The Parable of the Wedding Feast - Japanese

結婚披露宴のたとえ

ジェイコブ・プラッシュ

『イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、』

――良い人でも悪い人でも集めたということは興味深いことです

『宴会場は客でいっぱいになった。ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『{友よ。}あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」』(マタイ 22 章 1 節-14 節)

この御国のたとえを理解するために、まずイエスの時代のユダヤ的な結婚の伝統を理解する必要があります。ユダヤ教においてイエスの時代は“第二神殿期”と呼ばれます。イエスの時代の結婚には三つの段階がありました。聖書本文に対する歴史的・文化的背景を見ることは、ドイツ語で“シツ・イム・レベン(Sitz im Leben)”と呼ばれることを見ることです。これは当時の状況での生活環境を見るという意味です。これをしない限り、私たちはイエスさまの語られていたことを理解することはできません。ユダヤ人の結婚は三つの段階から成っていました。

婚約・婚礼・成立

この三つの段階すべてが、結婚を有効にするために重要なものでした。結婚が有効なものとなるためにこの三つすべてが完成されなくてはならなかったのです。

このことは、マリアが永久に処女であったとするローマ・カトリックの教理的帰結と真っ向から反対します。ヨセフとマリアが性的に成立していない結婚生活を送っていたとすると、ユダヤ法によれば法的に結婚していないことになります。もしそうであるならば実質的にイエスが非嫡出子(正式な結婚をしていない関係で生まれた子ども)として育ったと言っていることになります。これはイエスとその地上での両親をいかに侮辱することでしょうか。しかしそれがローマ・カトリック教会の教えなのです。しかしながら、それは新約聖書の教えではありません。

婚約

婚約は現代の婚約とは異なっていました。私たちが婚約と呼ぶものと違い、古代ユダヤ人の婚約は法律的に拘束力があるものでした。これに最も近いものはここアメリカのいくつかの州――ほんとうに数は少ないですが――に見られるもので、ある人が正当な理由無しに婚約を破棄すると、民事裁判において契約破棄で訴えられるというものです。しかしこの婚約はそれをはるかにしのいでいました。婚約とはそのカップルがすでに法的に結婚したというものでした。それは私たちが考えるような単なる誓約ではなく、その人が法的に結婚したということを意味していたのです。婚約は契約上のものであり、法的な事柄でした。

古代中近東からの慣習を引き継いだ同じような契約は、“宗主権(suzerainty)”と呼ばれるものです。“宗主権”の慣習の中では、交わりの食事において印が押される契約があり、何らかの血を流すことによって契約が成立します。このために最後の晩餐においてイエスは

『これは、わたしの契約の血です』と言われたのです(マタイ 26 章 28 節、マルコ 14 章

24 節、ルカ 22 章 20 節)。イエスは古代中近東の“宗主権”の儀式に従っていました。彼は文字通り契約を“切る(ヘブライ語で契約を成立させること)”と言ったことでしょう。このように婚約が最初の段階であり、(私たちの婚約とは全く違い)これによって法律的な目的のために法的に結婚したのです。実際、当時作成されていた契約書は“ケトゥバー

(ketubah)”と呼ばれていました。

しかしその後、花婿はおよそ一年の間、花嫁から身を遠ざけました。このような結婚は大

抵、過越の祭りのあたりの春の時期に行われました。いつもそうであるとはいえませんが、

大抵がそうでした。その時期が一年で最も一般的な婚約の時期でした。花婿はおよそ一年の間身を遠ざけ、自分の父の家の離れを造ることになっていたのです。花婿は自分が戻る正確な日にちを知りませんでしたが、およそ一年で戻れるということを知っていました。父親が仕事の出来を調べて、「今行って来なさい」と彼に言ったことでしょう。父親はその時を知っていましたが、息子は知らなかったのです。息子は自分が戻れる正確な日を知りませんでしたが、およそ一年の期間だと知っていました。花婿が正確な日にちを知らないため、花嫁もそれを知りませんでした。花嫁はただ二つのことだけを知っていました。戻るのがおよそ一年であること。そして二つ目は、花婿が戻るのが夜になるということです。花婿はきまって夜に来ました。花嫁は眠りに入り、花婿が今夜戻って来るか、明日の夜になるかを知りませんでした。これが雅歌の背景です。花婿が戻って来るのは今夜でしょうか?

夜は、聖書の中で大患難とその近づきに関する最もよく用いられる比喩です。世の終わりには暗やみが襲ってきます。このため聖書は

  • 『夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。』(イザヤ 21 章 11 節)

  • 『主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても』(ルカ 12 章 38 節)

  • 『主の日が夜中の盗人のように来る』(1テサロニケ 5 章 2 節、黙示録 16 章 15 節)

  • 『わざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます』(ヨハネ 9 章 4 節)

  • 雅歌においても、花婿は花嫁に会いに夜にやって来ます(雅歌 5 章 2 節)

  • マタイ 25 章においても、花婿は夜にやって来ます(マタイ 25 章 6 節)

このように語っているのです。

イエスさまが来られる直前の世の終わりはとても暗くなります。この世は大患難を経験しますが、イエスさまはそこからご自分の花嫁を救い出されます。

婚礼

花婿は一年間身を遠ざけ、一年のうちに婚礼のために戻ってきます。婚礼は儀式であり、証人たちの前で“ケトゥバー”が読み上げられる式典でした。そのようなものが婚礼です。従って、最初に婚約がなされ、その一年後に婚礼が持たれたのです。

古代ユダヤ人にとっての婚礼は、私たちが慣れ親しんでいるものと同じではありませんで

した。婚礼は数日間続く宴会でした。婚礼の過程のある時点で、花嫁と花婿は結婚を成立

させたことでしょう。これが第三の段階、言うまでもなく――肉体的なものであり、性的なことを指します。

結婚がユダヤ法によって有効となるために、この三つの段階すべてが必要でした。婚約と婚礼、そして性的な成立です。一方、この三つが契約という観点において、それぞれ役割を持ちます。婚約は契約が開始されるときであり、婚礼は招集されるとき――証人たちが結婚の結合に招かれるときです。(これらは雅歌のソロモンとシュラムの女との恋愛に登場する証人たちと関連していて、天の万軍(1列王記 22 章 19 節)を反映しています)

成立

“成立(Consummation)”とはとても訳しにくい言葉です。より良い言葉を望むなら、“結合”と訳したらよいでしょうか。しかしこれはヘブライ語の“アハドゥート(achdut)”―

―“複数からなるひとつ”を訳そうとする私の最善の努力にすぎません。イエスが最も大切な戒めが何かを尋ねられたとき、『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である』(マルコ 12 章 29 節)――「シェマー イスラエル アドナイ エロヘイヌ アドナイ エハッド(echad)」と言われました(申命記 6 章 4 節より)。アハドゥートの由来の元であるこの“エハッド”という言葉は、アダムとエバが一体になるときに使われたのと同じ言葉です(創世記 2 章 24 節)。結婚を成立させるときに使われるヘブライ語の慣用

