Welcome to Moriel Ministries...

Moriel is an international multi-faceted ministry of Jewish and non-Jewish regenerate believers one in Jesus the Messiah and is committed to the evangelization beginning with the Jews and also people of other faiths including Islam, Hinduism, Buddhism, and theologically deviant expressions of Christendom including Roman Catholicism (which we view as aberrational much as we deem Talmudic Judaism to be likewise largely unscriptural).

Christmas is Coming - Japanese

クリスマスがやって来る

ジェイコブ・プラッシュ

はじめに

“クリスマス”をヘブライ語では“ハグ・ハ・ノロド(Hag Ha nolod)”といいます。文字通りには“誕生の祭り”という意味です。ローマ 14 章 4 節ではどんな宗教の祭りを祝うか

についてさばいてはいけないと書いてあり、似たような文脈でコロサイ 2 章 16 節から 18節では、誰もあなたをさばかせてはいけないと書いてあります。どの祭りを祝うかということは、個人の文化と背景の問題であり、自分と主の間で決めるべき事柄です。私は人がクリスマスを祝うかどうかということには関心がありません。それは私にとって大きな問題ではないからです。私が関心を持っているのはクリスマス、または降誕についての神学です。イエスさまがいつ生まれたかは誰も分かりません。しかし、イエスさまが生まれたことは私たちみなが知っています。

私の家族はイスラエル人でハヌカの祭りを祝います。ヨハネ 10 章において、イエスもハヌカの祭り――すなわち宮きよめの祭りを祝いました。反キリストの到来を理解するためにはアンティオコス・エピファネス(B.C.215-164 セレウコス朝シリアの王)とマカベア家の出来事を通して理解することが非常に重要です。私たちはハヌカのパーティーを開いて未信のユダヤ人たちを招きます。

私の家ではクリスマスは祝わずに、降誕を祝います。私たちは教会に行って、キャロルサービスに参加します。それだけです。私たちは奉仕や生活に困っている家庭のために何かしますが、それ以上のことは何もありません。私の家族にとってクリスマスは完全に教会の行事なのです。お祝いとして私たちはハヌカの祭りを祝います。

クリスマスと終わりの日

クリスマス、またはキリストの降誕が終わりの日とどう関係があるのでしょうか。これを聞いて驚くかもしれませんが、その答えはすべてに関してです。

キリストの初臨(最初の到来)を理解しなければ、再臨を理解することは決してできません。キリストの初臨に起こったことは、再臨において繰り返され、反復されるのです。イ

エスさまがお生まれになったとき、ローマ皇帝は以前オクタヴィアヌスと呼ばれていたカ

エサル・アウグストゥス(アウグスト)でした。アウグストゥスは史上初めて生存中に神聖化されたローマ皇帝です。したがってイエスが最初に来られた時に、ローマ帝国をローマ皇帝が統治しており、神として崇拝されていました。このローマ皇帝は人口調査を行い、民に番号を与え――実際に民に番号を付けたのではありませんが、当時知られていた全世界の人にそれぞれ番号を与えました。実はアウグストゥスによって人口調査は二度行われており、そのどちらも世界の金融支配を握るために実施されたのです。イエスさまが戻って来られる時にも同じことが起こります。その時にはローマ帝国が復活し、実質的には神聖化された人が政権を握るのです。この半分神のようにみなされた者が世界の経済を支配するために人々の数を数えます。イエスの初臨において起こったことは再臨において再び起こります。クリスマスはただ過去に起こった出来事ではありません。クリスマスは未来の出来事であり、預言的な事柄なのです。

ヨエル書や黙示録、オリーブ山の訓戒(マタイ 24 章など)ではキリストの再臨に先立って空や宇宙にしるしが現れると書いてあります。ユダヤ人は当時自分たちの土地にいながらも、ローマ皇帝の支配下にありました。ローマ皇帝はどのようにその地に支配を広げたのでしょうか。それは誘惑によってです――ローマの軍人であったポンペイウス(B.C.106-

48)はユダヤ人を誘惑し、神殿の至聖所に侵入しました。大祭司以外が、それも贖罪の日ではないときに至聖所に入るなら、その出来事は反キリストを何らかの形で表しています。ローマ帝国のポンペイウスのもとで起こった事は再び繰り返されます。今日、ヨーロッパや中東で起こっている出来事はその準備段階にあるのです。

