Abrahams Journey - Japanese
アブラハムの旅
ジェイコブ・プラッシュ
創世記 12 章を開いてください。ヘブライ語では創世記を“ベレシート(はじめに)”といい
ます。これはイエスが生まれる約 2166 年前の話です。
主はアブラムに仰せられた。
(彼の名はまだアブラハムではなく、アブラムでした)
『「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。
地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」』
『アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。アブラムは妻のサライと、』
サライとはヘブライ語で“わが王妃”という意味です
『おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。』
『さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在す
るために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。』
実際にサラはアブラハムと異母兄妹でした
『そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのび るだろう。」アブラムがエジプトに入って行くと、エジプト人は、その女が非常に美し いのを見た。パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの 宮廷に召し入れられた。パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラ ムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するように なった。しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛 めつけた。そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何とい うことをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。なぜ彼女 があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しか し、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。』
『それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべ ての所有物と、ロトもいっしょであった。アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでい た。彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、初めに 天幕を張った所まで来た。そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラ ムは、主の御名によって祈った。アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや 牛の群れ、天幕を所有していた。その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そ のうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。』
『そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ロトが目を上
げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったの
で、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、 東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。』(創世記 12 章1節-13 章 11 節)
それはハラン以前に始まった
聖書の中には、旧約聖書に記されなかったけれども、古代ユダヤ人には知られており後に新約聖書に書かれたことがあります。使徒の 7 章でステパノが殉教を遂げる前に行った弁明の中で創世記には記されていなかったことがふれられています。
『兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父アブラハムが、ハランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現われて、『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け』と言われました。そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、ハランに住みました。そして、父の死後、神は彼をそこから今あなたがたの住んでいるこの地にお移しになりましたが、』(使徒 7 章 2 節-4節)
使徒の働きは、まだアブラハムがメソポタミヤ――カルデヤのウルにいるときに彼が召されたと教えています。創世記はそれからかなりたったハランでのことを書いているのです。
アブラハムはすべて信じる者の父です――ユダヤ人やアラブ人、イスラム教徒でさえアブラハムを尊敬します。アブラハムはアラブ人には“イブラヒム”と呼ばれ、ユダヤ人には
“アッバ・アブラハム(父なるアブラハム)”と呼ばれます。“すべて信じる者の父”とは
神学的に彼がすべての人の原型であるということです。アブラハムの経験は彼の子孫に起
こることの予型なのです。
エジプトの象徴
“エジプトを出ること”を理解しましょう。ききんのときアブラハムはエジプトへ下ってそこに滞在しました。神はパロをさばき、アブラハムはエジプトを出てイスラエルに入りました。後にその子孫ヤコブの子どもたちはききんのとき、エジプトへ下り神のさばきが頑ななパロのもとに下りました。このようにアブラハムの子孫はアブラハムと同じことをしたのです。つまり、彼らはエジプトを出るときにエジプトの富を携えてイスラエルに入りました。アブラハムに起こったことは、その血がつながっているユダヤ人にも起こるのです。
1 コリントの手紙でパウロはそれが私たちにも起こることだと教えています。エジプトは この世の象徴であり、約束の地は天の象徴です。またモーセが民に血を振りかけて契約を 結び、紅海を通って民を約束の地に導いたことは、イエスが私たちをこの世から導き出し、バプテスマを通して天に導くのと同じことです。(1 コリント 10 章)私たちはエジプトか ら出てきました。パロはもちろん悪魔の象徴であり、この世の神、またやがて来る反キリ ストを最もよく象徴する者のひとりです。アブラハムはエジプトを出て、その子孫である ユダヤ人もエジプトを出ました。そしてアブラハムがすべて信じる者の父であるために、 私たちの救いもエジプトを出ることなのです。
さて、次の節に多くの人が疑問を持ちます。特にリベラルな神学者たちがそうです。
『わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した』(マタイ 2 章 15 節)
ヘロデ王が死んだときこの言葉が引用されました。マタイは預言者ホセアの書 11 章 1 節か ら引用しました。しかし、そこでホセアはユダヤ人の出エジプトのことを語っていました。マタイはどうしてユダヤ人の出エジプトの文脈をイエスに当てはめたのでしょう?
それはヘブライ的な理解では預言は“パターン”だからです。アブラハムはエジプトを出、ユダヤ人はエジプトを出、私たちもエジプトを出たので、アブラハムの子孫であるイエスもエジプトから出なければならないのです。こうしてイエスはパターンを成就しました。神は再び邪悪な王であるヘロデをさばき、アブラハムの特徴を備えた子孫であるイエスもエジプトを出ました。ヘブライ人の預言はパターンです。エジプトを出ることの最終的な
意味は教会の携挙と復活です。出エジプトでなされたエジプトへの暗やみや血などのさば
きは黙示録で再現されています。また、パロがモーセとアロンの奇跡を真似たのは、反キリストとにせ預言者がイエスとその証人の奇跡を真似るのと同じことなのです。
ヤコブの子孫たちはエジプトを出るときにヨセフの骨を約束の地に携え上りました。なぜならキリストにある死者が最初によみがえるからです(1 テサロニケ 4 章 13 節-17 節)。私たちはエジプトから共に出ていきます。これは復活の象徴であり、それこそがエジプトを出ることの最終的な意味です。ヘブライ的な預言はいつもパターンであり、複数の成就があります。しかし、それぞれの成就は最終的な成就の象徴であり型でもあります。これはアブラハムについても真実です。彼の経験はユダヤ人と信者たちによって再現されました。私たちはエジプトから出るのです。
アブラハムへの契約
神はアブラハムへ 5 つの契約を与えられました
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アブラハムの名を偉大なものとすること(これは確かに起こったことです)
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彼にその地を与えること(これも起こっています)
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彼を国民とすること(これも起こっています)
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神はまたアブラハムを祝福する者を祝福することを約束されました。これは後にヤコブ、アブラハムの子孫へと継承されました。
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神はアブラハムとその子孫をのろう者をのろうと言われました(これはいつでも起こってきました)
二つの要因のために、ずっと昔に下るはずだった神の裁きはアメリカに下りませんでした。ひとつは、奉仕や伝道、慈善活動などに使われているドル全体の 5 分の 3 が北アメリカか ら来ていること。もうひとつは、他の国々にましてアメリカがユダヤ人を優遇してきたこ とのためです。オランダもアメリカと同じです。オランダで起きている不品行は信じがた いものですが、この国はホロコーストにおいてユダヤ人を保護したのです。唯一このこと のために神の御手が下らないでいると私は確信しています。アムステルダムに行ったこと がある人なら、なぜこの国に裁きが下らないのか不思議に思うことでしょう。
何があったとしても、神はユダヤ人を祝福する者を祝福し、ユダヤ人をのろう者をのろいます。ナチスがドイツでの支配権を握ったとき、映画『シンドラーのリスト(1993 年)』を見た人なら分かるのですが、彼らはユダヤ人の居住地(ゲットー)の周りに壁を建てました。そして、その壁を乗り越えようとしたユダヤ人は誰でも機関銃で打たれました。その後に何が起こったでしょうか?ナチスの第三帝国が崩壊すると帝国の首都ベルリンに壁が建てられ、それを乗り越えようとするドイツ人は誰でも機関銃で打たれました。その壁は
シュパンダウ刑務所でルドルフ・ヘス(ナチ党副総裁)が亡くなるまで倒されることはあ
りませんでした。1930 年代から 40 年代に行われたことに責任がある最後のナチ党員が死ぬまで、その壁は倒されなかったのです。
私の祖父母はイギリスで生まれました。大英帝国は当時世界を制していました。もし彼らに大英帝国に太陽が沈む日がやってくると言ったなら、彼らは笑い飛ばしていたことでしょう(植民地が世界中にあることから“太陽の沈まない国”と呼ばれていたからです)。しかし、イギリスはユダヤ人に帰還を約束していながらバルフォア宣言を破棄し、ユダヤ人が強制収容所に行くことを余儀なくしました。ホロコーストが公になった戦後であっても、イギリスはキプロス島の収容所にユダヤ人を閉じ込め、イスラエルに戻れなくしました。それはイスラム教徒を刺激しないためです。現在、イギリスでは 24 時間ごとに日が沈んでいます。私はそれをよく知っています。そこに暮らしているからです。
スペインでは異端審問がありました。スパニッシュ・メイン(スペインの領地)と呼ばれるものがあったように、スペインは世界の偉大な勢力であり、異端審問があるまでは新世界において傑出した国家でした。1492 年にコロンブスが新大陸を発見し、その直後ローマ・カトリック教会の命を受けてフェルナンド 2 世とイザベルのもと異端審問が始まりました。それが始められてからというもの、スペインの無敵艦隊がフランシス・ドレークに沈められ、イギリスが覇権を握るのに時間はかかりませんでした。
『あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう』のです。
アブラハムの子
ここで言っておきたいのですが、これはユダヤ人と何の関係もありません―むしろアブラハムと結ばれた神の契約のためなのです。そうすると、教会に関してもこのことは真実ではないでしょうか。信者たちもアブラハムの子だからです。教会を祝福する国は祝福を受け繁栄し、それをのろう国は神の裁きのもとに置かれてきました。東ヨーロッパを見てみるとそれは明らかです。
反ユダヤ主義と教会の迫害はほぼ表裏一体の関係を成しています。なぜなら、この 2 種類
の人たちだけが聖書において“主に選ばれた者(”と呼ばれているからです。
詩篇 105 章 6 節、2 テサロニケ 2 章 13 節)
わたしは、おまえと女との間に、
また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く…(創世記 3 章 15 節)
この“女”はイスラエルですが、ひいては教会もその中に含まれています。サタンがいつ
