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Moriel Ministries > Teachings > Sermons |
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ミドラッシュ 園の中のイエス(1)ジェイコブ・プラッシュ
(もうすでにご存知の方はすみません。しかし、この教えに耳が慣れていない人や、信仰に入ったばかりの人のために繰り返したいと思います。) 一世紀のユダヤ人クリスチャンが、ヨハネの福音書の最初の4章を読んだなら、創世記と似ていると言うでしょう。彼はヨハネの福音書での「新しい創造」は、創造に対してミドラッシュ(象徴・パターン)によって、それを深く探求しているものであると言うでしょう。ヨハネの中の「新しい創造」は、創世記の中の創造と関係があります。創世記では神さまが地上を歩いていたとあり、人はエデンの園でそれを聞いたとあります。これはイエスのことを語っています。これは神学的な用語では、キリストの顕現と呼ばれるもので、旧約聖書でのイエスの現れです。ヨハネの第一章ではことばは人となったとあり、もう一度、神さまが地上を歩いているのです。 創世記で記されている、小さな光と大きな光とは、月と太陽のことです。ヨハネでは、私たちはまた小さな光である-バプテスマのヨハネを見ます。ヘブライ語の名前はYochanon Ha Matbil(ヨハナン・ハ・マトビル)と言います。そして大きな光はメシアであるイエス、ヘブライ語ではYeshua Ha Mochiach(イェシュア・ハ・マシア)です。 創世記では、神の霊が水の上を動いて被造物を生み出しました。ヨハネ4章では、水と霊によって生まれたものについて読みます。また、御霊は水の上を動いて、今度は「新しい創造」を生み出すのです。創世記の創造の三日目では、神さまは水に関する奇跡を起こされます。ヨハネ2:1では、「三日目に」カナでの婚礼において、神さまはもう一度奇跡を起こされました。今回は「新しい創造」です。神さまは人に対しての最初の計画を、アダムとエバの結婚のつながりによって始められました。イエスも、彼の公の奉仕をカナの婚礼において開始し、神さまの第二の計画も結婚のつながりによって始めました。ヨハネでの「新しい創造」は、創世記の創造と多くの類似点があります。ミドラッシュ(象徴・パターン)的な考えをしているのです。 これのような聖書の箇所は無数に存在します。ユダヤ教の中でいのちの木といえば、ヘブライ語でes hayyim(エス ハイーム)というのですが、いちじくの木に象徴されます。それはエゼキエル47章と黙示録に登場しますが、最初は創世記の創造において登場します。ヨハネ1章でナタニエルがイエスに、どうして自分のことを知っているのかと尋ねたとき、イエスは答えました。『わたしは、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。』こう言ってイエスがナタニエルに示したかったのは、ただ彼が文字通り、いちじくの木の下にいたのを見たということではなく(それも含まれていますが)、イエスはミドラッシュ、またはユダヤ的な象徴を用いて、「わたしはあなたを世界のはじまり、創造のとき、園にいたときに見た。」と本当は言っているのです。 創世記とヨハネは、創造と「新しい創造」です。聖書はパン屋の釜から出されたばかりの、一かたまりのパンと比べることができます。スライスされる前は、どちらの端も同じように見えます。同じように、主は初めから終わりまで告げているのです。これを切り開いてみると、ヨハネの福音書に当たります。多くの保守的プロテスタントはその同じヨハネが、黙示録を書いたと信じています。このような理解をもって見てみると、はじめは創造、次には「新しい創造」、そして「再創造」があるのが分かります。創世記を黙示録と比較して見てみるなら、似たようなものを発見します。もう一度、黙示録では、初め創世記で見たいのちの木を見ます。創世記49章ではヤコブの、イスラエルの十二部族に対しての預言があります。見てください、黙示録7、14章では再び十二部族が出てきます。 黙示録は「竜と蛇は投げ落とされた」とあります。私は間隙説で主張されているように、恐竜が数百万年も古いと思っていません。蛇はかつて四足歩行または、二足歩行でした。それは歩いていたのです。 メキシコから中国まで、すべての文明で竜の物語が残っているのは興味深いことです。私は何度も、オーストラリアのシドニーにあるトランガ動物園に行きました。そこはとても素晴らしいものです!長さ2.7または3メートル、高さ90センチ、幅60センチから90センチ、そしてあなたをも食べることの出来るトカゲを、あなたはどのように呼びますか?それはコモド・ドラゴンです。恐竜という言葉の意味は単に「大きく、恐ろしいトカゲ」というものです。