ヨハナン・ハ・マトビル――バプテスマのヨハネ――はエリヤの霊と力をもって現れました。ヨハネはイエスの生まれる直前に生まれ、イエスが現れる直前に登場しました。預言者マラキはそのことをエリヤが現れるという言い方で予告し、イエスもその事実を認めました。

イエスが最初に来られたとき、イスラエルには多くのにせ預言者がいたので、イエスが戻られるときも、また多くのにせ預言者が現れるでしょう。イエスを信じるべきであった当時の信者たちが堕落してしまった一般的な状況は、今イエスを信じるべきである信者たちの堕落した状況と何ら変わるところがありません。

イエスの初臨は再臨がどのようになるかを示しています。クリスマスは大して重要ではありませんが、イエスさまの降誕はとても重要な事柄です。イエスさまが最初の到来においてどのように来られたかということを理解しなければ、二度目の到来について理解することはできません。もちろん両者には違いがありますが、一方が他方を象徴しています。

過去 20 年間をユダヤ人への伝道師として過ごした中で、私が考え続けていた疑問があります。イスラエルはメシアの到来に2千年という歳月をもって備えられ、神と契約を結んだ関係であり、聖書を持っていたのに、どうしてイエスさまが最初に来られたとき、数少ないユダヤ人しか整えられていなかったのか、という問題です。パウロは悪魔がユダヤ人の目を見えなくしたと書いています(ローマ 11 章 25 節)。イエスが来るまでにイスラエルには2千年間あり、神と契約を結んだ関係であり、聖書を持っていたのです。しかしそれにもかかわらず、残りの者たちだけがイエスの到来に整えられていました。同じことがイエスさまの戻って来られるときにもいえます。ただ今回はイスラエルだけにではなく、いわゆる教会にも同じことが起こるのです。

どのようなクリスチャンが終わりの時代にイエスを迎える準備が出来ているのでしょうか。その答えを知りたいのなら、イエスの最初の到来において、どのようなユダヤ人が準備を していたのかをよく調べる必要があります。イエスが戻って来る際に、どのようなクリス チャンが準備を出来ていないかを知りたいのなら、最初の到来においてどのようなユダヤ 人が準備をしていなかったのかを調べる必要があります。イエスの最初の到来は、再臨が どうなるかを示しています。私たちは最初の到来を理解しないかぎり、再臨を理解するこ とはできません。もっとも二度目にイエスさまは地上の母親から生まれた赤子としてやっ て来るのではありません。ふたつの到来に違いはありますが、本質的に最初の到来は再臨 を前もって示しています。

準備が出来ていなかった者たち

最初の到来において、どのようなユダヤ人が準備をしていたかを見る前に、どのようなユダヤ人が準備をしていなかったかを見てみましょう。そのようなユダヤ人のことを理解すると、どのようなクリスチャンが準備をしていないかが分かります。

マタイによる降誕の物語を読んでみましょう。マタイ 2 章 1 節から、

『イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。『ユダの地、ベ

ツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたし

の民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」』(マタイ 2 章 1 節

-6 節)

ここを読むと分かるのは、イエスさまが最初に来られたときに備えが出来ていたのが誰も予期しないような人であったということです。博士たち、または賢者たちはペルシャから来た者でした。彼らは古代メディア人とペルシャ人の間で儀式を執り行う者でした。どういうわけか古代ペルシャにはゾロアスター教と呼ばれ、何世紀にも亘って変化してきた宗教がありました。ゾロアスター教は一神教であり、この宗教は唯一の神がいること、また人は自分の罪に対して責任を負うことを信じていました。そして光の子らと闇の子らとの間に争いがあるということも信じていました。言い換えるなら、ゾロアスター教はエッセネ派とクリスチャンが信じていたものと同じようなことを信じていたのです。

バビロン捕囚の期間、ペルシャがダニエルの預言の成就としてバビロンを征服したとき、すでに一神教に傾倒していたペルシャの王たちの幾人かがユダヤ人の神を信じるようになりました。ペルシャには長い間ユダヤ人の影響が根強く残っていたのです。例を挙げると、エステル記やメディア人ダリヨス、またその誕生の 200 年前にイザヤによって名前が預言されていたクロスなどが存在しました。エズラ記やネヘミヤ記を読むとその場所で何が起こったかが分かります。ハスモン朝時代からイエスの時代にかけて、ペルシャ人はずっとユダヤ人を手厚く扱ってきました。実際、イランの“シャー(Shah=王)”が倒れるまでペルシャ――イラン――はイスラエルを大事にしてきました。私は確信を持って言えるのですが、ダニエルが三週間祈りと断食をもって対抗したペルシャの君(ダニエル 10 章 13 節、