でも嫌ってきた 2 つの人種はユダヤ人と新生したクリスチャンです。なぜなら彼らがアブラハムの子孫であり、“神の民”と呼ばれる者たちだからです。
鉄のカーテンが無くなるまで、共産主義者たちがロシアで最も嫌っていた人たちとは誰で しょう。ユダヤ人と新生したクリスチャンです。ローマ・カトリック教会が最も迫害した のは誰でしょうか。ユダヤ人と新生したクリスチャンです。イスラム教徒は誰を最も嫌っ ているでしょう。ユダヤ人と新生したクリスチャンです。東方正教会も同じ有様でしょう。神はアブラハムの血のつながった子孫、そして信仰による子孫を祝福する者を祝福し、ま たのろう者をのろいます。ユダヤ人と教会をのろう者は神のひとみに触れる者なのです
(ゼカリヤ 2 章 8 節)。しかし、ここで話は終わりではありません。
私たちの旅でもある
アブラハムは旅をしましたが、その旅は私たちの旅でもあります。創世記の記述では、その旅はハランにおいて彼の父が死んだとき始まったとあります。そのときアブラハムが神の召しに応えました。しかし、新約聖書によるとそのときが旅の始まりではないのです。神の召しはカルデヤのウルから始まっていました。
カルデヤのウルはおよそバベルの塔が建てられていた場所です。そして後にバビロン帝国 が興った場所でもあります。アブラハムの父は偶像を作って生計を立てていました。それ はユダヤ人の伝承であるタルムードから分かります。彼の父は偶像の彫刻家だったのです。タルムードの中にはひとつの逸話が残されています――これはただの逸話です――アブラ ハムは金槌(パティーシャ)を取って父のものであった偶像を全て叩き壊しました。しか しその中の一体だけを残しておいて、その偶像に金槌を持たせておきました。やがて父の テラがそれに気づいて「誰がこの神々をみな殺したのだ」と言いました。「あの神がやっ たのです、金槌を持っているあの神が」と言うと「そんなわけがない!あれはただの石の 欠片に過ぎず命も持たず、その中に息も無いではないか!」と言いました。そこでアブラ ハムは言ったのです、「その通りです、お父さま―おっしゃる通りです」これはタルムード からのただの逸話ですが、アブラハムの父は偶像の彫刻家だったのです。
父が死ぬという重大な局面にさしかかり、やっとアブラハムは神の召しに応えたのです。それはカルデヤのウルにいた時から、若いころから与えられていた召しでした。
同じことが多くの人にも起こります。神は人を引き寄せ、絶えず呼びかけていますが、人
生の危機に直面するまで人は神の恵みと召しに応えようとしません。それはときには、親
しい者との死別であったり、生活が立ち行かなくなったり、健康を損なうことまたはそれらが合わさったものであったりするでしょう。神は絶えず呼びかけています。人がそれに応じようとしないときでも、神は何とかして救おうとされています。神は不幸な出来事を通してでも救おうとされるのです。
神は人々をあらかじめ知っておられます(ローマ 8 章 29 節)。私はカルヴァン主義者ではありませんが、神は私たちを世のはじまる前から知っておられ、胎の中から、子どものうちから私たちをみもとに引き寄せています。人が生まれ変わり、その人が主イエスの救いの知識に達し最初に救われたとき、未来に待っていることや現在起きていることの意味が理解できるようになるだけではありません。過去の事柄さえ明らかになるのです。目が開けたようにすべてが分かります。人が主を信じると、過去の人生がなぜそのように導かれてきたかが分かります。頭の中でははっきりとしなかったこと、ベッドで寝る前に頭の中をかけめぐっていたようなこと、あなたの経験や何気ない印象、それらは以前何の意味も成しませんでした。何らかの抽象的な側面があったのかもしれませんが、ただ何を示しているかが分かりませんでした。しかし一旦あなたは救われると、「はじめからずっと導いてくれたのは神なんだ。御子を通して神を知ったこの時この瞬間まで導かれたのは」と気付きます。人が生まれ変わると、未来に待っていること、現在に起こっていることの意味が分かるだけではありません。過去にあったことでさえその意味が分かるのです。神はずっと初めから私たちを導いています。
しかし、ちょうど父アブラハムがそうであったように、私たちが神の恵みとその召しに応えるためには人生の危機が必要なことが多いのです。その後に真実の旅が始まります。
家族から離れることはとても困難なことですが、多くの場合福音はそれを要求します。こ れはユダヤ人にとって真実なことです。またイスラム教徒たちの中にあっても真実です。 しかし、そのことで苦しんでいたローマ・カトリックや共産主義者の家族、ギリシャ正教、ロシア正教の家族の中にいる人たちを私は知っています。パウロは 2 テサロニケの手紙で 異邦人さえもユダヤ人が自分の家族から受けたような非難を受けたと書いています。イエ スは分裂をもたらすために来ました(ルカ 12 章 51 節)。救われた家族がいることは素晴 らしいことです。しかし死は家族を分かちます。家族とずっと一緒にいるためには彼らも 救われなければならないのです。
アブラハムは旅を始めました。主と会ってから最初に滞在した場所はシェケム(Shakem)でした。“シェケム”とはヘブライ語で“肩”を示す言葉です。これは身体の肩という意味ではなく、重荷を負うところという意味です。その地は現在のナブルスの町に近くにあ
りました。アブラハムはそこである樫の木の下に宿りました。“モレの樫の木”です。“モ
レ”とは現代ヘブライ語では“教師”ですが、古代ヘブライ語では“知識”を表す言葉で、特に神の知識を表していました。
木の象徴
ユダヤ人のミドラッシュ(聖書の解釈)において、木の下に宿ることが何かを理解する必要があります。
第1世紀のユダヤ人がヨハネの福音書――1 章・2 章・3 章を読んだなら、これは創世記の創造に対するミドラッシュであると言ったことでしょう。ヨハネ 1 章・2 章・3 章での“新しい創造”は創世記 1 章・2 章・3 章での創造に対するミドラッシュです。
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神は最初の創造において地を歩いていました(アダムが園で神が歩くのを聞いたことを思い出してください。それはイエスです)今度は神はヨハネの福音書の新しい創造において地を歩いていました。ことばは人となったのです(ヨハネ 1 章 1節)。
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創世記で神は暗やみと光を分けました。今度はヨハネの福音書では神は新しい創造において、暗やみから光を分けにやって来ました(ヨハネ 1 章 5 節)。
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創世記では水の上に神の霊があり被造物を生み出したとあります。水と霊によって生まれた者(ヨハネ 3 章 15 節)、神は新しい創造ではいのちを水から引き出しました。
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創世記では小さな光と大きな光がありました。一方で新しい創造では“ヨハナン・ハマトビル Yochannan Hamadvil”――小さな光であるバプテスマのヨハネがいて、“イェシュア・ハマシア Yeshua HaMashiach”――大きな光であるイエスがいました。一方は他方の証をし、受けた光を反映します(ヨハネ 1 章 8節)。
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創世記の創造の 3 日目に神は水に関するしるしをなされました。ヨハネ 2 章 1 節
を見てください、カナで結婚式があったときそれは 3 日目であったと書いてあります。神はそこでも水を用いたしるしをなされました。
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神は人の創造の計画を結婚において、アダムとエバの結婚のつながりにおいて始められました。そこで今度は神は人に新しいいのちを与える計画をカナの結婚において始められたのです。イエスの公の奉仕は結婚式で始められました(ヨハネ 2
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章 11 節)。
このように第 1 世紀のユダヤ人はヨハネの福音書を読んだことでしょう。新しい創造はかつての創造に対するミドラッシュなのです。
ここでヨハネ 1 章を見てみると次のようにあります、『ナタナエルはイエスに言った。「ど
うして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ
前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」』(ヨハネ 1 章 48 節)ナタナエルが実際にどんないちじくの木の下にいたかということは、ミドラッシュでは“ペシェット(peshit)”――単純な意味として知られています。(これはグノーシス主義ではありません。グノーシス主義は象徴を教理の基礎にするのに対し、ミドラッシュでは教理を例えをもって理解を深めるために象徴が使われます)そのペシェットでは「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た」という意味ですが、“ペシェル(pesher)”――より深い意味は
「わたしはあなたをエデンの園から、世の創られた時から見ていた」ということなのです。ユダヤ教でいのちの木は“エツ・ハイーム(Ets Chayim)”と呼ばれ、いちじくの木に象徴 されます。とすると、イエスが言おうとしていたことは、「生まれつきのいのち、または 新しく与えられるいのち、どちらが良いですか。わたしはあなたをエデンの園から、世の はじまりから知っていました。わたしはあなたをいのちの木の下で見たのです」というこ とです――エツ・ハイーム、いちじくの木です。
アブラハムは樫の木の下にいました。“樫の木”はヘブライ語で“エロン(Elon)”といい、とても硬い木です。また強度のある材木であり、力のある木です。聖書の中で人が木の下に宿っているのを見たら、それはいつでもユダヤ人のミドラッシュを用いた象徴だと考えるようにしましょう。サウル王が殺される前には彼は柳の木の下にいました(1 サムエル
22 章 6 節)。エリシャが失意の内にいたとき彼はえにしだの木の下にいました(1 列王記
19 章 4 節)。アブラハムはというと彼はモレの樫の木の下にいました――アブラハムは神の知識による力の場所にいたのです。
“シェケム”は自分の重荷を下ろし、神を初めて知る場所です。そこにアブラハムは祭壇を作りいけにえを捧げました。神との関係が変わるとき、私たちはいつでも祭壇を作ることが求められています。ヘブライ語で祭壇は“ミツァベアク(mizbeach)”と呼ばれ、ただひとつの目的のために作られます。それはいけにえを捧げるためです。捧げることがなければ、何の進歩もありません。
シェケムからベテルへ
これまでのところは順調でした。彼はシェケムに来ました。それから次の場所へ移りました。次の滞在場所はベテルと呼ばれる地、ヘブライ語で“ベイト・エル(Beyth El)”――
“神の家”という場所です。人が主について知り始めると普通最初にすることは教会に行くことです。ベテルは西にあり、またアイと呼ばれる地がその東にありました。“アイ”はヘブライ語で“廃墟の山”という意味です。アブラハムはベテルにおいてもうひとつの祭壇を作り、東に背を向けました。東は彼が生まれた地であり、バベルの塔、バビロンが
あった方角です。自分の過去、東の地、生まれた地は廃墟の山となり、今彼は神の家に顔
を向けていたのです。これは大祭司がいけにえを捧げるときと同じでした。大祭司は東、バビロンに背を向け西に顔を向けました。そこでアブラハムはもうひとつの祭壇を作り、再びいけにえを捧げました。
教会に来るということは何かを失うということを意味します。私は献金袋に入れる物のこ とだけを言っているのではありません――自分の過去に背を向けるということがそれです。昔の友人はただの知り合いとなり、彼らと関わるのは証をするためだけとなるのです。自 分が持っていた昔の興味や関心などは、少しの間捨て去らなくてはならないかもしれませ ん。
私は伝統的な賛美歌以外どんな種類の音楽も聴くことができませんでした。なぜかという と、私は音楽に入り込んでいたからです。特にロックやクラシックに凝っていました。そ れに加えて私は薬物をしていたのです。それらの音楽は麻薬を吸っていたときに聴いてい たものでした。私は 2、3 年ほどその音楽を聴くことができませんでした。数年たって自分 の信仰が成長してからは何の影響も無くなり、私の目をそらせるようなことはしませんで したが、音楽はしばらくの間祭壇の上に置かれなくてはならなかったのです。それは私の 目をイエスからそらせるもとだったからです。信仰が成長してからは問題ではありません。今の私にとってはただの音楽です。成長してから音楽は何の問題でもなくなりましたが、 その時期の私にとってはひとつの誘惑でした。祭壇に置かなくてはならないのは皆同じも のではないでしょうが、何かを祭壇の上に置かなくてはならないことは確かです。私たち は過去に背を向けます。もちろん罪に背を向けることは明らかですが、私たちは何かを失 うのです。
そこまでは良かったのです。しかし、ベテルまで一度も達しない人がいることを知っているでしょうか。私はそのような人を“シェケムの住人”と呼んでいます。彼らは福音を理解し信仰の告白をしたかもしれませんが、そこまでなのです。そこから先に進まない人たちです。
私はロンドンにいる“シェケムの住人”を知っています。彼はイギリスのスピーカーズ・コーナーにいます。そこで私もイスラム教徒にやじられたりしながら日曜の午後に今でもときどき伝道しています。彼の名はロバートといって、とてもいい人です。いつも大きな看板を前と後ろに下げていて、イギリスではそれを“サンドイッチ・ボード”と呼んでいます。その板には「キリストが私たちの罪のために死なれた」と書かれており、彼はスピーカーズ・コーナーを歩き回っています。そこの伝道者たちはお互いのことをよく知っているので、私は彼に言いました、「ロバート、私はもう行かなければならないよ。教会で