私はそれをこの時代に見ました。 話を戻すと、黙示録で登場する竜は迫害者としてのサタンです。蛇とは欺く者としてのサタンです。イエスはアベルが最初の殉教者であるとマタイ23章で言いました。『あなたの弟の血が叫んでいる。』神は創世記の中でカインに言いました。黙示録ではどうでしょうか?祭壇の下にいる殉教者の血が叫んでいます。 そして、創世記でヨセフは女と星の幻を見たと言われています。再び黙示録では、12章で星をまとった女が現れます。類似点はこのように次から次へと続きます。そうです、それは一かたまりのパンのようなのです。スライスされる前は、どちらの端も同じように見えます。それを切ってみると、そこにパターンを見出します。創造、「新しい創造」、「再創造」です。 この背景を考慮した上で、創世記3章を開いてください。創世記をヘブライ語ではBereshit(ベレシート)と呼びます。「はじめに」という意味です。5節『あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。』私たちはここで、ヨハネの書簡で警告されているように、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢を見ます。黙示録とヨハネの福音書の著者であるヨハネは、この三つの書簡の著者でもあります。彼の著作を通して、創世記に対してのミドラッシュを見ることが出来ます。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢はもうひとつの例です。 総括的にいうと、神さまの中ではふたりの人しかいません。最初のアダムと最後のアダムです。あなたが肉体的に生まれたとき、アダムから生まれました。あなたが生まれ変わったとき、最後にアダムから生まれました。それはイエスです。 第二のアダムであるイエスは、ある面においてアダムのようにならなくてはいけませんでした。アダムとイエスは、神さまによって、生殖の媒体無しに造られました。しかし最初のアダムは罪に陥りました。イエスが私たちの罪を彼自身で負うために、十字架に行く前に、彼は最初のアダムがした反対のことをしなければなりませんでした。なので、マルコ1章では、イエスに対する試みを描くときに、彼はアダムがそうであったように野の獣がともにいたとあるのです。アダムの特徴を持ったイエスがここでは描かれています。そこにサタンが来て、アダムとエバが陥ったのと同じ三つの誘惑を与えました。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢です。最初のアダムが陥ったものに第二のアダムは陥りませんでした。イエスは十字架に向かう前に、最初のアダムが圧倒されたものを乗り越えねばならなかったのです。そして、その後にようやく十字架に向かうことが出来たのです。なので『悪魔はしばらくの間イエスから離れた。』とあるのです。最初に、サタンはイエスに、最初のアダムが陥ったのと同じ罪に、陥らせようとするしかなかったのです。そして次に、イエスは私たちの罪を取り去ることが出来ました。彼はアダムのしたことと、反対のことをするまで、私たちの代わりに十字架に行くことが出来なかったのです。最初のアダムが陥ったことを乗り越えるまでです。 ここで、「知る」という言葉に注目してみたいと思います。ヘブライ語ではdaot(ダオート)、ギリシア語ではgnosco(グノスコ)と言います。アダムとエバが地を支配しろと言われる前から、蛇はそこにいました。彼らは悪が存在するということをどんな時でも知っているべきだったし、それが何かを客観的に知るべきでした。しかし、彼らはそれを自分自身で知るべきではありませんでした。それが存在することは知っておくべきでしたが、経験的に知ってはいけなかったのです。私たちはエデンの園にいのちの木があったことを知っています。善悪の知識の木もそこにありました。アダムとエバは二つの選択肢を持っていました。いのちの木、あるいは善悪の知識の木です。彼らは自ら神になること、持つべきではない知識を持つことを選びました。悪の存在を知るべきでしたが、それを自分自身で知るべきではなかったのです。私たちは、これとは違った種類の知識を持たなくてはならないことを理解するために、聖書から二つの例を見てみましょう。 最初の例は、贖いの日の大祭司に見ることが出来ます。大祭司だけが至聖所に入ることが出来ました。さらに一年に一回の贖いの日であるヨム・キッパー(Yom Kippur)だけにです。ヘブル人は誰でもレビ記を読むと、至聖所の中に何があるかを知ることが出来ました。備品、備えのパン、契約の箱などの記述を読めるのです。その意味では、そこに何があるかを知ることが出来たでしょう。しかし、大祭司のみが、その中に入るのがどのようなことかを、知ることが出来たのです。