20 節)は今日もシーア派イスラムという形で、イランのイスラム原理主義の中に存在して

います。現代的なクリスチャンの団体に属している人たちは、悪霊のことを“地域を支配する霊(territorial spirits)”と呼ぶのを好みますが、これは良い翻訳でも解釈でもありません。これはギリシア語で“アルケ(arche)”、またヘブライ語では“シェディーム(shedim)”といいます。この言葉の良い訳語は“支配者(principalities)”であり、国々の上にある悪霊の力のことです。今日、他のおかしなことに加えて、“結ぶことと解くこと”を行っている正気ではない人たちが大勢いますが、国々の上に“支配者”がいることは否定できません。ダニエル書はそれを明らかにしており、ゲラサ地方では悪霊たちがイエスに、その地から追い出されずに豚に入ることを熱心に請いました(ルカ 8 章 31 節-33 節)。この言葉を使うことをお望みなら、地域を支配する霊は存在しますが、これは良い解釈とはいえません。その霊は存在します。北アイルランドのベルファストではケルト系の戦いの神が壁画に記されていますが、そこはプロテスタント系とカトリック系がどちらも仲間を集めた場所でもあります。

そうです、東方からの賢者たちは時のしるしを見分ける方法を知っていました。残念なこ

とに、新生したクリスチャンであっても、今中東で起こっている出来事の大切さが分らない人たちがいます。その人たちの目はそのようなことに対して盲目で、あたかも聖書の中にゼカリヤ書が無いかのように考えています。その人たちはヨーロッパ経済共同体(EEC)で何が起こっているか――世界経済のグローバル化、環境破壊などのどんなしるしでも、賢者たちが悟っていたようには理解していません。

東方の博士たちはメシアをひと目見ようと足を運び、非ユダヤ人が、誰も期待していなかった人たちが東で星を見たためにやってきたのです。彼らがエルサレムに来たとき、ヘロデは彼らの話を聞き、戸惑い、エルサレム中の人も王と同様でした。エルサレムはここにメシアが来るとダビデによって語られた都市であり、そこに神殿がありました。神殿はユダヤ人のアイデンティティー、またメシアへの希望の中心でしたが、そこに住むほとんど誰も、メシアが来るのを望んではいませんでした。

多くの教会の中にも同じ態度を見受けられるでしょう。道路を車で走り、通り過ぎて行く教会を見て、イエスさまに本当に戻って来てほしいと願っている教会がいくつあるかを考えてみてください。エルサレム中の人が戸惑っていました。確かに彼らは儀式や典礼、祝祭や休日を守っていましたが、イエスさまが現れるときになると、すべての人が心穏やかではなかったのです。その中で特に戸惑っていたのが国や宗教の指導者たちでした。このことを考えてみてください。

さらに恐ろしいことに――指導者たちはみことばを知っていました。ヘロデはメシアがどこで生まれるのかを知ることを望み、民の祭司長たちや学者たちはミカ 5 章 2 節の記述から、メシアはベツレヘムで生まれるとヘロデに告げました。彼らは頭ではみことばを分かっていましたが、肝心の心にはみことばを蓄えていませんでした。イエスさまが現れたことは、彼らが望み、欲していたことと限りなく正反対だったのです。イエスさまが戻って来られるときには少しでも状況が違っていると、みなさんは思われるでしょうか。

サタンの罠 信仰を失うこと

今日、教会の中でサタンが付くほとんどの嘘は、ひとつの目的のためにあります。それは神の民の期待をこの人生とこの世に置かせることです。これが信仰を失うことの定義です。神の国は今、支配主義、勝利主義、カルヴァン的再建主義――これらのことは一体何をしようと試みているのでしょう。それは神の国を今建て上げ、この人生に望みを置くことです。繁栄の信仰、お金目当ての説教者たち――彼らは貪欲の罪を教えてそれを信仰と呼び、マモン(富の神)崇拝を教えて神の礼拝と呼んでいます――今どのようなことが起こって