句は「そして彼は彼女のところに入った」というものです(創世記 29 章 30 節)。ひとりの人がもうひとりの中に入り、第三の人が生み出されます。そこではひとりが三人であり、また三人がひとりになっています。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて』(創世記 1 章 26 節)このように、結婚を成立させる行為と三人目が生み出されることは、神の位格の永遠の一致、また複合体の一致を反映すべきものなのです。(これが、神さまが離婚を憎まれるひとつの理由でもあります。クリスチャンの結婚が永遠に続くことは神の位格における永遠の結合を証明すべきものです。私たちは神の御姿に似せて造られています)これが“アハドゥート”です。

まとめると、結婚には契約が開始される婚約があり、それは契約であり、法的なものでした。そして一年後、招集が行われる場所で婚礼が開かれます。これは証人たちが“ケトゥバー(結婚契約書)”を読み上げる儀式、式典でした。そして第三に肉体的・性的である―

―成立は神の御姿が再現され、反映されるときでした。

終末的な意味

これらは終末論的に非常に重要なものです。“婚約”はキリストの初臨(最初の到来)です。

“婚礼”――小羊の婚宴は再臨です。“成立”は花嫁が下って来て、夫のために着飾っている黙示録の箇所と関連しています(黙示録 21 章 2 節)。この箇所は神の民が天で持つことになる永遠の神との親密性について語っています。

このように“婚約”はイエスの初臨と関連しており、“婚礼”はイエスの再臨、“成立”は永遠と関連しています。それは黙示録で書かれている主がご自分の花嫁と持たれる親密性に関連しているのです。このすべての段階がイエスの時代のユダヤ人の結婚を形作っていたものでした。これを理解しない限り、イエスさまがそのたとえの中で私たちに語られていることを正確に理解することは出来ません。

ご自分の“兵隊”を出す

最初に読むと、イエスさまは紀元1世紀のこと、招かれていたのに来ようとしなかった者たちについて語っていたのは明らかです。

『この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』(ヨハネ 1 章 11 節-12 節)

大半のユダヤ人が自分たちのメシアを退けました。イエスの初臨においてただ忠実な残りの者だけがイエスを受け入れ、イエスさまは恵みを他の人々に向けられました。

使徒たちとユダヤ人信者らはラビたちに迫害されたので、神はご自分の兵隊を出したと書かれてあるのです。そしてイエスさまとダニエルが予告した勢力である、ローマ人が都を破壊しました(ダニエル 9 章 26-27 節、11 章 31 節、マタイ 24 章 15 節)。ローマ人はち

ょうどイエスさまとダニエルが預言したように、エルサレムを紀元 70 年に滅ぼしました。神殿は破壊されたのです。

これらのことは部分的に1世紀に実現しました。しかし、「ご自分の兵隊を出された」ということを私たちはどのように捉えたら良いのでしょうか。

“ご自分の兵隊”は天使ではありません。“ご自分の兵隊”は人間です。しかしその兵隊が良い人たちであるという意味ではありません。反対にこの“ご自分の兵隊”は全く違ったものを意味します。士師記やイスラエルの歴史全体をさかのぼって見ると、私たちはそこに同じパターンを見出します。神の民が契約を破り、不信仰に陥り、――偶像礼拝や不品

行に陥り、悔い改めず、神が悔い改めを知らせるために遣わした預言者たちを迫害し始め

たとき――神は神の民より悪い人物や国を用いて、彼らを攻められるということです。神さまは完全に異教徒である者でも用いられます。それがときにはペリシテ人、アマレク人であり、後にはアッシリア人を用いて紀元前 721 年に十部族を捕囚にしました。神は紀元

前 585 年にバビロン人を用いましたが、それに先だってアッシリア人を用いていました。

紀元 70 年にはローマ人です。神の“兵隊”は自分の民より悪い者なのです。神は彼らより悪い者たちを用いられます。ペリシテ人、アッシリア人、バビロン人、ローマ人であっても――神さまはいつもそうなされます。一方、ヨエル書で語られていることを見ていきましょう。

『いなご、ばった [他の訳では「群がるいなご、忍び寄るいなご」…NKJV,NASBなど] 、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。』(ヨエル 2 章 25 節)

ヨエルによると、四種類のいなごが存在します。群がるいなご、忍び寄るいなご、食い荒らすいなご、かみつくいなごです。ヨエルはダニエルが獣や猛獣を用いたように、昆虫を用いて表現しました。ヨエルは政治的組織についての象徴や比喩のためにいなごを用いました。ネブカドネザルの支配下にあったバビロン人は四度侵略し、バビロン人が行ったことは、群がり、忍び寄り、食い荒らし、かみつくいなごのようなことでした。計四度の侵略がありました。

一旦民が悔い改めると、神はバビロンを滅ぼされます。ヨエル、イザヤ、エレミヤはみな

「倒れた。バビロンは倒れた!」と語っています(イザヤ 21 章 9 節、エレミヤ 51 章 8 節、

黙示録 14 章 8 節)。バビロンが登場する前であっても、神はバビロンの崩壊を語っていました。言い換えるならば民が悔い改めず、契約を破り、預言者を迫害するとき、神はペリシテ人やアッシリア人、バビロン人、ローマ人でさえ用いられるということです。しかし神が、一旦その者たちを自分の民の懲らしめの道具として用いると、その異教徒たちを滅ぼしてしまわれるのです。彼らの最期は定められています。彼らは自分たちが行っていることに非常に得意になっていますが、最期は定められているのです。神はただ、一時の間、ご自分の民を取り扱う目的で特別に彼らを立たせるにすぎません。神は未信者のことに関心があるのではなく、ご自分の民に関心があるのです。

これがヨエルの軍隊でした。王はご自分の軍隊を遣わすのです。王は民よりも悪い者たちを用います。ユダヤ人たちは神がバビロン人を用いると信じることが出来なかったでしょう。(これがエレミヤ書に書かれていることです)ユダヤ人たちはバビロン人のような異教徒を神が用いられると信じられませんでした。同じように、紀元前 70 年に神がエルサレム

を滅ぼすためにローマ人を用いるなんてことは考えられませんでした。そのようなことが

起こるとは思いもよらなかったのです。「我々は彼らほど悪くはない。彼らは契約の民ではないのだから」

しかし神は言われます。「こうなるのは当然ではないか。彼らはただ――野蛮人――そのままであるだけだ。あなたがたは聖なる民であるはずではないか」

神はより邪悪な者たちを用いられます。一旦預言者たちが迫害されると神はより邪悪な者を立てられます。

これは前 721 年サマリアにおいてアッシリア人に関して起きたことであり、前 585 年エルサレムでバビロン人に関して起きたことです。ユダヤ人がエレミヤなどを迫害し、バビロン人はエルサレムにある第一神殿を滅ぼしました。彼らは神殿を 8 月、およそ 8 月 9 日の

