Midrash Garden 1 - Japanese

April 3, 2025

ミドラッシュ 園の中のイエス(1)

ジェイコブ・プラッシュ

モリエルミニストリーズに詳しくない人もいると思いますので、私たちがしているひとつのことを説明したいと思います。ユダヤ人信者たちを通して主が一世紀の教会を建て上げました。聖書はまずヘブライ人の文化に与えられました。私たちは初期のユダヤ人信者が読んだように、聖書を読むことを目標としています。何百年にもわたって、そのことをしようとした人たちはいました。特にプリマス・ブラザレンがそうです。私たちはこの終わりの日において、一世紀の教会がしたような聖書の解釈法を理解することは重要だと考えています。

(もうすでにご存知の方はすみません。しかし、この教えに耳が慣れていない人や、信仰に入ったばかりの人のために繰り返したいと思います。)

一世紀のユダヤ人信者が、ヨハネの福音書の最初の4章を読んだなら、創世記と似てい ると言ったことでしょう。ヨハネの福音書での「新しい創造」は、創世記の創造に対して ミドラッシュ(象徴・パターン)によって、それを深く探求しているものであると言うで しょう。ヨハネの福音書の中の「新しい創造」は、創世記の中の創造と関係があります。 創世記では神さまが地上を歩いていたとあり、人はエデンの園でそれを聞いたとあります。これはイエスのことを語っています。神学的な用語では、それはキリストの顕現と呼ばれ るもので、旧約聖書でのイエスの現れです。ヨハネの第一章ではことばは人となったとあ り、もう一度、神さまが地上を歩いているのです。

創世記で記されている、小さな光と大きな光とは、月と太陽のことです。ヨハネの福音書では、また小さな光である――バプテスマのヨハネが登場します。ヘブライ語の名前はヨハナン・ハ・マトビル(Yochanan Ha Matbil)と言います。そして大きな光はメシアであるイエス、ヘブライ語ではイェシュア・ハ・マシアハ(Yeshua Ha Machiach)です。

創世記では、神の霊が水の上を動いて被造物を生み出しました。ヨハネ3章では、水と霊によって生まれた者について書いてあります。また、御霊は水の上を動いて、今度は

「新しい創造」を生み出すのです。創世記の創造の三日目では、神さまは水に関する奇跡を起こされました。ヨハネ2章1節では、「三日目に」カナでの婚礼において、神さまはもう一度奇跡を起こされました。今回は「新しい創造」です。神さまは人に対しての最初

の計画を、アダムとエバの結婚のつながりによって始められました。イエスも、公の奉仕

をカナの婚礼において開始し、神さまの第二の計画も、結婚のつながりによって始まりました。ヨハネの福音書での「新しい創造」は、創世記の創造と多くの類似点があります。ミドラッシュ(象徴・パターン)的な考えをしているのです。

これのような聖書の箇所は無数に存在します。ユダヤ教の中でいのちの木といえば、ヘブライ語でエツ・ハイーム(ets hayyim)というのですが、いちじくの木に象徴されます。いちじくの木はエゼキエル47章と黙示録に登場しますが、最初のものは創世記の創造において登場します。ヨハネ 1 章でナタニエルがイエスに、どうして自分のことを知っているのかと尋ねたとき、イエスは答えました。『わたしは、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。』こう言ってイエスがナタニエルに示したかったのは、ただ彼が文字通り、いちじくの木の下にいたのを見たということではなく(それも含まれていますが)、イエスはミドラッシュ、またはユダヤ的な象徴を用いて、「わたしはあなたを世界のはじまり、創造のとき、園にいたときに見た」と本当は言っているのです。

創世記とヨハネの福音書は、「創造」と「新しい創造」です。聖書はパン屋の釜から出されたばかりの、一かたまりのパンと比べることができます。スライスされる前は、どちらの端も同じように見えます。同じように、主は初めから終わりまで告げています。これを切り開いてみると、ヨハネの福音書に当たります。多くの保守的プロテスタントはその同じヨハネが、黙示録を書いたと信じています。このような理解をもって見てみると、はじめは「創造」、次には「新しい創造」、そして「再創造」があるのが分かります。創世記を黙示録と比較して見てみるなら、似たようなものを発見します。もう一度、黙示録では、初め創世記で見たいのちの木を見ます。創世記49章ではヤコブの、イスラエルの十二部族に対しての預言があります。見てください、黙示録7、14章では再び十二部族が出てきます。

黙示録は「竜と蛇は投げ落とされた」とあります。私は間隙説で主張されているように、

恐竜が数百万年も古いと思っていません。蛇はかつて四足歩行または、二足歩行でした。それは歩いていたのです。

メキシコから中国まで、すべての文明で竜の物語が残っているのは興味深いことです。私は何度も、オーストラリアのシドニーにあるトランガ動物園に行きました。そこはとても素晴らしいものです!長さ2.7または3メートル、高さ90センチ、幅60センチから90センチ、そしてあなたをも食べることの出来るトカゲを、あなたはどのように呼びますか?それはコモド・ドラゴンです。恐竜という言葉の意味は単に「大きく、恐ろしいトカゲ」というものです。私はそれをこの時代に見ました。

話を戻すと、黙示録で登場する竜は迫害者としてのサタンです。蛇とは欺く者としての

サタンです。イエスはアベルが最初の殉教者であるとマタイ23章で言いました。『あなたの弟の血が叫んでいる』神は創世記の中でカインに言いました。黙示録ではどうでしょうか?祭壇の下にいる殉教者の血が叫んでいます。

そして、創世記でヨセフは女と星の幻を見たと言われています。再び黙示録では、12章で星をまとった女が現れます。類似点はこのように次から次へと続きます。そうです、それは一かたまりのパンのようなのです。スライスされる前は、どちらの端も同じように見えます。それを切ってみると、そこにパターンを見出します。「創造」、「新しい創造」、

「再創造」です。

この背景を考慮した上で、創世記3章を開いてください。創世記をヘブライ語ではベレシート(Bereshit)と呼びます。「はじめに」という意味です。5節『あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。』私たちはここで、ヨハネの書簡で警告されているように、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢を発見します。黙示録とヨハネの福音書の著者であるヨハネは、この三つの書簡の著者でもあります。彼の著作を通して、創世記に対してのミドラッシュを見ることが出来ます。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢はもうひとつの例です。

総括的にいうと、神さまの中ではふたりの人しかいません。最初のアダムと最後のアダムです。あなたが肉体的に生まれたとき、アダムから生まれました。あなたが生まれ変わったとき、最後のアダムから生まれました。それはイエスです。

第二のアダムであるイエスは、ある面においてアダムのようにならなくてはいけませんでした。アダムとイエスは、神さまによって、生殖の媒体無しに造られ、罪の無い状態で創造されました。しかし最初のアダムは罪に陥りました。イエスさまが私たちの罪を彼自身で負うために、十字架に行く前に、彼は最初のアダムがした反対のことをしなければなりませんでした。なので、マルコ1章では、イエスに対する試みを描くとき、アダムがそうであったように野の獣が彼とともにいたとあるのです。アダムの特徴を持ったイエスがここでは描かれています。そこにサタンが来て、アダムとエバが陥ったのと同じ三つの誘惑を与えました。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢です。最初のアダムが陥ったものに第二のアダムは陥りませんでした。イエスは十字架に向かう前に、最初のアダムが圧倒されたものを乗り越えねばならなかったのです。そして、その後にようやく十字架に向かう

ことが出来ました。そこで『悪魔はしばらくの間イエスから離れた』とあるのです。最初

に、サタンはイエスに、最初のアダムが陥ったのと同じ罪に、陥らせようとするしかなかったのです。そして次に、イエスは私たちの罪を取り去ることが出来ました。彼はアダムのしたことと、正反対のことを行うまで、私たちの代わりに十字架に行くことが出来なかったのです。最初のアダムが陥ったことを乗り越えるまでです。

ここで、「知る」という言葉に注目してみたいと思います。ヘブライ語ではラ・ダオート(la daot)、ギリシア語ではグノスコ(gnosko)と言います。アダムとエバが地を支配しろと言われる前から、蛇はそこにいました。彼らは悪が存在するということをどんな時でも知っているべきだったし、それが何かを客観的に知るべきでした。しかし、彼らはそれを自分自身で知るべきではありませんでした。それが存在することは知っておくべきでしたが、経験的に知ってはいけなかったのです。私たちはエデンの園にいのちの木があったことを知っています。善悪の知識の木もそこにありました。アダムとエバは二つの選択肢を持っていました。いのちの木、あるいは善悪の知識の木です。彼らは自ら神になること、持つべきではない知識を持つことを選びました。悪の存在を知るべきでしたが、それを自分自身で知るべきではなかったのです。これを理解するために色々な知識があるということを知らなければなりません。聖書から二つの例を見てみましょう。

最初の例は、贖いの日の大祭司に見ることが出来ます。大祭司だけが至聖所に入ることが出来ました。さらに一年に一回の贖いの日であるヨム・キプール(Yom Kippur)だけにです。しかしヘブル人は誰でもレビ記を読めば、至聖所の中に何があるかを知ることが出来ました。備品、備えのパン、契約の箱などの記述を読めるのです。その意味では、そこに何があるかを知ることが出来たでしょう。しかし、大祭司のみが、その中に入ることがどのようなものかを、知ることが出来たのです。なぜなら、そのために任命されていたからです。彼はそのために聖なるものとされ、区別されていたのです。区別されるとはヘブライ語ではメ・クデシュ(me kudesh)といいます。ヘブライ語の「知る」と、「区別する」という意味である「聖別する」という言葉はラ・ダオート(La daot)レ・ヒート・コデシュ(Le Heet kodesh)というように聖書ではしばしば一緒に使われます。誰でも至聖所の中に何があるかを知ることが出来ましたが、そのために聖められた人だけが、至聖所の中に入ることがどのようなものかを、知ることが出来たのです。

他の箇所では、この二つの言葉は、結婚に関して、お互いに関連をもって使われています。誰でもグレイの生体構造(という本)を買って、女性の体を見ることが出来ます。図表、チャート、卵巣組織の写真、卵管、子宮組織など、どんな女性の組織も見ることが出来ます。全てがその本にあります。誰でも女性の体がどのように成り立っているかを知ることが出来ます。ヘブライ語で「結婚する」とは「聖なるものとする」「聖別する」ことを

意味します。ユダヤ人の結婚式ではメ・クデシュ(Me kudesh)または、「この指輪をもって結婚します」と言います。それは文字通り「聖別する」ということです。モーセとイスラエルの律法によってあなたを自分のために区別するという意味です。つまり「結婚する」と「聖別する」という言葉は同じなのです。ヘブライ語で「結婚を完了させる」とは

「知る」という言葉です。

誰でも、女性の体の中がどのようであるかを知ることが出来ます。しかし、そのために 聖よめられた人だけが、その中に入ることがどのようなものかを、知るべきなのです。同 じように、誰でも、至聖所の中がどのようであるかを、知ることが出来ますが、大祭司を 除いては誰も、その中に入るということがどのようであるかを、知ることが出来ないので す。ギリシア語のグノスコ(gnosko)とも同じです。アダムとエバは悪と悪魔の存在をど んな時でも知っておくべきでした。彼らは、堕落する以前であっても、地の上のものは支 配されなければならないことを知っておくべきでした。それを客観的に知るべきであって、経験的には知るべきではありませんでした。知るべきでしたが、同時に知るべきではなか ったのです。

『このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』聖書の中で裸は単に、マウイ、ハワイやイスラエルのエラトにあるようなビーチの裸を意味していません。そのような場所の東洋宗教の人たちは、裸で泳ぎ、人が考えもしないような所に竜や花、その他の多くのものを入れ墨しています。彼らは野蛮人がするようにビーチを裸で走っています。しかし、これは最初に話していたことではありません。アダムとエバはそうです、文字通り裸でした。しかしそれ以上のことを示しています。黙示録のラオデキアの教会を思い出してください。『あなたは、みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。』イザヤが語ったように、裸であることは救いの衣を着ていないことを象徴しています。

アダムとエバは、今、救われる必要があると知りました。罪を犯したからです。それゆ え、罪悪感を持った彼らは、いちじくの葉をつづり合わせました。創世記と黙示録で読ん だことを思い出してください。黙示録において、いちじくの葉は諸国の民をいやしたとあ ります。なので、聖書的にいちじくの葉は善い行いの象徴なのです。アダムとエバがいち じくの葉をつづり合わせたように、堕落した人間はいつでも、罪のない神さまに向かって、善い行いで自分を正当化しようとするのです。

地上の全ての宗教は福音と正反対です。神さま――イエスは――園でアダムとエバがいちじくの葉を覆いにしているのを見て、いちじくの葉を認めず、罪を取り去るためには血

の注ぎがなければならないと言われました。宗教は人が善い行いによって神さまに近づこ

うとするものですが、福音は神さまが人に近づこうとするものです。そうです、それがどんな形であろうと、宗教は福音と正反対なのです。たとえそれが、戸別訪問するエホバの証人やモルモン教であっても、ミツボヴォート(mitzvot=善行)を守ろうとする正統派ユダヤ教であっても、勤行を行うカトリック教徒であっても、ハイジのイスラム教徒でも違いはありません。全ての宗教が、いちじくの葉をつづり合わせることによっての、神さまの前での正当化という、役に立たない試みを基礎としているのです。しかしながら、そこには救いの確信はありません。対して、聖書は『私たちの義はみな、不潔な着物のようです』とはっきり告げています。マザー・テレサの義は不潔な着物のようであると私が言っているのでしょうか?いいえ、私ではなく神さまです。

クリスチャンは救われるために善い行いをするわけではありません。本当のクリスチャンはむしろ、救われたので善い行いをします。私たちの義ではなく、私たちを通してのキリストの義です。これは人の手による宗教とは全く違います。私たちは自分の救いを得るために善い行いをするのではなく、救われたからそうするのです。このことによって、なぜイエスさまがいちじくの木をのろったかが分かります。葉はありましたが、実はありませんでした。同じように、イスラエルは律法主義に基づく、行いによる義を持っていましたが、御霊の実を持っていなかったのです。

私たちが理解しておかなければならないことは、葉はとても重要だということです。中東では日光がとても厳しいので、葉が無くては実を保つことが出来ません。特にいちじくの木についていえば、実は葉の下に育ちます。しかし、イエスさまがその木をのろったとき、いちじくのなる季節ではなかったと書いてあります。この話から私たちが気付かなくてはいけない警告は、『人の子は、思いがけない時に来る』ということです。私たちはいつでも準備を整えていなければなりません。そうです、葉が無くては実は保てません。ヤコブが『行ないのない信仰は、死んでいる』と言ったようにです。葉に悪いところはないのですが、しかし、それを食べることは出来ません。葉は必要ですが、最も優れた葉でさえも、実が無いことを補うことは出来ないのです。私たちは人を、その行いによって知るのではなく、その実によって知るべきです。注目すべきなのは、行いは実があることの証拠だということです。なぜなら、葉は大抵、実が出来るときに現れるからです。しかし、葉が多いということは必ずしも実があることを保証しません。

アダムとエバはいちじくの葉をつづり合わせました。今日、全ての宗教がしているようにです。多くの福音的ではない「教会」が自分たちはクリスチャンであると思っています。もし、「どうやって天国に行くのですか?」と尋ねたなら、彼らは、善い行いが悪い行いよりも上回っていることによってです、というようなことを言うでしょう。裸であること

を隠すために彼らは何をしているのでしょうか?いちじくの葉をつづり合わせているので

す。彼らはミサで何をしているのでしょうか?いちじくの葉をつづり合わすことです。モスクでは何が行われているのでしょうか?また寺や神社ではどうなのでしょうか?いちじくの葉をつづり合わせています。それが救いを得るために役に立たないにもかかわらず、全ての宗教がしているのは、いちじくの葉をつづり合わせることです。救いのためには、血による贖いが必要です。

この話にはまだ続きがあります。『そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。』ヘブライ語での「そよ風」は「すずしい」という意味もあるルアハ

(ruach)と言う言葉です。ヘブライ語での「そよ風」は一方で、「霊」という言葉でもあ ります。それはギリシア語ではニューマ(pneuma)といい、ヘブライ語ではルアハ(ruach)です。なので、ヘブライ語の本文では、聖霊の存在が暗示されています。『それで人とそ の妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びか け、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」』私たちはこの「園の木」について 語られているときに、終わりの日に関することを思い出します。イエスさまはいちじくの 木のたとえを見て、学べとは言われませんでした。ルカを見ると、彼は『いちじくの木や、すべての木を見なさい。』または、「他の木を見て学びなさい」と言われました。これは 今日の主題ではないのでただ示すだけにしますが、この箇所にはほとんどのクリスチャン が分かる、いちじくの木のたとえ以上のものがあるのです。実は、いちじくの木や他の木 のたとえは士師記9章に見出されます。続けましょう。

園の中では登場人物が紹介されています。何よりもまず、肉体を持つイエスとして現れ た神がいます。欺く者としてのサタン。そして裸の男です。今までのところ、登場人物は 神さま、サタン、裸の男の三人です。読み進めてみると、『彼は答えた。「私は園で、あ なたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」すると、仰せにな った。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならな い、と命じておいた木から食べたのか。」』あたかも、神さまは知らなかったかのようです。もちろん知っていましたが、アダムに挑んだのです。『人は言った。「あなたが私のそば に置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」』神さまは その全知によって、誰が最初に食べたかを知っていたにもかかわらず、エバのもとには行 かず、アダムのもとに行きました。あってはならないことですが、私の結婚生活や家庭、 またはあなたの結婚生活や家庭に問題が起こるなら、男性の皆さん、それは私たちの過ち ではないかもしれません。しかし、神さまによると私たちの問題なのです。男性は結婚の 関係の中で、神さまの権威なのです。

聖書の中で、男性が女性に霊的な権威を持たせたときには、いつも災難が起こりました。

アブラハムとサラ、アハブとイゼベルがその二つの例です。これはそのままエデンの園に

逆行してしまうことであり、それ自体、サタンの古いやりかたなのです。今日、なぜリーダーシップがこの過ちに陥ってしまっているのでしょうか?それはすぐ分かります。続けましょう。

人は12節で言いました。『あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。』そして神である主は女に言いました。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は言いました。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」神である主は蛇に言いました。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」――復活によってです。『女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので…』ここで注目すべきなのは、のろいはまず、サタン、次に女、最後に男に宣告されたということです。最初はサタン、次に女、最後に男。裁きは罪の順番に応じて与えられました。

堕落によって、男は鈍感になりました。また女も堕落によって、ひどく敏感になりまし た。夫と妻が救われた多くの場合、大抵、妻が先に救われます。必ずしもそうであるわけ ではありませんが、少なくともおそらく75%の割合で妻が先に救われています。もし、 夫が先に救われるなら、これも75%の割合で妻が次第に救われます。――状況は人それ ぞれです。しかし、妻が最初に救われた場合、より困難な状況になることが多いのです。 クリスチャンの女性は長い間、信じようとしない夫を深く悲しみます。なぜ女性が救われ やすいのでしょうか?それはより敏感だからです。夫と妻が導きについて一緒に祈ってい るとき、多くの場合、妻が最初に、明らかに主からの声を聞きます。それは堕落のために、男性は女性の敏感さに頼っているからです。一方で、女性のほうが聖霊の声を聞きやすい のですが、また、偽りの霊の声を聞いて、霊的な誘惑にかられ、偽りに陥りやすいのです。女性は男性よりも霊的な誘惑に対して弱いのです。それゆえ、ちょうど男性が女性の敏感 さに頼っているように、女性は男性の保護に依存しています。クリスチャンの結婚での服 従は互いにすべきことですが、それは違った方法によってです。平等ですが違う役割を持 って、そして、責任は男性が持つものです。女性は霊的な誘惑に対して弱いのですが、男 性には少しも聞こうとしない弱さがあります。この堕落した世界ではそのようになってい るのです。堕落の以前にもそのような傾向はあったかもしれませんが、堕落によって今の

ようになりました。

それは園で起こりました。次に神さまは御使いを遣わして言いました。「ここから出て行け、もう入ってはいけない」4章に入ると、御使いは「出て行け」と言います。この園で人は堕落し、この園で、神さまは男と女にのろいを宣告しました。そしてこの園において、天使は「ここに入ってはならない」と言いました。ここで人はその神さまの前で裸でした。

しかし、この園において、救いの約束がありました。『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く』ご存知の通り、エバはイスラエル を象徴しており、さらには教会を象徴しています。教会はキリストの花嫁であり、イスラ エルは神さまのおとめです。

反ユダヤ主義と信仰のある教会への迫害は、頭と尾のようなものです。同じコインの裏表ともいえます。私たちはそれを区別しますが、離して考えることは出来ません。神さまのこの世に対しての救いの計画は、イスラエルとユダヤ人、信仰のある教会への預言的な計画次第です。聖書では2種類の人、ユダヤ人と信仰のある教会がアブラハムの子と呼ばれています。イエスの再臨は、イスラエルとユダヤ人、そして信仰のある教会に対しての預言の計画いかんに関わっているのです。

このために、ユダヤ人と信仰のある教会には共通の敵がいます。イスラム教徒がなぜ、イスラエルとアメリカを嫌うと思うでしょうか?それは純粋に政治的なものでしょうか?違います。そこには霊的な理由があります。歴史の中で今、アメリカは福音的なキリスト教の中心地となっています。それはイギリスが百年、2百年前にそうであり、宗教改革のときにドイツやスイスがそうであったようにです。

『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く』まず、多神教であったローマ帝国を見てみると、ネロの統治の下に教会に敵対しました。数年後、彼らはティトスの下にユダヤ人に敵対しました。現代ではソヴィエト連邦の下の共産党は、誰を一番迫害したでしょうか?ユダヤ人と新生したクリスチャンです!宗教裁判、大虐殺、殺戮の時代を通して、ローマカトリック教会は、誰を一番迫害したでしょうか?ユダヤ人と新生したクリスチャンです。アラファトを支持した人たちは何と言っていますか?CNNでは報道されないこととは何でしょうか?イスラム教系のアラブの推進派は毎日欠かさず言っています。「まず、土曜日のやつら。次に日曜日のやつらだ。聖戦!聖戦!」言い換えると、まず、ユダヤ人を殺して、次にクリスチャンだということです。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置

くとある通りです。

全ては園の中で起こりました。この観点でミドラッシュを見てみましょう。

ヨハネ18章1節、『イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこに入られた。』四つの福音書の中で、唯一、ゲツセマネを園と認識しているのはヨハネだけです。この場合もやはり、ヨハネは創世記に対するミドラッシュを考えています。ケデロンとは西の神殿の丘、東のオリーブ山やハル・ゼイティム(Har Zeitim)の間にある、狭い谷です。ゲツセマネとはヘブライ語のシェメン(Shemen)すなわち「油」から来た名前です。私たちがシェメン・ゼィオート(Shemen ziot)と呼ぶオリーブ油は、ゲツセマネから運ばれ、儀式上今も使われています。彼らはオリーブ山に育ったオリーブを収穫し、ゲツセマネで搾ります。(実は今日も、オリーブ山には果樹園があり、専門家が言うには、樹齢二千年の木々があって、依然として成長し続けているとのことです。イエスの時代にもそれは存在したでしょう。オリーブの木は地震や汚染などの、環境的な災害に会わなければ極めて長生きするそうです)イエスが向かったのもゲツセマネの園でした。そこで始まったのです。神さまにとっては罪のあるすべての人よりも、罪の無いひとりの人のほうが、価値があります。そのために、ひとりの人が、すべてのひとのために死ぬことが出来たのです。

その園において、神さまは彼自身が私たちの罪を取り去りました。そして、わが子であるイエスに罪を負わせたのです。それは私たちが彼の義を着るためでした。

その場所で神さまはイエスに、私たちの罪を負わせることを始められました。

神さまの混ぜ物なしの怒りが十字架上で彼に注がれました。『ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか」と彼らに言われた。彼らは、「ナザレ人イエスを」と答えた。』イエスの本当の名前はラビ・イェシュア・バルヨセフ・ミ・ネツェレツ(Rabbi Yeshua BarYosef mi Netzeret)でした。彼らはイエス・キリストがどのような人かを知りませんでしたが、ラビ・イェシュア(Rabbi Yeshua)なら知っていました。死人を生き返らせ、ツァラトを癒し、水の上を歩いた、その人だということを。

『イエスが彼らに、「それはわたしです」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そし

て地に倒れた。』たとえそれが敵であっても、すべてのひざはひざまずきます。

聖書の中で御霊によって倒される出来事があった時、それは一生に一度の人生を変える出来事だったことを思い出してください。人が堕落しているときに何が起こるかは問題ではありません。その人が立ち直ったときに人生がどのように違うかが重要なのです。しかし現代では、多くのクリスチャンたちが毎週教会の礼拝でこの経験を作り出そうとしています!倒れるために列に並んでいるのはどのような人たちでしょうか。先週、倒れるために列に並んでいた同じ人たちです。そのような人たちはスリル感のために倒れようとします。何においてもそうですが、悪い、姦淫の時代はこのようなしるしを求めます。

聖書において、御霊によって倒れることが神からの祝福であるとき、当の人は前方に倒れます。後方に倒れるのは唯一、呪いと裁きの時だけです。キリストを捕えに来た人たちがそうでした。

こう言うとおかしく聞こえるかもしれませんが、人々が祈るために教会の前方に出ていくと、定められた“キャッチャー(倒れる人を支える人)”が後に続きます。その人たちは後ろに立って、ただ彼らが倒れてくるのを待っているのです!倒れることが要求されています。もっと言えば、倒れないといけないというプレッシャーがあるのです。彼らが行う祈りは体を揺らすもので、そのためにバランスを崩して倒れます。目を閉じ、感情的になったクリスチャンはそれが神の力だと思い、倒れてしまいます。しかし、彼らは間違った方向に倒れています。私は個人的にこのようなことを何度も目撃してきました。

人々はこの体験が神からのものであると主張します。もしかすればそうであるかもしれませんが、もし神からのものであったなら、それは神が怒っておられるというしるしです。私はこれが悪霊による欺きと組み合わさった、催眠誘導であると確信しています。たとえそれが神からのものであったとしても、裁きでしかないのです。

だれを捜すのか。イエスは、それはわたしだと言いました。ギリシア語で「それはわたしだ」とはエゴ・エイミ(ego eimi)と言います。ギリシア語で同じ言葉は、ヨハネ9章でイエスが「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」と言った箇所、ここもエゴ・エイミです。人々は石を投げつけようとしました。なぜならご自分を神さまと等しくしていたからです。

登場人物に戻って考えてみましょう。エデンの園での神は、人としてのイエスです。ゲ

ツセマネの園での神も、人としてのイエスです。しかし、エデンの園にいた、欺く者とし

てのサタンは今もいます。ヨハネの福音書で、弟子たちがイエスと共にゲツセマネに行く 前、ユダに何が起こりましたか?その箇所は単に、サタンが彼のうちに入ったとあります。個人的にサタンにとり付かれるのは、反キリストまたはにせ預言者か、ユダのふたりだけ です。『彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったの です。』聖書の中でユダを見る時はいつでも、聖霊は反キリストについて何かを教えてい ます。ユダも反キリストも、どちらもお金に執着します。どちらも兄弟をだまします。

「主よ。まさか私のことではないでしょう」――彼らは、イエスが、裏切り者が誰であるかを明らかにするまでは、分からなかったのです。同じように、イエスが明らかにされるまでは、人々は誰が反キリストかを知ることは出来ません。

もしあなたが繁栄信仰の福音(神さまは私たちがお金持ちになることを望んでおられるなど)や、エキュメニカル運動(福音的な教会と、ローマ・カトリックのような福音的でない教会がつながりを持つこと)を見抜けないなら、反キリストが到来したときにはどうなってしまうでしょうか。

ユダはどうやって人々を信用させたのでしょうか?彼はマザー・テレサの手法を使って信用させました。いちじくの葉です。「なぜこれを売って、貧しい人に施さなかったのか?」彼は人に取り入るため、貧しい人に哀れみを抱いているように見せかけました。良い人であると思わせるためです。しかし、彼はただ、誘惑し、カモフラージュし、人を操るために貧困の苦しい状況を使ったにすぎません。マザー・テレサは亡くなる前に、救いの確信が無いと言っていました。彼女がノーベル賞をもらった時に、彼女はインドの人をクリスチャンに回心させるためではなく、より良いヒンドゥー教徒、より良いイスラム教徒にするためであったと明らかにしました(注…詳細は引用のページをご覧ください)。それは彼女の福音です。彼女は彼らの体を洗い、威厳を持ってきれいな場所で死ねるようにし、父、子、聖霊の御名によって、彼らを地獄に送ったのです。



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