いるのでしょうか。この人生に望みを置くことです。

後千年王国信奉者のジェラルド・コーツとリック・ジョイナーという人は、携挙(クリスチャンが空中に引き上げられること)が悪魔の嘘であり、幻想、神話であると言っています。この人たちは携挙をあざけって、『スタートレック』の「Beam me up, Scotty(瞬間移動させてくれという場面)」と同列に置くのです。彼らの目的は何なのでしょうか。それは教会に携挙のことを忘れさせ、この世に望みを置かせることです。エキュメニカル運動の目的は何だと思われるでしょうか。人間の兄弟愛を立て上げることです――これもまた世に望みを置くことです。イエスさまが最初に来られたときにエルサレム中が戸惑っていました。またイエスさまがお戻りになられるとき、エルサレム中が、いやエルサレムだけではなく、イスラエルが再び恐れ戸惑うのです。

イスラエルの国や宗教の指導者たちはみことばを知っていましたが、イエスを望んでいませんでした。2千年という年月を要して、神はイスラエルをイエスの到来のために備えておられました。イスラエルが国として、民族として存在する唯一の目的はイエスの到来のためでしたが、ごく少数の者しかイエスを待ち望んでおらず、彼が戻られるときも同じようになるのです。

準備が出来ていた者たち

一方で、イエスの到来に備えていたユダヤ人たちはどのような人だったのでしょうか。調べてみましょう。ルカの福音書1章を開いてください。

ルカ 1 章 46 節から 55 節には“マニフィカト(マリアの賛歌)”が記されていて、ギリシア

語でそれを読んだなら、七十人訳の士師記 5 章のデボラの歌にとても似ているものだということが分かります。御使いガブリエル――“神の力強い者”という意味の名の御使い―

―はやって来て彼女が女の中で最も偉大な女性であることを告げました。「女の中の祝福された方。全能の神はあなたの中に肉体をとって宿られる」彼女の名前はマリアではなく、モーセの姉と同じミリアムという名前でした。“ミリアム”という名のヘブライ語の語根は

“苦い”という言葉です。彼女は金髪で青い目をしていたのではなく、むしろ黒い髪をして、セム人の容貌をしていたでしょう。彼女はメジュゴリエやグアダルーペ、ファティマ、ルルドなどの地(マリアの顕現があると言われる場所)にはおもむいたことは一度もありません。彼女の名はミリアムで、ガブリエルからその重要な告知を受けたときはおそらくまだ十代半ばでした。女の中で最も偉大な女性は、自分がどのような者であるかと告げられたとき、それに対してどう答えたでしょうか。

『わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます』(46節-47 節)

女の中で最も偉大な女性は神をわが救い主と呼び、自分が罪から救い出されなくてはならないことを、はっきりと口にしました。女の中で最も偉大な女性が救い主を必要としていたのなら、私はどうなるのでしょうか。『義人はいない。ひとりもいない』(ローマ 3 章 10

節)『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ』(ローマ 3 章 23節)ないのです。ギリシア語の“セオトコス(Theotokos)=神の母”という言葉は新約聖書には出てきません。彼女は、ご自身の民をその罪から救われる方メシアの母になると告げられ、それに対して『わが救い主なる神を喜びたたえます』という言葉をもって答えたのです。全能なる神が肉体をとって自分のうちに宿ると告げられた女性の発した言葉は、ただ自分も救われる必要があるということでした!

女の中で最も偉大な女性が救い主を必要としていると言うのなら、私は彼女を信じます。私は彼女が嘘を付いたとは思わず、もし嘘を付いたとしても、神はみことばの中に嘘を入れることはなかったでしょう。そうすると私は誰を信じるべきなのでしょうか。マリア自身か、マリアが母の胎から原罪を持っていなかったとする“無原罪懐胎”の嘘でしょうか。なぜこのようなものが出てきたかというと、このマリアのイメージは女神ミネルバやエペソのダイアナなどを偽ってキリスト教化したものであって、エゼキエルやエレミヤにある預言の通り、それらをマリアに当てはめた結果なのです。幼子と共にいるマドンナは、元来タンムズ(バビロンの神)崇拝から由来しており、それはエゼキエルが反対して立ち上がったものでした(エゼキエル 8 章 14 節)。エレミヤは天の女王を礼拝することについて警告していました(エレミヤ 7 章、44 章)。

ミリアムは救い主が必要だと言いました。神は人となって、私の罪を取りそれを御子であるメシアに負わせ、御子の義を取り私に与えてくださいました。なぜ神が私の代わりとなるために、人となる必要があったのでしょうか。

