仏教徒の道しるべ  スコット・ノーブル

第五章:仏教徒の道標 (2004 年 11 月 6 日)

この章では主にスリランカ、タイ、ビルマ、カンボジア、そしてラオスで見られる上座部仏教に焦点を当ててみたい。それはこの仏教形式は釈迦牟尼仏陀の当初の教えの原型に最も近いと主張しているからだ。他の宗派も同様にそう主張しているが、歴史的に言えば(神秘的な話ではなく)、上座部仏教学派の主張が最も実証されているように思われる。仏教について書かれたものの多くは、仏教の教えを理想化した不完全な肖像画を提示している。主題が広大なため致し方の無い難問ではあるが、仏教の肯定的な側面に焦点を当て、より困難な問題をさておき省く人々によって、より充実した良いものになる。この章では包括的な概説の肖像画を提示するとまでは言わないが、仏教のより曖昧であまり知られていない核心的な問題やジレンマを取り上げ、仏教は確かに魅力的にシステム構成されているものの、人がその運命を全うし成就する上で助けになるものではないことを示す試みをする。また、聖書の教理に基づいて上座部仏教とキリスト教信仰との比較を行なってみたい。この論文で私は以下の 8 つの副題、すなわち無我(anatta)、再生、涅槃、カルマ

(業)、女性、瞑想、科学、および神について明らかにしていこうと思う。 

無我(anatta)

デカルトは「我思う…故に我あり」という言葉で知られている。私の高校時代の歴史教師はそれをもじって「我ピンク色に思う…故に我はスパムであり」という駄洒落を言っていた(笑)。こうしたアイデンティティの証明とは全く異なるアプローチをとることにより、仏教は「我、存在せず」という観念で締め括った。ジョン・ギャレット・ジョーンズは、その著書『仏陀物語とその教え:ジャータカ物語(本生譚・前世物語)をパーリ聖典と関連づける』のなかで、ジャータカ物語に見られるような有名で一般的な仏陀の教えの表現と、より正統派であるパーリ聖典の四大ニカーヤを比較検討している。パーリ聖典協会の前会長 I・B ホーナーは、この本の序文で次のような推奨の言葉を述べている:「ジョーンズ氏は本生譚とパーリ聖典の双方に精通しているため、一見簡単そうに利用できるだけでなく、適性と正確さで信頼性の高い資料文書を作成することが出来るのです」 (ⅶ) 。ジョーンズは再生に関する章の中で“無我”の教義に言及し、正統派の信仰によれば魂は生まれ変わらない、何故なら仏教はそのような存在を認めていないからだ、と指摘している。:識(意識 vinnana)というものは、死の時点で消えてなくなる五蘊(ごうん)の一つである。身体そのものの物理的な基盤、或いは我々が望んだとしても身体に関連した物理的な構成要素を奪われた状態で、どうやって死を乗り越えることができるのだろうか?中間の長さの発言集(MLS)I313,320f のなかでゴータマ(仏陀)は実

際に、意識が持続するという“異端”に対してキッパリと反論している(34)。

“無我”の教義は釈迦牟尼仏陀の生まれ変わる再生物語であると想定されている『ジャータカ物語』総ての前提を根底から覆すものである。“魂”なくして生命から生命を繋ぐものとはいったい何であろうか?という問いかけに対して通常与えられる答えは、「人間が背負っているカルマ(業・因縁)は持ち越される」というものである。しかし、もし背負うべき因縁を持つ人がいなければ、この“カルマ”というものは何に付着しているのだろうか?ダニエル・ジョン・ゴーギャリーは、1885 年版

『キリスト教の証拠と教義』(パーリ聖典研究 44 年目にして知った)の中で、次のように書いている:

「我々はまず仏陀の教えとして、ある行為を行った者とその報い或いは罰を受ける者は同じではないこと、つまり行為を行った者と罰せられた者の間に関係があるのではないことを立証してみよう。その関連性は実行者とその行為から生じる善悪の関係ではなく、なされた行為とその結果、その結果の受け手が誰であろうと、その関係であるとされる。このことは、善い行いをした者に報酬を与えるという、あらゆる既知の正義の原則に反するものであるが、仏教に於いて、報いは善行について回り、善行をした者が必ずしも報いを受ける訳ではない。これは輪廻転生を繰り返す魂は人の中に存在せず、生命的存在を構成するパンチャ・スカンダ(五蘊)は死を

もって終わりを迎え消滅するという仏陀の教義からきている」(54-55)。

無我を信じるということは例えば、アドルフ・ヒットラーが死に、彼にまつわる一切の“存在”(五蘊)集合体が消滅したときに、彼のとてつもなく悪いカルマが誰か或いは何か(下等な昆虫かもしれない)に付着し、その悪魔的な所業や苦しみの理由については全く意識しなくなることを意味する。これは正義と呼べるのだろうか?一体、“誰”が罰せられるのか?このシステムで報われるのは“誰”なのか?仏教で「自己を磨く」、「己に帰依する」…etc.という風に、“己れ”という言葉が用いられる場合、これは明らかに便宜上用いられているのであって、絶対的な自分を表現している訳ではない。ワールポラ・ラーフラは、その著書『ブッダが説いたこと』の中で、仏教における自己または魂の存在を指摘する人たちに対して次のように反論している:「…仏陀の教えでは、この世における人間の存在はこの五つの集合体

(前述の五蘊━色・受・想・行・識━と同じ)だけで構成され、それ以上のものはない。この五つの集合体以上のものが存在すると、彼はどこにも言っていない。”第二の理由は、仏陀が断固として一度ならず明白な言葉で、複数の箇所で、アートマン(真我)、魂、自己またはエゴというものが人間の心の内外に、或いは宇宙のどこかに存在しないと否定したからである」(56-57)。

我というものはないが再生はあると説いていたにも拘らず、仏陀は依然として、宇宙は非倫理的なものではないという確信を持ち続けていた。これが倫理的な宇宙であるとする仏陀の確信と関連させながら、ジョーンズは次のように結論づけている:「この確信が彼の教えの合理的かつ分析的な部分に健全な根拠があると主張することは出来なかった。実際のところ、これら2つの間には絶望的に両立しがたい矛盾があると言っても過言ではないように私には思える」(36)。しかし、もし魂がなければ、なぜ仏教徒は輪廻転生を免れる為にそこまで大変な努力をするのか、そしてまた、なぜ仏陀はそれが彼の“最後の生まれ変わり”だと宣言したと言われているのだろうか?(釈迦対話集Ⅱ.12)?最後に生まれたのは「誰」?無我(無魂)の教義は大乗仏教の“空”(万物の空しさ)の教義を予見しているのである。上座部仏教では、自己は空であると主張したのみであった。

一方、イエスは魂の計り知れない価値と実在性を宣言された:「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」『マルコによる福音書 8 章 36 節~37 節(口語訳)』。

再生(生まれ変わる)釈迦牟尼仏陀が最後に生まれ、世俗的な快楽を捨て去る有名な物語では、幾つかの疑問が生じる。もし釈迦牟尼仏陀が前世に数え切れないほどの人生を本当に経てきたのなら、なぜ彼の父親は人生のより過酷な側面から彼を保護する必要があったのだろう…彼は修行のために世間を自身の目で確かめる目的で王宮を出たとき、なぜ死や貧しさや老いを目の当たりにしてこれほど驚いたのだろうか? ジャータカ再生物語を額面通りに受け取るなら、彼は人生のこういう過酷な現実のすべてに精通していたに違いない…というのも、ジャータカ物語によると、彼は時として人生の残酷な側面にも関与していたようである。「…この一連の物語の中で、菩薩(仏陀)自身が何らかの形で殺害または障害に関与していると描写しているものがある。当該箇所はジャータカ物語(本生譚)93、128、129、152、178、233、238、246、

