Burning Bush - Japanese

April 3, 2025

モーセと燃える柴 “ヒネニ”

ジェイコブ・プラッシュ

『こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト 人が打っているのを見た。あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、 彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。次の日、また外に出てみ ると、なんと、ふたりのヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪いほうに

「なぜ自分の仲間を打つのか」と言った。するとその男は、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか」と言った。そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知れたのだと思った。』

 

『パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロ のところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。彼は井戸のかたわらにすわっていた。ミデヤンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちが父の羊の群れに水を飲ませるために 来て、水を汲み、水ぶねに満たしていたとき、羊飼いたちが来て、彼女たちを追い 払った。すると、モーセは立ち上がり、彼女たちを救い、その羊の群れに水を飲ま せた。彼女たちが父レウエルのところに帰ったとき、父は言った。「どうしてきょ うはこんなに早く帰って来たのか。」彼女たちは答えた。「ひとりのエジプト人が 私たちを羊飼いたちの手から救い出してくれました。そのうえその人は、私たちの ために水まで汲み、羊の群れに飲ませてくれました。」』

 

『父は娘たちに言った。「その人はどこにいるのか。どうしてその人を置いて来てしまったのか。食事をあげるためにその人を呼んで来なさい。」モーセは、思い切ってこの人といっしょに住むようにした。そこでその人は娘のチッポラをモーセに与えた。彼女は男の子を産んだ。彼はその子をゲルショムと名づけた。「私は外国にいる寄留者だ」と言ったからである。』

 

『それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、 わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神 はみこころを留められた。』(出エジプト 2 章 11 節-25 節)

 

『モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその

群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。』

 

『主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」』

 

『モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行っ てイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」神は仰せられた。

「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。』(出エジプト 3 章 1 節-14 節)

 

キリストの象徴としてのモーセ

 

モーセと燃える柴の有名な話です。ここで最初に理解すべきことはモーセはキリストの象

徴であるということです。申命記 18 章 18 節には、メシアはモーセのような預言者であると書かれてあります。それは次のようなことです。邪悪な王がすべてのユダヤ人の赤子を殺してしまおうと決め、モーセは両親の信仰によってエジプトでしばらくの間守られ、後にエジプトを出て約束の地に戻りました。イエスもまた同じ運命に遭いました。邪悪な王がすべてのユダヤ人の男の子を殺してしまおうとし、イエスは両親の信仰によってしばらくの間守られ、その後にエジプトを出て約束の地に戻ったのです。このようにモーセはキリストの象徴として示されています。

 

しかし、ヘブライ語ではそこに言葉遊びが隠されています。“モーシェ”――“引き出す”という名は彼にふさわしいものです。彼は水から引き出されたので、ヘブライ語の本文は同じ言葉を使っているのです。モーセは私たちのために水から引き出されました。また彼の名前の特徴は出エジプト記の中で何度も繰り返されています。このようなことは翻訳では分かりにくかったり、ほとんど伝わりません。今、思い出してほしいのですが、ちょうどイエスのように、モーセがユダヤ人の兄弟たちを最初に救いに来たとき、彼は退けられました。モーセが受け入れられたのは二度目であって、エジプトにいるユダヤ人の苦悩と苦しみが耐えがたくなって絶望的になったときはじめて受け入れられました。これはユダヤ人にとっても同じです。(イエスは大患難またはヤコブの苦難の時と呼ばれるときに戻って来ると聖書にあります。それはユダヤ人にかつてないほど過酷な迫害が臨むときです。その後にユダヤ人がイエスを受け入れます…ゼカリヤ 12 章 10 節)。ユダヤ人はイエスを最初に来たとき受け入れませんでしたが、再臨においてイエスを受け入れます。初め彼らはモーセをエジプト人だと思っていました。それは後にヨセフをエジプト人だと思ったのと同じことでした。

 

ヨセフも自分の兄弟たちに最初には気付かれませんでした。彼らは二度目にヨセフに気付き、激しく泣いたのです。それはユダヤ人にしても同じことです――彼らはモーセを最初に自分たちの指導者だとは気付かずに、二度目に気付きました。ユダヤ人はモーセをエジプト人と見なしていて、イエスを異邦人だと考えていました。モーセも異邦人だと考え、エジプト人だと見ていました。同じようにイエスに対してユダヤ人は金髪で青い目の男性を想像することでしょう。彼らはモーセをエジプト人であると考えていました。またヨセフもエジプト人であり異邦人だと考えていました。ユダヤ人たちはイエスをほぼ異邦人のように見なしていました。これはもちろん真実ではなく、彼らは客観的にユダヤ人と知っていましたが、主観的にはイエスを異邦人と位置づけていたということです。その状況によってイエスは非ユダヤ人のように見えました。それはモーセやヨセフに関しても同じです。モーセはエジプト人のように見え、エジプト人のように話し――エジプト人の王子だったのでなおさら――エジプト人らしかったのです。彼らはモーセを自分たちの仲間では

 

ないと思っていました。

 

ここでモーセはキリストの象徴として描かれています。モーセに関して書かれてあることは、イエスと同じです。彼は自分の民を救おうとしたが退けられ、異邦人に受け入れました。覚えていますか。モーセが自分の民を救おうと立ち上がったとき、民はモーセを退けました。そこで彼はミデヤン人のところへ行き、ミデヤン人をかばったときに受け入れられたのです。その後にヘブル人はモーセに従い始めたのです。それはイエスも同じです。最初にユダヤ人は退けましたが、異邦人がイエスを受け入れ、その後にユダヤ人がイエスのもとに帰ります。モーセはメシアの象徴として描かれているのです。

旧約聖書でのキリストの現れ

 

ここでのもうひとつのテーマは定冠詞が付いた“主の使い”(出エジプト 3 章 2 節)に関してのものです。これは“ひとりの御使い”ではなく、“その御使い”という言葉で、私たちはこのテーマを“ナザレ人の誓い”と“士師記 1 章・2 章”のテープの中で取り扱っています。定冠詞が付いた主の使い、“ハ・マルアハ・アドナイ(Ha Mal’ach Adonai)”とはキリストの顕現、旧約聖書においてのメシアの現れです。それはひとりの御使いではありません。神ご自身です。神がモーセに柴の中から語られたとある箇所では、“主の使い”が神として柴の中からモーセに語ったとあります。ユダヤ教の中で主の使いはメタトロン

(Metatrone)と呼ばれ、王座の中央に宿る者と呼ばれます。この箇所でメタトロン――主の使いが出てきます。彼はモーセと話しており、神として認識されていました。

 

ヘブライ語で御使いを表す言葉は、ギリシア語の“アンゲロス(angelos)”と同じように“遣わされた者”を意味します。なので、メタトロン、主の使いは神の使者であり神ご自身であったのです。神が人になるという考えは一般的なユダヤ人にとっては不可解なものでしたが、ヤコブはメタトロン、主の使いであり神の現れである者と格闘しました。アダムは神の歩く音を聞いたとあります。それはイエスの顕現です。とはいえここで重要なのは、新約聖書でイエスが肉体をとられたことと、これは違ったものだということです。神は昔にも肉体をとって来られました。神はアダムと園の中を歩いていましたが、神はまた主の使いであったのです。よってこの箇所はキリストに関する箇所です。ここはメシアについて語っており、神の使者が来て自分の民の間に宿るということが書かれています。柴は燃えていたのに燃え尽きなかったという出来事も、詩篇の中で“イエスは朽ちることがない”と言われていることを表しています。『あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならない』

(使徒 2 章 27 節)イエスの死体は地のちりとはなりませんでした。

 

モーセは、真に神に仕えたいと願う人すべての良い例です。実際、彼は最も良い例と言え

 

るでしょう。モーセについて私たちが最初に分かることは、モーセはエジプトの王子であ

り、パロの孫、神の知恵によって教えられる以前にエジプトの知恵によって教えられてい た者だということです。モーセは世界で当時最も進んだ学問を学んだことでしょう。しか し、モーセが父祖たちの神と出会ったとき、エジプトが何にも値しないことに気付きまし た。まったく教育を受けていない人が真実の生きている神に出会うと、その人は他の何の 手段に頼るよりも賢くなります。モーセは神の知恵によって訓練される前にパロの知恵に よって訓練を受けました。当時エジプト人はパロを神格化していました。パロは彼らにと って神のような存在だったのです。聖書の中でエジプトとは、1 コリントの手紙で教えら れていますが、この世の象徴です。イエス以外に人が神として礼拝されているのを見たら、いつでもそれは来るべき反キリストを象徴するものです。パロは崇められ神として神格化 されていました。モーセもその中にいることも出来たでしょうが、ヘブル人への手紙を読 むと、「キリストのゆえに受けるそしりをこの世の宝にまさる大きな富」と思ったとあり ます(ヘブル 11 章 26 節)。モーセはエジプトの王子であり、その地位や権力、教育はエ ジプトが与える最高のものでした。しかし、モーセはキリストのゆえにそしりを受けるこ とを選んだのです。モーセはすでにメシアについて知っていました。彼は“その主の使い”と出会ったのです。

 

そして民のひとりを助けようとしましたが、退けられ、自分のいのちのためにそこから逃げました。モーセは荒野に逃げ、後に律法が授けられる場所――ホレブ山へと行き着いたのです。

 

ここでもモーセはイエスの象徴です。彼は異邦人の妻をめとりました――それは教会です。モーセは自分の民を救うために来たのに彼らに退けられました。そして荒野に行き異邦人 に受け入れられたのです。彼らはモーセをユダヤ人ではなく、エジプト人だと思っていま した。実際にユダヤ人だけがイエスを非ユダヤ人だと見ているだけでなく、いわゆるクリ スチャンたちもイエスを非ユダヤ人と考えているということは驚くべきことです。

荒野へ

 

退けられた結果として荒野へ追いやられるというパターンは、神が召された者によく起こることです。ここで私たちはダビデ王を思い出します。預言者サムエルはダビデに油を注ぎました。しかし、王座を引き継ぐ代わりにダビデは急いで町を離れ、アドラムの洞窟に逃げ後に荒野へと入りました。

 

後にタルソのラビであるサウロが登場します。彼はパリサイ人の中のパリサイ人であり、ラビになるためヒレルの学校で学び、その孫ラビ・ガマリエルを教師としました。モーセ

 

はエジプトが与える最高の教育を受けた一方で、パウロは最高のイェシバ(律法の学校)

で教育を受けていました。パウロは教養のあるローマ市民であり、ギリシア語に精通しており、ヘブライ語、アラム語、ラテン語が流暢に喋れたことでしょう。そして以前は福音の敵でした。しかし、パウロはダビデやモーセと同じように荒野で長年過ごしたのです。

 

モーセは四十日四十夜断食し、イエスも四十日四十夜断食し、ヨナはニネベが悔い改めるために四十日与えました。ノアが箱舟にいるときには四十日四十夜雨が降り、イスラエルの子らは荒野を四十年間さまよいました。それはいつでも四十です。

 

私は幼い信者であったとき、甘い考えを抱いていました。私は「主よ。私は科学を専攻し、週に数千ドル(数十万円)を稼いでいます。主よ、これらすべてをあなたに差し上げます」と言い、イスラエルに行き、イスラエルの地で終わりの日におけるユダヤ人への伝道者に なろうと考えていました。そこで私を待っていたのは、惨めで退屈な処方箋を書くだけの 仕事でした。なぜなら、それしか分からなかったからです。私は救われたときに、自分は もう薬を売る仕事はしないと思っていました(ジェイコブは救われる以前麻薬の運び屋で した)。私はそこで年を取った女性にイーデッィシュ語で薬が何個必要か聞いていました。それは彼らがヘブライ語を理解できず、私も当時はそうだったからです。私は何も無い場 所にいました。そこの窓から外を覗いてみると砂がありました。なぜそこに砂があったの でしょうか?なぜなら私は砂漠の中にいたからです。文字通りそこにはベドウィンとラク ダがいました。私がニューヨークを出たのはこんな荒野に来るためだったのですか?こん なことのために高い地位をあきらめたのですか?主はこのために私をここに導いたのです か?こんな荒野に。私は主に用いられるためにここに来たと思ったのに!そのとき主は

「あなたは全く間違っている、それは後にやってくることだ。私はあなたをこの場所で用いるためにイスラエルに導いたのではない。イスラエルを用いてあなたを試みるためにここに連れてきたのだ」と言っていたのです。

 

まず退けられるのです。私はニューヨークにいるユダヤ人からも同じ経験をしました。イスラエルにいるユダヤ人もイエスについての話を聞きたがりません。ニューヨークならたまに石を投げつけられるくらいですが、少なくともイスラエルのイェシバに通う学生からは手榴弾以上の物を投げつけられることもありました。私たちはハイファの通りで石を投げつけられました。実際に石を持った暴徒に追いかけられたのです。私はかつてニューヨークでジューズ・フォー・ジーザズの小冊子を配っていました。するとある老婆は私につばをかけ、ときには JDL(ユダヤ防衛連盟)が来て嫌がらせを受けることもありました。

 

私はキブツ(イスラエルの農場)にいてヘブライ語を習得しようとし、またそこでイスラエル人の小さなグループを相手に伝道的な聖書の学びをし始めました。しかし、そこで救

 

われたのは非常にわずかな人でした。「主よ、あなたは何のために私をここに連れて来た

のですか?以前は私が小切手を切り、奉仕と伝道のためにお金を送っていたのに今はいつでもお金が足りません。私はエジプトの王子だったのに今は無きに等しい者となっています。あなたが用いてくれると言ったと思ったのに」「いいえ、退けられ荒野に行くのが先です」と神は言われます。モーセはなぜ自分にそのようなことが起こったのか分かりませんでした。「あなたは私の父の神であるので、私は民のために立ち上がりました。そして正しいことをし、私の地位、権力、教育をあなたのために用いました。なのに、今はただ退けられ、荒野へとさまよい出ています」その荒野において、そのときのモーセには理解出来ないことが起こっていました。どのようにしてモーセはイスラエルの子らを 40 年間同じ

荒野の中を導くことができたのでしょうか。モーセはイスラエルの子ら、つまり 150 万人

の大人と在留していたエジプト人、子どもとを合わせた人たちを 40 年間も荒野で導くこと

ができたのです。そのようなことができたのはモーセがそこで 40 年間過ごしたからでした。荒野は死の場所であり、サソリ、コブラ、ハゲワシが頭の上に群れをなすような場所です。水もオアシスを見つけない限りありません。それは点在しています。どのようにして荒野 で生き延びるのでしょうか。そうです。それがモーセが学ばなければならないことだった のです。「モーセよ。私があなたに荒野で生き延びる知恵を与えた後に、荒野の中であな たがひとつの国を導くようになるのだ」と神は言われます。

 

もう気付いたでしょうか。私たちは救われたときにパロの領土から出てきました。エジプトから出はしましたが、私たちはまだ乳と蜜の流れる約束の地には至っていません。私たちはこの世から出てきました。しかし、1 コリント 10 章が告げるように、まだ天には至っていないのです。私たちは荒野に滞在しています。

 

モーセがそのようなことをなしえた理由は、彼がとても長い年月をその荒野で過ごしてい たからです。どの大学、神学校、聖書学校でも教えてくれないことがあります。世の中で 最も優れた神学の教育機関はあなたに聖書について教えることはできるでしょう。しかし、ただ荒野の中においてのみ、あなたは聖書の意味していることが分かるのです。聖書につ いて学ぶのは良いことです。聖書の学問的な知識は役に立ち、実用的です。私はギリシア 語やヘブライ語、文芸批評、聖書の歴史、考古学を学ぶことの重要性をさげすむことはし ません。聖書について知るのは良いことですが、それで十分ではありません。それは重要 ですが、最も大切なことではありません。聖書を学ぶことは必要不可欠ですが、最初にす るべきことは聖書が何について書いてあるかを学ぶことです。それは誰も教えることはで きません。それは神のみがあなたに教えることです。民をどうやって荒野の中で導けるの でしょうか。指導者になりたいのなら審査を受けさせるのです!(1テモテ 3 章 10 節)「こ の人はこの役職にふさわしいのでしょうか?健康の問題や奉仕の中での問題、財政の危機、この人はこれらをどうやって処理するのでしょう」この人がこれらのことを主の力と知恵

 

によって取り扱うことができたなら、やっとその後に神の器として整えられ、同じ荒野に

いる者を励ませるのです。その後になってから神はパロのもとに「行け」と言われます。

荒野を通った後に

 

私たちが荒野を通った後にだけ、学問的な教育は実際に使える価値を持ちます。私は、大学や聖書の学校に行き、その後から奉仕に入ろうとしているくだらない考えを持った人たちを何人も見てきました。そのように物事は運びません。この世の職業においてさえそうなりません。ボーイング社(アメリカの航空機メーカー)やマクドナルド・ダグラス社の請負人を考えてください。彼らは修士号や博士号を持った人たちを一番良いエンジニアの学校から採用します。彼らはロンドンのインペリアル大学やマサチューセッツ工科大学のようなところにおもむきます。そしてその大学の一番優秀な人を採用するでしょう。そして言います。「さあ今からあなたがエンジニアになるための訓練をしましょう」「いや私はあの大学を卒業したのですよ!」「いいえ。あなたは 5 年間私たちの下で働いてください。