“ティシャー・ベ・アブ(Tisha’ b’Av)”と呼ばれる日に破壊しました。ローマ人たちは第二神殿を紀元 70 年の同じ日――5 世紀後のまた同じ日に第二神殿を破壊しました。一旦、エレミヤが退けられると、バビロン人は第一神殿を破壊しました。一旦、イエスが退けられるとローマ人はその年の同じ日“ティシャー・ベ・アブ”に第二神殿を破壊したのです。この日にラビたちは神殿の崩壊を嘆き、哀歌を朗読します。

バベルの塔(創世記 11 章)をもって始まった神秘宗教――バビロン帝国において絶頂期で

あったものは――特に“ペルガモ(黙示録 2 章 12 節-17 節)”という都市を通ってギリシア・ローマ世界に入りました。従って、イエスの時代にはバビロンはその本拠地をローマの中に見出していたのです。それゆえペテロは手紙の中で『バビロンにいる…婦人がよろしくと言っています』(1ペテロ 5 章 13 節)と書いたのです。ペテロは実際ローマからその手紙を書いていましたが、バビロンからの同じ神秘宗教がそこに来ていたのです。初期のキリスト教徒たちはローマをバビロンと同一視していました。

彼らは同じ日に神殿を破壊しました。言い換えると、前 585 年に起こったことは、再び紀

元 70 年の同じ日に起こったということなのです。神の民が悔い改めようとしないならば、神は彼らよりも悪い者たちを用いられます。そしてこれが1世紀に起こったことであり、ユダヤ人のほとんどが自分たちのメシアを退け、使徒たちを迫害したので神がご自分の兵隊を出され、ローマ人はその都市を崩壊させたのです。

婚礼は間近

『だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』(マタイ 22 章 9

節)

神は異邦人の国々の上に恵みを施されます。それが 1 世紀に起こったことですが、このたとえが第一に語っていることはそれについてではありません。それはこのたとえが部分的に語っていることにすぎません。なぜならその結婚披露宴は間近に迫っているからです。結婚披露宴はこの世の終わりに行われます。これはただイエスさまの最初の到来についてだけではなく、それは繰り返され――再臨においても再び実現することです。婚礼は間近に迫っています。来るべきものは婚約ではなく、婚礼――結婚披露宴であり、祝宴です。「ご返事お願いします」と結婚式の招待が送られてきています。しかし人々は来ようとしませんでした。そこで王は他のしもべたちを遣わし言わせました、『さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました…』第二のしもべたちは単に「どうぞよろしければ」というものへの応答を得るために出て行ったのではありません。彼らは切迫感を持っていました。「婚礼は間近に迫っている――花婿が来ようとしている」これが私たち、またマタイが『御国の福音』(マタイ 4 章 23 節、9 章 35 節、24 章 14 節)と呼んでいるものです。

御国の福音

福音は福音です。神は私たちの罪を取り去りご自身の義を与えるために人となり、永遠の命を与えるために私たちを死者からよみがえらせました。福音は福音です。しかし福音にはさまざまな側面があり、それが宣べ伝えられるときにさまざまな性質を持っています。エペソ 6 章とイザヤ 52 章では“平和の福音”(イザヤ 52 章 7 節、エペソ 6 章 15 節)と書

かれていて、至るところで“救いの福音”(ローマ 1 章 16 節、エペソ 1 章 13 節)と呼ばれています。しかしここでは“御国の福音”と呼ばれていますがそれはどのような意味なのでしょうか?

マタイ 24 章、オリーブ山の訓戒を見てみましょう。弟子たちはイエスに世の終わりとイエスが戻られるときのしるしは何かと尋ね、イエスさまはいろいろなしるしを予告され、その後にこう言われました、

『この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて…』(マタイ 24 章 14 節)

“御国の福音”とは、“御国”のテーマが何度も繰り返されているマタイの福音書で見られるものです。この御国というテーマは他の福音書におけるよりも、マタイで多く登場しています。マタイの“御国の福音”の中でイエスさまは、天について話すよりも3倍多く地獄について話されました。

バプテスマのヨハネは“御国の福音”を宣べ伝えました。『「悔い改めなさい。天の御国が

近づいたから。」』(マタイ 3 章 2 節)

終わりの日に宣べ伝えられるべき、この“御国の福音”とは一体どのようなものなのでしょうか。「花婿がやって来る」それは私たちの伝道において、終わりの時代の預言を用いる時であるということです。

1970 年代に書かれたある本があり(悲惨にもその本の著者は今五度目の結婚に至っていますが――私はもう彼と一緒に教壇に立つことはありません)、その本は『地球最後の日(The Late, Great Planet Earth)』という名の本でした。その本を通して本当に多くの人が救われました。

この本は終わりの時代の預言を単純化し過ぎた本ですが、多くの人がこの本を通して救われました。著者は人を救うために終わりの時代の預言を用いました。終わりの日において私たちが専念すべき伝道の方法は救いの道を知らせるために、イエスの到来――終わりの時代の預言を用いることです。

最初に遣わされたしもべたちは「婚礼に招かれていますよ」と言いました。しかし、婚礼が間近に迫り次に遣わされたしもべたちは、「花婿がやって来る!すべてが整いました!婚礼の祝宴が迫っています!」という切迫感をもって遣わされました。

私が 1970 年代初期に救われたとき、すべての人がイエスの再臨について話していました。

すべての人です!今私たちはキリストの再臨に 40 年近づきましたが、終末論に関する関心は極度に少なくなっています。終わりの日に関しても誰も興味を持っていません。40 年キリストの再臨に近づいたというのに、40 年前より今のほうがイエスの再臨に興味を失っています。この現状自体が一種の欺きです。西洋世界の“キリストのからだ”において悪魔が付くほとんどすべての嘘は、この人生とこの世に注目させるように設計されています。告白の力、御国の繁栄の福音、神の国は今などや、社会的福音、世界 P.E.A.C.E.プランなど――このようなものはすべて、私たちの望みをキリストの再臨に置かせず、この世を信頼させるように設計されています。

しかしイエスさまは「これらのことが起こるのを見たなら」と言われましたが――今私たちはこのことを目撃しているのです!かつてローマ帝国だった国々は非民主主義のヨーロッパに再編され、エキュメニカル運動(世界連合の偽りの宗教であるローマの下に集まること)があり、黙示録に『地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時』(黙示録 11 章 17 節)とある

ように環境破壊が起こっていて、聖書中で世界情勢の中心であった国々が再び世界情勢の

中心に返り咲いています。これらのことはすべてイエスの再臨を指し示すことです。現代のこの状況のようになったことはかつて一度もありませんでした。ユダヤ人たちは約2千年間あの地に存在しませんでしたが、今イエスさまの言われた通りにそこにいます。そして彼らは再びキリストの元に立ち返りつつあります。これらのことはかつては実現しませんでしたが、終わりの日に実現することだと聖書が告げているのです。