なぜなら、そのために任命されていたからです。彼はそのために聖なるものとされ、区別されていたのです。ヘブライ語ではme kudesh(ミ・クデシュ)といいます。ヘブライ語の「知る」と、「区別する」という意味の「聖別する」という言葉はLa daot(ラ・ダオート)Le Heet kodesh(レ・ヒート・コデシュ)というように聖書ではしばしば一緒に使われます。誰でも至聖所の中に何があるかを知ることが出来ましたが、そのために聖められた人だけが、至聖所の中に入ることがどのようなことかを、知ることが出来たのです。 他の箇所では、この二つの言葉は、正式な結婚に対して、お互いに関連をもって使われています。誰でもグレイの生体構造(という本)を買って、女性の体を見ることが出来ます。図表、チャート、卵巣組織の写真、卵管、子宮組織など、どんな女性の組織も見ることが出来ます。全てがその本にあります。誰でも女性の体がどのように成り立っているかを知ることが出来ます。ヘブライ語で「結婚する」とは「聖なるものとする」「聖別する」ことを意味します。ユダヤ人の結婚式ではMe kudesh(ミ クデシュ)または、「この指輪をもって結婚します」と言います。文字通り「聖別する」ことです。モーセの律法とイスラエルのためにそれを区別するという意味です。「結婚する」と「聖別する」という言葉は同じなのです。ヘブライ語で「結婚を完了させる」とは「知る」という言葉です。 誰でも、女性の体の中がどのようであるかを知ることが出来ます。しかし、そのために聖よめられた人だけが、その中に入ることがどのようなことかを、知るべきなのです。同じように、誰でも、至聖所の中がどのようであるかを、知ることが出来ますが、大祭司を除いては誰も、その中に入るということがどのようであるかを、知ることが出来ないのです。それはギリシア語のgonosko(グノスコ)とも同じです。アダムとエバは悪と悪魔の存在をどんな時でも知っておくべきでした。彼らは、堕落する以前であっても、地の上のものは支配されなければならないことを知っておくべきでした。それを客観的に知るべきであって、経験的には知るべきではありませんでした。知るべきでしたが、同時に知るべきではなかったのです。 『このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』聖書の中で裸といのは単に、マウイ、ハワイやイスラエルのエラトにあるようなビーチの裸を意味していません。そのような場所の先進的な者たちは、裸で泳ぎ、人が考えもしないような所に竜、花やその他の多くのものを入れ墨しています。彼らは野蛮人がするようにビーチを裸で走っています。しかし、これは最初に話していたことではありません。アダムとエバはそうです、文字通り裸でした。しかしそれ以上のことを示しています。黙示録のラオデキアの教会を思い出してください。『あなたは、みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。』イザヤが語ったように、裸であることは救いの衣を着ていないことを象徴しています。 アダムとエバは、今、救われる必要があると知りました。罪を犯したからです。 それゆえ、罪悪感を持った彼らは、いちじくの葉をつづり合わせました。創世記と黙示録で読んだことを思い出してください。黙示録において、いちじくの葉は諸国の民をいやしたとあります。なので、聖書的にいちじくの葉は善い行いの象徴なのです。アダムとエバがいちじくの葉をつづり合わせたように、堕落した人間はいつも、罪のない神さまに向かって、善い行いで自分を正当化しようとするのです。 地上の全ての宗教は福音と正反対です。神さまは-これはイエスです-園でアダムとエバがいちじくの葉を覆いにしているのを見て、いちじくの葉を認めず、罪を取り去るためには血の注ぎがなければならないと言いました。宗教は人が善い行いによって神さまに近づこうとするものですが、福音は神さまが人に近づこうとするものです。そうです、それがどんな形であろうと、宗教は福音と正反対なのです。たとえそれが、戸別訪問するエホバの証人やモルモン教であっても、mitzvot(ミツボヴォート)(善行)を守ろうとする正統派ユダヤ教であっても、勤行を行うカトリックであっても、ハイジのイスラム教徒でも違いはありません。全ての宗教が、いちじくの葉をつづり合わせることによっての、神さまの前での正当化という、役に立たない試みを、基礎としているのです。しかしながら、そこには救いの確信はありません。対して、聖書は『私たちの義はみな、不潔な着物のようです。』とはっきり告げています。私がマザー・テレサの義は不潔な着物のようであると言っているのでしょうか?いいえ、私ではなく神さまです。 クリスチャンは救われるために善い行いをするわけではありません。本当のクリスチャンはむしろ、救われたので善い行いをします。私たちの義ではなく、私たちを通してのキリストの義です。これは人の手による宗教とは全く違います。私たちは自分の救いを得るために善い行いをするのではなく、救われたからそうするのです。このことによって、なぜイエスがいちじくの木をのろったかが分かります。葉はありましたが、実はありませんでした。同じように、イスラエルは律法主義に基づく、行いによる義を持っていましたが、御霊の実を持っていなかったのです。 私たちが理解しておかなければならないことは、葉はとても重要だということです。中東では日光がとても厳しいので、葉が無くては実を保つことが出来ないのです。特にいちじくの木についていえば、実は葉の下に育ちます。しかし、イエスが木をのろったとき、いちじくのなる季節ではなかったと書いてあります。この話から私たちが気付かなくてはいけない警告は、『人の子は、思いがけない時に来るのです』ということです。私たちはいつでも準備を整えていなければなりません。そうです、葉が無くては実は保てません。ヤコブが『行ないのない信仰は、死んでいるのです。』と言ったようにです。葉に悪いところはないのですが、しかし、それを食べることは出来ません。葉は必要ですが、最も優れた葉でさえも、実が無いことを補うことは出来ないのです。私たちは人を、その行いによって知るのではなく、その実によって知るべきです。注目すべきなのは、行いは実があることの証拠だということです。なぜなら、葉は大抵、実が出来るときに現れるからです。しかし、葉が多いということは必ずしも実があることを保証しません。 アダムとエバはいちじくの葉をつづり合わせました。今日、多くの全ての宗教がしているようにです。多くの福音的ではない「教会」が自分たちはクリスチャンであると思っています。もし、「どうやって天国に行くのですか?」と尋ねたなら、彼らは、善い行いが悪い行いよりも上回っていることによってです、というようなことを言うでしょう。裸であることを隠すために彼らは何をしているのでしょうか?いちじくの葉をつづり合わせているのです。彼らはミサで何をしているのでしょうか?いちじくの葉をつづり合わすことです。モスクでは何が行われているのでしょうか?いちじくの葉をつづり合わせています。それが救いを得るために役に立たないにもかかわらず、全ての宗教がしているのは、いちじくの葉をつづり合わせることです。救いのためには、血による贖いが必要なのです。 この話にはまだ続きがあります。『そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。』ヘブライ語での「すずしい」は「そよ風」や「風」という意味もあるruach(ルアハ)と言う言葉です。ヘブライ語での「そよ風」は一方で、「霊」という言葉でもあります。それはギリシア語ではpneuma (プニューマ)といい、ヘブライ語ではruach(ルアハ)です。なので、ヘブライ語の本文では、聖霊の存在が暗示されています。『それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」』私たちはこの「園の木」について語られているときに、終わりの日に関することを思い出します。イエスはいちじくの木のたとえを見て、学べとは言われませんでした。ルカを見ると、彼は『いちじくの木や、すべての木を見なさい。』または、「他の木を見て学びなさい」と言われました。これは今日の主題じゃないのでただ示すだけにしますが、この箇所にはほとんどのクリスチャンが分かる、いちじくの木のたとえ以上のものがあるのです。実は、いちじくの木や他の木のたとえは師士記9章に見出されます。続けましょう。 園の中では登場人物が紹介されています。何よりもまず、見えない神さまのかたちとしてのイエスです。欺く者としてのサタン。そして裸の男です。今までのところ、登場人物は神さま、サタン、裸の男の三人です。読み進めてみると、『彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」』あたかも、神さまは知らなかったかのようです。もちろん知っていましたが、アダムに挑んだのです。『人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」』神さまはその全知によって、誰が最初に食べたかを知っていたにもかかわらず、エバのもとには行かず、アダムのもとに行ったのです。あってはならないことですが、私の結婚生活や家庭、またはあなたの結婚生活や家庭に問題が起こるなら、男性の皆さん、それは私たちの過ちではないかもしれません。しかし、神さまによると私たちの問題なのです。男性はその関係の中で、神さまの権威なのです。 聖書の中で、男性が女性に霊的な権威を持たせたときは、いつも災難が起こりました。アブラハムとサラ、アハブとイゼベルがその二つの例です。