315、319、384 話である」(ジョーンズ,61)。本生譚 547 話のなかで、彼は二度強盗になり、ある時は賭博師となり、また二度ほど巨大な蛇になっている(ジョーンズ 18~19)。また、本生譚 538 話によれば、彼はウサダ地獄で八万年を過ごさなければならなかったとあり、苦難について精通していたことになっている(ジョーンズ,43)。それでは、なぜ仏陀は死や苦しみの事実に直面して、まるで経験したことも見たこともなかったかのように心を打たれたのであろうか?この質問に対する一般的な答えは、前世を思い出すのは心が惑わされることなく不信感から解放され、記憶の深いレベルに達することが出来る瞑想状態の時でなければならない、というものだ。しかし、心や人が構成されていると言われるすべてのもの(五蘊)は死を免れず存続しないと言われている場合、如何にしてその様な情報を心に保持できるのだろうか?ただし実際には、この有名な仏陀の克己(悦楽との訣別)出家の話は

『パーリ聖典』の中には記載されていない。

パーリ聖典では、仏陀は生まれてすぐの赤ん坊の頃に真っ直ぐ立って歩き、これが自分の最後の生まれ変わりであることを宣言したと言われている。「我は世の首長であり、世の長老であり、世の第一人者である ━天上天下唯我独尊━」(Ⅱ.12) 。もし不滅の魂が無いのならば、どうして赤ん坊がこのような高尚な言葉を口にすることが出来るのだろうか?ジャータカ再生物語では、無我の問題が浮上してくる。というのも、仏陀の教義では前世を思い出すための永続的な魂は存在しないのに、仏陀はどうやって前世を“思い出す”ことが出来たのか、瞑想では説明がつかないからだ。正統派の物語の中でもなお無我の問題は残る。それは、永続する魂などは無いという仏陀の無我の教義と、終わりが見えて安堵している永続する魂の視点から語り出す赤ん坊とが対照的だからである。無我と再生の狭間の教義上の不一致は、知性を満足させないまま、作り出された倫理観で良心を宥めようとするものである:「二つの命題が対立する場合、最も簡単な解決策は何れか一つを無視することである━まさに本生譚でなされたように。本生譚においては無我の教義と同一人物の生命が連続するという教義との間に矛盾するところはない。それは無我の教義は単に無視されているからである(ジョー39)。

釈迦牟尼仏陀は倫理観を手放したくなかったが、彼のシステムは知的にも“功徳配分”においても人々を矛盾に導くものであった━悪人も善人も現世から来世への魂の繫がりは無いと言われている━かくて、或る“運命”を受け取った者は、それを“獲得”した者ではないのだ。

しかし、この様な生まれ変わりの難しさとは別に、実際に生まれ変わったと主張する人の現実のケースはどんなものであろうか?アーネスト・バリアは、彼のオンライン記事(www.comparativereligion.com/reincarnation1.html)『輪廻転生の現代的証拠としての前世回想』のなかで再生/生まれ変わり研究分野における第一人者のひとりであるイアン・ステイ-ブンソンの言葉を引用している:「私の経験では、催眠術によって呼び起こされるいわゆる前世の人格というものは殆ど全て想像上のもので、催眠術者の暗示に従おうとする患者の一途な熱意の結果である。催眠状態では人は誰でも非常に暗示にかかりやすいということは周知の事実である。この様な研究は実は危険性を含んでいる。ある人はその記憶と思われるものにひどく怯え、またほかのケースでは呼び起こされた前世の人格が長い間、心から消え去ることを拒否して離れなくなってしまった」『オムニマガジン 10(4):76(1988)』。

バリアは、この現象が“偽りの記憶症候群”と呼ばれていることを指摘し、「法廷ではこれらの危険性を認め、殆どの場合、催眠状態で行われた証言や、事前に催眠状態にあった目撃者の証言は受け付けない」と述べている。催眠術によって“記憶”が呼び起こされないその他の場合はどうなるのか?バリアは、通常この対象となる人々の層に注意を促している:

「前世を自然に思い起こす追憶体験の大部分は、特に霊に対する識別力が殆どない 2 歳から 5 歳までの子供たちによって生み出されている。そのため、外部の精霊によって操られ易い状況になっている。子供が成長するにつれて、それら外部のエンティティは子供に影響を与える力を失っていき、そのため、10 歳を過ぎると前世の記憶が失われてしまうのだと思われる。」

イアン・ステイ-ブンソンが調査したケースのなかに、人は実際に自分自身を同時に表現する2つの人格を持っていたという事例がある。子供の場合のように、個人が人生の中で脆弱な時期にあるときに(特に両親が彼らを霊的活動の中心に連れて行った場合)、霊の憑依や“仲介者”である霊媒として行動していたことが説明される場合が多い。この外部の精霊による干渉は、再生研究が極めて主観的な性質のものであることを示している。バリアはステイ-ブンソンの結論で締めくくっている:

「以上の理由により、この現象の研究者として知られるイアン・ステイ-ブンソンは彼の著書『生まれ変わりを示唆する 20 の事例』の中で、彼が研究した事例はこの本のタイトルが示すように再生を示唆しているだけであり、証拠とは見なされないことを認めざるを得なかった。ステイ-ブンソンは次のように続けている:私がこれまで調査した全ての事例には欠点があります。これらをまとめてみても、証拠らしいものは何も提供しません『オムニマガジン 10(4):76(1988)』。もしこれが事実である場合、それらは例の憑依を示唆している可能性もある。」

このように外部の霊が惑わす可能性がある以上、瞑想中の僧侶や尼僧がこの外部の影響を受けないと言えるのだろうか?瞑想とは本来、このような外部からの影響を受ける扉を大きく開いているものである。僧侶や尼僧は瞑想中に様々なことを経験し、それを仏陀の教えの確認に数えることが出来るであろう。しかし、彼らは実際そうしていたのだろうか?そもそも、彼らがそのような“記憶”を得ようと努めたのか、また、その体験が主観的なものである場合、これを確認として数えることが出来るだろうか?たとえ、人が本来は自ら知り得ない情報を明らかにできたとして

も、その情報は外部の霊が知り、伝達することができるものなのである。

そのような“記憶”を手に入れる為に、人はなぜ催眠状態であったり、子供のように無知な心を持ったり、瞑想中の変性意識状態になったりする必要があるのだろうか?もし再生が“まこと”のものであれば、なぜ世界の数十億という人々が、文化的背景に関係なく、それを明らかにしないのだろうか?なぜ赤ん坊が“前世”の言語や他のいかなる言語(バブバブ以外の言葉)も話せないのか?これが恐らく無我の教義を生み出した(記憶の欠如を説明する)理由であろう。しかし、この場合ジレンマは倫理的な領域にとどまり(永続的な魂がなければ真の正義はありえず)、生命から生命への接続点を持つという現実的な問題は未だに解決されないでいる。「…そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように」『ヘブル人への手紙 9 章 27 節』。

涅槃

チルダースは彼が編纂した『パーリ語辞典』で、nibbanam(サンスクリット語で涅槃)とは何かについて非常に明確な答えを提示している。彼は次のように述べている:「しかし、存在することは苦しみであるということから始まる信条は、存在からの解放が最高の善であるということで終わらなければならない。したがって、消滅は仏教の最終到達点であり、その教えの忠実な遵法者に与えられる至上の報酬であることがわかる」(265)。“消滅”という言葉はこの場合、あまり良い言葉ではないだろうが、そこには人の考え及ばない他の理由がある。ワールポラ・ラーフラはこう指摘する。「涅槃は自己の消滅ではない。それは、消滅させるべき自己が無いからである。もし仮にあったとしても、それは幻想の消滅であり、つまり自己という誤った観念の消滅である」(37)。

チルダースは涅槃を“至福”と表現する正典と他方で“消滅”と表現する正典がある理由を説明し、双方とも意味するところは同じだが、“至福”は最終的な消滅の前の一時的な状態に過ぎないことを明らかにした:「私は仏教の到達点は消滅であり、そして涅槃は永遠の死に先行するほんの短い至福のひと時であることを示した…釈迦牟尼仏陀が“悟り”の境地を彼の門弟たちが到達する最高レベルの理想としたことは十分考えられる。このことは徳の高い生活による至福の純粋無垢な状態を想像していた人々には信じ難いことに思えるかもしれないが、全てが彼の入滅ということで終わってしまうのである。しかし、彼がこのように行動したことは確かであり、存在の悪と人生の苦痛に対する彼の非難が何であれ、悟りの境地はカルマ(因縁)に発するもので彼がカルマを根絶し、いかなる存在も無くなるかもしれないという意識の至福に基づくことを覚えておく必要がある」(268)。ラーフラはまた、涅槃とは存在しないことであるとも述べている:「涅槃を悟った仏陀や阿羅漢(羅漢と同じで阿羅漢とも綴る)の死を表す般若心経(Parinibbuto)という言葉がありますが、これは「涅槃に入る」ことを意味するものではありません。般若心経とは、仏陀や阿羅漢はその死後に再起しないため、単に“完全過ぎ去る”“完全に吹き飛ぶ”“完全に消滅する”という意味であり、般若波羅蜜多とも呼ばれています」(41)。