人々はなぜナンシー・レーガン(米レーガン元大統領の夫人)のようなことをするのでしょうか?彼女は占星術師のもとへ足しげく通い、自分の夫が大統領である時期にどう国を動かすかを告げていました。なぜ人々はナンシー・レーガンのように占星術師のもとへ行くのでしょうか?なぜ人は星占いやタロットカードを読んだりするのでしょうか?なぜでしょう。それは彼らが未来を知りたいからです。未信者は未来についての好奇心を持っています。ですが私たちは未来を知っています。私たちは教会が最終的にどうなるかを知っており、世界の国々がどうなるか、中東情勢がどうなるか、この地球がどうなるかを知っています。私たちは未来を知っているのです。そして、イエスの再臨に近づけば近づくほど、私たちはより明らかに――少なくとも忠実なクリスチャンはより明らかにそのことを理解します。

私たちは人々の必要とするものを知っています!人に福音を伝えるために終わりの時代の預言を用いるべきなのです。「ほら、今中東で起こっていることを知っているかい?イラクで何が起こっているかを。それは聖書の中のバビロンなんだ。今アメリカ軍がそこにいるだろう。イエスさまの言ったことを見てごらん。『異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます』(ルカ 21 章 24 節)ゼカリヤ書ではすべての国々が終わりの日

にイスラエルに対して向かってくると書いてあるんだ(ゼカリヤ 12 章 3 節)。ほらここに!」

中国の天安門広場で8千人の学生が殺されるのを世界の 20 億人が目撃しました。ですが、国連は中国に対してひとつの決議も通過させませんでした。イスラム教徒はスーダンとダルフールで 11 年間のうちに 330 万人のキリスト教徒を殺害しましたが、彼らに対して何の決議もひとつの不買運動さえも国連からはなされませんでした。しかし国連の半分以上の不買運動がイスラエルに対してのものです。D・ジェームズ・ケネディー(米長老派のテレビ伝道者)のようなクリスチャンたちでさえも、イスラエルに敵対するように同胞に教えています。彼らはアラブ系キリスト教徒を迫害するイスラム教国に敵対せずに、アラブ系キリスト教徒の権利を保護しているイスラエルに敵対しろと言っているのです。このようなことが教会の中で教えられています。これらのことは預言の成就です。

未信者に世界情勢を見てもらいましょう。イラクに関心が無い人はいるでしょうか?中東

はどうでしょう?環境問題はどうでしょう?世界経済のグローバル化はどうでしょうか?

私たちはこのようなことを伝道のために使うのです。(日本の若者でさえも北朝鮮や中国の核兵器入手を知っていますが、それも「主の日」を示す事柄です)

切迫感

第二のグループはその呼び掛けの強調点が違っていました。それは同じ婚礼で、同じ招きですが、切迫感をもって伝えられました。預言が成就しているのを見る時、私たちがすべきことはイエスさまが言われた通りにそれが近いと告げることです。さて、イエスさまが何かをしなさいと言われたなら、サタンはクリスチャンにそれをしてほしくないことは確かです。イエスさまが何かをしなさいと言われるとサタンは反対に「それをするな」と言うのです。

この国(アメリカ)にはバプテスト派の素晴らしい説教者たちがいます。次の人を好きであろうとなかろうと――私はこの人が完全と言っているのではなく、ただ神の人だと言っているのですが――ジョン・マッカーサー(米のマスターズ神学校校長)なら、現代の中東情勢が預言を成就していると言ってくれるでしょう。彼は知っています。

バプテスト派の中でもジョン・パイパー(米ミネソタ州の牧師)のような人たちは「いいえ、それは違います」と言うでしょう。

このような人は欺かれています。中東での出来事はキリストの再臨のしるしです。ですが、サタンはそれがキリストの再臨のしるしであると誰にも気付いてほしくありません。クリスチャンたちにそれをしるしだと分からせたくないのです。サタンはクリスチャンたちに花婿の到来に備えてほしくはありません。そして確かに言えることは、福音を効果的に伝えることを彼は良しと思っていないのです。

私をとても恐れさせているものがあります。“ハイライト&削除・カット&ペースト”という新しい聖書解釈、新しい解釈のやり方です。エホバの証人でもこのような尊大な行為はしないのに、『人生を導く5つの目的』を著したリック・ウォレンは実際にこれを教えています。

これは驚くべきことです。シリア人がレバノンのキリスト教指導者ピエール・ジュマイエル(Pierre Gemayel レバノン首相)を暗殺した時でさえ、リック・ウォレンはシリアに向かい、イスラエルにミサイルを撃ち込み、クリスチャンたちを殺害しているヒズボラを援助する政治体制を賛美し、シリア人は非常に素晴らしいと語りました。これがウォレン

氏です。そして彼は戻って来て、自分を非難する者は政治的な福音を望んでいる者だと語

りました。ですが、彼はシリア人にイエスの救いを宣べ伝えずに、ただそこにいた時に政治を宣べ伝えていただけなのです。これは信じ難いことです。

一方彼は――これは出版され、彼のウェブサイトに載せてありますが――終わりの時代の預言から遠ざかるように教え、それが脇へ反らせるものだと言っています。終わりの時代の預言は彼にとって、“脇へ反らせるもの”なのです。そして彼の証拠箇所は使徒 1 章 6 節です。彼が言ったことを私はそのまま引用しますが、「あなたの来られる時や世の終わりにはどんな前兆があるのでしょうと聞かれた時、彼は言われた。『いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。わたしの証人となります』」このようなものです。

それではこの箇所が本当に語っていることを見てみましょう。使徒の働きには

『そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。

「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」

イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。』(使徒 1 章 6 節-7 節)

弟子たちはリック・ウォレンが誤って引用しているようにイエスに対して「あなたの来られる時や世の終わりにはどんな前兆があるのですが」とは聞きませんでした。彼らは『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか』と聞いたのです。

彼らはユダヤ人で、使徒たちはユダヤ人でした。したがって彼らは単に「いつイスラエルのために王国を再建してくださるのですか」とイエスに聞いていたのです。

メシアはダビデの家、ダビデの王座を再建する必要がありました(アモス 9 章 11 節、使徒

15 章 15 節-18 節)。彼らは「旧約聖書の預言の残りをいつ成就されるのですか。ダビデ王の家系をいつ再興されるのですか」と聞いていました。

彼らは千年王国がいつ来るのかと尋ねていました。千年王国は不可欠のものです。イエスさまは最初の到来において旧約聖書の預言をすべて成就はしませんでした。まだダビデの家に対してなされた約束を成就しなければなりません。もし千年王国が無ければ、イエス

はメシアではありえません。彼はそれについての預言を成就していないからです。彼は残

りの預言も成就しなければなりません。

ひとりのメシア ふたつの到来

ユダヤ教ではメシアのふたつのイメージがあります。“ヨセフの子なるメシア”と“ダビデの子なるメシア”――“ハマシアハ・ベン・ヨセフ”と“ハマシアハ・ベン・ダヴィード”です。ラビたちは創世記に出てくるヨセフとダビデ王のどちらもがメシアの象徴だと語っています。そしてあるラビたちは、ふたりの異なるメシアがいると言います。ひとりはヨセフの性質を持つ者であり、もうひとりはダビデの性質を持つ者です。

創世記に登場するヨセフは、自分のユダヤ人の兄弟たちに裏切られ、異邦人の手へと渡されました。神はその裏切りを好転させ、全イスラエル、全世界が救われる道とされました。