私がまだ幼いクリスチャンであった頃、「イエスさまは私の個人的な救い主」というきまり文句を使っていました。しかしながら、実際その意味を完全には理解していませんでした。私はただ救い主を個人的に受け入れたからだという意味だとしか思っていませんでした。しかし当時は半分の意味しか分かっていなかったのです。“個人的な救い主”という言葉が全体として伝えていることは、もし私だけが罪を犯した唯一の人間であったとしても、ただ私だけのためにイエスさまはミリアムから生まれ、十字架に行き、死者の中からよみがえらなければならなかったということなのです。私だけのためにです。なぜ神は私のために死ななければならなかったのでしょう。こんなコカイン中毒者のために。なぜ神が人と

なって私のために死ななければならなかったのでしょう。なぜイエスさまは死者からよみ

がえって私に永遠のいのちを与えなくてはならなかったのでしょう。ミリアムに関してなら理解しやすいことかもしれません。それでも彼女は救い主が必要であるということをはっきりと告げていたのです。

宗教的な人は救い主が必要だと思いません。儀式や何らかの祝いを行っているからです。悪魔は麻薬や性的不品行、ギャンブル、アルコール中毒をすべて合わせたものよりも、宗教を使って人々を地獄に落とします。ほぼ間違いなく言えることですが、人間の文明において最も影響力があった二人の人物はカール・マルクスとイエス・キリストでした。どちらもユダヤ人でしたが双方には大きな違いがあります。実際どちらも物事の捉え方に関して両端に位置しています。しかし両者が同意することがあります。宗教は人類に対して行われた最大の詐欺であったということです。福音は宗教ではありません。福音は神との関係性です!

「救い主が必要」そのようにマリアは言いました。マリアは十代の少女でありながら音楽番組に出ているブリトニー・スピアーズに夢中になったり、自分の虚栄心に左右されている者ではありませんでした。彼女の応答は、自分自身が救い主を必要としているということだったのです。このようなユダヤ人が最初の到来において備えをしていました。

私はミリアムのことが好きで、ミリアムを愛し、ミリアムを尊敬しています。ミリアムを素晴らしくて、最高で、他にはいないような人だと思い、彼女に会うのを待ち遠しく思っています。しかし名ばかりの教会のゆえに、金髪でふしだらな女となったマリアとは何の関係も持ちたくありません。

ゼカリヤとエリザベス

ミリアムには親類がいました。ルカ 1 章 5 節と 6 節ではそのことについて書かれてあります。

『ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。』(ルカ 1 章 5 節-6 節)

ここで思い出してほしいのがサンヘドリン、聖職者たちは堕落し――金儲けに走っていっていたということです。それは現代ベニー・ヒンやコープランド、ヘーゲンの行っているようなものでした。このような状況はイエスさまが最初に到来したときと同じです。しか

し聖職者たちの間で広まっていた腐敗や偽善にも関わらず、その中には個人的に正しい者

たちがいました。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中で自分の教団に起こったことに心砕かれている牧師たちを私は知っています。イギリスでは、英国国教会に起こったことに対して心砕かれている聖公会の教区牧師たちを私は知っています。バプテスト派の中にもそのような人たちがいます。どんなに状況が悪くても、ゼカリヤのように正しく、献身的で、敬虔な人たちがいるでしょう。制度や聖職者たちがどんなに堕落したとしても、そのような人たちはついて行きはしません。その数は多くはないかもしれませんが、確実にそのような人たちがいます。それがイエスさまの最初の到来の時に準備が出来ていた者であり、イエスさまが再臨されるときもこのようなクリスチャンは備えが出来ているのです。

シメオン

さらに詳しく見てみましょう。ルカ 2 章 24 節では、マリアが山ばと一つがいをささげ物としたことが書かれています。繁栄の信仰を教える説教者のひとりは、イエスの家族が貧しくなく裕福だったと教えています。私の仲間が彼の集会でどうしてそう言えるかを公に質問しました。「もしそうだったなら、なぜマリアは貧しい人のささげ物を持って行ったのか」と。彼の応答は、質問をした人を外に案内するというものでした。間違った質問を聞いてしまったのです。