5 年経つまではあなたは使い物にならないのです」と言うことでしょう。

 

あなたがアメリカから薬剤師の資格を持って卒業しても、実習生となったら次に研修医となることができます。イギリスでは研修医の補助となった後に研修医となれます。「でも私はすでに薬学の学校に通ったのですよ!」と言ってもそれでは通用しないのです。

 

あなたがロースクールを終えたら、論文を書いて受付に行ってください。弁護士補助員になったら、事務弁護士の補助、そして次に下級の事務弁護士になるのです。今から 5 年経ったらあなたは自分を弁護士と名乗れるでしょう。「私は学位を持っているのですよ!」と言う人もいることでしょう。

 

エンジニアの世界でもそうはいきません。薬学や法律学の分野でもそうです。ましてや奉仕においてそのようになるわけがありません。あなたが荒野を通ったその後にだけ、教育は役に立つのです。今パロのもとに行くのです。今あなたはそうするのにふさわしいのです。

 

あなたは砂漠の中にいると全く方向感覚を失います。すべてが同じように見えるのです。脱水症状のために蜃気楼のようなものを見るようになります。自分がどこに向かっているか分からなくなるのです!日の出や日没によって何らかの方向感覚を得るかもしれませんが、道に迷わないで荒野を通るのに一番最適なのは夜です。ベドウィンたちは星を頼りにします。荒野で生き延びるということは並外れた能力を必要とします。しかし、モーセは荒野で一国を養っていかなければならなかったのです。小さな事をし続ける日をさげすん

 

ではいけません。神があなたを召したとき、すべての人にそれぞれの奉仕が用意されてい

て、最初に私たちが期待すべきことは退けられることです。なぜなら私たちはキリストに似ることによってしか、主に仕える者となり得ないからです。キリストが最初に経験したのは退けられることでした。

 

『私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。』(イザヤ 53 章 1 節-2 節)

 

これがイザヤがメシアについて語ったことです。神があなたを用いることができる前に、あなたは退けられることを経験しなければならないのです。

 

神は人々を日常の中で非日常的なことのために整えておられます。あなたが荒野を出てから――それは後になって思い出せるだけなのですが――神がその荒野でしてくれたことを気付くのです。モーセが荒野にいたとき、彼が知らなかったことは自分を退けた民が絶望に陥り、モーセを受け入れる状態に至ったということです。モーセの奉仕の場所はまだ整えられていなかったのです。

同じような例

 

同じことがサムエルに王として油注がれた後のダビデの生涯にも言えることです。「ダビデよ。あなたはこれから王となります。サウルが追跡してきてあなたを殺そうとするでしょう」まず退けられます――イスラエルの見捨てられた者たちがダビデに連なりました。すべての者が負債を抱えていたり、負け犬たちであり、名も無い人たちでした。しかし、後に私たちはダビデの勇者たちについて書いてある箇所を読みます――彼らは軍隊の司令官やイスラエルの戦いにおいての大将たちでした。それらのイスラエル軍の大将たちとは誰であったのでしょうか?主の軍勢の司令官たちとは、ダビデの勇者たちとは誰だったのでしょうか?同じ負け犬たち、見捨てられた者たちです!そうです、アドラムの洞窟に来てダビデと合流した希望のない者たちです。神はそのような負け犬たちを集め、ダビデの勇者とされました。神は名も無き人たちを取り、荒野において主の軍勢の司令官とされました。最初に彼らはサウルを出し抜く方法を学びました。それからぺリシテ人の裏をかく方法を学んだのです。後に彼らはペリシテ人を征服しました。どこでそのようなことを学んだのでしょうか?ダビデが教えたのです。

 

ダビデはダビデの子と呼ばれたキリストの象徴です。ベン・ダヴィード・イェシュア(Ben

 