その同じヨセフはふたりの犯罪人と共に判決を受けました。ヨセフが預言した通りに、ひとりは生き、ひとりは死にました。イエスはふたりの犯罪にと共に判決を受け、彼が預言したように、ひとりは生き、ひとりは死にました。

ヨセフは罪の宣告を受ける場所から、栄誉を受ける場所へ 1 日の間に移されました。イエ

スもまた罪の宣告を受ける場所から、栄誉を受ける場所へ 1 日の間に移されました。

ヨセフに向かって全てのひざはかがまなければなりませんでした。イエスに向かっても全てのひざはかがみます。

栄誉を受けた時に、ヨセフは異邦人の花嫁をめとりました。栄誉を受けるにあたって、ヨセフの子であるイエスも、言うなれば教会である異邦人の花嫁をめとりました。

ヨセフの兄弟たちはヨセフが穴の中にいないことを証明するために、彼の長服を持ち帰りました。弟子たちも、イエスさまが墓の中にいないことを証明するため埋葬布を取りました。

ヨセフは兄弟の“イェフダ”――“ユダ”によって銀貨 20 枚で裏切られました。イエスも

また“イェフダ”――“ユダ”によって銀貨 30 枚で裏切られました。

ユダヤ人であるヨセフの兄弟たちは最初ヨセフに会った時に気付かず、二度目に彼に会った時に気付き、激しく泣きました。同じようにゼカリヤ 12 章ではユダヤ人であるイエスの

兄弟たちが最初の到来では彼に気付かず、二度目の到来で気付き、激しく泣くとあります。

これが“ヨセフの子なるメシア”、ユダヤ教における“苦しみを受けるしもべ”です。しかしこの次には、ダビデの性質を持ち、神の支配と征服をもたらす“ダビデの子なるメシア”が現われます。使徒 1 章 6 節で使徒たちが尋ねていたのは『私たちはあなたが“ヨセフの子”であることを知っています。ですがいつ“ダビデの子”になられるのですか?いつ“征服する王”になられるのですか?』ということでした。イエスがメシアであるためには、旧約聖書の預言全てを成就する必要がありました。“ヨセフの子”の預言と“ダビデの子”の預言です。

最初の到来において、イエスは“苦しみを受けるしもべ”として、“ヨセフの子”を成就しました。再臨において彼は千年王国を建て上げ、ダビデへの約束を確立させます。もし千年王国が存在しなければ、イエスはメシアではありません。もし“イェシュア”がメシアでなければ、彼はキリストでもありません。無千年王国説や後千年王国説などのくだらないものは忘れてください。それらは初期のローマ・カトリックが作り上げたものです。それはコンスタンティヌス大帝の後に力を得ました。コンスタンティヌス大帝がローマ帝国を間違った方法でキリスト教化した後、ローマ帝国は千年王国を霊的なものとして片づけてしまわなくてはなりませんでした。一方、初期のクリスチャンたちは千年王国を信じていたのです。イエスは残りの預言を成就しなければなりません。

従って、彼らが使徒 1 章 6 節で尋ねていたのは「国を再興してくださるのはこの時ですか?」ということなのです。御国が教会のために再興されることは決してありません――ただイスラエルのためです。イエスの御国はこの世のものではないのです(ヨハネ 18 章 39 節)。イエスはただイスラエルのために国を再興されます。これが彼らの尋ねていたことなのです。

カット&ペースト神学

それではリック・ウォレンの行ったことをみんなでやってみましょう。使徒 1 章がパソコ

ンのスクリーン上にあると想像してください。マウスを動かして、第 6 節をハイライトし

て、削除してください。そして次にマタイ 24 章 3 節から 4 節に移ると

『イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。』(マタイ 24 章 3 節

-4 節)

イエスさまの口から出た第一声は、欺きに注意しなさいということであり、注意をすべき事柄を多く挙げていきました。その第 3 節をハイライトして、使徒 1 章 6 節の上にカット

&ペーストしてください。実際、リック・ウォレンが行っていたことはマタイ 24 章から第

3 節を取り、使徒 1 章 6 節と置き換えていたということなのです。そして、そうした後、終わりの時代の預言を学ぶな、それから離れなさい、脇道へ反らせるものだからと教えているのです。エホバの証人でさえ、神のことばに関してそのような離れ技をする大胆さは持ち合わせていないのに、リック・ウォレンはそのようなことを行っているのです!

私を恐れさせることは、いかに多くの牧師がこのくだらないものを教え、リック・ウォレンとその世界的な P. E. A.C.E.プランに耳を傾けているかということです。平和ですって?平和の君が戻って来られるまで平和というものは存在しません。私たちは戦争や、戦争のうわさを聞くようになります(マタイ 24 章 6 節)。これは私たちが平和のために働くべきではないと言っているのではありません。しかし、世界的な平和を教会がもたらすと考えるのはどうしたものでしょう?それは聖書の教えることではありません。加えて、神のピースプランは福音です。『足には平和の福音の備えをはきなさい』(エペソ 6 章 15 節)。

イザヤは『良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え』る者の足はと語っています(イザヤ 52 章 7 節)。

リック・ウォレンの P. E. A.C.E.プランには伝道(evangelism)は含まれていません。頭文字の中にふたつの“E”があるにも関わらずです。彼は自分自身のピースプランを持ち、それがどういうわけかキリスト教的なものだと考えられています。この種の欺きこそが終わりの時代において、私たちが注意するように言われているものなのです。にせキリストは『できれば選民をも惑わそうと』するのです(マタイ 24 章 24 節)。

イエスは「御国の福音を宣べ伝えなさい」と言われました(マタイ 24 章 14 節参照)。終わりの時代の預言を用いましょう。花婿が来つつあることを人々に知らせましょう。子羊の結婚披露宴の招待状がここにあります。時間は迫っていて、もういくばくもなくイエスは来ようとしています。これが私たちが取るべき伝道の方法です。しかし、これがイエスさまの言われた伝道の方法であるがために、サタンは教会の中にメッセンジャーを使わし、違ったメッセージを持って欺こうとします。私たちはパーパス・ドリブンを信じるか、新約聖書を信じるかどちらかであり、両方ともを信じることはできません。イエスさまに同意するか、リック・ウォレンに同意するかどちらかなのです。ですが、両方に同意することはできません。

それぞれの道へ出て行ってしまった

イエスさまは私たちに何を語っておられるのでしょうか?彼はしもべたちを遣わし、披露宴が近いことを告げました。

『ところが、彼らは気にもかけず…』(マタイ 22 章 5 節)

イエスさまが戻って来られる前に私たちが目撃することになるのは、増大する無関心です。イエスとペテロはどちらも、ノアの時代を用いて終わりの日々がどうなるかを説明しました。イエスさまはクリスチャンに警告をされ、ペテロは未信者に警告をしました。私たちが裁きは近いと未信者に伝えれば、『何事も創造の初めからのままではないか』(2 ペテロ 3