仏教の宇宙観では、様々な天界、地獄、地上現世…等々、31 の存在世界があるとされている。これらはすべて永遠ではなく一時的な仮のものだと言われている。これら 31 の世界のどれも涅槃ではない。何故なら、これらの世界はすべて無常と苦しみに陥りやすいと言われているからである。天界でさえ涅槃になりえないとすれば、涅槃は存在を超えたものであることが改めて理解できる。また、31 の世界のうち、上位 20 の世界は瞑想状態と並行していると言われている。言い換えれば、瞑想をしている人はこの上位 20 位までの世界を体験できる筈なのだ。人が達成できる最高の

瞑想状態はまた、涅槃がどうあるべきかを最もぴったりと表すのである。

「また、“無の境地”(nirodha samapatti)と呼ばれる第 9 の段階も、幾つかの経典に記載されている。この段階になると、すべての精神活動が完全に停止し、心臓の鼓動や呼吸さえも停止する。生命は単に身体の余熱という形で存続している。人はこの状態に数日間とどまり、最終的には予め決められた時間になると自発的にこの状態から抜け出せるという。この状態は誰もが生きている間に最終的な涅槃を体験することに最も近いとされ、“身体で涅槃に触れる”と表現される」

(キーオン 91~92)。

精神的な活動さえ中断された時、そこから完全な停止に至るのはそう遠くないということがわかる。そして、これはパーリ聖典の教義である更なる無執着へと段階が

進行し、最終的には実存への無執着に到達するという諦観の教えと一致する。

パーリ聖典において涅槃は“至福”の状態として説かれているのか、それとも“停止” の状態として説かれているのか、という議論のなかで、ジョーンズは次のように注釈している:「もしこれが“至福としての涅槃”だとすれば、私は※第四ニカーヤ

(仏陀の法話の本体)の中にその根拠を見出すことができません。私の知る限り、涅槃を肯定的で超越的な状態の至福とする考えを支持するような言葉は、第四ニカーヤの中には一つもありません」(152)。この議論の脚注で、ジョーンズは上座部仏教学者の間で最も一般的に支持されている見解を明らかにしている:「ジャヤティレケが超越論的な涅槃観を採用しているが、彼の元教え子カルパハーナがこれを非難して、(上座部仏教学派内で)より一般的な止観論を主張しているのは興味深いことである」(202)。※パーリ聖典の経蔵を構成する五部のうち第四番目[増支部]のこと。ニカーヤは部と訳す。

A.L ハーマンは彼の論文『仏教における二つの独断』の中で、大乗仏教と上座部仏教の双方に関連させて、涅槃のもう一つの難しさを指摘している。最近の大乗仏教では涅槃を至福とする考え方が主流だが、正統派の上座部仏教では涅槃を止観とする考え方が主流である。ハーマンは、涅槃をどのように解釈しようとも、それはジレンマおける独断であることを示している:

「涅槃のジレンマとは、もし涅槃が情熱・欲望・感情などの完全な欠如であると否定的に捉えるなら、それは死んでいるのと同じであり、死に至る目標を誰が追い求めるのだろうか?涅槃はこの最初の解釈においては自殺である。一方において、もし涅槃が平和と静寂の存在として肯定的に見られ、私が望むすべてが満たされると捉えるなら、欲望は終息したり吹き飛ばされたりせず、涅槃の意図全体が矛盾することになる:即ち、涅槃はこの第二の解釈では一貫性のないものとなる。しかし、涅槃のジレンマは続いており、涅槃はそれを否定的に捉えるか肯定的に捉えるか、どちらかでなければならず、第三の選択肢はない。ジレンマの結論は、涅槃とは自

殺による消滅か一貫性のない継続のどちらかである、ということになる」

(170)。

ハーマンは、次の厳粛な文書をもってこう結論づけている:「この様な哲学的問題に直面して根拠のない独断を保持することの影響は、仏教を経験的真実や理性から彼方へと遠ざけ、真実が単なる有用性によって測られる“疑わしいプラグマティズム”、或いは真実が完全に放棄される“非理性主義や神秘主義”へと近づけることになる(或いはなった)ことであろう」(174)。この結論の脚注で、ハーマンはさらに次のように説明している:「…“疑わしいプラグマティズム”と“非合理主義”や“神秘主義”は、まさしくその後、一方では南方(上座部)仏教が、他方では北方(大乗)仏教が、それぞれ辿った道筋であった」(174)。

もし最近の大乗仏教の見解が正しいと言うなら、それはパーリ聖典の教義に反するもので、釈迦牟尼仏陀が実際に教えたことに最も近いものである。もし大乗仏教徒が異なる解釈を主張したい場合、それはどのような高等権威に基づいているのであろうか?これは仏陀の権威を否定し、代わりに神秘的な啓示に依存することになる。他方において、もしパーリ聖典の止観が実際に仏陀の説いたものだと認めた場合、平たく言えば、仏教の考え方は「あなたが本当に善良であれば、あなたは消滅する」ということになる。大乗仏教徒がこの教義を変えようと試みたのは疑いのないところであるが、その主張をバックアップする権威がないため、それは徒労に終わった。ただし、当初の主張(止観)の背後にある権威も十分ではない。欲望が苦しみに繋がり、苦しみが実存の主な特徴である代わりに、希望と再起への道がある。本来の涅槃とは、仏教の教えはゼロへの道であり、それは空(サンスクリット語でスンニャター)と消滅に相当する。

生きることから抜け出す代わりに、イエス・キリストは渇きを癒し、有意義に、そして永遠に生きるための方法を提案されている:イエスは女に答えて言われた、

「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、私が与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」『ヨハネによる福音書

4 章 13 節~14 節(口語訳)』。

カルマ(業)

カルマ(業)とは、「良いことをすれば良いことがあり、悪いことをすれば悪いことがある」というように…幸せがすべて“自業自得”であるかのように思わせる、大衆受けするシステムである。これは世界の不平等や明らかな不正を説明するものだと思う。しかし、このシステムの意味するところをもう少し詳しく見てみよう。カルマはちょうど重力と同じように自然の法則であると言われていますが、ただ、物質を支配するのではなく、倫理観を支配するというだけで、物質も影響を受けると言われている。もし、それが自然法則に過ぎないのなら、遺伝法則が予期せぬ(殆どの場合、有害な)要因によって何かのはずみに影響を受けるのと同じように、それは突然変異の影響を受ける可能性があると言うことではないのか?この様なシステムに信頼を置くことができるだろうか?このジレンマについて、ジョン・ジョ-ンズはこう指摘している:「カルマの結果の倫理性(道徳性)は、カルマのプロセスが厳密に非人格的であることを疑問視しているようである。もし、カルマのプロセスが倫理的なプロセスであるとすれば、我々が経験によって証拠を持っている倫理性の唯一のタイプは、人格に関連するものだからだ。このように、カルマの非人格的な属性と倫理的な属性の間には緊張関係がある」(37)。

カルマの影響によってもたらされるものは、パーリ聖典の中に明確に列挙されている:「この場合は、極めて残酷、無慈悲に生き物を殺傷しようと襲いかかるので、短命なバラモン若者となる」。その反対はこうである:「この場合は、もし人が生き物への強襲から逃れてこれを回避し棒や剣から免れることができれば、すべての

生き物に対して慈悲に満ち心優しい生活を送る事ができる長寿の若者となる」

(MLSⅢ,P.248253)。これらと正反対の結果は容易に推測できるので、簡潔を図るために、パーリ聖典から幾つか否定的な結果のみを列挙してみよう。(これら引用文の省略部分は経典の通りであり筆者が省略したものではない):

「この場合は、元来その手や剣でもって生き物に害をもたらすところから、多くの病に導く。」「この場合は、怒りに燃え憤怒を示しているところから、醜悪さをもたらす。」「この場合は、他人に対する尊敬や敬意をねたむが故に、評価されない。」「この場合は、人にベッドや一夜の宿や灯りを与えないが故に、貧しさをもたらす。」「この場合は、称えるべき他人を称えないので、家族の不幸をもたらす。」「この場合は、人が尋ねるべきところを尋ねないので、知恵を欠くことになる。」━それでは、私がしたことによって私が幸せになる為には、何が求められるというのであろうか?

このように、病気、醜さ、卑小評価、貧困、卑しい家柄であることの原因が我々の為に綴られている━これらのことは、前世においてなされた悪行、雑言、悪意によるものである。このようにカルマは人生の不平等を、その人が受けるべき価値に応じて説明している。このシステムでは、貧しい人は貧しいのが当然であり、豊かな人は豊かであるのが当然である、…etc.この様な考え方は、体の不自由な人を刑務所の犯罪者と同じカテゴリーに、物質的な所有物を持つ人をヒーローのカテゴリー

に位置付けているように思える。これらの結論は本当に妥当なのか?

人の人生における複雑な倫理的影響はすべて、知的な存在によってではなく、単なるエネルギーの力によって記録されることになっている。そして、更に問題を深刻にするのは、死んだ人には魂がないと言われ、この蓄積された倫理的な銀行口座がいかにして再割り当てされるかという問題が提起されている。カルマとは仏教システム上の良心であるが、その実際の働きや存在については解明されていないままである。ジョーンズは仏陀についてこう述べている:「彼の教えの合理的で分析的な部分━特に無我の教義━がそれをどんなに否定するように見えたとしても、この惑星とその先の感覚的な生命である衆生を支配する低迷は非倫理的なものではないことを確信していたようだ」(36)。仏陀は倫理性を否定できなかったし、かといってそれを自分の教義と同調させることもできなかった。しかし、これらの困難はさておき、厳密に言えば、我々は自分に値するふさわしいものを本当に望んでいるのだろうかと、自分自身に問いかけるべきではないか?

カルマのシステムは、善行が悪行を補うことが出来ると想定している。それはまるで追加したり取り出したりすることの出来る銀行口座のようなメリットがあると考えられている。倫理性に適用されるこの種の理屈は、法廷では通用しない(裁判官は被告人の人生における善行と悪行のバランスを考慮して犯罪を赦すことはないのだ) 聖書的に言えば、倫理性は銀行口座のように善行から悪行を引いてバランスを取るようなものではないし、その逆もまた然りである。むしろ、倫理性は人間関係に根ざした一連の期待である。親が子供の世話をすることを期待しているように、子供は親を尊敬することを期待している。夫や妻、友人、仕事仲間、従業員、…etc.誰もが良い関係とはどういうものなのか、一定の期待を抱いているものである。もし夫が浮気をした後で、妻に素敵なプレゼントを贈った場合、収支は帳消しになるのだろうか?あたかもビジネス上の取引であるかのように、彼は自分の違反を修正したのだろうか?人間関係における許しあいはあっても、倫理観というものは銀行預金のように取り扱われてしまう非人間的な公式ではない。同様に、ある人が殺人を認め、自分の一生をかけた蓄えを彼が殺した隣人の未亡人に差し出したとしたら、その裁判官は殺人の処罰を取り消すであろうか?彼は(自分が殺害した)隣人を愛するという義務に背いたのだ。その人物がどんなに多くの善行を積んでいたとしても、殺人の罪は罰せられる。

これとは逆に、もしある人が高潔に暮らし、その国の法律を全て遵守している場合政府はその人の善行に対して報奨金を与えるだろうか? その人は期待されていることを単に果たしただけであり、政府は感謝していますが、ただその人がなすべきことを実行していると見なすだけであろう。それによってボーナスポイントを獲得するわけではない。違法した場合は不利になるが、善い行いをすることは単純に期待されるのみである。善行を 100 回積んでも悪行を 1 回働けば、その人は義務を 100 回果たしたことになるが、1 回違反をしたと記録される。従業員に 100 回給料を支払ったが、すでに 100 回の支払いで彼らは利益を得たからと言う理由で、その次の回には給料を払わないという雇用主をどう考えたらいいか?或いは、ぼんやりした生徒に対して 100 回は癇癪を控えた短気な教師が、その次の回にはカッとなって生徒の一人に蹴りを入れたとしたら?この場合、教師の点数は“99 点”ということ

(100 回の善行から 1 回の悪行を引いたもの)になるのか?その教師は 100 回の義務を果たし、1 回の違反をしたことが記録されるのである。

人は、自分になされた罪を犯した他者を許すように求められている。何故なら、自分自身にも罪のリストがあるからである(恐らく、罪を犯した人とは異なる領域において):「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう」『マタイによる福音書 6 章 14 節~15 節(口語訳)』。一方、神には罪がないのだから、赦す“義務”はない。法廷における裁判官には罪が無いわけではないが、同様に犯罪を赦す義務はないのである。

聖書によれば、我々に期待されているのは“善行”だけではない。我々がなすべきなのは最善を尽くすことである:「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」『マタイによる福音書 5 章 46 節~48 節(口語訳)』。もし、ある人が恐ろしい人生を送り、残酷な罪の数々の長いリストを積み上げてきたとしても、その後改心して立派な市民として余生を送れば、過去は帳消しになるのでしょうか?改心して生きていることは予想できたが、以前の犯罪のリストはまだなお記録に残っている。同様に、犯罪者がその罪のために刑期を終えたとしても、それで罪が消え去るものではない。何故なら、彼らの最善を尽くすことは最初からずっと期待されていたからである。罪は人の生涯を通じて積み重ねられ続け、そのリストには、我々に対する他人の罪を許さない、という罪も含まれているのである。

聖書のシステムは完全に個人的なものである。ポジティブなモラルもネガティブなモラルも、単なる“点”として人間関係から切り離すことはできない。倫理に背くことは、ただ悪い選択をしたりマイナス点を積み重ねたりすることではない。それには全て関係性がある。聖書の法則は二つの命令に要約される:━すなわち神を愛し、人を愛せよ。倫理を否定することは、生命を創造された生ける神に反抗することである━。求められる義務を正しく認識することは、人間関係の立ち位置を変えることでもある:「このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育係となったのである。それは私たちが信仰によって義とされるためである」『ガラテア人への手紙 3 章 24 節(口語訳)』。まず法律があり、それによって罪の程度を認識することができる。その認識とともに、我々の罪のために十字架の上で死んでくださった罪のないキリストの愛に気づくのである。そのことに気づけば、イエスキリストへ立ち帰ることが出来る。すると、かつては“義務”だったことが喜んでなすものになるのである:「わたしはもう、あなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。私の父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである」ヨハネによる福音書 15 章 15 節(口語訳)』。一方、倫理を受け入れながらも、道徳の関係的側面を拒否することは、大洋を横断する船からの迎えを断り、信じられないほどの距離を泳いで渡ろうとするようなものだ。聖書はそのような人を呪われた者と表現している:いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである『ガラテア人への手紙 3 章 10 節』。

我らの信仰がキリストにあるかぎり、我らに対する罪は十字架に釘付けされている。そして、我らの創造主として彼は赦す権威をお持ちの唯一のお方なのだ。すべての罪は神に反するものである。他の人に対してなされた罪でさえ、それらの人々に対しても行われますが、神はその罪を犯した悪人の所有者であり、悪用された我々の人生の所有者であられるので、結局は神に反するものとなる。人が自分の能力で悪行の泥沼から這い上がることは絶望的である。しかし、全ての人に希望がある。神の赦しの申し出は、獲得したり要求したりするものではなく、己の罪の深さを自覚し、自分自身ではなく神に信頼を置いて本当に悔い改めるすべての人に与えられる無償の慈悲の贈り物なのである:「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるものである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いよるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである」『エぺソ人への手紙 2 章 8 節~9 節(口語訳)』。

女性

パーリ聖典によると、ある人はある人生では女性として生まれ、次の人生では男性として生まれ変わることができる…etc.などと言われている。しかし、500 話を超えるジャータカ物語(仏陀の生涯を網羅したものではないが)の生涯にも、パーリ聖典のどこにも、仏陀が女性として登場することはない(ただし、一度や二度は女性だった筈だと推論されることはある)。ジョーンズはこう述べている:「最も印象的な事実は、菩薩の姿は非常に多様であるにもかかわらず、彼は一度も女性や雌の動物として現れたことはないということである。木の精や妖精として現れる時でさえ、彼は常に男性である」(20)。彼の多くの人生に登場する親友のアーナンダは、一度だけ女性として登場する(ジョーンズ,113)。さらにジョーンズは、本生譚『ジャータカ物語』の教義と正統派『パーリ聖典』全般とを対比させる:「しかし、ジャータカ物語では悪女の堕落が普通であり、徳の高い女性は例外に過ぎないのに対して、友人が堕落する可能性は非常に低く、殆んど言及されていない。これは聖典の立場とは異なるものである。そこでは、疑いもなくセックスと結婚は悪であるが、愛と友情も同様である。何故なら、これらは個人的な愛着や苦痛を伴う(あるいは苦痛を伴う可能性のある)感情に人を巻き込むものだからである。聖典が祝福することができる唯一の愛は、完全に分離された一般的なもので、

“すべての被造物に対する無限の友好的な心”である」(115)。

この様な徳の高い女性の一人について、ジョーンズはこう述べている:「ジャータカ物語のなかで稀有な存在である徳の高い女性は、その徳を前世の出生時で得た功徳に負っている━男性として!」(43)。パーリ聖典自体、その中で女性についての描写は殆どない:「…しかし、女性は性行為や出産に飽くことがなく(本生譚Ⅰ 72)、“彼女たちは統制が利かず、人を妬み、貪欲で、知恵が足りない”ので、宮廷に座ることも、事業に乗り出すこともないのである(本生譚Ⅱ92f)」(ジョーンズ

78)。尼僧の為の教団設立に関連して、ジョーンズは次のように書いている:「アーナンダがゴータマに女性の為の別の教団を認めるよう説得したとき、ゴータマはこのことについて非常に憂鬱そうな顔をしていたと伝えられている。彼はこう言った━仏教内法の中身が純粋な形式で保たれる期間を半減させることになるだろう」(ジョーンズ,77;本生譚Ⅳ184f)。『修行規律集Ⅴ』でも、仏陀が弟子のアーナンダに向かって、もし女性たちが仏門に入れば、仏教の真理は千年どころか五百年しか持たないと予言している:「真実の発見者によって宣言された教えと規律について道を外れることがなければ、バラモンたちの修行は永続し、仏教の真理は数千年長続きするであろう。しかし、アーナンダよ、女性たちは真実の発見者によって宣言された教えと規律から道を外れたので、いまや、アーナンダよ、バラモンの修行は永続せず、仏教の真理は 500 年しか持ちこたえられないであろう」(356)。

女性が仏門に入り“道を外れ”、既に 500 年が経過していることから、上記の経典上の聖句は誤りなのか、それとも“真実の仏教理”(true dhamma)が 500 年しか続かないというのは真実なのか、という疑問が生じる。もし偽りであると言えば、パーリ聖典に偽りがあることになる。もし真実であると言った場合でも、パーリ聖典に偽りがあるということになる。既に 500 年が経過しているので“真実の仏教理”はもはや存在しない。

この同じ経典の中で、仏陀は女性の影響力をカビに例えて次のように言った:「アーナンダよ、カビという病気が稲田の全体を襲うとき、その稲田は長持ちしないように、アーナンダよ、女性がどんな真理と規律で出家をしても…バラモン(梵天)の苦行は長続きしない」(356)。また同じ経典『修行規律集Ⅴ』には、女性の入門を認める為の 8 つの条件が綴られている。それらの中で、仏教における女性の男

性に対する従属的な役割を浮き彫りにしている二つの事例を紹介する:

「出家した尼僧は(たとえ)100 年経っても、尊敬の念を持って挨拶し、席を立ち、合掌して敬礼し、出家した僧侶に正しい敬意を払わなければならない。そしてこの規則は尊重され、尊敬され、崇拝されるものであり、生涯決して犯されることのないものである」(354)。今日から尼僧による僧侶の教戒は禁じられ、僧侶による尼僧の教戒は禁じられることはない。この規則も尊重し、尊敬し、崇拝されるものである…」(355)。

この基本的な姿勢を練り上げて、チベット(タントラ)仏教はより極端な表現をしている。元チベット仏教徒のヴィクトル&ヴィクトリア・トリモンデイ夫妻は著書

『ダライ・ラマの影:チベット仏教における性愛、魔術および政治』の中で、その

816 ページ(ドイツ語)にわたる内容の大部分を女性差別の話題に割いている:

「このテーマの複雑さを鑑み、我々は演繹的に研究を進め、仮説という形で研究の核心となる記述を本書全体に前置きすることを決意した。したがって読者は、その真偽のほどは、その後の調査によって初めて明らかになる、というステートメントを手に出発し道を歩むことになる。その記述が正しいか誤っているか、自らの方法で判断してほしい。この仮説の立て方はやむを得ず、着手段階では非常に抽象的なものになっている。しかし、我々の研究の過程で、この仮説は血と生命、そして残念ながら暴力と死の表現でも満たされることになる。我々の核心的な声明は次の通りである:タントラ仏教の神秘は、普遍的なアンドロセントリックな力を得るために、女性原理を犠牲にし、エロティックは愛を操ることにある」(この著書は現在、英語のハードコピーとしては入手できないが、ドイツ語の全文英訳はオンラインで閲覧できる:http://www.trimondi.de/SDLE/Contents.htm)。

上座部仏教に話題を戻すと、ジョーンズは本章譚やパーリ聖典に出てくる各場面の

陰に隠れた舞台裏で、女性に纏わる教義上の体操(知的訓練)を説明している:

「なぜ、これほどまでに公正な性に対して猛攻撃がなされるのか?その答えの最も確かな手掛かりを与えてくれるのが、本章譚 61 話だと私は確信している。この物語は、主に若い男性に家庭生活や性的な関わりを思い止まらせる為に作られている。これまで見てきた様に、家庭生活のもつれから目を逸らす正統的な理由は、家庭生活が“束縛”であり、“自己”の幻想と他の“世間”への執着を助長し、無我の実現という

“離脱”においてのみ、真の平和を見出すことができるからである。またジャータカ派が無我の教義を慎重に避けていることも見てきた:同じ人間がある人生から次の人生へと移り変わっていく…という彼らの大前提を覆すものとして、無我の教義を避けるのを見てきた。このように、ジャータカ派の立場では無我の教義を避ける必要性がある為に、女性は非常に大きな犠牲を払っている。スケープゴートとなるなかで、彼女たちは自己の尊厳を保つことが極めて困難になったのであろう。ジャータカ派に育てられた上座部仏教の女性は、自分に対して特定の目が出るようにサイコロが細工され大きく傾いていると感じたに違いない…ちょうど、あらゆる確立に逆らって自分の結婚がうまくいくことを望んだ在俗の仏教信者さながらに…」

(99)。しかし、仏教に背くことなく、仏教界の多くの女性は前世からのカルマに基づき、自分の低い身分を当然のこととして受け入れている。クレオ・オザーはその著書『仏教と中絶』の中で、「一般的に、タイの女性は男性に対して過少評価されており、この状況は仏教によって支持されている…」(33)と書き、バンコクのスラム街で女性を研究調査したところ、「大抵の場合、女性は“悪いカルマか十分な善行の欠如のために女性として生まれた”という仏教徒信念のもとに自分の運命を受け入れた」(35)ことが分かったと書いている。

聖書では、女性は“カビ”“商売ができない”“若い男性よりも地位が低い”“男性が汚される原因”“直面するどんな苦しみも受けるべきもの”とは見なされていない。聖書では女性と男性は異なる役割と責任を持つとされているが、神の経済における信者の相続は平等である:「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからであるもしもキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである」『ガラテア人への手紙 3 章 27 節~29 節(口語訳)』。レムエル王の母による教えが書かれた『箴言 31 章』では、徳の高い女性は商取引において賢く、力と名誉をまとい、知恵の言葉を口にし、夫から信頼されていると称賛されている。