David Yeshua)である方、主ご自身、ダビデの子であった方が荒野についてのことを教え、他のどこにおいても教わることの出来ないもの――敵を出し抜く方法を教えるのです。し かし、そこは快適な場所ではありません。モーセのことを考えてみてください――「私は エジプトの王子で、富も、権力も、地位も、特権も持っており、教養のある者だったのに、今荒野にいます。神よ、あなたが私を召されたと言われました。このようなことのために 私は水から引き出されたのですか?」と思ったことでしょう。

 

タルソのラビ・サウロも同様です。「私は異邦人への使徒となるのに、かごに吊るされて城壁づたいにひそかに逃げなければならないのですか?」しかし、アラビヤにいるときにパウロに何かが起こりました。パウロは実際に 1 コリント 11 章において、最後の晩餐について書くことができました。それはほとんど不思議な方法によってです。彼は『私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです』と書きました。パウロは最後の晩餐の席にはいませんでした。その場所にいなかったのに、どのようにしてそれを主から受けることができたのでしょうか。一体どこから得たのでしょう?パウロは荒野にいるときにそれを受けたのです!砂漠でそれを受け取りました。パウロが 2 コリントの手紙で第三の天にまで引き上げられたという出来事は荒野であったことかもしれません。肉体によってか霊よってかを知らないと書いていますが、パウロの見たことは言葉にすることも出来なく、驚くべきもので、信じがたいことだったのです。それがタルソのラビ・サウロであり、ダビデ王も同じ、またモーセも同じでした。それなら真に神に仕えたいと思う者すべてがそうであるということです。

荒野に行くことの目的

 

しかし、多くの日が過ぎた後、思いがけないときに荒野の中のモーセにあることが起こり ました。ある時点で、ダビデは孤立していた状態から抜け出し、彼のいた荒野から帰ってきました。ある時点において、パウロはアラビヤから戻ってきました。ある時点において、神はあなたを荒野から呼び戻します。それは後に待ち受けていることのため、あなたが知 っておくべきすべてのことを学び終えたときです。この堕落した世においては、そのよう な必要なことを学ぶのに適した場所と方法は荒野の他には無いのです。

 

神があなたを荒野に留めているとき、ただ神はあなたを奉仕のために整えているだけではありません。神は奉仕をあなたのために整えているのです。状況は困難そのものでしょうが、今私たちは神が本当になされていることに気付きます。何も無いようなところで神は燃える柴の中からモーセに語りかけて言います。「これがしるしです。あなたが民を導いてくるとこの同じ山に来る。ここでわたしはあなたに契約、すなわち律法(トーラー)を与えよう」

 

つまり言い換えると、奉仕においてあなた自身が到達したことの無い場所に、決して誰も

導くことはできないということです。あなたがそこに到達し、生ける神と会うことがどのようなことであるかを知った後に、神はあなたを用いて誰かを導くのです。しかし、あなたがそこに自分自身で達しない限り、誰も導くことは出来ません。

 

モーセは燃える柴の中におられる神と出会ったときに 80 歳でした。世の与えるひとつの嘘は定年退職という考えです。クリスチャンにとって定年退職が唯一意味することは、もし健康が許すなら、今あなたはパートタイムではなくフルタイムで神に仕えられるということです。この世は人の一番の全盛期は中高年であると言います。しかし、神は老齢になったときであると言われます。世の言うことは正反対です。どういうわけか教会はこの世の歪んだ考え方を許容してしまっています。一方で神は違ったように見ておられます。神はすべての出来事を老齢のための準備であると考えています。神は世が考えるようには考えていません。残念ながら、教会は世の考え方に聞き入り、主の考え方よりもそちらを重要視しています。定年退職したならあなたのこの世でのキャリアは終わります。もう生計を立てるために奮闘し、子どもたちを大学に行かせることは済みました。男性ホルモンと女性ホルモンの生成も少なくなってきて、肉の欲はあなたに対して以前ほど大きくならないでしょう。世は若さ、中年が良いと言います。しかし、神は若さや中年が一番ではなく、それは老齢になるときの準備だと言われます。ヘブライ語で“長老”という言葉は年を重ねた者という意味です。世の考えがクリスチャンであるあなたの頭の中に忍び込んでこないようにしましょう。使徒ヨハネが黙示録を書いたのは彼が 90 代の頃であって、当時としては信じられないほどの老齢でした。

荒野にいたことの結果

 