章 4 節)と言い返されるようになるとペテロは語っています。

終わりの時代はノアの時代と同じようになります。ノアは福音を力の限り伝えました。終わりには彼を除くたった 7 人が救われ、皆が彼と家族関係にありました(2 ペテロ 2 章 5節)。人々は手遅れになるまで信じず、ノアが箱舟に入るまで信じませんでした。終わりの時代はそのようになります。福音へのさらなる無関心を私たちは見るようになり、その無関心はこうなります…

『ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、』(マタイ 22 章 5 節)

人々が神のことばから逸れてしまうと、彼らはそれぞれの道へ行くようになります。聖書的な福音を宣べ伝える代わりに、“求道者を傷付けない(seeker sensitive)”福音を好むようになります。聖書的な宣教の考えを持つ代わりに、心理学やマーケティングの方法に走るようになります。

ここで理解してほしいのが、ユダヤ人にとってこれがどのような意味を持っていたかです。

『私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。』(イザヤ 53 章 6 節)

先のマタイの箇所はイザヤ 53 章 6 節からそのまま取られたものでしょう(日本語訳では微妙に違って訳されています)。人々はおのおの、自分かってな道に向かって行きます。人々は純粋に“主観的な”――“自分にとって都合の良い”それぞれの宗教の考えを作りだし、

発展させていきます。

ある名ばかりのバイブルスタディー・グループでは、みことばが説き明かされる代わりにある箇所を読み、それについて話し合います。「私にとってこれはこのような意味だ。このように私の心に語りかけられた」。誰かの心に語りかけることはあるでしょうが、最初にする必要があることは客観的な意味をはっきりさせることです。「神からに違いない。私は祝福を感じます!」とある人たちは言います。

私はカナダのトロントで人々が床に転がりながら動物の真似をし、「自分を押さえられない!神さまからのものに違いない、押さえようがないんだ!」と言っている光景を見ました。ですが、御霊の実は自制(1 コリント 9 章 25 節、ガラテヤ 5 章 22 節-23 節)――ギリシア語での“エンクラテイア(egkrateia)”とあります(これは聖書で二度言われています)。彼らが自分でコントロール出来なかったという事実に基づいて考えると、神さまからのものではあり得ないことが分かります。人が自分を制御していないなら、神はその人を制御していません。御霊の実は自制であり、自制が欠けていることではありません。そのような人たちはおかしくなっています!しかし、彼らは自分かってな道に行ってしまったのです。彼らは自分なりに何が霊的であって、神に受け入れられるものかを決めてしまいました。彼らは自分たちの宗教を作ったのです。

金銭目的の説教者はこのようなことを行うのに長けています。新約聖書はほんのわずかしかお金について語らず、語られているとすればその大半がお金への警告です。その説教者たちは他の何事よりもお金について語ります。彼らも自分かってな道へ行ってしまったのです。

一時的な関心を持つこと

第三に

『ある者は畑に、』(マタイ 22 章 5 節)

農耕は神が定められた最初の生活手段です。農業よりも自然な仕事があるでしょうか。人は本来顔に汗を流して働くべきものではありませんでしたが、働くことは定められていました。神はアダムを園に置き、世話をするようにされました。これを考えてみてください。この世で最も卓越した二つの職業、大抵給料が高く、大学院生にとって最も就くのが難しい仕事が法律と医療関係です。この二つが一番給料が高く、一番名誉があり、一番就くのに難しい職業です。しかしこの二つの職業が存在するのは人の堕落の直接的な結果のためなのです。人が罪を犯さなければ私たちには法律家はいらないし、医者の必要もなかった

のです。また歯医者や、葬儀屋、看守、警察などの多くのものが不必要でした。一方、罪

を犯さなかったとしても、農家は必要だったことでしょう。

農業には何も悪いところはありません。しかしながら、ペテロはノアの時代を用いて救われていない人たちがどうなるか、イエスはオリーブ山の訓戒の中でクリスチャンたちがどうなるかを説明しました。彼らは『人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました』(マタイ 24 章 37 節-39 節)。

飲むことや食べること、まためとることやとつぐこと自体に何も悪い点はありません。問題なのは、人々が一時的な関心に夢中になるということなのです。

米カリフォルニアにある「パーパス・ドリブン」の教会がありました。そこでの説教が―

―私は紛れもない真実を話しているのですが――「ガレージをどうやって掃除するか」でした。それが説教だったのです。

フロリダにいる母を訪ねる時、母がユダヤ人の高齢者居住地区にいたので私はある大きな

“求道者向けの”教会へ何度も行きました。私はその教会にはもう長い間行っていません。クリスマスの時期に母を訪ねていたとき、私はキリスト教系のラジオ局をつけました。そこではJ・ヴェルノン・マクギーやエイドリアン・ロジャースのなつかしい説教や、あるものはクリスマスキャロルで、とても素晴らしいものでした。その後にこのメガチャーチの牧師が登場したのです。彼のクリスマスの説教は「クリスマスツリーを飾る時にどうやってイライラしないか」でした。これが福音派の教会なのです!

終わりの日には大きな危険が潜んでいます――人々が一時的なものだけに注目するようになるのです。それ自体では間違っていないもの、またそれ自体では正しいもの――確実に自然なもの――が人々の注目するものとなります。聖書的に私たちが行うすべてのこと―

―結婚、キャリア、職業、ビジネス――これらすべてのことはキリストにあって私たちの神との永遠の関係に照らし合わせて、評価し、定義されるべきものです。私たちがなすすべてのことは、永遠にどう影響を及ぼすかという観点において考えられなくてはなりません。私たちが一時的なもの、結婚やキャリア、ビジネス、家族などを永遠の観点から見ているなら、それは良いものとなるでしょう。しかし私たちの注目が良いものであるが一時的なもの――自然なもの――に向かってしまうとそれは障害となるのです。

『ある者は畑に、』しかしその次には

『別の者は商売に出て行き、』(マタイ 22 章 5 節)

私たちが第二テモテ 3 章で言われているのは、終わりの日には困難な時代がやって来て、人は自分を愛する者となり――またこれは心理学――金を愛する者となるということです

(2 テモテ 3 章 1 節-2 節)。そしてこれはこの世だけではありません。それはマモン(富の神)を崇拝し、繁栄だけを宣べ伝えている説教者たちが神の民を堕落させていることなのです。彼らは実際、貪欲の罪を“信仰”と呼んでいます。彼らはマモン崇拝を行いながら、それを“キリスト教”と呼んでしまっています。彼らは“信仰”への信仰を教え、それをイエス・キリストにある信仰のように見せかけています。これが現代の教会の状況なら、この世から何を期待することができるでしょうか?