瞑想

仏教徒の瞑想は、“宗教的な”活動とは対照的に中立的なもの━つまり単なる瞑想として紹介されることが多い。様々な世界観の背景を持つ人々が、ちょうど身体的運動が肉体を鍛える訓練であるように、それがまさに一種の精神鍛錬であるという前提で自ら進んでそれを試そうとする。これは、仏陀の教義をせっせと買わずに、ただユニークで平和な、或いは有意義な体験をしたい人にとって魅力的なアトラクションである。しかし、瞑想は本当に中立的なものであろうか?パーリ聖典のなかで

殆ど言及されていない箇所で、瞑想の時間が騒動になったと報告されている:

「実際、“比類なき戦車乗り”としての仏陀の名声を著しく損なうような出来事があったのだから、それが捏造されたとは考えにくい。私が読んだ仏教に関する本には、どこにもこの話は出てこなかった。『KS V 284』には、仏陀が 14 日間のリトリートに出かける前に、瞑想の対象として“厭わしく愛されない者”を推薦したことが書かれている。彼が帰ってきたとき、悲しいことに修道会が減少していることに気づいた。というのも、非常に多くの僧侶が指示された“厭わしく愛されない者”について黙想し、は姿を消してしまっていた。“この身体について悩み、恥や嫌悪を感じ、自分を殺す武器を探していた”のであり、…実際に自殺を図った者がいたからである。アーナンダは、仏陀が将来“他の瞑想の方法を教えて下さる”のが良いのではと提案した。ゴータマはこの提案に応え、門弟たちに将来“呼吸に基づいた瞑想をするように”と教えた」(ジョーンズ,76)。今日に至るまで、“厭わしく愛されない者”(人間の死体のような)は仏教における瞑想の対象として有効であるが、呼吸に集中するような他のタイプの瞑想は遥かに一般的である。上記の聖典の一節は、仏陀の全知全能(これは他の聖典の一節で主張されている)についての疑問を提起している。仏陀は僧侶が自殺を図ることを知りながら、とにかくこの様な厳しい形式の瞑想を命じたのか、或いは全く知らずし

て、全知全能の存在ではなかったのか?(現在では後者の見解が一般的である)

呼吸に集中する、自分の思考を自分のものでないかのように観察する(“我”という概念から解放され“客観的に”思考を観察する)など、より一般的な瞑想にも危険はある。あたかもそれは自分自身のものではないかのように人の考えを見つめような、一段と基本的な瞑想の中にも危険が潜んでいる。それでもなお、ラーフラはそうした瞑想を勧めている:「科学者が何かの対象物を観察するように、主観的な反応をせずに、外側から観察しているかのようにそれを調べてみてください。ここでもまた、あなたは主観的に“私の気持ち”や“私の感覚”として見るのではなく、あくまで客観的に“ある気持ち”や“ある感覚”として見てください。“私”という誤った観念を再び忘れるべきだ」(73)。パラヴァヘラ・ヴァジラナーナは“呼吸の瞑想”を扱った章で、ヴィパッサナー瞑想と呼吸を関連づけている: 

「洞察の瞬間、彼は息を吸い、息を吐き、無常を熟考することによって永続性のアイディアから、苦痛を沈思することによって幸福のアイディアから、無我を熟考することによって自己のアイディアから、反発を沈思することによって喜びのアイディアから、離脱を熟考することによって情熱のアイディアから、停止を沈思するこ

とによって発生の原因から、放棄を熟考することによって執着から心を自由にする」(255)。

また、呼吸の瞑想に関連して、ヴァジラナーナはこう指摘している:「かくて、この二つの段階で呼吸という身体的要素は完全に静寂化されると言われている。この状態に到達するために、“彼は息を吸ったり吐いたりのマインドフルネスを実践するのである」(243)。この例では、呼吸の目的は呼吸することではない!脚注で、ヴァジラナーナは『ヴィシュッディ―マーガ』283 に基づいて、「呼吸のない状態が 8 つある:母の胎内、水に溺れたとき、無意識の存在、死者、不苦不楽、無意識の形界、無形界、すべての感情および知覚の停止達成(243)であることを指摘している。アーネスト・ヴァレアは彼のオンライン記事でヴィパッサナー瞑想の危険性をさらに指摘している:

「…精神状態(チッタ・サマパーティ)に関する仏教徒の観想に伴う経験は、感覚と心に異常な働きかけをすることによる周囲の現実の誤認として説明することが出来る:「瞑想者は自分自身の精神状態をコントロールしようとせず、受動的に行ったり来たりするのを見ているうちに精神状態はますます速く、予測不可能に変動し始める。しばらくすると、この混沌とした活動は、観察者自身の心ではなく、何か別の源から、心の出来事が勝手に生じているような強い印象を与えるようになる。瞑想者がこの練習を続けていると、観察されている心の出来事と観察している心との間に明確な分離があることにも気づかされる。瞑想がさらに進むと、心の中の出来事も観察している心も、まるで観察者のものではない、異質で非人間的なものに見え始める。この時点で、瞑想者の“我”の感覚は混乱し、弱まり、ついには短時間のうちに完全に消滅してしまう…」(エリザベス・ヒルストローム『精霊の試練』

IVP1995,p.114-115)(www.comparativereligion.com/Buddhism.html)

人が自分自身を観察する“第三者”になり、「我」という観念を放棄するとき、それは認めないときは、それはまるでハンドルを放棄して助手席に座っているようなものである。このことは、たとえそれが“単なる”欺瞞であったとしても、外部の霊が入りこんできて、非常に現実的危険な影響を及ぼす可能性を示している。なぜ、人は

“より高い真理”を受け入れるために、変性意識状態に移行しなければならないのか?不動産業者が、売ろうとしている家の価値を十分に理解する前に、心を変える

薬を飲む必要があると言ったら、我々はこれを疑わずにおられようか?

瞑想の究極の目標は、聖典で言えば涅槃━つまり、個人の非存在による苦しみからの解放である。基本的なレベルで仏教の瞑想を試みる多くの瞑想者は、これを最終目標としていない。彼らの目標は心の平和,心の健康、或いはただ何か他で得られないユニークなことを経験することかもしれない。しかし、瞑想の道をさらに進んで涅槃を目指すようになると、瞑想者は自分の感情からますます離れていき、精神的にハンセン病患者のようになっていく。物理的なハンセン病患者は、触覚を失った人である(そのため、熱いストーブにもたれかかると危険で、引き離す衝動がない、etc.)。感情から完全に離れた人は精神的なハンセン病患者になり、一見非常に平和に見えるかもしれないが、彼らは必要な警告を与え、他の健全な機能を提供する感情にも気がつかない。

瞑想の道筋には至福の状態や超能力さえも得られると言われているが、聖典の教えによれば、これらは究極の目的である完全な止観(涅槃)から逸脱するものとして拒否されるべきものである。したがって、瞑想の“ポジティブ”体験は、止観という“鉤

(フック)”に繋がる“擬餌針(ルアー)”に過ぎない。最高レベルの瞑想(ニローダ・サマーパティ━停止の吸収および消滅の獲得)に関して、ヴァジラナーナは

「しかし、最高レベルの瞑想状態で経験されるのは涅槃の状態、すなわち全ての精神活動の停止であり、これは最終的な涅槃の状態に匹敵する」と、書いている。最終的な涅槃は“カンダ・パーリ・ニッバーナ”と呼ばれ、五蘊の完全な停止であり、阿羅漢は死に際して到達する(467)。

個人的なレベルでの瞑想の危険性は別として、瞑想はそれが主張するような客観的な基準を提供するものではない。瞑想は科学的と言われることがあるが、それは瞑想では仏陀の主張が体験可能であると言われるからである。しかし、先に述べたように瞑想者は、何を経験することが出来るかを予め指示されているのだ。この期待は、人々が期待されたものを生み出すように仕向けるので、客観性を失わせてしまう。インストラクターが「前世を見ることが出来る」と言えば、彼らは既にそのような傾向を持っている。また、パーリ聖典に記されている“間違った”或いは異端の見解があるため、それは客観的ではない。言い換えれば、もしある人が瞑想をして、“私は確かに永遠の魂がある”というような異端的な体験をしたら、それは否定されてしまうであろう。