午後の礼拝があるんだ」そう言うと彼は私の教会がどんな教会かと尋ねてきたので、説明
しました―その当時はロンドンのバプテスト派の教会に通っていました。「君はどんな教会に行ってるんだい?」と私が聞くと、ハイ・アングロ・カトリック教会だと言ったので、
「福音的な教会に行ったらどうなんだい?」と私は言いました。「そうだな、福音的な教会に一度行ったことがあるけど、皆すでに新生を経験している人ばかりなんだ、私が伝道すべき人はそこにはいないよ」このようなことを彼は真剣に言っていたのです。彼は福音を知っていましたが、彼の知っていることはそれだけという様子でした。彼は一度もベテルに行ったことがないのです。
アブラハムはベテルに行き、祭壇を作り自分の過去に背を向けました。しかし、何かが間違った方向に向かってしまったのです。
エジプトに下る
マタイ 13 章を見ると種はいくつかの違った土の上に落ちたとあります。悪魔は人を信仰からそらせ堕落させるために、肉の欲や若いときの情欲やそのようなものを使えないと分かったなら、他の方法で向かってきます。それは何らかの危機や不幸な出来事です。悪魔はあなたに自分の運命は自分で切り開かなければならないと感じさせます。つまり逆境の時には神があなたを捨て去ってしまったと感じさせるのです。そしてあなたは自分で決定を下し始めてしまうのです。幼い信者がこのように悪魔に説得されてしまうのは容易なことです。
人は最初救われたとき“はじめの愛”(黙示録 2 章 4 節)を持ち、自分はすぐマタイやマルコ、ルカ、ヨハネのようになれると感じ、出て行って奇跡を行えると思います。何でも可能だと思ってしまうこともよくあります。彼らははじめの愛を持ち、熱意に動かされていますが、彼らには経験も無ければ多くの知識もありません。自分が何でも知っていると考えていても、本当は何も知らないのです。しかし数ヶ月後に試練がやって来ると自分の知っていたことはとてもわずかであったと気付きます。救われたばかりの人ははじめの愛を持っています――それは彼らがいて持って当然のものであり、私たちが無くしがちなものです。しかし彼らは知恵や経験、知識を持ち合わせていません。そのため彼らは困難に陥るのです。
アブラハムはそこでどうしたのでしょうか?エジプトに下りました。エジプトは何の象徴でしたか?世の象徴です。
イザヤ 30 章を見てください。エジプトに下ることについてイザヤはどう語っているのでしょうか。ヒゼキヤ王は良い王でしたが、役に立たない助言を受けていました。彼はその戦略において危機に瀕していたのです。東側からはアッシリヤが侵略し、他方からはエジプトが来ていました。ヒゼキヤは二つの超大国に挟まれていたのです。そこで彼はエジプトに下ることを勧める助言を受け入れました。預言者イザヤはそのようなことを言う者たちに警告していました。危機の中で自分たちの知恵によってエジプトに行こうとすることに関してです。イザヤ 30 章 1 節には次のようにあります。
ああ。反逆の子ら。――主の御告げ――
彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、
同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。
注意してください。エキュメニズム(教会統一運動)に傾倒している人たちは神の霊によらず同盟を結んでいるのです。その人たちはエジプト、この世の宗教のもとに行ってしまいました。
彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示をあおごうとしない。
パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。 ―2 節
彼らがエジプトに行くことではなく、主の指示をあおぐことなく行ったことが問題だったのです。世とどんな関わりを持つことがあっても、主の知恵と導きを受けてからでなければなりません。世の法律の制度と関わりを持つとしても、主の導きを受けなくてはなりません。世の金融制度、世の保険制度、学校制度と関わりを持つとしても――世と関わりを持つときはいつでも主に指示をあおぐ必要があります。私ならアスピリン(鎮痛剤)を飲むように勧めるなら、祈ること無しにすることはないでしょう。世と関わりを持つときはいつでも主に指示をあおぐ必要があるのです。しかしヒゼキヤはそうしませんでした。危機に陥ると肉の性質はそれ自身が強いと感じるものに引き寄せられます。それはこの世です。
しかし、パロの保護にたよることは、あなたがたの恥をもたらし、エジプトの陰に身を隠すことは、侮辱をもたらす。 ―3 節
誰であれ世に向かって行ってしまうなら、結局自分が侮辱を受ける状態になります。信仰を捨てた者はいつもそうなります。この上ない侮辱を受けることになるのです。アブラハムに起こったことを見てください。彼はとても悪い状態になり、実際に他の男に自分の妻
を性的に渡すまでになっていました。
同じままではいられない
イエスに会ったなら同じままであり続けることは出来ません。一旦主を知ったなら、その人はより良くなるかより悪くなるかのどちらかです。しかし、同じままであり続けることはありません。もし、人が世に戻ってしまったなら、その人の道徳水準は救われる前よりずいぶんと低いものとなります。
ただそうなるだけではなく、侮辱を受ける状態に陥ります。イザヤ 31 章 1 節には次のようにあります。
ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。
彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。
しかし主は、知恵ある方、わざわいをもたらし、みことばを取り消さない。 主は、悪を行なう者の家と、不法を行なう者を助ける者とを攻めたてられる。エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない。主が御手を伸ばすと、助ける者はつまずき、
助けられる者は倒れて、みな共に滅び果てる。
エジプトに助けを求めても無駄です!馬の力は肉であり霊ではありません。古い性質は絶えず肉に目を向けます。それは世が強いと考えるものに傾くのです。お金や政治権力、影響力、名声。世に関わろうとするなら、そして神が世のものを使うのなら、神の考える通りにそれがなされます。世が主導権を握ることはありません。世と関わりを持とうとする時はいつでも主のみこころが必要です。逆に肉はこの世のものに頼ろうとします。肉は世が強いと考えるものに傾くのです。
アブラハムは肉に頼っても助けにならないことを苦しみながら学びました。彼が進んで行った地域は古代にはシュルの荒野として知られていました。シュルの荒野は、簡単に言うと、西にはシナイ砂漠があり東にはネゲブがある地域です。それはとても長く暑い気候が続く“ミツライム”(エジプト)までの長い旅でした(ヘブライ語ではエジプトのことを“ミツライム”といいます)。後に彼はずっとベテルまで戻って来たとあります(創世記 13 章
1 節)。
初めの旅を再開すること
人は自分が落ちた所から始めなければならないことを知っているでしょうか。彼は本当な らその旅でより遠くへ行き、神が望んでいる場所にたどり着くことが出来たはずです。し かし、彼は自分の時間を無駄にしてしまったのです。信仰を捨ててしまう者は自分の時間、人生を無駄にしてしまいます。永遠に比べると 10 年や 20 年は大した長さではありません が、多くの人がこの世の中で過ごす80 年や90 年と比べると、10 年、20 年は無駄にするに はとても長い時間です。信仰を捨ててしまう者は自分の時間を無駄にします。特に若さを 無駄にしてしまいます。そしてそれは何の良いものを残しません。侮辱を受けるような状 態に行き着くのです。彼らに残された道はエジプトを出るか、そこで死んでしまうかのど ちらかです。それから自分が落ちた所から始めるのです。その失った時間は帰っては来ま せん。ベテルへ戻るのです。
アブラハムはその旅を再開し、最初に進むべき道に着きました。ベテルからより南へ進んで行き、ユダの山地を通り、サマリヤの山間部からそこまで来ました。ベテルからヘブロンへの旅は長く、非常に困難なものです。しかし、ずっとエジプトまで行きそこから戻って来ること程難しいものではありません。アブラハムはヘブロンに来ました。“ヘブロン”とはヘブライ語の“交わり”という言葉――“ヒート・ハ・ブルット(heet ha brut)”から由来しています。ヘブライ語で交わりという意味の“ヒート・ハ・ブルット”とは “組み合わされたレンガ”という意味を持っています。ペテロが1ペテロの手紙 2 章 5 節でこれを引き合いに出しています。私たちが神殿の石であり、教会は神殿です。私たちが“生ける石”なのです。
シュロの主日にイエスが東の門から神殿の丘に来られたとき、人々はハレル・ラバー
(Hallel Rabbah)を彼に向かって歌っていました。(詩篇 113 篇から 118 篇)――「ダビデの子にホサナ」最高議会(サンヘドリン)の人たちはイエスに彼らを黙らせるよう言いました。そうするとイエスは、『もしこの人たちが黙れば、石が叫びます』(ルカ 19 章 40節)と言われました。彼がユダヤ人のミドラッシュを用いて言おうとしていた事はこれです。「もし、ユダヤ人がわたしをメシアとして宣言しなければクリスチャンがそうする」ということです。バプテスマのヨハネは、神はアブラハムの子を石からでも起こすことが出来ると言いました(マタイ 3 章 9 節)これはアブラハムの子としてクリスチャンが起こるということです。
ヘブロンは交わりの場所です―石がかたく組み合わされているのです。
ある建物の中に入って牧師に話しかけたとしましょう。「とても素晴らしい教会ですね。
よく出来ています。しかし、多くのレンガが壁から抜け落ちていますよ。この部分に入る
レンガはどこにあるのですか?」彼はこう答えます。「そこにあります――床の真ん中に積み上げられているのです」床の真ん中に積み上げられているレンガに何の良い所があるでしょうか?レンガがその役割を果たすには壁にはめ込まれ、他のレンガと固定されるしかありません。教会に来るのはひとつのことです。しかし、交わりに入るのはまた別のことなのです。
ヘブロンへはとても長い、山々を通る困難な道です。ヘブロンへ着くとアブラハムはそこ で祭壇を作りました。交わりに入りたいと思うなら、何か犠牲を払わなくてはなりません。誰でも教会へ来て、賛美歌を歌い、十分の一を払い、ささげる物を持って行き――「こん にちは兄弟、お元気ですか?また来週会いましょう」と言うことは出来ます。それは誰で も出来るのです。
そうするのが悪いわけではありません。救われて間もない者はベテルに来ます。しかし、ベテルに留まるのは間違っています。あなたはヘブロンに来て、交わりに入らなくてはなりません。なぜならその交わりの場所においてアブラハムはもうひとつの樫の木、マムレの樫の木の下に宿ったからです。(これは現在の西岸地区キルアテ・アルバの近くです。そこでは争いが絶えません。またマクペラのほら穴といって族長たちが葬られた場所があります)ヘブライ語で“マムレ”とは“頑丈さ”や“活力”という意味であり、マムレの樫の木は“力の樫の木”です。彼がヘブロンに着き、マムレの樫の木の下に宿ってから、彼はやっと親類のロトを救い出すのに戦略的に有利な立場になりました。彼はロトを救うのにベテルに留まってはいられず、ロトがいた近くのヘブロンまで行かなくてはならなかったのです。
教会から交わりへ
私たちは自分の家族や隣人、友達、同郷の人が異教から――約束の地にいるカナン人から救われることを願います。ニューエイジやイスラム教、カルト、偽のキリスト教から救われてほしいのです。しかし、教会に行くだけではそれを成し遂げることは出来ません。
私は長年中東で宣教師をしていました―注意して聞いてください。この世に次のような教会はひとつとしてありません――私はギリシヤ語の“エクレーシア(eklesia)”という意味で言っているのではありません。“集まり”という意味で言っているのです――この世にモスクを相手にして勝ちを収められる教会はひとつもありません。聞こえたでしょうか?この世にモスクを相手にして勝ちを収められる教会はひとつもありません。もし、モスクを相手にするなら交わりとならなければなりません。イスラム教に挑戦するならあなたは
頑丈さを持ち、活力に溢れ、真の強さを持った場所にいなければならないのです。
この世にひとつとしてモルモン教やエホバの証人に挑戦して勝てる教会はありません―彼らの献身の度合いはすごいものだからです。彼らはだましごとに対して熱心です。それは多くのクリスチャンが真実に対して持つ熱心さよりも勝っています。どの教会もエホバの証人の会館や、モルモン教の神殿に挑むことは出来ません。どの教会であってもそれに受けて立つことは出来ません。しかし、交わりは勝つことが出来ます――教会には出来ません。
ベテルは無に帰する
あなたはベテルかヘブロンのどちらにいますか?ベテルに滞在しているなら問題があります。アモス 4 章 4 節には次のようにあります。
ベテルへ行って、そむけ。
ギルガルへ行って、ますますそむけ。
朝ごとにいけにえをささげ、三日ごとに十分の一のささげ物をささげよ。感謝のささげ物として、種を入れたパンを焼き、
(種を入れたパンとは罪や間違った教えなど)
進んでささげるささげ物を布告し、ふれ知らせよ。
ベテルに行ってそむくとはどのようなことでしょうか?十分の一やささげ物を持って来るが、種を入れたパンを持ってくる人たちです。
イスラエルの子ら。あなたがたはそうすることを好んでいる。
――神である主の御告げ――
プリマス・ブレザレンよ、あなたがたはそうすることを好んでいる!ペンテコステ派よ、あなたがたはそうすることを好んでいる!長老派よ、あなたがたはそうすることを好んでいる!バプテスト派よ、あなたがたはそうすることを好んでいる!
「私は教会に通っています!そして十分の一も献金して…」それには霊的な傲慢さ、罪、間違った教えなどのパン種が入っています。「私も教会に通っているんですから大丈夫です!自分の奉仕をし、十分の一の献金もしているので問題は無いはずです」肉は宗教を愛
しています。古い性質はいつもルールを守り、律法の下に戻ることによって自分を正当化
しようとします。アモス 5 章 5 節を見ると、
ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。
(これらの地名は全てヘブライ語で深い意味を持っています)
ギルガルは必ず捕らえ移され、ベテルは無に帰するからだ。
この箇所の意味することに気づいたでしょうか。“ベテルは無に帰する”のです。教会はあなたの期待はずれのものとなります。それが今すでに起こっていないのなら――遅かれ早かれ私は間違いなく保証します――教会はあなたを失望させるものとなるでしょう。そうなる理由は教会がちょうどあなたや私のような人たちでできているからです。教会はあなたを失望させます。教会は存在し続けることが出来ません。“ベテルは無に帰する”のです。交わりこそが存在し続けるものです。
この集会の中にルーマニアで共産主義者の下にいたクリスチャンが幾人かいます。教会はそこでは意味を成していませんでした。共産主義の警察がどんな教会でも一掃していたのです。交わりこそが存在し続けます。それは献身、共同体、家族といった意識を持つ人たちです。お互いのためならあえて危険を冒すような人たち、このようなことが迫害の下で生き続けるのです。迫害はイエスが戻って来る前に、私たちが民主主義だと思っている国にさえやって来るでしょう。“ベテルは無に帰する”のです。
教会の中に安全はありません。ヘブロンが安全なのです――そこに強さが宿ります。そこがマムレの樫の木が育つ場所です。
ベテルの住人
“ベテルの住人”とはどのようなものなのでしょう?彼らを見分けるには多くの方法があります。もちろんそのひとつは、日曜の朝に教会には来るが夕拝には来ない人たちです。仕事や病気の子どもがいたりするような妥当な理由は別です。しかし、そのような人たちはフットボールを録画して家に帰って見るより今見たいのです。これが“ベテルの住人”です。また、日曜に来て割り当てられた仕事をこなすが、週の中ごろの集会には来ない人たち。特にいつもそうである人たちです。病気の子どもや仕事上の責任などは妥当な理由ですが、そこに居たくないがために言い訳をする人たちがそうです。この人たちは問題を
抱えています。彼らの優先順位は間違っています。
確実に“ベテルの住人”を言い当てる方法があります。“ベテルの住人”の見分け方をお教えしましょう。それは救われて5 年、10 年、60 年もしくはそれ以上経っているが、自分が“目”であるのか“足”であるのか、または“手”であるのかを知らない人たちです。その人たちは自分の賜物が何であるのか、奉仕は何なのか、自分が教える賜物を持っているのか、伝道の賜物を持っているのか、助ける賜物を持っているのか――自分の賜物が何か分からないのです。彼らは自分が壁のどこに合うのかが分からないので、床の上のレンガのままでいるのです。教会には来ます。そして十分の一を献金し、賛美歌を歌い、言うのです。「また来週会いましょう」これが“ベテルの住人”です。
西洋世界のクリスチャンのほとんどが“ベテルの住人”です。西洋世界で私が訪れるほとんどの教会では、祈りを15%の人が85%行っています。祈祷会を呼び掛けて何人集まるかを見てください。15%の人が85%の奉仕を行っています。15%の人たちが85%のささげ物をしているのです。これは量の問題ではなく、能力についてその割合について言っているのです。15%の人が交わりに入っています。しかし他の人は教会に行っているのです。
“ベテルは無に帰”します。私はこのことに笑っていられません。しかし、ベテルは無に帰します。私は教会があなたを失望させると言っているのです。そして終わりの日には私たち全てを失望させるでしょう。
教会に来るだけでは何も得ることは出来ません。幼い信者ですか?教会に来てください。しかし、後に交わりに入りその祭壇を作らなくてはならないのです。交わりに入るには何かを犠牲にしなくてはなりません。それは時間やお金であったり、霊的な戦いがあるでしょう――代価が必要なのです。祭壇が無ければいけにえは捧げられません。そしてささげ物が無ければ進歩は無いのです。
私たちはみなこの地図のどこかにいる
アブラハムの旅の地図を見てみましょう。全ての人がこの地図の上にいます。外にいる保育園や教会学校の子どもたちでさえも――彼らは気付いてはいないでしょうが、カルデヤのウルにいるのです。両親の信仰を通して、彼らはすでに主によって救いの道に導かれています。神はすでに彼らを召しておられるのです。私たちは幼児に洗礼を授けることはしませんが、神はクリスチャンの子どもたちを世の子どもたちと違うように見ておられます。
あなたはハランにいて、何らかの危機に直面しているのかもしれません。まだ生まれ変わっていなかったり、イエスを受け入れていない人はこれを何かの理由があって読んでいることでしょう。それはあなた自身の理由ではなく、神の意思のためです。あなたの人生の目的は何であるか分からないでしょう。しかし、あなたがイエスに立ち返ると明らかになります。なぜならクリスチャンになることはとても簡単だからです。おそらく今読んでいることは難しいかもしれません、しかし、あなたが生まれたとき何も知らなかったように
――次第に学んでいきます。生まれ変わったときも同じことが起こります。進んでいくうちにより学んでいくのです。生まれることが簡単なら、生まれ変わることも簡単なのです。
私はここでアメリカの TV で見られるような、詐欺じみた説教者たちのうそや、くだらな いことを指して言っているのではありません。彼らが教えているのは生まれ変わることで はなく、巧妙なうそです。私は福音について語っています。福音は分かりやすいものです。もし、あなたに子どもがいるのなら、自分の子どもに抱くような愛、神はそのような愛を 創造しあなたをどんなに愛しているかを知らせようとされました。あなたが子どもを救う
ために進んで自分の命を犠牲にするように、イエスはあなたの罪のために十字架に向かい
ました。それが彼の行ったことです。私たちはみな神の愛に反抗し、神の権威を退けました。そして悪魔と呼ばれるこの世の神の下に自分の身を置きました。そのために人間の政治や経済政策はうまくいくことがなく、そのために私たちは環境を破壊し、このことのために結婚の関係は破綻し、私たちは良い人となりたくて良い事をしたいのに、悪いと分かっている事をしてしまうのです。それは私たちの性質が堕落しており、この世は邪悪な者の手の中にあるからです。
神にとって、ひとりの罪の無き人は全ての罪人より勝っています。このためイエスは全ての人のために死ぬことが出来ました。なぜなら、罪なきひとりの人はすべての罪人より価値があるからです。神は人となられて私たちの罪を取り去りました。私がしたすべての間違ったこと、あなたがしたすべての間違ったことは、神によってイエスの上に置かれたのです。そして神はイエスの義を取り、それを私たちに与えられました。また、イエスが死者から復活されたように、イエスはまた私たちを死者から復活させ永遠のいのちへと導きます。これが福音です。
あなたは罪から立ち返らなければなりません。神にそれを行うための力を求めると、あなたは与えられます。神は私をコカイン中毒から救ってくださいました。それは大学にいた時のことでひどい中毒でした。悪魔は私の人生を捕らえていましたが、イエスは悪魔よりもさらに力強い方で、コカインよりも強力な方でした。彼が私にされたことは誰にでもなされます。あなたのためにそれをされます。あなたが求めると神は罪から立ち返る力を与えてくれるでしょう。神はあなたの罪を取り、彼のいのちを与えられるのです。
あなたが神を知らなければハランにいます。人生の危機の中にいます。今にでもあなたは死からいのちへと移ることが出来ます。地獄に行かず、裁きにも会わず、今アブラハムの子どもとなれるのです。
あなたは教会に来ていてベテルにいるのかもしれません。悪魔も毎週教会に来ます。彼は非常に宗教心にあついのです。悪魔は宗教をもって人々を地獄に連れて行きます。彼は麻薬や薬物乱用、ギャンブルの中毒を合わせたものよりも宗教を使うのです。宗教は一種の麻薬です。
歴史の中で最も影響力を持っていた人は二人ともユダヤ人でした。カール・マルクスとイエス・キリストです。双方が認めることがあります。宗教は人類の歴史の中でなされた最大の詐欺であったということです。宗教はあなたに何の益ももたらしません。益となるのはイエス・キリストのみです。宗教は世界の問題の解決策ではありません。北アイルラン
ドを見てください――あれが宗教です。宗教は世界の問題の解決策ではなく、宗教こそが
世界の問題です。イエスが唯一の解決策なのです。
今あなたは間違った方向に進んでしまっているのかもしれません。この世の律法に従い、古い性質が好むもの、肉の欲、性的不品行、正しくない関係、薬物――それが何であっても、お金への愛であっても、間違った方向に向かってしまっているかもしれません。自分は神に見捨てられたと感じていることでしょう。神はそうされなかったのですが、そうされたようにあなたは感じ、横道にそれはじめ、自分の存在の意義を自分で握っていると考えエジプトに下ってしまったのかもしれません。この世に戻ってしまったのです。
そこでは何の希望もありません。あなたはただそこで侮辱を受ける状態に行き着くのみです。残された道はそこから出るか、そこで死ぬかのどちらかです。“うまくいった”背教者というものはありません。神学的に見て不可能なのです。あなたは人生を無駄にし、若さを無駄にしてしまっているのです――それ以外は何もありません。ベテルに戻り、主のもと神の家に戻り、あなたが落ちた所から始めなくてはなりません。
ベテルがほとんどの人のいる場所です。しかし、神は私たちがそこにいることを望んでいません。神はヘブロンにいることを望んでいるのです。それは私たちが床の上のレンガにならず、壁に固くはめ込まれた者となるためです。神はあなたがキリストのからだの中での位置を知ることを望んでおり、頑丈さと活力に溢れた場所に立って、暗やみの王たちから親類を救うことを望んでいます。これこそが神の望んでおられることです。
あなたはどこにいるのでしょうか?小さな子どもはカルデヤのウルにいます―これにはみなうなずくでしょう。しかし、あなたはハランにいてイエスをまだ受け入れずにいるでしょうか?そのような危機の中にいるのでしょうか?今日あなたの旅を始めることが出来ます。聖書は『あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。』(箴言27章1節)と言っています。今この時が約束の時です。今日こそが救いの日なのです。主を知らなければ私たちに連絡をください。主を知らないままでありつづけることがありませんように。
エジプトにいる人もいるでしょう。心から願います――神はあなたをとても愛しておられます。この人生は短すぎます。無駄にしないでください。何の喜びもない年月が近づいています。今この時は取り戻すことが出来ません。伝道者の書で「何の喜びもない」と言う年月が近づく前にと書かれています。創造者に立ち返ってください。
この中のほとんどの人、クリスチャンのほとんどが――少なくとも西洋では――教会にい
ることでしょう。クリスチャンの大半がベテルにいます。私はあなたの教会にひとつの希
望、ひとつの祈りがあります。これは私の望みであり、私の祈りです。教会のままであり続けることがありませんように。私の祈りはあなたの教会が交わりとなることです。
Book Of Ruth - Japanese
ルツ記
ジェイコブ・プラッシュ
ルツ記はユダヤ人のシナゴーグにおいて、ペンテコステの祭りに朗読されていました。その日は異邦人の教会の始まりの日でした。ルツ記は、イエスがペンテコステの日に異邦人の教会を起こし、キリストの花嫁としたように、富を持ち権力あるユダヤ人の男性が、異邦人の花嫁を取り彼女の地位を引き上げた話です。
『1 さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘム [“パンの家”という意味] の人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。
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その人の名はエリメレク [わが神は王であるという意味] 。妻の名はナオミ。ふた
りの息子の名はマフロンとキルヨン。彼らはユダのベツレヘムの出のエフラテ人であった。彼らがモアブの野へ行き、そこにとどまっているとき、
-
ナオミの夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された。
-
ふたりの息子はモアブの女を妻に迎えた [モアブ人は出エジプトのとき、ユダヤ人に不当な扱いをしたので特に軽蔑されていました] 。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。こうして、彼らは約十年の間、そこに住んでいた。
-
しかし、マフロンとキルヨンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子どもと夫に先立たれてしまった。
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そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。
-
そこで、彼女はふたりの嫁といっしょに、今まで住んでいた所を出て、ユダの地へ戻るため帰途についた。
-
そのうちに、ナオミはふたりの嫁に、「あなたがたは、それぞれ自分の母の家へ帰りなさい。あなたがたが、なくなった者たちと私にしてくれたように、主があなたがたに恵みを賜わり、
-
あなたがたが、それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように主がしてくださいますように」と言った。そしてふたりに口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。
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ふたりはナオミに言った。「いいえ。私たちは、あなたの民のところへあなたといっしょに帰ります。」
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しかしナオミは言った。「帰りなさい。娘たち。なぜ私といっしょに行こうとす
るのですか。あなたがたの夫になるような息子たちが、まだ、私のお腹にいるとで
もいうのですか。
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帰りなさい。娘たち。さあ、行きなさい。私は年をとって、もう夫は持てません。たとい私が、自分には望みがあると思って、今晩でも夫を持ち、息子たちを産んだ としても、
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それだから、あなたがたは息子たちの成人するまで待とうというのですか。だから、あなたがたは夫を持たないままでいるというのですか。娘たち。それはいけません。私をひどく苦しませるだけです。主の御手が私に下ったのですから。」
ルツの忠実
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彼女たちはまた声をあげて泣き、オルパはしゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツは彼女にすがりついていた。
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ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい。」
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ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけない でください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。
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あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」
-
ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上は何も言わなかった。
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それから、ふたりは旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中がふたりのことで騒ぎ出し、女たちは、「まあ。ナオミではありませんか」と言った。
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ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。
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私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」
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こうして、ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て、大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着いた。
[これが週の祭り(五旬節)にシナゴーグで朗読されていたもので、イスラエルにおいて大麦の収穫の時期でした]
ルツがボアズの畑で落穂を拾う
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ナオミには、夫の親戚で、エリメレクの一族に属するひとりの有力者がいた。その人の名はボアズであった [ボアズとはヘブライ語で“彼の力のうちに”という意味で、それは神殿の中にあったひとつの柱の名前でもあります] 。
-
モアブの女ルツはナオミに言った。「どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。」すると、ナオミは彼女に、「娘よ。行っておいで」と言った。3 ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。
-
ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように」と答えた。
-
ボアズは刈る者たちの世話をしている若者に言った。「これはだれの娘か。」
-
刈る者たちの世話をしている若者は答えて言った。「あれは、ナオミといっしょにモアブの野から帰って来たモアブの娘です。
-
彼女は、『どうぞ、刈る人たちのあとについて、束の間で、落ち穂を拾い集めさせてください』と言い、ここに来て、朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」
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ボアズはルツに言った。「娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。
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刈り取っている畑を見つけて、あとについて行きなさい。私は若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておきました。のどが渇いたら、水がめのところへ行って、若者たちの汲んだのを飲みなさい。」
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彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか。」
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ボアズは答えて言った。「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。
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主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」
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彼女は言った。「ご主人さま。私はあなたのご好意にあずかりとう存じます。私はあなたのはしためのひとりでもありませんのに、あなたは私を慰め、このはしためにねんごろに話しかけてくださったからです。」
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食事のとき、ボアズは彼女に言った。「ここに来て、このパンを食べ、あなたのパン切れを酢に浸しなさい。」彼女が刈る者たちのそばにすわったので、彼は炒り麦を彼女に取ってやった。彼女はそれを食べ、十分食べて、余りを残しておいた。
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彼女が落ち穂を拾い集めようとして立ち上がると、ボアズは若者たちに命じて言った。「あの女には束の間でも穂を拾い集めさせなさい。あの女に恥ずかしい思いをさせてはならない。
-
それだけでなく、あの女のために、束からわざと穂を抜き落としておいて、拾い集めさせなさい。あの女をしかってはいけない。」
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こうして彼女は、夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。拾ったのを打つと、大麦が一エパほどあった。
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彼女はそれを持って町に行き、しゅうとめにその拾い集めたのを見せ、また、先に十分食べてから残しておいたのを取り出して、彼女に与えた。
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しゅうとめは彼女に言った。「きょう、どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いたのですか。あなたに目を留めてくださった方に祝福がありますように。」彼女はしゅうとめに自分の働いてきた所のことを告げ、「きょう、私はボアズという名の人の所で働きました」と言った。
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ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。」それから、ナオミは彼女に言った。「その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。」 [近親者とは遠い親戚ということです]
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モアブの女ルツは言った。「その方はまた、『私のところの刈り入れが全部終わるまで、私の若者たちのそばを離れてはいけない』と私におっしゃいました。」
-
ナオミは嫁のルツに言った。「娘よ。あの方のところの若い女たちといっしょに出かけるのは、けっこうなことです。ほかの畑でいじめられなくても済みます。」
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それで、彼女はボアズのところの若い女たちのそばを離れないで、大麦の刈り入れと小麦の刈り入れの終わるまで、落ち穂を拾い集めた。こうして、彼女はしゅうとめと暮らした。
ボアズがルツを買い戻す
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しゅうとめナオミは彼女に言った。「娘よ。あなたがしあわせになるために、身の落ち着く所を私が捜してあげなければならないのではないでしょうか。
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ところで、あなたが若い女たちといっしょにいた所のあのボアズは、私たちの親戚ではありませんか。ちょうど今夜、あの方は打ち場で大麦をふるい分けようとしています。
-
あなたはからだを洗って、油を塗り、晴れ着をまとい、打ち場に下って行きなさ
い。しかし、あの方の食事が終わるまで、気づかれないようにしなさい。
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あの方が寝るとき、その寝る所を見届けてから入って行き、その足のところをまくって、そこに寝なさい。あの方はあなたのすべきことを教えてくれましょう。」
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ルツはしゅうとめに言った。「私におっしゃることはみないたします。」
-
こうして、彼女は打ち場に下って行って、しゅうとめが命じたすべてのことをした。ボアズは飲み食いして、気持ちがよくなると、積み重ねてある麦の端に行って寝た。それで、彼女はこっそり行って、7 ボアズの足のところをまくって、そこに寝た。
-
夜中になって、その人はびっくりして起き直った。なんと、ひとりの女が、自分の足のところに寝ているではないか。
-
彼は言った。「あなたはだれか。」彼女は答えた。「私はあなたのはしためルツです。あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから。」
-
すると、ボアズは言った。「娘さん。主があなたを祝福されるように。あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっています。あなたは貧しい者でも、富む者でも、若い男たちのあとを追わなかったからです。
-
さあ、娘さん。恐れてはいけません。あなたの望むことはみな、してあげましょう。この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っているからです。
-
ところで、確かに私は買い戻しの権利のある親類です。しかし、私よりももっと近い買い戻しの権利のある親類がおります。
-
今晩はここで過ごしなさい。朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、けっこうです。その人に親類の役目を果たさせなさい。しかし、もしその人があなたに親類の役目を果たすことを喜ばないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられる。とにかく、朝までおやすみなさい。」
-
こうして、彼女は朝まで彼の足のところに寝たが、だれかれの見分けがつかないうちに起き上がった。彼は、「打ち場にこの女の来たことが知られてはならない」と思ったので、
15「あなたの着ている外套を持って来て、それをしっかりつかんでいなさい」と言い、彼女がそれをしっかりつかむうちに、大麦六杯を量って、それを彼女に負わせた。こうして彼は町へ行った。
-
彼女がしゅうとめのところに行くと、しゅうとめは尋ねた。「娘よ。どうでしたか。」ルツは、その人が自分にしたことをみな、しゅうとめに告げて、
-
言った。「あなたのしゅうとめのところに素手で帰ってはならないと言って、あの方は、この大麦六杯を私に下さいました。」
-
しゅうとめは言った。「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていな
さい。あの方は、きょう、そのことを決めてしまわなければ、落ち着かないでしょ
うから。」
ルツの結婚
-
一方、ボアズは門のところへ上って行って、そこにすわった。すると、ちょうど、ボアズが言ったあの買い戻しの権利のある親類の人が通りかかった。ボアズは、彼 にことばをかけた。「ああ、もしもし、こちらに立ち寄って、おすわりになってく ださい。」彼は立ち寄ってすわった。
-
それから、ボアズは、町の長老十人を招いて、「ここにおすわりください」と言ったので、彼らもすわった。
-
そこで、ボアズは、その買い戻しの権利のある親類の人に言った。「モアブの野から帰って来たナオミは、私たちの身内のエリメレクの畑を売ることにしています。
-
私はそれをあなたの耳に入れ、ここにすわっている人々と私の民の長老たちとの前で、それを買いなさいと、言おうと思ったのです。もし、あなたがそれを買い戻すつもりなら、それを買い戻してください。しかし、もしそれを買い戻さないのなら、私にそう言って知らせてください。あなたをさしおいて、それを買い戻す人はいないのです。私はあなたの次なのですから。」すると彼は言った。「私が買い戻しましょう。」
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そこで、ボアズは言った。「あなたがナオミの手からその畑を買うときには、死んだ者の名をその相続地に起こすために、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買わなければなりません。」
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その買い戻しの権利のある親類の人は言った。「私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。あなたが私に代わって買い戻してください。私は買い戻すことができませんから。」
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昔、イスラエルでは、買い戻しや権利の譲渡をする場合、すべての取り引きを有 効にするために、一方が自分のはきものを脱いで、それを相手に渡す習慣があった。これがイスラエルにおける証明の方法であった。
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それで、この買い戻しの権利のある親類の人はボアズに、「あなたがお買いなさい」と言って、自分のはきものを脱いだ。
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そこでボアズは、長老たちとすべての民に言った。「あなたがたは、きょう、私がナオミの手から、エリメレクのすべてのもの、それからキルヨンとマフロンのすべてのものを買い取ったことの証人です。
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さらに、死んだ者の名をその相続地に起こすために、私はマフロンの妻であったモアブの女ルツを買って、私の妻としました。死んだ者の名を、その身内の者たち
の間から、また、その町の門から絶えさせないためです。きょう、あなたがたはそ
の証人です。」
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すると、門にいた人々と長老たちはみな、言った。「私たちは証人です。どうか、主が、あなたの家に入る女を、イスラエルの家を建てたラケルとレアのふたりのよ うにされますように。あなたはエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名をあげ なさい。
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また、主がこの若い女を通してあなたに授ける子孫によって、あなたの家が、タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように。」
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こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところに入ったとき、主は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。
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女たちはナオミに言った。「イスラエルで、その名が伝えられるよう、きょう、買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった主が、ほめたたえられますように。
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その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。」
ダビデの系図がここから始まる
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ナオミはその子をとり、胸に抱いて、養い育てた。
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近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名をつけた。彼女たちは、その名をオベデと呼んだ。オベデはダビデの父エッサイの父である。
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ペレツの家系は次のとおりである。ペレツの子はヘツロン、
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ヘツロンの子はラム、ラムの子はアミナダブ、
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アミナダブの子はナフション、ナフションの子はサルモン、
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サルモンの子はボアズ、ボアズの子はオベデ、
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オベデの子はエッサイ、エッサイの子はダビデである。』(1 章 1 節-4 章 22 節)
イエスの系図はマタイ 1 章で始まったのではなく、ルツ 4 章から始まりました。
私の家族はユダヤ人と異邦人との混合です。妻と私はふたつの偽りの宗教を経験してきました。名ばかりのキリスト教(救いが新しく生まれることから来ると教えないもの)と、ラビ的ユダヤ教(自分たちのメシアを拒否したもの)です。
なぜ私たちなのでしょう?
ルツ記は神ご自身が自分に敵対していると感じた、年を取った女性の話です。彼女は自分
の土地からあるとき出て行かなければならず、夫が死に、彼女の息子たちも彼女を残して死にました。ナオミはすべて奪われて、つらい思いをし、見捨てられたと感じました。神の御手が自分の上にくだったとまで思ったのです。
これが私の妻の両親のそのままの姿です。彼らユダヤ人はホロコーストにおいて、クリスチャンと名乗る人々に家族が殺されました。
そのホロコーストの後に、あるユダヤ人作家がこう書きました。「150 万人のユダヤの子どもたちがオーブンの中にけり入れられた。神は私たちを嫌っているに違いない」
多くのユダヤ人が尋ねます、「なぜ私たちなのか?なぜホロコーストが起きたのか?なぜ宗教裁判が起きたのか?十字軍はなぜやってきたんだ?なぜいつも私たちなんだ?」
ユダヤ人は自分たちが特別な国民だと知っていますが、それがなぜかは分かっていません何かが特別なのです
ユダヤ人自体に特別なことは何もありません。ユダヤ人は何も独特ではありません。ユダヤ人も他の人と同じように救いを必要としている民族です。
しかし、ユダヤ人の神がまさに特別であり、ユダヤ人の契約は非常に特別なのです。ユダヤ人の本が特別であり、ユダヤ人のメシアが特別なのです。しかし、彼らがメシアを理解するまで、その他のことは分からないでしょう。
今日のユダヤ人はナオミの状況にあります。彼らは神に見捨てられ、呪われたと感じているのです。
ほぼ 2 千年以上ユダヤ人は、自分たちの土地から追い出されていました。彼らは状況が改善し始めたと聞き、絶望のうちからイスラエルに帰ったのです。彼らはナオミがそうであったように戻ってきました。彼らは見捨てれたことへの重荷、苦痛、苦悩、たましいの悩みを持って帰ってきました。ユダヤ人と神について話すと、宗教的な者でさえ、自分たちに対して神が敵対しているという感覚を明らかにするでしょう。
オルパ
そこにはふたりの異邦人の女がいました。すべての異邦人クリスチャンとその教会が、ル
ツかオルパの性格どちらかを持っています。
オルパは礼儀正しく親切に見えます。しかし、一旦自分の利益が危機にひんすると、自分の民とその神々のもとへ戻っていくのです。『その神のところへ』(ルツ 1 章 15 節)に注目してください。ニカイア公会議の後の教会、コンスタンティヌスがローマ帝国を“キリスト教化”してから、教会はユダヤ人のルーツを失ってしまいました。
パウロが警告していたことが起こってしまったのです。(ローマ 11 章 17 節-18 節)
『すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。
神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らない のですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。
「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」
ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」
それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。
もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。
では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。
こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」』(ローマ 11 章 1 節-8 節)
教会はユダヤ的なルーツを失ってしまいました。その後何が起こったでしょうか?異教がキリスト教に侵入してきたのです――ローマ・カトリック教や東方正教会、それらはユダヤ人のヘブライ的な信仰である新約聖書のキリスト教を曲解しました。
そのユダヤ的ルーツを失ってしまうやいなや、彼らは自分たちの神々に戻って行ったのです。
ルツ
しかしルツは違いました。『あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。』(ルツ 1 章
16 節)新約聖書も同じように語っています。
『そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。』(エペソ 2 章 12節-13 節)
あなたは近親者のように近い者とされました――ヘブライ的な“親族”の考え方はその人に近い人というものです。
ローマ 11 章は結合について語っており、置き換わることについてではありません。悔い改め、イエスを受け入れた異邦人のクリスチャンが、イエスを拒んだユダヤ人に取って代わったのです。しかし、その木は同じまま存在します。それはもうひとつの木ではなく、教会は“新しいイスラエル”ではないのです。
神の主権的な恵みによって、異邦人クリスチャンは霊的に接ぎ木され、信仰によるアブラハムの子孫となったのです。これがルツ記の示していることです。
レビレート婚
さらに詳しく見ていく場合、トーラーについてあることを理解しなければなりません。トーラー(律法)は高齢者のための規定を持っていました。
ルツ記がダビデの系図の始まりを記載していたことを思い出してください。しかしながら、マタイの系図とルカの系図を比べると不一致があることに気付きます。これらの不一致を 説明するには主にふたつの方法があります。そのひとつが“レビレート婚”です。
『兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、入り、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。
そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。
しかし、もしその人が兄弟の、やもめになった妻をめとりたくない場合は、その兄
弟のやもめになった妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならな
い。「私の夫の兄弟は、自分の兄弟のためにその名をイスラエルのうちに残そうとはせず、夫の兄弟としての義務を私に果たそうとしません。」
町の長老たちは彼を呼び寄せ、彼に告げなさい。もし、彼が、「私は彼女をめとりたくない」と言い張るなら、その兄弟のやもめになった妻は、長老たちの目の前で、
[少なくとも長老は 10 人(ミンヤン)が必要] 彼に近寄り、彼の足からくつを脱が
せ、彼の顔につばきして、彼に答えて言わなければならない。「兄弟の家を立てない男は、このようにされる。」彼の名は、イスラエルの中で、「くつを脱がされた者の家」と呼ばれる。』(申命記 25 章 5 節-10 節)
このことを説明しましょう。
系図の重要性
王はダビデの子孫でなくてはなりませんでした。祭司はレビの子孫でないといけませんでした。大祭司はアロンの子孫である必要があったのです。トーラーによるとヨシュアによって分配された部族の相続物は保たれなくてはなりませんでした。
したがって、律法による子どもは絶やしてはならなかったのです。そうしなければ、誰が大祭司になるべきかを知っている人はいたでしょうか?誰が王になるべきか、またその人の家族の遺産が何であるかをどうやって知ることができたでしょう。結局のところ、誰がメシアを知ることができるのかということになります。
血統は立証され、絶やしてはならなかったのです。その中には生物学的な血統と法的な血統がありました。新約聖書のひとつの系図は法的な血統を記しており、もう一方は生物学的、遺伝的な子孫についてです。これが系図の不一致を説明するひとつの方法です。他の方法もありますが、これが主なふたつの方法の中のひとつです。
膣外射精
古代中近東で唯一行われていた避妊の方法は膣外射精でした。今日、それについて死の宣告があったという聖書箇所を取り上げて(創世記 38 章 8 節-10 節)、結婚している人たちに避妊をしないようにと教えているクリスチャンがいます。しかし、それが唯一禁じられていた状況はレビレート婚の中だけなのです。それは兄弟のやもめをただのそばめ、性的な対象にしてしまわないようにと設計されたものです。兄弟のやもめと性的に交わり子孫を残すのは次のふたつの理由のためでした。
社会福祉の規定
第一の理由はそのやもめの経済的援助のためです。ヘブライ語で「父と母を敬え」という言葉は(これは謝礼金と関連しています)、彼らがあなたの両親だからというだけで、そのすべての言葉に同意しなければならないということではありません。
それはあなたにとって重い存在と受け取り、責任を持つという意味です。母親が子どもが小さな時期に世話をすべきなのと同じように、神の考えでは母親が年を取ったなら、その赤ん坊が母親に対して責任を持つべきなのです。子どもを持つということはひとつの高齢者への福利厚生です。レビレート婚の第一の理由は、兄弟のやもめが老齢になって援助を受けるためなのです。
家族の相続物
第二は相続物のためです。子どもは家族の相続物を保ち続けます。もし、自分の土地が借金のために他の者の手に渡ってしまったなら、ヨベルの年にはそれは家族に返されます。
パリサイ人たちは物を神にささげることによって――それはコルバンと呼ばれていました
(マルコ 7 章 11 節-13 節)――法的に両親の援助をすることを拒否するように教えていました。彼らはその教えのために神の戒めを無効にしたのです。イエスはそのために彼らを非難しました。
両親への責任はユダヤ人の心に織り込まれていました。それは新約聖書でも続いており、あなたが老齢になった両親の世話をしなければ、この世で長く生きることはできないと教えています(エペソ 6 章 2 節-3 節)。
買い戻す権利
ルツ記において、その中に出てくる人は実行しようとしませんでしたが、死んだ兄弟の名前が絶たれてしまわないように、兄弟の妻をめとり兄弟の代わりに子をもうけるべきでした。
これはイエスの象徴です。旧い契約において、神に忠実であったために死んだ者は、後に誰かが彼らを贖う(買い戻す)必要があったのです。誰がが死んでしまった兄弟のために子をもうけ、地を相続することは「買い戻す権利」と呼ばれていました。旧い契約のもと
で死んだユダヤ人は、その父祖たちから切り離されないように、契約の相続物を失ってし
まわないように、後に近親者が来てその人を買い戻す必要があったのです。このことはイエスさまを指し示しています。
旧約の時代にユダヤ人たちはどのようにして救われたのでしょうか?
私たちと同じ方法によってです。ヘブル人への手紙は、動物の血は罪を取り去ることはできないと言明しています。それらは、もし信仰と悔い改めが伴っていたなら、メシアが来て罪を取り去るまで、罪を覆うことしかできませんでした。旧い契約のもとでのユダヤ人たちは、彼らの後に来て、贖ってくれる人に依存していたのです。このことはすべてイエスさまを指し示しています。
落穂拾い
もうひとつの社会福祉の制度は落穂拾いでした。私たちはこのことを理解する必要があります。当時、狭い通路を目印として、畑はそれぞれ違う農業者や家族で区分されていました。ユダヤ人は畑の隅を収穫することが禁じられていました。
なぜでしょうか?社会福祉として、貧しい者ややもめ、みなしご、社会的な権利を持てないでいる人、また在留異国人 [その地を旅してまわっている者] は落穂拾いをする権利があったからです。
これがルツ記で記されてあることであり、ルツは次のように言う姑と帰ってきたのです。
『私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから』現在ユダヤ人がホロコーストや共産主義のもので起きたことの後に、自分たちの土地に帰ってきたなら、彼らは「神がこれらを私たちにしたのだ」と感じていることでしょう。
正統派ユダヤ人たちはレビ 26 章や申命記 28 章を見て、自分たちの経験はこれらの箇所に書かれた律法の呪いであることを認めるでしょう。彼らの身に起きたことはともかく神の御手によることなのです。すべてのユダヤ人がこれを認めるわけではありませんが、超正統派のユダヤ人たちは確実に認めます。
あなたを祝福する者をわたしは祝福する
ユダヤ人であるボアズが、異邦人のルツに言いました、
『刈り取っている畑を見つけて、あとについて行きなさい。私は若者たちに、あな
たのじゃまをしてはならないと、きつく命じておきました。のどが渇いたら、水がめのところへ行って、若者たちの汲んだのを飲みなさい。彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか。」ボアズは答えて言った。「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。』(ルツ 2 章 9 節-11 節)
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろうと神は言われました。これはユダヤ人が特別だという意味ではなく、ユダヤ人の神、その父祖たちと結んだ契約が特別であるためです。神はその契約を重んじ、人の忠実さや不忠実の度合いによって左右されません。神の契約は神自身の忠実さを土台としているのです。
これはユダヤ人異邦人ともに、信じる者すべての父であるアブラハムに関しての記述で説明されています。
『さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。』(創世記 15 章 17 節)
この燃えているたいまつとは神のシェキナー(Shekinah)と呼ばれる火の柱、聖霊と同じものです。
神は忠実である
契約を結ぶというヘブライ語は「契約を切る」という言葉です。動物の死体は半分に切られました。契約を結ぶときには、当事者ふたりが半分に切った死体の間を通ったのです。
しかし、神がアブラハムと契約を結ぶとき、アブラハムではなく燃えているたいまつだけが通り過ぎました。
なぜなのでしょうか?なぜなら、神は初めから、自分の民は契約に対して忠実ではないということを分かっており、神ご自身は不忠実ではなかったからです。その契約がイスラエルや教会の不忠実に左右されず、神ご自身の忠実さによっていることを賛美しようではありませんか。
もしイスラエルが契約を破ったために神がその関係を終わらせたのなら、教会に対しても
同じようにしない理由がひとつでもあるでしょうか?ユダヤ人が間違ったことをしたならば、教会も同じ間違いをしたことは確かです。教会のしたこととは何でしょうか?イスラエルと同じことです。他の神々のもとにしたがって行きました。たとえば教会におけるニューエイジを見てください。
悪霊に子どもをささげる
イスラエルは捕囚以前に何を行っていたでしょうか?彼らの子どもを悪霊にささげていたのです。そうです。それが彼らのしていたことであり、そのときに裁きが下りました。神は「もうたくさんだ。偶像礼拝なら耐えられよう。不品行なら耐えられよう。社会にある不正にも耐えられよう。しかし、他の神々、悪霊に対して子どもをささげることは見ていられない」と言われました。
もし、医療的な理由でなされる妊娠中絶すべてを考慮したなら、それは妊娠中絶全体の 1パーセントにも満たないものでしょう。ということは、99 パーセントの妊娠中絶が治療とは関係ない理由で行われているのです。
それらは臨床的や医療的な理由で行われているのではありません。それらは社会的、または経済的な理由で行われているのであり、イエスさまが「マモン(Mammon)崇拝」と呼ばれたものです。間違えてはいけません。医療目的ではない妊娠中絶は、神学的にも霊的にも、一種の悪霊崇拝なのです。
もし、神が野生の枝を惜しまれないとしたら、あなたに対してもそうです。また、イスラエルとユダヤ人の忌みきらうべきことが裁かれたのなら、西洋のキリスト教世界もそうなることでしょう。
イスラエルの失敗から学ぶ
『これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。』(1 コリント 10 章 6
節)
イスラエルの失敗が記録されたのは、教会が同じ失敗を犯さないためでした。教会は彼らの失敗から学ぶべきなのです。しかし、私たちはそうしてきたのでしょうか?とんでもない!
私たちはイスラエルの持っていたもの、いやそれ以上のものを持っています。彼らには旧
約聖書しかありませんでしたが、私たちには新約聖書もあります。彼らはメシアの到来を期待するのみでしたが、教会はすでにメシアを知っています。旧約のもとでは、聖霊は特定の時期に特定の人、たとえば大祭司や王、預言者にしか与えられませんでしたが、今聖霊はすべて信じる者たちの中におられます。
それに加えて、私たちは学ぶべきイスラエルの実例を持っているにも関わらず、そこから学んではいません。もし、イスラエルが契約を破ったために神に捨てられたのなら、ましてや神は教会をどう扱うことでしょう。私たちの忠実さではなく、神の忠実さが契約の有効性を決めるという事実を賛美しましょう。そうでなければ、ユダヤ人がそうなるべきであったように、私たちも捨てられていたのです。神の裁きはずっと以前にアメリカ合衆国に下っていてもおかしくありませんでした。しかし、ふたつの要因がそれを阻止していました。
ひとつは塩が腐るのを遅らせたのです。アメリカ合衆国は他のどの西洋の国より、多くの福音的なクリスチャンと教会をいまだに抱えています。世界中の宣教や慈善活動の4分の
3の資金が北アメリカから使われている一方で、貧しい国へ行くフルタイムの宣教師は、全体の 5 分の 3 がアメリカから出ています。
もうひとつの理由はアメリカがユダヤ人を歴史上、どの国よりも親切に扱ってきたという ことです。そのようでなかったならば神の裁きはとうの昔に下っていたことでしょう。ア ムステルダムは先進国の中で最も邪悪な都市です。私は多くの都市で腐敗を見てきました。バンコクでは子どもたちが性的な奴隷として売られています。
アムステルダムはそれと同じくらい腐敗しているのです。もし、あなたがアムステスダムやホラントを歩いて通ったなら、道徳の廃退に目を疑うことでしょう。それは言い表すことのできないものであり、全くの恥辱であるのです。しかし、その国(オランダ)はホロコーストの際にユダヤ人を保護しました。アメリカが神の裁きに値するものであったことは明らかですが、彼らはユダヤ人を祝福したのです。『あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。』(創世記 12 章 3 節)
これは神の裁きがやって来ないという訳ではありません。裁きはただ神の恵みによって遅らされたということです。「どうして親切にしてくださるのですか」とルツは聞きました。なぜなら、神の民を祝福したからです。神はそのようなクリスチャンや教会、国家を祝福します。彼らのためではなく、神の御名のためです。ひいてはクリスチャンを祝福する救われていない人をも、神は祝福します。
二流のクリスチャン
「私は若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておきました」とボアズは言いました。彼らが食べるところで食べ、彼らが飲むものを飲みなさい、と。
ヘブライ語で「ひれ伏す」と「礼拝する」とは同じ言葉です。ローマ・カトリック教徒たちが像の前にひれ伏して祈るとき、それはヘブライ語での偶像礼拝なのです。
それゆえ、ローマ・カトリック教会は彼らのカテキズム(教義)から第二戒を長い間取り除いてきました。
『あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。』(申命記 5 章 8 節
-9 節)
私はガラリヤのカルメル山に住んでいたことがありました。カルメル山において、ファティマ(Fatima)や他の多くの場所のようにマリアの顕現がありました――悪霊の現れです。人々はマリア像を夏の別荘から、冬の別荘に運んで行きます。なぜなのでしょうか?マリアが寒いのを嫌うのだそうです!2 年に一回カトリック教徒たちは山からその像を運び、ハイファ(Haifa)の中央にある教会に置きます。彼らはそれに向かってひれ伏し、祈り、香を焚き、それに対して歌を歌います。
私には昔カリスマ的なカトリックの修道士であった友だちがいます。彼は私たちの集会に来て、手を振り、私たちのひとりのようになります。ハレルヤ!また、カトリック教徒たちが偶像を運んでいる間、彼は他の偶像礼拝者たちと一緒にいて、歌い、香を焚き、ひれ伏して偶像を礼拝するのです!
この偶像礼拝をあるユダヤ人とイスラム教徒が見たとき、彼らはこれがキリスト教だと思いました。新生したクリスチャン、メシアニック・ジューたちがその人たちにそれは違うと説明しなければならなかったのです。サタンがユダヤ人を地獄に落とすために、使う最初の手段は偽のキリスト教――ローマ・カトリック、東方正教会、偶像礼拝です。
美徳をそなえた女性
ホロコーストの期間、どの国がユダヤ人を保護したのでしょうか?福音的なプロテスタン
トの人口がとても多い国、デンマークやオランダです。どの国がユダヤ人を裏切ったのでしょうか?ローマ・カトリックや東方正教会の国々、ラトビア共和国、フランス、ルーマニアでした。今日イスラエルに行ってみると、若いボランティアがキブツ(kibbutzes)で働いています。彼らの中にはカナダや日本、アルゼンチン、オランダなどからの者もいます。
「どこから来たの?」「オランダです」と言うと、「今夜うちに食べに来ませんか?ホロコーストで私のおばあちゃんを助けてくれたのがオランダのクリスチャンだと知っているの」と言われるでしょう。
「どこから来たのですか?」
「デンマークからです」と言えば、ナチスがデンマークを占領しているとき、彼らはユダヤ人たちに黄色の星を付けるように命令しました。するとデンマークの王は、自身がクリスチャンだったのですが、出てきて黄色い星を自ら付け、イエス・キリストはユダヤ人だったと言いました。誰でもイエスを信じる者は、その国でユダヤ人と同じようにならなくてはいけなかったのです。デンマークにいるすべての人が黄色い星を付けなくてはなりませんでした。
美徳をそなえた女性。ユダヤ人はイスラエルの高校でそのように教えられています。
あなたがユダヤ人を愛するなら、偽りの教会から出て行きなさい。反ユダヤ主義の教会から出て行きなさい。ユダヤ人を嫌う教会から出て行きなさい。偶像礼拝をする教会から出て行きなさい。ローマ・カトリックや正教会、また福音的と呼ばれるユダヤ人を嫌う教会から出て行きなさい。
若い男たちのあとを追わなかった
『すると、ボアズは言った。「娘さん。主があなたを祝福されるように。あなたのあ とからの真実は、先の真実にまさっています。あなたは貧しい者でも、富む者でも、若い男たちのあとを追わなかったからです。』(ルツ 3 章 10 節)
イザヤ書のしもべに関する第四の詩で、イエスさまについてはどう書かれているでしょうか?
『彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔を
そむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。』(イザヤ 53 章 2 節-3 節)
贖いへの鍵
『ところで、確かに私は買い戻しの権利のある親類です。しかし、私よりももっと近い買い戻しの権利のある親類がおります。』(ルツ 3 章 12 節)
私は一番目ではなく、彼が一番近い。彼がエリメレクから買い戻す権利――土地を買い、 相続物を受け、ルツをめとり、亡くなった兄弟のために子をもうける権利を持っています。この最初の男は――彼が誰であったとしても、どういう訳か彼の名前は記されておらず、 聖書の中でくつを脱がされた者と呼ばれているのみです。その人が言いました。「私に相 続物をください。私が引き受けましょう」
しかし、ボアズが彼に異邦人の女をもめとらないといけないと言うと(ルツ 4 章 5 節)彼は考えを変えました。『私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。』(ルツ 4 章 6 節)
彼は相続物は望みます。父祖たちの祝福も望みます。贖いの権利もほしいのです。祝福を望みます。しかし、彼は“シクサ”(shiksa=軽蔑的なイディッシュのスラングで“異邦人の女”という意味)とは関係を持ちたくありません。しかし、その“シクサ”が自分の約束を、祝福を、贖いを得る鍵なのです。
くつを脱がされた者は名前が記されていません。キリストのからだのもとに来て、自分の相続物を受けない者は名前が記されません。彼らの名前は消されてしまうのです。キリストのからだのもとに来る者だけが自分の相続物を受けるのです。その異邦人の女が鍵なのです。
自分の民へ穀物を持っていく
ボアズはルツに大麦六杯を与えました(ルツ 3 章 15 節)。するとルツは『「あなたのしゅうとめのところに素手で帰ってはならないと言って、あの方は、この大麦六杯を私に下さいました。」』(ルツ 3 章 17 節)と言いました。
イエスは異邦人の教会に何と言ったのでしょうか?「穀物を持って、わが民であるイスラエルに与えなさい」。ユダヤ人に福音を伝えること無しに、彼らを祝福したがっている組
織を警戒してください。
神は一世紀において異邦人に福音を伝えるためにユダヤ人を用いたように、この終わりの時代において、神は異邦人を用いてユダヤ人に福音を伝えるのです。『もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。』(ローマ 11 章 15 節)
間違えてはいけません。神はイエスが戻られる前に、もう一度ユダヤ人を通して教会を祝福されようとしています。初期のクリスチャンはユダヤ人たちでした。そして最後のクリスチャンもユダヤ人たちなのです。彼らに穀物を与えるのです。良い知らせを再び、その生誕の地に持って行くのです。
この男は買い戻しの権利を拒みました。そのため、彼らは申命記 25 章に規定されてある儀式を行ったのです。そして婚姻が成立し、次第に赤ん坊が生まれました。
イスラエルの家を建てた者
婚姻の宴において人々はボアズに言いました。『どうか、主が、あなたの家に入る女を、イスラエルの家を建てたラケルとレアのふたりのようにされますように。』(ルツ 4 章 11節)
ここでの象徴は創世記から来ています。ヤコブは花嫁のために、自分の民のもとからやって来ました。彼はラケルを望みましたが、最初にめとったのはラケルではなく、レアでした。彼がラケルと同じようにレアを愛せるようになってから、ラケルをめとりました。最初レアは多くの子をもうけ非常に多産な妻でした。しかし、その後にラケルがみごもったのです。
イスラエルは実り豊かなぶどうの木になるはずでした。イエスさまはイスラエルのために地上に来て、イスラエルと結婚をしたかったのですが、彼はそうすることができませんでした。結局、イエスさまは最初には望んではいなかった異邦人の教会という花嫁をめとったのです。
異邦人の教会をめとってから、イエスさまはイスラエルをめとります。はじめに、教会は多くの子どもを抱えていました。しかし最後には、イスラエルが実り豊かなぶどうの木となるのです。『イスラエルの家を建てたラケルとレアのふたりのようにされますように』
現代のイスラエルとユダヤ人の重要性を否定する人たちを信じないでください。イスラエ
ルの家を建てたラケルとレアのふたりのようにされますように、と書かれてあります。教会はユダヤ人と異邦人であり、ひとりの花嫁なのです。
イスラエルの買い戻す者
『女たちはナオミに言った。「イスラエルで、その名が伝えられるよう、きょう、買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった主が、ほめたたえられますように。
その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。」』(ルツ 4 章 14 節
-15 節)
ボアズとルツとの間に生まれた赤ん坊は、ベツレヘムから出た買い戻す者と呼ばれました。
「イスラエルでその名が伝えられるように」ベツレヘムから出た者とは誰でしょう。買い戻す(贖う)者とは誰でしょう。その名が伝えられているのは誰でしょうか。
ダビデの系図の根幹はユダヤ人と異邦人とのつながりによって始まりました。なぜなら、救いはそこからやって来て、ユダヤ人と異邦人どちらにも与えられるからです。
七人の息子にまさる
『その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。』(ルツ 4 章 15節)
買い戻す(贖う)者と呼ばれた赤ん坊を産んだ異邦人の女は、七人の息子にもまさると言われました。ある異邦人のクリスチャンは自分たちよりもユダヤ人に親切にします。しかしそれにもまして、この赤ん坊は「ベツレヘムから出た買い戻す者」と呼ばれ、ユダヤ人女性を元気づけ、彼女の老後をみとるのです。
回復を与える
『ナオミはその子をとり、胸に抱いて、養い育てた。近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名をつけた。』(ルツ 4 章 16 節-17 節)
その子はユダヤ人の子でした。そして、イエスの来られるダビデの系図がここから始まっ
たのです。
美徳を備えた女性は、ベツレヘムで生まれ、買い戻す者と呼ばれ、イスラエルの民に対して回復を与えると言われる“赤ん坊”を、その多くを失い、悲しみ、軽蔑され、つらい思いをし、神ご自身の手が自分にくだっていると感じていたユダヤ人の女に与えることができます。