これはそのままエデンの園に逆行してしまうことであり、それ自体、サタンの古いやりかたなのです。今日、なぜリーダーシップがこの過ちに陥ってしまっているのでしょうか?それはすぐ分かります。続けましょう。 人は12節で言いました。『あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。』そして神である主は女に言いました。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は言いました。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」神である主は蛇に言いました。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」-復活によってです。『女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので…』ここで注目すべきなのは、のろいはまず、サタン、次に女、最後に男に宣告されたということです。最初はサタン、次に女、最後に男。裁きは罪の順番に応じて与えられました。 堕落によって、男は鈍感になりました。また女も堕落によって、ひどく敏感になりました。夫と妻が救われた多くの場合、大抵、妻が先に救われます。必ずしもそうであるわけではありませんが、少なくてもおそらく75%の割合で妻が先に救われています。もし、夫が先に救われるなら、これも75%の割合で妻が次第に救われます。-水はその入れてある容器の形をしています。しかし、妻が最初に救われた場合、より困難な状況になることが多いのです。クリスチャンの女性は長い間、信じようとしない夫を深く悲しみます。なぜ女性が救われやすいのでしょうか?それはより敏感だからです。夫と妻が導きについて一緒に祈っているとき、多くの場合、妻が最初に、明らかに主からの声を聞きます。それは堕落のために、男性は女性の敏感さに頼っているからです。一方で、女性のほうが聖霊の声を聞きやすいのですが、また、偽りの霊の声を聞いて、霊的な誘惑にかられ、偽りに陥りやすいのです。女性は男性よりも霊的な誘惑に対して弱いのです。それゆえ、ちょうど男性が女性の敏感さに頼っているように、女性は男性の保護に依存しています。クリスチャンの結婚での服従は互いにすべきことですが、それは違った方法によってです。平等ですが違う役割を持って、そして、責任は男性が持つものです。女性は霊的な誘惑に対して弱いですが、男性には少しも聞こうとしない弱さがあります。この堕落した世界ではそのようになっているのです。堕落の以前にもそのような傾向はあったかもしれませんが、堕落によって今のようになったのです。 それは園で起こりました。次に神さまは御使いを遣わして言いました。「ここから出て行け、もう入ってはいけない」4章に入ると、御使いは「出て行け」と言います。この園で人は堕落し、この園で、神さまは男と女にのろいを宣告しました。そしてこの園において、天子は「ここに入ってはならない」と言いました。ここで人はその神さまの前で裸でした。 しかし、この園において、救いの約束がありました。『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。』ご存知の通り、エバはイスラエルを象徴しており、さらには教会を象徴しています。教会はキリストの花嫁であり、イスラエルは神さまのおとめです。 反ユダヤ主義と信仰のある教会への迫害は、頭と尾のようなものです。同じコインの裏表ともいえます。私たちはそれを区別しますが、離して考えることは出来ません。神さまのこの世に対しての救いは、イスラエルとユダヤ人、信仰のある教会への預言の計画次第です。聖書では2種類の人、ユダヤ人と信仰のある教会をアブラハムの子と呼んでいます。イエスの再臨は、イスラエルとユダヤ人、そして信仰のある教会に対しての預言の計画いかんに関わっているのです。 なぜなら、ユダヤ人と信仰のある教会には共通の敵がいるからです。イスラム教徒がなぜ、イスラエルとアメリカを嫌うと思いますか?それは純粋に政治的なものでしょうか?違います。そこには霊的な理由があります。歴史の中で今、アメリカは福音的なキリスト教の中心地となっています。それはイギリスが百年、2百年前にそうであり、宗教改革のときにドイツやスイスがそうであったようにです。 『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。』まず、多神教であったローマ帝国を見てみると、ネロの統治の下に教会に敵対しました。数年後、彼らはタイタスの下にユダヤ人に敵対しました。数世紀後には、ソヴィエト連邦の下の共産党は、誰を一番迫害したでしょうか?ユダヤ人と新生したクリスチャンです!宗教裁判、大虐殺、殺戮の時代を通して、ローマカトリック教会は、誰を一番迫害したでしょうか?ユダヤ人と新生したクリスチャンです。アラファトの支持者たちは何と言っていますか?CNNでは見えないこととは何でしょうか?イスラム教系のアラブの推進派は毎日欠かさず言っています。「まず、土曜日のやつら。次に日曜日のやつらだ。聖戦!聖戦!」言い換えると、まず、ユダヤ人を殺して、次にクリスチャンだということです。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置くとある通りです。 全ては園の中で起こりました。この観点でミドラッシュを見てみましょう。 ヨハネ18章1節、『イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこに入られた。』四つの福音書の中で、唯一、ゲツセマネを園と認識しているのはヨハネだけです。この場合もやはり、ヨハネは創世記に対するミドラッシュを考えています。ケデロンとは西の神殿の丘、東のオリーブ山やHar Zeitim(ハル ゼイティム)の間にある、狭い谷です。ゲツセマネとはヘブライ語のShemen(シェメン)すなわち「油」から来た名前です。私たちがShemen ziot(シェメン ゼィオート)と呼ぶオリーブ油は、ゲツセマネから運ばれ、儀式上使われています。彼らはオリーブ山に育ったオリーブを収穫し、ゲツセマネで搾ります。(実は今日も、オリーブ山には果樹園があり、専門家が言うには、樹齢二千年の木々があって、依然として成長し続けているとのことです。イエスの時代にもそれらはあったでしょう。オリーブの木は地震や汚染などの、環境的な災害に会わなければ、極めて長生きするそうです。)イエスが向かったのもゲツセマネの園でした。そこで始まったのです。神さまにとっては罪のあるすべての人よりも、罪の無いひとりの人のほうが、価値があるのです。そのために、ひとりの人が、すべてのひとのために死ぬことが出来たのです。 その園において、神さまは彼自身が私たちの罪を取り去りました。そして、わが子であるイエスに罪を負わせたのです。それは彼の義を、私たちが着るためでした。 イエスは肉体的に苦しみ、むち打ちにされました。心の中でも苦しんだのです。聖書はこの時を「たましいの苦しみ」であったと語っています。しかし、また別のことが十字架上で起こりました。仲間たちが父なる神とともに砕かれたのです。彼が「完了した。父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と言ったことも注目しなければいけません。今日の教会にいる、サタンによって嘘を付く人は、この根本的な教えを否定します。 コープランド(Copeland)、ヘーガン(Hagen)、ジョイス・マイヤー(Joyce Meyer)など、これらの人は間違ったことを教えています。彼らが言うには、サタンは十字架上で勝利を得、イエスの霊は御父にゆだねられず、完了されていなかったので、地獄に行かなければならなかったと。彼らはさらに、イエスは三日三晩、地獄で苦しまねばならず、地獄で生まれ変わったと教えています。これらがE・W・ケニオン(E.W. Kenyon)から受けた、コープランドとヘーガンの教えなのです。皆さんが知っている通り、彼らは別のイエス、別の福音を信じているのです。彼らにとっては、救いの中心がイエスの十字架ではないので、クリスチャンの生活の中心も、イエスの十字架ではありません。『自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』と言う代わりに、彼らの教理は「あなたたちは王様の子どもたちです。神さまは裕福になることを望んでおられる。もうひとつのベンツを与えてくださる。」などと言うのです。このような人は悪魔からの者です。その内の幾人かは、イエスが終わりの日に現れると預言した、にせ預言者たちです。イエスが予告したとおりのことを、今、彼らはしているのです。 イエスは私たちの罪を負いました。地獄においてではなく、園においてです。その場所で神さまはイエスに、私たちの罪を負わせることを始められました。 神さまの混ぜ物なしの怒りが十字架上で彼に注がれました。『ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか」と彼らに言われた。彼らは、「ナザレ人イエスを」と答えた。』イエスの本当の名前はRabbi Yeshua BarYosef vi Netzeret(ラビ・イェシュア・バルヨセフ・ヴィ・ナザレ)でした。彼らはイエス・キリストがどのような人かを知りませんでしたが、ラビ・イェシュア(Rabbi Yeshua)なら知っていました。死人を生き返らせ、ツァラトを癒し、水の上を歩いた、その人だということを。 『イエスが彼らに、「それはわたしです」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。』ギリシア語の本文には、倒れて、ひざをついたとあります。たとえそれが敵であっても、すべてのひざはひざまずきます。 「霊によって打ち倒される」という現象は聖書の中で何回か出てきます。特に新約聖書です。黙示録1章では、ヨハネは主の日に御霊に感じ、イエスの力が彼の上に降ると、彼は打たれたように倒れました。彼は恐れていたので、御使いを遣わして励まされなければならないほどでした。イエスが、悪霊につかれて火の中に投げ倒されていた子どもから、悪霊を追い出したとき、死んだように見えましたが、その子が起き上がったときには以前とは全く違っていました。ダニエルも恐怖に襲われました。 注目すべきことは、聖書の中で、ある人が霊によって打ち倒されたときはいつでも、生涯に一度の、人生を変えるような出来事だったのです。人が落ちぶれている時に何が起こるかは問題ではありません。一旦、立ち上がると違いは明らかです。しかし、まだとどまっている人は誰でしょうか?先週、堕落していた者と行動を共にしていた者たちです。彼らはそのスリルのために堕落したがります。何にもまして、悪い、姦淫の時代はしるしを求めるのです。 聖書の中で、御霊によって打ち倒されるときは、生涯に一度の、人生を変える経験なのです。人が落ちぶれているときに起こったことは重要ではなく、立ち上がった時に、その人の人生がどう変えられたが重要なのです。聖書においても、神さまから祝福が与えられた時に、その人は前進します。その人が後退する時は、のろいか裁き与えられた時のみです。彼らがキリストを捕まえに来た時がそうです。 今の時代は、ロドニー・ハワード・ブラウン(Rodney Howard Brown)などがこの「捕まえる者たち」を共に連れています。しかし、彼らは誤った方向に陥ったのです。 人々はこの経験が神さまからのものであると主張します。そうかもしれません、しかし、神さまは彼らに対して怒っていたのです。私はこういう多くのものが悪霊の幻想と、一緒になった催眠誘導であると確信しています。もし、それが神さまからのものであっても、それは裁きです。 だれを捜すのか。イエスは、それはわたしだと言いました。ギリシア語で「それはわたしだ」とはego ami(エゴ アミ)と言います。ギリシア語で同じ言葉は、ヨハネ9章でイエスが「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」と言った箇所、Ego amiです。人々は石を投げつけようとしました。なぜならご自分を神さまと等しくしていたからです。 登場人物に戻って考えてみましょう。エデンの園での神は、人としてのイエスです。ゲツセマネの園での神も、人としてのイエスです。しかし、エデンの園にいた、欺く者としてのサタンは今もいます。ヨハネの福音書で、弟子たちがイエスと共にゲツセマネに行く前、ユダに何が起こりましたか?その箇所は単に、サタンが彼のうちに入ったとあります。個人的にサタンにとり付かれるのは、反キリストまたはにせ預言者か、ユダのふたりだけです。『彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。』聖書の中でユダを見る時はいつでも、聖霊は反キリストについて何かを教えています。ユダも反キリストも、どちらもお金に執着します。どちらも兄弟をだまします。「主よ。まさか私のことではないでしょう」-彼らは、イエスが、裏切り者が誰であるかを明らかにするまでは、分からなかったのです。同じように、イエスが明らかにされるまでは、人々は誰が反キリストかを知ることは出来ません。もし、あなたが、ベニー・ヒン(Benny Hinn)、ケネス・コープランド(Kenneth Copeland)やチャック・コルソン(Chuck Colson)などを見抜けなかったなら、反キリストが来た時にはどうなりますか? ユダはどうやって人々を信用させたのでしょうか?彼はマザー・テレサの手法を使って信用させました。いちじくの葉です。「なぜこれを売って、貧しい人に施さなかったのか?」彼は人に取り入るため、貧しい人に哀れみを抱いているように見せかけました。良い人であると思わせるためです。しかし、彼はただ、誘惑し、カモフラージュし、人を操るために貧困の苦しい状況を使ったにすぎません。マザー・テレサは亡くなる前に、救いの確信が無いと言っていました。彼女がノーベル賞をもらった時に、彼女はインドの人、をクリスチャンに回心させるためではなく、より良いヒンドゥー教徒、より良いイスラム教徒にするためであったと明らかにしました。それは彼女の福音です。彼女は彼らを洗い、威厳を持ってきれいな場所で死ねるようにし、父、子、聖霊の御名によって、彼らを地獄に送ったのです。 |
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