ルカ 2 章 25 節

『そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。』

サンヘドリンはイエスを望んではいませんでした。エルサレム中が困惑していましたが、シメオンはイエスさまを待ち望んでいました。26 節によると、それが彼の生きながらえている唯一の目的だったのです。

『また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。』(ルカ 2 章 26 節)

古い契約の下では、聖霊はただ特定の人物に特定の時期――大祭司、王、預言者と特定の他の個人たちにしか与えられませんでした。ある意味において彼らだけが聖霊を持ってい

たのです。ペンテコステの後に信じるすべての者に下るまではそのようでした。ペンテコ

ステの前には、御霊の賜物は今日のように多くは与えられていませんでした。

27 節

『彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。』

(両親は私が子どものときにこのために連れて行きましたが、今であったなら無理でしょう。これはもちろん割礼を受けさせることを意味しています。私の息子が生まれて八日になって割礼を受けさせた時、ラビが入ってくる際にヘブライ語の祈りを唱える必要がありました。そのラビはコットンの玉を取って、それをワインに浸し、赤ん坊の口に押し込みました。それは何のためにするのかと聞くと、ワインは痛みを和らげるためだと言っていました。そこで私は「もしこの子がナイフを見たら、ウイスキーをくれと言うだろうな」と言ったのです)さて、本題に戻りましょう。28 節から

『すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」』(ルカ 2 章 28 節-

32 節)

このシメオンという人は聖霊に満たされて、メシアを見るまでは死なないという約束を与えられていました。彼は年老い、髪の毛は少なくなり、歯は抜け、目は悪くなり、もうデートする相手を見つけることもできませんでしたが、イエスさまが現われるまでは死なないことを知っていました。彼は新約聖書で信仰の賜物と呼ばれるものを持っていたのです。

新約聖書は私たちみなに信仰の量りが与えられていると教えています。私たちは信仰を通して恵みによって救われ(エペソ 2 章 8 節)、信仰が無ければ神を喜ばせることはできず(ヘ

ブル 11 章 6 節)、信仰によってなされなかったことはすべて罪だと(ローマ 14 章 23 節)みことばによって伝えられています。しかしながらこれと違って、信仰の賜物はすべての人が与えられているものではありません。信仰の賜物とは聖霊に啓示された、聖書に特別に書かれていない事柄に関して完全に神に信頼する能力のことです。この賜物を持つ多くの人たちはとりなしをする人です。ヘブライ語とギリシア語はどちらも、祈りととりなしとの間に区別を設けています。その賜物を持つ人たちは祈りにおいて本当にとりなし――そうなればいいと思ったり、自分の心の愚かさを信頼するのではなく――信じて、知り、神が与えてくださった信仰によって約束に固くつくのです。本人にこう言えばおそらく否

定したかもしれませんが、イギリスにいたジョージ・ミュラー(1805-1898)は信仰の賜物を持っていたと思います。彼は路上にいた子どもたちを引き取り、次の日に天文学的な量のお金が必要であったにもかかわらず、祈ることによってまさに必要な時にお金を受けました。

考えてみてください。年老いた老人がイスラエルの慰められることを待ち望み、聖霊に満たされていたということを。シメオンはただイエスさまが来るのを望んでいました――彼が気にかけていたことはそれだけで、朝ベッドから起き上がるのもそれが唯一の目的だったのです。

アンナ

そこにはただ年老いた愛らしい男性がいただけではなく、年老いた愛らしい女性もいました。ルカ 2 章 36 節ではこう言われています。

『また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。』

(英ユ同祖論 [イギリスなどのヨーロッパの先祖がイスラエルの失われた十部族だったという教え] やアームストロング説を信じないでください。この人たちは自分の民族アイデンティティーを紀元 2 世紀や、3 世紀まで持ち込んでしまっています)

『この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。』(ルカ 2 章 36 節-38 節)

何年も何年も、この愛らしい老女がしていたことはただ神の家で、祈り、断食し、神に仕えるということでした。そして彼女はイスラエルの贖いを待ち望んでいるすべての人に向かって、イエスについて話さずにはいられませんでした。この世は若い女性が魅力的であると言います。神さまは違います。箴言を読んでみてください――神は霊的な意味において、年老いた女性を魅力的だと言っています。そこにはこの年老いた老女がいて、人生すべてを祈りと神への奉仕に傾け、彼女はついにイエスさまについて話し出したのです。このようなユダヤ人がイエスさまの最初の到来に備えが出来ていた者であり、イエスさまが戻ってこられるときも、まさしくこのようなクリスチャンは備えが出来ている者となります。