無関心が迫害に変わる

そして 6 節には

『そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。』(マタイ 22 章 6 節)

彼らの態度は無関心で始まったかもしれませんが、それは迫害へと変わりました。

そうです、カリフォルニアの学校はイスラムを教え、それを「文化の啓もう」と呼びながら、キリスト教を教えることを違法としているのです。合衆国最高裁判所判事であったサンドラ・デイ・オコナーはアラバマの裁判所から十戒を取り除く決定を下しました。70 パーセントの人が十戒があることを望んでいたにも関わらずレーガン時代の共和党主義者だったその人は「取り除け」と言ったのです。この国(アメリカ)の大半の人が世界の始まりに関してインテリジェント・デザイン(知性による設計)を信じているにも関わらず、ペンシルバニアでジョージ・ブッシュ大統領に任命されたまた別の共和党系判事は、誰もインテリジェント・デザインを教えてはならないと最近言いました。

私は民主党主義でも共和党主義でもありません。私はどちらが選ばれてもそのために祈りますが、私にとって彼らはソロモンの王座の後継者たちのようなものです。ヤロブアムとレハブアム。どちらの“ブアム”がお望みでしょうか?(ブアムという言葉が英語では“bum”

=怠け者と同じように聞こえます)私はどちらが選挙で選ばれるかに関心はありません。彼らは役に立ちません。それが共和党員であっても、民主党員であっても当てにはなりません。私は彼らのために祈ります。私は役に立たない人たちのために祈りますが、彼らが役に立つだなんてことは言わないでください。国家はそれにふさわしい指導者を選びます。私たちが社会全体として神に背を向けたために、不道徳な指導者たちを招くのです。

しかし、これらのことに反対して立ち上がる者は迫害を受けます。私たちが同性愛に反対

して語るなら、“差別発言”というレッテルを貼られるでしょう。離婚に反対して語ってもそれは“差別発言”となるのです。政治家たちは次第に法的に迫害をし始めます。スウェーデンやカナダ、イギリスではすでにそれが起きており――彼らはそれをここでもしようとします。

政治家たちのために祈ってください。しかし彼らに信頼してはいけません。建国の父たちの信じていたようなことは忘れてください。それは過去の歴史です。今日の政治家の神はお金です。イエスが言われるには、迫害は「わたしの名のためにすべての国の人々に憎まれる」(マタイ 24 章 9 節)ということです。

ロージー・オドネル(アメリカの有名なコメディアン)はキリスト教根本主義者がイスラム教根本主義者と変わらないくらい危険だと言いました。私は彼女を中東に連れて行って、現状を見せてあげたいと思います。一度私は目の前で 17 人が粉々に吹き飛ばされる光景を見ました。彼女を中東に連れて行ったら私はこう言うでしょう。「バスに乗ってみなさい。バスに乗るのと、バプテスト派の教会に行くのとどちらが安全なんだい、ロージー?」しかし人々は彼女のほうに耳を傾けるでしょう。人々は聖書に耳を傾けません。

王が怒る

迫害はやって来ます。しかし迫害が来たときに何が起こるのでしょうか。7 節にはどう書いてあるでしょう

『王は怒って…』(マタイ 22 章 7 節)

王はただ「不機嫌になった」とか、「動揺した」とは書かれてあらず、王が「怒った」と書かれています。生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。神は怒っています。

以前にも話したと思いますが、アブラハムには二種類の子孫がいます。人類学的な子孫と、神学的な子孫です。それは誕生による子孫と、第二の誕生による子孫です。

『あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。』(創世記 12 章 3 節 a)

驚くべきことです。ユダヤ人または真実の教会を迫害したどんな文明も神の怒りの下に置かれてきました。

私はインドネシアで聖書を教えています。インドネシアではここ数年で3千もの教会がイ

スラム教徒により焼き打ちに遭いました。東ティモールでは、イスラム教徒は少なくとも

12 万人のクリスチャンを殺しました。誰も気にしません。大半の人がその事実さえも知りません。しかしインドネシアでも最悪な場所が“シャリーア”――イスラム法――が強制されている“バンダ・アチェ”と呼ばれる場所です。

私はバンダ・アチェで講演をし、インドネシアの神学校で話をし、そこで若いインドネシア人伝道者たちや講演者たちを奉仕のために訓練しています。彼らはイスラム教徒の村々に行き、そこで新しい教会を建て、福音を宣べ伝え、迫害と殉教の可能性を知りながらそれに直面しています。彼らはまだ 18 歳や 19 歳、20 歳などです。彼らの態度は、当然ながら「イエスは私のために死んでくれた。イエスのために死ねるのなら光栄だ」というものです。彼らはアメリカのお金儲けの説教者たちのようではありません。「苦しまなくていい。あなたは王の子どもだから!口に出して、つかみ取りなさい!」インドネシアにいるその人たちはクリスチャン、本当のクリスチャンです。

アメリカでも“本当の”クリスチャンがいることを私は認めます。テネシーでも“本当の”クリスチャンがいます。しかし真実のキリスト教に会える唯一の場所は教会が迫害されている場所だけです。テネシーでも、イングランドでも、オーストラリアでも本当のクリスチャンを紹介することができます。しかし本当のキリスト教を見たいなら、私と共にインドネシアに来てください。ケニアに来てください。そこで本当のキリスト教を見ることができます。そこには大きな違いがあるのです。

バンダ・アチェではイスラム教徒たちはクリスチャンをひどく迫害します。ですが CNN は気にしません。ABC も気にかけません。BBC ならそれを称賛するかもしれません。誰も気にかけていないのです。

「どうぞムハマド、クリスチャンたちを好きなだけ迫害してもいいですよ」ですがそういう人たちは水泳を真剣に習ったほうがいいでしょう。

津波の被害者にもたらされた 90 パーセント以上の支援がキリスト教国から来ました。石油

から来る収益が前年の 2 倍であったにも関わらずサウジアラビア人と湾岸アラブ人たちは

つまらないものしか与えませんでした。しかし 90 パーセント、それ以上の支援がキリスト

教国から来たにも関わらず、実際被害者の 95 パーセントがイスラム教徒でした。それはパキスタンで起こった地震と同じように、神の裁きです。

多くの教会や教派にいる人たちは、プロテスタントの改革者たちが福音を再発見したと間

違って考えてしまっています。ルター、カルヴァン、ツヴィングリなどです。これは真実

ではありません。そこには昔から真理を一度も失ったことのない人々がいたのです。イングランドではそれは“ロラード派”と呼ばれるジョン・ウィクリフの信奉者たちでした。中央ヨーロッパでは“ボヘミア兄弟団”と呼ばれるヤン・フスの信奉者たち。ヨーロッパ西部では“ワルドー派”と呼ばれる者たちでした。そういう人たちはいつでも存在したのです。新生したクリスチャンが絶えてしまったときはかつて一度もありません。それはただ神聖ローマ帝国の時代(神聖でもローマでもありませんが)、教皇がいつも福音の拡大を防ぐ手段を持っていただけのことです。真実の信者たちは激しく迫害されました。ヨーロッパの 40 パーセントの人口が滅ぼされるのをあなたは想像できるでしょうか?それが実際に起こりました。クリスチャンとユダヤ人に対する大虐殺が行われた後、ヨーロッパ人口の 40 パーセントが滅ぼされました。40 パーセントのカトリック系ヨーロッパ人が一夜のうちに滅ぼされたのです。中世には“腺ペスト”と呼ばれるもの、“黒死病”が流行りました。王は怒っていたのです!