仏教の瞑想はもともと本質的に強い関係性をもっている人々を対象とし、彼らの心をより機械のように動かしてしまう。“生きとしてけるものに慈悲を与える”という瞑想であっても、その焦点は、この課題に対して心を向ける自分自身の能力に充てられ、慈悲は切り離されたものであることを意味している。瞑想がある一つの対象に集中し他のすべての思考が排除されると、神との関わりを我々に呼びかける良心

の声が沈黙し、代わりに心が離反し孤立を深める方向に向かうのである。

『箴言 18 章 1 節』には、「自分を孤立させる者は、自分の欲望を追求し、すべての賢明な判断に逆らう」と、書かれている。孤立すれば自分の欲望は達成されるかもしれないが、この状況は、美味しい食べ物や親密な交わりを与えてくれる愛情深い両親の世話を拒否して、代わりに森で暮らそうとする子供に喩えられる。食事の提供を拒否し、衣服を着たり、教育の申し出を拒絶したりする…etc.そのような子供は生き延びるのが困難になり、最終的には両親とコミュニケーションをとる能力さえも失ってしまうであろう。聖書における瞑想とは、神の律法とご性質を考察し、神とともに時を過ごすことを意味している。神がご自分の子供たちを“養い”コミュニケーションをとられ、人生の重荷を取り去られ、知恵を授けてくださるという関係性のプロセスである。

科学

これは釈迦牟尼仏陀の全知に対する主張(或いは彼を代弁した『パーリ聖典』の主張)を浮き彫りにする話題である。事実が記された書としてのパーリ聖典はどの程度信頼できるものなのか?もし釈迦牟尼仏陀が直接または間接的にこれらの書物を触発しなかったとしたら、真理を測る基準はどこにあるのだろうか?そして、もしパーリ聖典が仏陀によって触発されたと主張するならば、何故これほど多くの事実誤認を含んでいるのだろうか?もしパーリ聖典が真理と誤謬の混合物であるなら、その教えに自分の運命を委ねることは良薬と有害な薬の両方を処方する医者に自分自身委ねるようなものであり…まさにギャンブルである。この科学セクションの経典の引用は全てパーリ聖典からのものであり、その解説ではない。

ディガ・ニカーヤ(『仏陀の対話Ⅲ』;137~139)には、仏陀または転輪王になるべき人物の 32 の印(しるし)が列挙されている。それらの中で、歯が 40 本であること(なんと赤ん坊の時に!━そのような評価がなされる時期『仏陀の対話Ⅱ』; pp13~18)と、書かれている。通常、子供の歯はその半分の 20 本しかない。成人した大人には合計 32 本の歯があり(ホッケーをあまりしなかったと仮定して)、4 本の親不知歯を抜いた場合は 28 本である。大人の顎に 8 本の余分な歯をはめ込むのはかなりの偉業だが、赤ん坊の顎に 20 本の余分な歯をはめ込むというのは、顎の大きさ的にも信用的にも本当に大変なことなのである!

32 の印のうち、もう一つは、転輪王または仏陀は広く長い舌を持っている必要があるいうことである。では、どの程度の大きさなのか?『マッジマ・ニカーヤ(中観)MLSⅡ』では、セーラと呼ばれたバラモン僧が仏陀に会いに来て、彼にある 32 の印を探した…「そのとき、王はご自分の舌を突き出され両耳を前後方に撫で回され、それからその舌で両鼻孔を前後方に撫で回され、額の全体を舌で覆われた」

(335)。なんとまぁ…驚いた!仏陀像には様々な表情と様々な姿勢のものが数多あるが、私は彼のこの様な解剖学的な側面を際立たせた仏像を見たことがなく、しかもこれは正典の権威によって認められているものなのだ。

地震の原因に関するアーナンダの質問に答えて(『増支部』Ⅳ;pp.208‐210)仏陀は 8 つの理由を挙げている。最初は地球の構造に関するごく自然な説明だが、続く 7 つの理由では、様々な“悟りを開いた者”が記念碑的な偉業を達成すると、地球は震えながら反応すると仏陀は述べている。最初の地震の理由では、我々は彼の言うことと、地球の構造と地震の原因に関する現代科学の知識との間には、幾つかの本当の相違があることを見る:「アーナンダ、この大いなる地球は水の上にあり、水は風の上にあり、風は宇宙のなかに存在しているのだから、大きな風が吹けば、水を震わせ、水の震動は地球を震わせる。アーナンダよ、これこそ大地震が顕現する第一の原因、第一の理由である」。

この例と以下の幾つかの例は“物事の実相”(仏陀が与えると主張する洞察力)との対応関係がないことを示している。これらは単なる奇蹟の事例ではなく、それらの証拠に基づいて是とするか非とするか個別に検討する必要がある。むしろ、現代的で議論の余地のない世界の知識(例えば大陸の配置、最も高い山の高さ、海の大きさ… etc.)と照らし合わせて検証できる“現実の主張”の例なのである。

『仏陀との対話Ⅲ』には、8 万歳まで生きた人類の祖先が、様々な悪行を経て次第に寿命を縮められ、僅か 10 年になってしまったという記述がある。その当時、これらの人々は 5 歳で結婚し、少なくとも 9 歳かそれ以前までに子供を妊娠したであろうと推定されている(9 歳では既に老化が始まっているため)。この経典に於いて、これらの人間は猿ではなくハッキリと人間と呼ばれている。そして、倫理的な生活が増えるに伴い、人間は再び寿命を延ばすと言われている。もしこの語が寓話に過ぎないのであれば、なぜこの経典では、よく知られた都市がこの歴史/預言の一部であるとしているのだろうか?:「そのような人間のなかで、我々の時代のベナレスはケトゥマティと名付けられるだろう…」(73)。また、もしこれが寓話的であるなら、人間の寿命が 8 万年に戻ったときに現れるとされる未来の仏陀メッテーヤの予言もそうだということになる。

“誤りに陥ることができない”者の口から出た別の“現実の主張”(『仏陀との対話 Ⅲ』25)のなかで仏陀は、大海原には 100~500 ヨージャナ(由旬:古代インドにおける長さの単位)の長さの魚がいると言っている:

「そしてまた、僧侶たちよ、大海は偉大な生き物の住処である。これらの生き物は,

:ティミ、ティミンガーラ、ティミティミンガーラ、アスーラ、ナーガ、ガンダーバである。大海の中には 100 ヨージャナ(長さ)の個体生物がいて、200…300…

400…500 ヨージャナ(長さ)の個体生物がいるのだ」(『規律の書Ⅴ』333)。

パーリ語テキスト協会辞書によると、1 ヨージャナは 7 マイルに相当すると言われている。つまり、500 ヨージャナの魚は 3500 マイルの長さになる。この距離がアメリカ合衆国の幅(西から東まで)よりも約 700 マイル長いことを考えれば、これは途方もない話である!また、世界の海で最も深い部分は約7マイルで、平均的な深さ

は約 3 マイルであることから、これは全く釣り合いがとれない魚だと言える。

霊的領域であろうと物理的領域であろうと、物事を“ありのまま”に表現する全知全能の人なのだから、彼が身体の病気を診断し、適切な治療法を処方することが出来てもおかしくはないように思えるのだが。しかし、『規律の書第四巻』には、仏陀知識が現代の水準に達していないこと、ましてや全知全能でないことを端的に示す語が幾つも出てくる。その一例として、仏陀が豚の生肉を食べ生き血を飲むことを肯定している:「その時、ある僧侶が(原文のまま訳す→)人間以外の病気に罹っていた。教師と訓戒師らは彼を看護したが、回復させることはできなかった。彼は豚の屠殺場に行き生肉を食べ、生き血を飲んだところ、彼の人間以外の苦痛は治まった。彼らはこのことを王に報告しました。彼は言った:“僧侶たちよ、私はある者が人間以外の苦痛を持つときには、生肉と生き血を許そう” 」(274)。

ここで言う“人間以外の苦痛”とは、この行についての脚注で指摘されているように、悪魔の憑依を指している可能性がある。仏陀が認めた治療法は“人ならざる”霊 (悪魔)を生身の肉と血に溺れさせることである。これが実際に賢明な方法となるような病気があるのだろうか?なぜ仏陀は、イエス・キリストがよく行ったように、このような邪まな抑圧者を追い出さなかったのであろうか?また、イエス・キリストの癒しがしばしば“直ちに”という言葉を用いて表現されたミニストリーとは対照的に、仏陀は様々な治療法を許可し、その後にしばしば“彼は良くならなかった”

(278~279)という言葉を用いて表現されているのだ。この様な出来事に続いて、仏陀が適切な治療法を持たないことを示す別の一節がある:

「“僧侶たちよ、私は痛むところを覆うために一枚の布を許可する”。 痛みは痒くなった。“僧侶たちよ、それには辛子粉を振りかけることを許可する”。 痛みは化膿した。“僧侶たちよ、それを燻蒸することを許可する” 傷の腫れた肉がめくれ上がった。“僧侶たちよ、塩の結晶の破片でそれを切り取ることを許可する”。傷の痛みが癒されることはなかった」(279)。

誰かが物理的な現実についてあまりにも無知であるとき、我々は、遥かに重々し

く、永遠に重要な霊的な現実について、その人を信頼すべきなのか?

最後に、進化論は仏教と非常によく一致しているように見える(創造主は必要なし)からといって、仏教が科学的であることを意味するのであろうか?仏陀は究極の人類の起源を説明せず、起源について推測することは人生において無駄な試みの一つであると述べた(そのような推測は涅槃に繋がらないため)。しかし、もし造物主がいないとしたら、もし全てのものがランダムに、突然変異で、非人格的な偶然によって生まれたとしたら、我々の世界に倫理(或いはカルマの正義)や美しさがあると期待できるのであろうか?進化論と仏教との間に一貫性がないことは別として、もっと根本的な問題がある━進化論は依然として理論であり━ダーウィンによる“発見”から何年経過しても、進化を証明するものは増えるどころか、減っているのだ。例えば、猿から人間に至るまでの有名なラインアップは、でっち上げだったり、完全に猿であったり、完全に人間であることが明らかにされている。ミッシングリンクは依然として見つかっていないwww.answersingenesis.orgいうウェブサイトには、博士号を持つ創造科学者が、この世界の創造主を支持する証拠を提示する記事、オーディオ、及びビデオが掲載されている。進化論的思考で育った人にとって、造物主は“非科学的”に聞こえるかも知れないが、公正な検証なくしてこの証拠を却下することは、それ自体が非科学的なことである。我々はそれが同年代の意見であるとか、人生における倫理的嗜好に合致しているというだけで、何かを受け入れるべきだろうか?客観的な人間であれば、たとえそれが神への道を意味したものであっても、それが導く証拠に進んで従うであろう。

ジャータカ物語(543)では、創造主に関して質問が投げかけられている:「なぜ彼の被造物は皆、苦痛を背負っているのか?なぜ彼はすべての者に幸福を与えないのか?(中略)」(ジョーンズ 144)。仏教における不可知論/無神論と自己努力の協調は、人類の為に独自の管轄権を主張している。この世において非常に明白な苦しみは、しばしば愛に満ちた力強い神を拒絶する理由として挙げられる。聖書のヨブ記は、この世の明らかな不正の問題を取り扱っている。人は自分の置かれた状況に判断を下すことで、その状況について知り得ることを全て知っていると思い込んでしまう。ヨブも同様の不満を抱いていた。何故なら彼の視点からは、自分が直面していることに正義を見出せなかったからである。それに応じられ、神はヨブに四つの章に相当する質問をされたが(『ヨブ記 38 章~41 章』)、それはヨブにとって自分の知識が実際、如何に限られたものであったかを思い知らせるものだった。神の審判の席に就くということは、我々の有限な視点に基づいて何が正しいかを知ろうとすることである。創造主が未だ考慮しておられなかった知識を、そのような人が持つというのであろうか?この世の虚栄心は、我々だけで問題を処理できると思い込むのではなく、方向性と刷新を求めて我らの創造主に向かわせるべきである。イエスは弟子たちに神の御前にへりくだることの必要性を説かれた:すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」『マタイによる福音書 18 章 2 節~3 節(口語訳)』。我々がこの世でよく目にするものは、往々にして不公平な

ものばかりである━不正な繁栄、“罪のない”人々が困難に直面している…etc.

しかし我々は、神が世界を正義で裁く審判の日を含む、永遠の視点を知る必要がある。仏教に於いては、神が存在するかどうかという問題は、無駄な哲学的思索の範疇に置かれている━というのも、この問いかけは、人々が涅槃を通して苦しみを終わらせるのに役立たないからであろう。幸いなことに、神を知ったからといって涅槃(無我の境地)には至らない。また、仏陀は全知全能ではないので、何が価値ある探究に値し何が価値ない探究であるかについて、彼の推測を信用することは到底お勧めできない。我々の家の電化製品がうまく機能していない場合、取扱説明書をめくったり、その電化製品のメーカーに電話したりする。それと同様に、我々を創造された神は、人生のジレンマに対する答えをお持ちなのである。

締め括りこのように仏教を分かり易く見てみると、仏教を旅に喩えるなら、ロ-ドマップには既知の虚偽の主張が含まれ、もはやこの旅の“発見者”は手助けを提供することもできず、そして最終的には、目的地に到着すると消滅してしまうような旅になるのではないか。仏教は魅力的なシステムだが、それは人を愛する神から遠ざけ、朽ちることのない永遠の生命から遠ざけ、その結果、我らが造られた目的、つまり━罪を洗い流し創造主と関わる人生━“それを獲得する”ことによらず、主イエス・キリストが十字架の上で我々の罪をご自分の身に請け負ってくださった、このことによって可能になったものから我々を遠ざける道を案内する。このことを拒否することは、天国へ至る真のロードマップや旅の手助け、そして我々を裏切らないガイドをも拒否することである。このことを認め受け入れることは、我々の創造主との信頼関係を始めることなのである。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである」『ヨハネによる福音書 3 章 16 節~18 節(口語訳)』。

参考文献(References)

Childers, R.C. (1979). A Dictionary of the Pali Language. New Delhi: Cosmo Publications. Gogerly, D.J. (1885). The Kristiyani Prajnapti or The Evidences and Doctrines of the Christian Religion in three parts. Colombo: Christian Vernacular Education Society. Herman, A.L. (1996). Two Dogmas of Buddhism. In Pali Buddhism Hoffman, F.J., Mahinda, D. (Eds.) Surrey: Curzon Press.

Jones, J.G. (1979). Tales and Teachings of the Buddha: The Jataka Stories in relation to the Pali Canon. London: George Allen & Unwin.

Keown, D. (2000). Buddhism: A very short introduction. Oxford: Oxford University Press.

Odzer, C. (1998). Abortion and Prostitution in Bangkok. In Buddhism and Abortion. 

Keown, D. (Ed.). Great Britain: Macmillan Press Ltd.

Rahula, W. (1999). What the Buddha Taught. Bangkok: Haw Trai Foundation.

Rhys Davids, T.W. & Stede, W. (1966). The Pali Text Society’s Pali-English Dictionary. 

London: Luzac & Company, Ltd.

The Debate of King Milinda: An Abridgement of The Milinda Panha. (1998) Pesala, B.

(Ed.) Delhi: Motilal Banarsidass Publishers Pte. Ltd.

The Holy Bible: New King James Version (1991 printing). Nashville: Thomas Nelson Inc.

The Pali Canon: Pali Text Society Version. Abbreviations of Pali Text Society books, with

Pali titles in parentheses: V = Book of Discipline (Vinaya Pitaka); GS = Gradual Sayings

(Anguttara Nikaya); D = Dialogues of the Buddha (Digha Nikaya); KS = Kindred Sayings (Samyutta Nikaya); MLS = Middle Length Sayings (Majjhima Nikaya); JS(S) = Jataka Stories (Jataka).

Trimondi, V. & Trimondi, V. (1999) Der Schatten des Dalai Lama: Sexualitaet, Magie und Politik im tibetischen Buddhismus. Duesseldorf: Patmos- Verlag.

Vajiranana, P. (1987). Buddhist Meditation in Theory and Practice: A General Exposition According to the Pali Canon of the Theravada School. Kuala Lumpur: Buddhist Missionary Society.