神が荒野に導き入れた男の人や女の人は、その荒野から出てくるときには完全に違った人となっています。荒野に入っていく者は自分の強さを知っていますが、そこから出てくる者は自分の弱さを知っているのです。それからその人は神の力を知ります!神の力はいつも私たちの弱さによって栄光を受けます。神が荒野に導き入れる男の人や女の人はひとりの人です。神がその人を出されるとき、その人は人柄、考え方、振る舞い方において完全に違った人となっているのです。

 

荒野に入るとき、その人は自分の持つすべての能力について知っており、自信を持って入っていきます。そこから出てくるときには自分にどんな信頼も置かないようになっています。その後に神はその人の経歴を用います。私たちが自分の教育、賢さ、経歴、地位に頼らなくなったなら、そして、私たちが自分の至らなさを知った後に神はそれらを用いるこ

 

とが出来ます。私たちの強さは神の中になければならないのです。荒野に入っていく者は

自分の強さを知っていますが、そこから出てくる者は自分の弱さを知り、神の強さを実感するのです。

 

同じことが起こります。このパターンが明らかになってきたでしょうか。あなたは神に用いられたいのですか?最初に期待すべきことは退けられることです。あなたは自分の兄弟や姉妹、同じ民から退けられるでしょう。そのようなことはとても辛い経験です。イエスは兄弟であるヘブライ人に退けられ、モーセは兄弟であるヘブライ人に退けられ、ヨセフも同じ目に遭いました。ヨセフ、モーセ、イエス、パウロ、そしてあなたと私は自分の仲間から退けられます。すべての教育や経験、富、権力、地位、名声も荒野に行くとそこでは意味を成さないものになります。神が燃える柴からあなたに語りかけるまでは、それらは完全に意味の無いものなのです。神はあなたに確かに語りかけます。「私はどのようにして行きましょう」「なぜなら私があなたを遣わすのだ」「あなたは誰なのですか」「わたしはあるという者だ」(※1)モーセがエジプトの王子であるとき、彼は自分がどのような者であるかを知っていました。モーセが知る必要があったのは、神がどのような方であるかだったのです。

 

あなたは荒野で神と出会わない限り、神がどのような方かを知ることは出来ません。良い 時であれば誰でも霊的になれるのです。荒野においてあなたにあることが起こります。あ なたはそれが何かを知らないでしょう。はじめはそれに興味をそそられます。これに近づ いて見てみようというように。そのすぐ後にあなたは聖なる地に立っていると気付きます。その聖なる地で神はあなたを使って他の人を導かれます。聖なる地に彼らを導き上りなさ いと言われます。「主よ、このためにあなたはここまで導かれたのですか?」そうです。

「しかし、彼らは私を退けました」「彼らは整えられておらず、あなたもそうであったからだ。今彼らは整えられてあなたも準備が出来ている」「しかし、それをどのようにしてなしえましょう。私は話すこともできないし、そのことを成し遂げられません」「いいえ、あなたには可能だ。いつでもそれをできた。もし、あなたがそれをできないのなら、あなたはここにいるはずはない。わたしは見込みが無い者を荒野に導いて時間を浪費したりはしない。かつてはあなたは自分が能力を持っていると考えていたが、今あなたはわたしの強さの内においてのみそれが可能だと知っている。行ってそれをなしなさい。行くのです」燃える柴の中からモーセはイエスの声を聞き、“ヒネニ”と答えました。(“ヒネニ”とは「ここに私がおります。何をしましょうか」という意味)

 

私たちの中で神がその人生における召し、奉仕を与えられていない人は誰もいません。私はそれが何かを知りません。それはリーダーシップであるかもしれないし、宣教地においてのことや、伝道に関することかもしれません。もし、神があなたを何かに本当に召して

 

おられるなら、最初の段階は退けられることです。次は荒野、そして燃える柴となるでし

ょう。

 

また私は約束します。荒野から出てきた男の人や女の人は誰であれ、最初に入っていた人と全く違う人になるのです。†††

 

(※1)

それはテトラグラマトンでヤハウェと呼ばれ、YHWH とは昔ある方、今おられて後に来られる方、わたしはあるという方を示しています。また、ヨハネ 8 章シムハ・トーラーにおいて、人々はイエスに石を投げようとしました。なぜなら「アブラハムがいる前からわたしはいる(ギリシア語ではエゴ・アミ)」と言われたからです。イエスは自分自身を神と認識していました。



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