ご自分の兵隊を出す

しかし主が本当に怒るとき、誰かがご自分の民を迫害するとき、彼はご自分の兵隊を出します。神はいつも彼らより悪い者たちを用います。イスラエルは神がペリシテ人やアッシリア人、バビロン人、ローマ人などを使うなんてことは信じられませんでした。しかし神はそうしました。神は彼らより悪い者たちを用います。そしてその者たちを裁きの道具として用いた後、彼らを除き去ってしまいます。

現代の神の裁きの兵隊は誰なのでしょう?聖書で世界情勢の中心にいた国々が、現在の世界情勢の中心にいるのは偶然ではありません。イスラムは背教したアメリカ、イギリス、ヨーロッパへの神の裁きです。イスラムは自分の民イスラエルへの神の裁きです。それは神の裁きなのです。その脅威にも関わらず、私たちの政治家、大統領は国境を守りません。これは神の裁きです。同時多発テロから1年経っても大統領は――私はこれを政治的に言っているのではなく、ただ事実として伝えているのですが――サウジアラビア人入国のためのビザ・エクスプレス・プログラム(Visa Express 身分証明無しでの入国制度)を継続していました。彼らは1年だけでも、この国(アメリカ)に入り住むために1万のビザをサウジアラビア人に提供していました。これは侵略です。フランスのパリは燃やされました。イングランドのブラッドフォードも燃やされました。ロンドンは爆破されました。私の故郷のニューヨークも爆破されました。スペインのマドリッドも爆破されました。

『王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。』

(マタイ 22 章 7 節)

そうです、殺人です。同時多発テロでは3千人が殺され、私の妹の夫もそのひとりでした。

3千人です。毎年アメリカで中絶されている赤ん坊の数はこれと同じでしょうか?違います。これは日毎にアメリカで中絶されている赤ん坊の数と同じです。殺人です。4千万人ですって?“ロー対ウェイド事件”から4千万人ですって?私たちの国は殺人者の国です

(現在は5千万人です)。王は怒っています!私たちは彼の裁きの下にいるのです。

ですが心配しないでください。『倒れた。バビロンは倒れた』(イザヤ 21 章 9 節、エレミヤ

51 章 8 節、黙示録 14 章 8 節、18 章 2 節)と書かれています。バビロンがその目的を果たすと、神は彼らを除き去ってしまいます。彼はアッシリア人を除き去り、彼らすべてを滅ぼしました。イスラムの最期は定められています。イザヤや他の箇所にはアラブ・イスラム系の首都に対する未だ成就していない大規模な破壊の預言があります。ダマスカスはイエスが来られる前か、彼が来られるとき破壊されるはずです。それはケダル(サウジアラビア)やアモン(ヨルダン)も同じです――これらの預言は未だ一度も成就していません。

そしてそのヘブライ語はただの“破壊”ではなく、“全滅させる”というものです。それはソドムとゴモラに起こった事に対して使われたのと同じ言葉です。これらのアラブの首都は地球の面から消え去ります。神は彼らを滅ぼされます。神はアラブ世界、イスラム世界に戦争を仕掛けられ、ご自分を裏切ったユダヤ・キリスト教世界に裁きと矯正の道具として用いた後、それらの国を滅ぼされます。

それが第一世紀に起こったことであり、それが最後の世紀にも起こることです。そしてそれが今現在起こっていることなのです!

祝宴での“不正装”

次に何が起こったでしょうか。

『それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。』

再び言います。これは救いの衣を着ていないことであり、子羊の祝宴にきちんと正装をしていないということです

『そこで、王は言った。『{友よ。}あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入っ

て来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。』(マタイ 22 章 10 節-12 節)

福音を退けた不信者が主の前に立つと、彼らは黙ります。無神論者は黙ります。彼らに言うことは無いのです。王に口答えすることは何もできません。

ユダヤ教でヤハウェは王です。ヘブライ語の祈祷は典礼による序文で始まります。「バルーク アター アドナイ、エロヘイヌ メレク ハオラム(Baruch Atah Adonai, Eloheinu Melech ha’olam)」――主なる神、宇宙の王に栄えあれ。ヤハウェは王なのです。

彼らは何も言うことが無くなり、黙り込みます!ダーウィン主義者も黙ります!ゲイやレズビアンの活動家たちも黙ります!中絶主義者たちも黙ります!NOW(アメリカ最大のフェミニスト団体)も黙ります!彼らは口をつぐみます!それはリベラルの神学者たちも同じです。今大きな口を聞いている者たちはどうなるのでしょう?黙り込みます!私たちも全員も次の三つの言葉を除いては口をつぐむようになります。「サンキュー・ジーザス

(Thank you Jesus)」私の場合は「トダー・イェシュア」の二言です。

『そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。』(マタイ 22 章 13 節)

ここ 10 年、12 年のうちに大きく広がったのが“霊魂消滅説(Annihilationism)”です。イギリスではこの教えは国教会の神政主義者であるジョン・ストットによって推進されました。「地獄は永遠で感じることのできるものではなく、ただ霊魂が消滅するだけだ」というものです。救われた――救われているはずのクリスチャンでもこれを教えている人がいます。彼らの苦しみの煙が永遠にまでも立ち上ると書いてあるギリシア語は興味深いものです(黙示録 14 章 11 節)。それは「アナバイネイ エイス アイオーナス アイオノーン

(anabainei eis aionas aionon)」といいます。これは単にヘブライ語の「とこしえからとこしえまで」をギリシア語的に訳したものです。彼らの苦しみは立ち上った、「アナバイネイ エイス アイオーナス アイオノーン」。この同じ言葉がイエスの永遠の大祭司職を表す際にも使われており、神の永遠の栄光に対して、また私たちの救いに対しても使われています。言い換えると、もし地獄が永遠で意識のあるものでなかったなら、天国が永遠で意識のあるものであることをどうやって分かるのでしょうかということです。これは同じ言葉です。ジョン・ストットは著書の中でこの問題を扱っていません。

地獄以上の“地獄”

ここで言われていることを見てみましょう

『そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこ

で泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」』(マタイ 22 章 13 節-14 節)

地獄以上の地獄があるとはどのような意味なのでしょうか。それは次のことです。聖書自体が地獄以上の地獄があると語っています。

それはただの“火の燃える池”ではなく、ただの“外の暗やみ”、そこで泣き歯ぎしりするだけの所ではありません。またただ“苦しみの煙”が永遠に立ち上るだけではありません。地獄はそれ以上のものです。この人は実際に披露宴に入り、それをその目で見、主を見ました。地獄はただの地獄だけではありません。それは天国に入れないことを意識するものとなります。その人たちは自分たちの得ることのできたもの、得るはずだったものを見ます。彼らは自分たちがあるべきだった姿、なることのできた姿を知ります。悔い改め、イエスを受け入れた者たちが持つことのできるものを彼らは知ります。どのようにかしてこの男は中に入ったのです!彼らは意識的に知るようになります。彼らが持っているものと逃してしまったものを。地獄には地獄以上のものがあります。

「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない」