弟たちの羊の群れを探しに父によって遣わされました。

『あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうち

にも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、』(ピリピ 2 章 5 節-7 節)

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』(ヨハネ 3

章 16 節)

イエスは御父と交わりの場所に住んでおり、兄弟たちの群れを探しに御父によって遣わされました。

兄弟たちの罪

『ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。』(創世記 37 章 2 節)ヨセフは父に兄弟たちの罪を証言し、兄弟たちはヨセフを嫌いました。

『もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。』(ヨハネ 15 章 18 節-

19 節)

『 [世が] わたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行いが悪いことをあかしするからです』(ヨハネ 7 章 7 節)

イエスは兄弟たちの罪を証言したので、彼らはイエスを嫌いました。

さらに嫌われる

『あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。』(創世記 37 章 5 節)

ヨセフは自分の受けるであろう高い地位を告げました。

兄弟たちは自分たちの罪が証言されヨセフを嫌っていましたが、今回はヨセフを完全にさ

げすむようになりました。

『そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。』(マタイ 24 章 30 節)

『律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕らえようとしたが、やはり民衆を恐れた。』(ルカ

20 章 19 節)

イエスは自分が受けるであろう、栄光ある地位を兄弟に明らかにしたことによって、兄弟たちに嫌われました。

その支配することが予告される

『ヨセフは彼らに言った。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」』(創世記 37 章 6 節-7 節)

『今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。』(マタイ 26 章 64 節)

ヨセフは自分がいつの日か支配をするようになることの予告を受けましたが、イエスもそうでした。

捨てられ、渡される

『彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。』(創世記 37 章 18 節)

『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません』(ルカ 19 章 14 節)

『しかし、彼らは叫び続けて、「十字架だ。十字架につけろ」と言った。』(ルカ 23 章

21 節)

ヨセフもイエスも捨てられ、死に渡されました。

気が狂っていると言われる

『彼らは互いに言った。「見ろ。あの夢見る者がやって来る。』(創世記 37 章 19 節)

『イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。』(マルコ 3 章 21 節)

ヨセフは兄弟たちから夢見る者となじられ、ヨセフの子メシアであるイエスは人々から気が狂ったと言われました。

銀で売り渡される

『すると、ユダが兄弟たちに言った。「弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが彼に手をかけてはならない。彼はわれわれの肉親の弟だから。」兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。そのとき、ミデヤン人の商人が通りかかった。それで彼らはヨセフを穴から引き上げ、ヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフをエジプトへ連れて行った。』(創世記 37 章 26 節-28 節)

ユダはヨセフを裏切り、銀二十枚で売り渡しました。

『そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。』(マタイ 26 章 14 節-15 節)

ユダはヨセフを銀二十枚で裏切ったのです。

同じ名前のユダはヨセフの子を裏切り、イエスを(以前よりも高い値段)銀貨三十枚によって裏切りました。

しもべの心

『それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理さ

せ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。』(創世記 39 章 4 節)

ヨセフはすべてのことをしもべとして行いました。

ルカ 22 章 25 節-27 節やピリピ 2 章 7 節を読むと、イエスがなされたすべてのことはしもべとして行ったことが分かります。

すべてが祝福される

『主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。』(創世記 39 章 5 節)

主はヨセフが行うすべてのことにおいて祝福されました。

『もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。』(イザヤ 53 章 10 節)

神はヨセフの子の行うすべてが祝福されるようにします。

誘惑される

『これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ」と言った。しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」』(創世記 39 章 7 節-9 節)

ヨセフは極限まで誘惑されましたが、耐え忍び罪を犯しませんでした。

『さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。』(マタイ 4 章 1 節・10 節-11 節)

ヨセフは極限まで誘惑されましたが耐え忍びました。ヨセフの子なるメシアも極限まで誘

惑されましたが耐え忍びました。

偽りの告発を受ける

『彼が上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、彼女は、その家の者どもを呼び寄せ、彼らにこう言った。「ご覧。主人は私たちをもてあそぶためにヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとして入って来たので、私は大声をあげたのです。私が声をあげて叫んだのを聞いて、あの男は私のそばに自分の上着を残し、逃げて外へ出て行きました。」』(創世記 39 章 13 節-15 節)

ヨセフは偽りの告発を受けました。

『さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。偽証者がたくさん出て来たが、証拠はつかめなかった。しかし、最後にふたりの者が進み出て、言った。「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる』と言いました。」

そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」

イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。

「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。』(マタイ 26 章 59 節-65 節)

ヨセフは偽りの告発を受け、ヨセフの子なるメシアも偽りの告発を受けました。

生と死を予告する

『さて、監獄に監禁されているエジプト王の献酌官と調理官とは、ふたりとも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢にはおのおの意味があった。 ヨセフは彼(献酌官)に言っ

た。「その解き明かしはこうです。三本のつるは三日のことです。三日のうちに、パロ

はあなたを呼び出し、あなたをもとの地位に戻すでしょう。あなたは、パロの献酌官であったときの以前の規定に従って、パロの杯をその手にささげましょう。

ヨセフは(調理官に)答えて言った。「その解き明かしはこうです。三つのかごは三日のことです。三日のうちに、パロはあなたを呼び出し、あなたを木につるし、鳥があなたの肉をむしり取って食うでしょう。」』(創世記 40 章 5 節・12-13 節・18-19 節)

ヨセフは罪を犯したひとりには生きると予告し、もうひとりには死ぬと予告しました。

『十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。

ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」

そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」』(ルカ 23 章 39 節-43 節)

イエスはふたりの犯罪人と共に告発され、イエスが予告したように、ひとりは生き、もうひとりは死にました。

約束された救い

『ヨセフは彼に言った。「その解き明かしはこうです。三本のつるは三日のことです。三日のうちに、パロはあなたを呼び出し、あなたをもとの地位に戻すでしょう。あなたは、パロの献酌官であったときの以前の規定に従って、パロの杯をその手にささげましょう。』(創世記 40 章 12 節-13 節)

ヨセフは有罪と宣告された人に救いを約束しました。

『そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなた

はきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」』(ルカ 23 章 42 節-43 節)

ヨセフの子であるイェシュアは有罪と宣告された人に救いを約束しました。その同じヨセフの子は今この瞬間も、そのような人が悔い改め、赦しを求めて従うと、その人に救いを約束します。

ヨセフはユダヤ人の兄弟たちに裏切られ、異邦人の手に渡されましたが、神はその出来事を通してすべてのイスラエル人が、そしてすべての世界が救いを受けるようにされたのです。

なので、同じくヨセフの子なるメシアも、ユダヤ人の兄弟たちに裏切られ、異邦人の手に渡されましたが、その出来事を通してイスラエルと全世界に救いをもたらしました。

助けた者に忘れられる

『ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。』(創世記 40 章 23 節)

『そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」』

(ルカ 17 章 17 節-18 節)

ヨセフは助けた者に忘れられ、ヨセフの子も救い出した者に忘れられました。

栄誉を受ける

『そこで、パロは使いをやってヨセフを呼び寄せたので、人々は急いで彼を地下牢から連れ出した。彼はひげをそり、着物を着替えてから、パロの前に出た。

パロはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、 あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。」』

(創世記 41 章 14 節・39 節-40 節)

ヨセフは死の場所である牢獄から出され、王によって栄光の位に上げられました。

『また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えら

れる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえら せ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高 く置かれました。』(エペソ 1 章 18 節-21 節)

ヨセフは罪を宣告された立場から、一日のうちに栄光の位に上げられました。そして主イエス、ヨセフの子なるメシアも非難を受ける立場から、一日のうちに栄光の位へ引き上げられました。

不思議な助言者

『パロはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。』(創世記 41 章 39 節)

ヨセフは自分が偉大な助言者であることを明らかにしました。イザヤ 9 章 6 節において『その名は「不思議な助言者」と呼ばれる。』と書いてあります。

非常に高められる

『パロはなおヨセフに言った。「さあ、私はあなたにエジプト全土を支配させよう。」』

(創世記 41 章 41 節)

ヨセフは栄光と誉れある地位に上げられ、新しい名を与えられました。

『それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。』(ピリピ 2 章 9 節)

イエスは栄光と誉れある地位に上げられ、新しい名を与えられました。

異邦人の花嫁をめとる

『パロはヨセフにツァフェナテ・パネアハという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラ

の娘アセナテを彼の妻にした。こうしてヨセフはエジプトの地に知れ渡った。』(創世記

41 章 45 節)

地位が高められた後、ヨセフは異邦人の花嫁をめとりました。

『なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。』(エペソ 5 章 23 節)

イエスは栄光を受けた後、象徴的に異邦人の花嫁である―異邦人の教会をめとりました。

このためにルツ記―異邦人の花嫁をめとったユダヤ人男性の物語―は、私たちが“教会の誕生日”と呼ぶペンテコステの時期にシナゴーグにおいて読まれています。

そして、どちらの場合も花嫁はその栄光にあずかる者となっています。

およそ三十歳のころ

『――ヨセフがエジプトの王パロに仕えるようになったときは三十歳であった』(創世記

41 章 46 節)

ヨセフはその働きを始めたとき、三十歳でした。

『教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で、人々からヨセフの子と思われていた。』(ルカ 3 章 23 節)

“彼の言われることをしなさい”

『やがて、エジプト全土が飢えると、その民はパロに食物を求めて叫んだ。そこでパロは全エジプトに言った。「ヨセフのもとに行き、彼の言うとおりにせよ。」』(創世記 41

章 55 節)

『母は手伝いの人たちに言った。「あの方(イエス)が言われることを、何でもしてあげてください。」』(ヨハネ 2 章 5 節)

ヨセフについて、「彼の言うとおりにせよ」と言われ、ヨセフの子についても「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」と言われました。

すべてのひざがひざまずく

『パロはなおヨセフに言った。「さあ、私はあなたにエジプト全土を支配させよう。」そこで、パロは自分の指輪を手からはずして、それをヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛けた。

そして、自分の第二の車に彼を乗せた。そこで人々は彼の前で「ひざまずけ」と叫んだ。こうして彼にエジプト全土を支配させた。パロはヨセフに言った。「私はパロだ。しかし、あなたの許しなくしては、エジプト中で、だれも手足を上げることもできない。」』

(創世記 41 章 42 節-44 節)

ヨセフの地位が高められたとき、すべてのひざはひざまずき、ヨセフにすべての権威と栄光が与えられました。

『それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。』(ピリピ 2 章 9 節-11 節)

『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。』(マタイ 28 章 18 節)

すべてのひざがヨセフの子の前にかがみ、すべての権威と栄光が与えられました。

いのちのパン

『やがて、エジプト全土が飢えると、その民はパロに食物を求めて叫んだ。そこでパロは全エジプトに言った。「ヨセフのもとに行き、彼の言うとおりにせよ。」ききんは全世界に及んだ。ききんがエジプトの国でひどくなったとき、ヨセフはすべての穀物倉をあけて、エジプトに売った。また、ききんが全世界にひどくなったので、世界中が穀物を買うために、エジプトのヨセフのところに来た。』(創世記 41 章 55 節-57 節)

『イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』(ヨハネ 6 章 35 節)

『この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私

たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。』(使徒 4 章 12 節)

全世界がヨセフから穀物(パン)を得なければならず、救われるために他の方法はありませんでした。そして、私たちが救われるためにヨセフの子以外の道はありません。

自分を人に任せない

『彼らはヨセフの指図によって、年長者は年長の座に、年下の者は年下の座にすわらされたので、この人たちは互いに驚き合った。』(創世記 43 章 33 節)