忠実な羊飼い 昔と今

それではルカ 2 章 8 節に戻って、羊飼いたちについて見てみましょう。

『さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』

(ルカ 2 章 8 節-11 節)

14 節をラテン語のウルガタ訳でたどってみると“Gloria in Excelsis Deo(グロリア・イン・エクセルシス・デオ)”となります――「いと高き所に、栄光が、神にあるように」

ヘブライ語において“羊飼い”と“牧師”は同じ言葉です。同じことがギリシア語にもいえます。羊の番をしていたのは羊飼いであり、雇い人(ヨハネ 10 章 12 節)ではありませんでした。時代の終わりには大きな霊的な暗やみが迫ってきます。

  • 『夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か』(イザヤ 21 章 11 節)

  • 『夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か』(マルコ 13 章 35 節)

  • 『主の日が夜中の盗人のように来る』(1テサロニケ 5 章 2 節)

  • 『遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます』(ヨハネ 9 章 4 節)

どんなに暗くなっても自分の群れを見守る忠実な牧師がいます。

私はかつてチャック・ミスラー(Chuck Missler)と集会を開き、そこでジンバブエという悲惨なことが起こっている国から来たイギリス生まれの牧師に会いました。彼はイギリスに何日か滞在していて、現地での状況がとても悪かったので、元気ですかと聞かれても祈りに感謝しますとしか答えられませんでした。彼はジンバブエでどんな悪質なことが起こったかを話し、ほとんどの白人と、それと共に教養のある黒人たちはそこを去ろうとしていると語っていました。私は彼に少し一緒に出かけないかと言ったのですが、次の日にジンバブエに戻るから無理だと言っていました。「私の羊たちがそこにいるから」と彼は語ったのです。そこにはエイズで死んでいく黒人たちを世話するために人生すべてをささげた白人男性がいたのです。その黒人たちは彼の羊たちです。アメリカにいればお金をたくさ

ん儲けられるのに、ジンバブエに彼と一緒に行き、そこに滞在している医者を私は知って

います。彼らはそこを去ろうとはしません。なぜでしょうか。確かにそこは暗い場所であり、ますます暗くなるような場所ですが、彼らは羊飼いなのです。シメオンのようなユダヤ人がイエスさまの最初の到来において備えが出来ていた者であり、イエスさまの再臨のときにもこのようなクリスチャンが備えをしています。

要約

どのような人が準備が出来ているのでしょうか。「ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった」。サンヘドリンは困惑していました。神学者たちは髪を引き抜いていました。彼らは準備が出来ていなかったのです――そのような人たちが備えをしていることはまれです。しかしゼカリヤのような個人的な聖職者たちや彼の妻、イエスの育ての父であるヨセフ――正しい人、また「私には救い主が必要だ」と言った十代の少女、羊たちの番をしていた羊飼いたち、人生すべてを祈りと神に仕えるためにささげ、イエスについて語っていた愛らしい老女、またイエスさまがやって来るのを待ち望み、聖霊に満たされていた老人――それぞれが違う物語を伝えています。彼らこそが、イエスさまの最初の到来の時に備えが出来ていたユダヤ人であり、私は約束しますが、同じような人たちがイエスさまの再臨の時に備えができているクリスチャンなのです。

あなたがたすべて、あなたの家族、私自身また私の家族に対しての私の祈りは、イエスさまの最初の到来に備えが出来ていたユダヤ人を見る時、イスラエルの神の恵みによって、私たちが再臨の時に備えができている忠実な者となることです。イエスさまにある私の親愛なる兄弟たち、間違えてはいけません。クリスマスはやって来るのです。

私がクリスマス・キャロルの中で最も好きな曲は「天には栄え(讃美歌 98 番)」です。その理由はこれです。この作曲はユダヤ人のフェリックス・メンデルスゾーンによってなされ、作詩は異邦人クリスチャンであったチャールズ・ウェスレーによってなされました。この曲は私が知っている中で最も素晴らしいユダヤ人と異邦人との合作です。私と一緒に歌いませんか?

天(あめ)には栄え 御神(みかみ)にあれや地(つち)には安き 人にあれやと

御使(みつか)い達の たたうる歌を

聞きて諸人(もろびと) 共に喜び

今ぞ生まれし 君をたたえよ†††

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