なぜでしょうか?ヨセフは兄弟たちの罪深い過去を知っていたからです。

『しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。』(ヨハネ 2 章 24 節-25 節)

メシアであるイエスはヨセフのようであり、兄弟たちの罪深い過去を知っていました。

最初には気付かれない

創世記を読んでいくと、ヨセフの兄弟たちは最初のとき彼に気付かなかったことが分かります。彼らは二度目に気付いたのです。

『ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、

「みなを、私のところから出しなさい」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。

しかし、ヨセフが声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞いた。ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。

ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。』(創世記 45 章 1

節-4 節)

ヨセフの兄弟たちはヨセフを最初は気付かず、二度目に気付きました。

『わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。』(ゼカリヤ 12

章 10 節)

ヨセフの子なるメシアは最初の到来においては兄弟たちに認識されませんでしたが、再臨において、ユダヤ人は自分たちが裏切った人が今や、高められ自分たちを救う方だと気付くのです。

十字架に付け殺した人が、贖い主であり王である方なのです。ヨセフの子はダビデの子でもあります。

苦しみを受けるしもべは支配する王でもある

ヨセフは兄弟たちが悔い改めたとき、彼らを許しました。そして、イエスの兄弟であるユダヤ人が悔い改めるとき、イエスは彼らをお赦しになります。

初めは、ヨセフは異邦人であるエジプト人を用いて兄弟たちにパンを与えましたが、その時が来ると、異邦人は外に出されて、ヨセフは兄弟たちに自分を明かしました。

今この時点では、ヨセフの子は異邦人であるクリスチャンを用いて、食物―いのちのパンを兄弟たちに与えていますが、時が来て大患難に入ると、ヨセフの子は彼自身を兄弟たちに個人的に明らかにします。

すべての権威を王に

ヨセフは地位を高められた後、事態を好転させ、すべての者をパロの手の中に救いました。

(創世記 47 章 20 節)

『それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。』(1 コリント 15 章 24 節)

ヨセフはすべての支配、地位と権威を王の手にゆだねました。

ヨセフの子なるメシアは、すべての権威と支配を王の手にゆだねました。

救い主

『すると彼らは言った。「あなたさまは私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなたのお恵みをいただいてパロの奴隷となりましょう。」』(創世記 47 章 25 節)

ヨセフは民から救い主として認識されていました。

『というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。』(テトス 2 章 11 節-14 節)

ヨセフの子なるメシア、主イエス・キリストは人類すべての救い主として認識されています。

悟られない

ヨセフがエジプトの高官として着飾ったとき(創世記 41 章 42 節)、ヘブライ人の兄弟た

ちは全く気付きませんでした(創世記 42 章 8 節)。

紀元 1 世紀の後イエスは異邦人の王とされました。イエスがユダヤ人の王として来たことは忘れ去られ、ヘブライ人の兄弟たちには全く認識されませんでした。

ひとりのメシア ふたつの到来

ヨセフは高められたとき、新しい名を受けました(創世記 41 章 45 節)。異邦人たちは本来ラビ・イェシュア・ベン・ヨセフであったお方をイエス―ギリシア語の名で呼んでいます。

ひとりのメシア ふたつの到来

ユダヤ人たちは最初ヨセフに気付きませんでしたが二度目に気付きました。そしてユダヤ

人はヨセフの子を再臨において認識し、自分たちが裏切り十字架に付けた人がほんとうは救いをもたらす方であったことを悟るのです。

ひとりのメシア ふたつの到来

イエスはダビデの子として戻って来ます。すべての目がイエスを見ます。ユダヤ人たちは自分たちが突き刺した者、イエスを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣きます。

イエスを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように泣く者は、彼の民に用意されたものと同じ祝福と約束を受け継ぎます。

ヨセフの子なるメシアは、ダビデの子なるメシアとして戻って来ます。そしてイスラエルに王国を再興します。

ジェイコブ・プラッシュ

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