しかし、このユダヤ人の女性は子を受取ったときにこう言いました。「ここにいる赤ん坊は本当に私の子です。この子は本当に私のメシアです。私の人生を回復させてくれる者なのです」この後、子どもが与えられたことによって彼女の悲しみや苦悩、苦痛、死別、捨て去られたという感情は消し去られました。
キリストの花嫁
これらの花嫁、聖書の中での良い女性はすべて、キリストの花嫁をそれぞれ違った側面から示しています。ルツがキリストの花嫁について教えていることは、贖い主(買い戻す者)をユダヤ人たちに返した者であるということです。
その花嫁とはあなたたちです。
『私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。』(ローマ 1 章 16 節)
Burning Bush - Japanese
モーセと燃える柴 “ヒネニ”
ジェイコブ・プラッシュ
『こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト 人が打っているのを見た。あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、 彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。次の日、また外に出てみ ると、なんと、ふたりのヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪いほうに
「なぜ自分の仲間を打つのか」と言った。するとその男は、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか」と言った。そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知れたのだと思った。』
『パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロ のところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。彼は井戸のかたわらにすわっていた。ミデヤンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちが父の羊の群れに水を飲ませるために 来て、水を汲み、水ぶねに満たしていたとき、羊飼いたちが来て、彼女たちを追い 払った。すると、モーセは立ち上がり、彼女たちを救い、その羊の群れに水を飲ま せた。彼女たちが父レウエルのところに帰ったとき、父は言った。「どうしてきょ うはこんなに早く帰って来たのか。」彼女たちは答えた。「ひとりのエジプト人が 私たちを羊飼いたちの手から救い出してくれました。そのうえその人は、私たちの ために水まで汲み、羊の群れに飲ませてくれました。」』
『父は娘たちに言った。「その人はどこにいるのか。どうしてその人を置いて来てしまったのか。食事をあげるためにその人を呼んで来なさい。」モーセは、思い切ってこの人といっしょに住むようにした。そこでその人は娘のチッポラをモーセに与えた。彼女は男の子を産んだ。彼はその子をゲルショムと名づけた。「私は外国にいる寄留者だ」と言ったからである。』
『それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、 わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神 はみこころを留められた。』(出エジプト 2 章 11 節-25 節)
『モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその
群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。』
『主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」』
『モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行っ てイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」神は仰せられた。
「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。』(出エジプト 3 章 1 節-14 節)
キリストの象徴としてのモーセ
モーセと燃える柴の有名な話です。ここで最初に理解すべきことはモーセはキリストの象
徴であるということです。申命記 18 章 18 節には、メシアはモーセのような預言者であると書かれてあります。それは次のようなことです。邪悪な王がすべてのユダヤ人の赤子を殺してしまおうと決め、モーセは両親の信仰によってエジプトでしばらくの間守られ、後にエジプトを出て約束の地に戻りました。イエスもまた同じ運命に遭いました。邪悪な王がすべてのユダヤ人の男の子を殺してしまおうとし、イエスは両親の信仰によってしばらくの間守られ、その後にエジプトを出て約束の地に戻ったのです。このようにモーセはキリストの象徴として示されています。
しかし、ヘブライ語ではそこに言葉遊びが隠されています。“モーシェ”――“引き出す”という名は彼にふさわしいものです。彼は水から引き出されたので、ヘブライ語の本文は同じ言葉を使っているのです。モーセは私たちのために水から引き出されました。また彼の名前の特徴は出エジプト記の中で何度も繰り返されています。このようなことは翻訳では分かりにくかったり、ほとんど伝わりません。今、思い出してほしいのですが、ちょうどイエスのように、モーセがユダヤ人の兄弟たちを最初に救いに来たとき、彼は退けられました。モーセが受け入れられたのは二度目であって、エジプトにいるユダヤ人の苦悩と苦しみが耐えがたくなって絶望的になったときはじめて受け入れられました。これはユダヤ人にとっても同じです。(イエスは大患難またはヤコブの苦難の時と呼ばれるときに戻って来ると聖書にあります。それはユダヤ人にかつてないほど過酷な迫害が臨むときです。その後にユダヤ人がイエスを受け入れます…ゼカリヤ 12 章 10 節)。ユダヤ人はイエスを最初に来たとき受け入れませんでしたが、再臨においてイエスを受け入れます。初め彼らはモーセをエジプト人だと思っていました。それは後にヨセフをエジプト人だと思ったのと同じことでした。
ヨセフも自分の兄弟たちに最初には気付かれませんでした。彼らは二度目にヨセフに気付き、激しく泣いたのです。それはユダヤ人にしても同じことです――彼らはモーセを最初に自分たちの指導者だとは気付かずに、二度目に気付きました。ユダヤ人はモーセをエジプト人と見なしていて、イエスを異邦人だと考えていました。モーセも異邦人だと考え、エジプト人だと見ていました。同じようにイエスに対してユダヤ人は金髪で青い目の男性を想像することでしょう。彼らはモーセをエジプト人であると考えていました。またヨセフもエジプト人であり異邦人だと考えていました。ユダヤ人たちはイエスをほぼ異邦人のように見なしていました。これはもちろん真実ではなく、彼らは客観的にユダヤ人と知っていましたが、主観的にはイエスを異邦人と位置づけていたということです。その状況によってイエスは非ユダヤ人のように見えました。それはモーセやヨセフに関しても同じです。モーセはエジプト人のように見え、エジプト人のように話し――エジプト人の王子だったのでなおさら――エジプト人らしかったのです。彼らはモーセを自分たちの仲間では
ないと思っていました。
ここでモーセはキリストの象徴として描かれています。モーセに関して書かれてあることは、イエスと同じです。彼は自分の民を救おうとしたが退けられ、異邦人に受け入れました。覚えていますか。モーセが自分の民を救おうと立ち上がったとき、民はモーセを退けました。そこで彼はミデヤン人のところへ行き、ミデヤン人をかばったときに受け入れられたのです。その後にヘブル人はモーセに従い始めたのです。それはイエスも同じです。最初にユダヤ人は退けましたが、異邦人がイエスを受け入れ、その後にユダヤ人がイエスのもとに帰ります。モーセはメシアの象徴として描かれているのです。
旧約聖書でのキリストの現れ
ここでのもうひとつのテーマは定冠詞が付いた“主の使い”(出エジプト 3 章 2 節)に関してのものです。これは“ひとりの御使い”ではなく、“その御使い”という言葉で、私たちはこのテーマを“ナザレ人の誓い”と“士師記 1 章・2 章”のテープの中で取り扱っています。定冠詞が付いた主の使い、“ハ・マルアハ・アドナイ(Ha Mal’ach Adonai)”とはキリストの顕現、旧約聖書においてのメシアの現れです。それはひとりの御使いではありません。神ご自身です。神がモーセに柴の中から語られたとある箇所では、“主の使い”が神として柴の中からモーセに語ったとあります。ユダヤ教の中で主の使いはメタトロン
(Metatrone)と呼ばれ、王座の中央に宿る者と呼ばれます。この箇所でメタトロン――主の使いが出てきます。彼はモーセと話しており、神として認識されていました。
ヘブライ語で御使いを表す言葉は、ギリシア語の“アンゲロス(angelos)”と同じように“遣わされた者”を意味します。なので、メタトロン、主の使いは神の使者であり神ご自身であったのです。神が人になるという考えは一般的なユダヤ人にとっては不可解なものでしたが、ヤコブはメタトロン、主の使いであり神の現れである者と格闘しました。アダムは神の歩く音を聞いたとあります。それはイエスの顕現です。とはいえここで重要なのは、新約聖書でイエスが肉体をとられたことと、これは違ったものだということです。神は昔にも肉体をとって来られました。神はアダムと園の中を歩いていましたが、神はまた主の使いであったのです。よってこの箇所はキリストに関する箇所です。ここはメシアについて語っており、神の使者が来て自分の民の間に宿るということが書かれています。柴は燃えていたのに燃え尽きなかったという出来事も、詩篇の中で“イエスは朽ちることがない”と言われていることを表しています。『あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならない』
(使徒 2 章 27 節)イエスの死体は地のちりとはなりませんでした。
モーセは、真に神に仕えたいと願う人すべての良い例です。実際、彼は最も良い例と言え
るでしょう。モーセについて私たちが最初に分かることは、モーセはエジプトの王子であ
り、パロの孫、神の知恵によって教えられる以前にエジプトの知恵によって教えられてい た者だということです。モーセは世界で当時最も進んだ学問を学んだことでしょう。しか し、モーセが父祖たちの神と出会ったとき、エジプトが何にも値しないことに気付きまし た。まったく教育を受けていない人が真実の生きている神に出会うと、その人は他の何の 手段に頼るよりも賢くなります。モーセは神の知恵によって訓練される前にパロの知恵に よって訓練を受けました。当時エジプト人はパロを神格化していました。パロは彼らにと って神のような存在だったのです。聖書の中でエジプトとは、1 コリントの手紙で教えら れていますが、この世の象徴です。イエス以外に人が神として礼拝されているのを見たら、いつでもそれは来るべき反キリストを象徴するものです。パロは崇められ神として神格化 されていました。モーセもその中にいることも出来たでしょうが、ヘブル人への手紙を読 むと、「キリストのゆえに受けるそしりをこの世の宝にまさる大きな富」と思ったとあり ます(ヘブル 11 章 26 節)。モーセはエジプトの王子であり、その地位や権力、教育はエ ジプトが与える最高のものでした。しかし、モーセはキリストのゆえにそしりを受けるこ とを選んだのです。モーセはすでにメシアについて知っていました。彼は“その主の使い”と出会ったのです。
そして民のひとりを助けようとしましたが、退けられ、自分のいのちのためにそこから逃げました。モーセは荒野に逃げ、後に律法が授けられる場所――ホレブ山へと行き着いたのです。
ここでもモーセはイエスの象徴です。彼は異邦人の妻をめとりました――それは教会です。モーセは自分の民を救うために来たのに彼らに退けられました。そして荒野に行き異邦人 に受け入れられたのです。彼らはモーセをユダヤ人ではなく、エジプト人だと思っていま した。実際にユダヤ人だけがイエスを非ユダヤ人だと見ているだけでなく、いわゆるクリ スチャンたちもイエスを非ユダヤ人と考えているということは驚くべきことです。
荒野へ
退けられた結果として荒野へ追いやられるというパターンは、神が召された者によく起こることです。ここで私たちはダビデ王を思い出します。預言者サムエルはダビデに油を注ぎました。しかし、王座を引き継ぐ代わりにダビデは急いで町を離れ、アドラムの洞窟に逃げ後に荒野へと入りました。
後にタルソのラビであるサウロが登場します。彼はパリサイ人の中のパリサイ人であり、ラビになるためヒレルの学校で学び、その孫ラビ・ガマリエルを教師としました。モーセ
はエジプトが与える最高の教育を受けた一方で、パウロは最高のイェシバ(律法の学校)
で教育を受けていました。パウロは教養のあるローマ市民であり、ギリシア語に精通しており、ヘブライ語、アラム語、ラテン語が流暢に喋れたことでしょう。そして以前は福音の敵でした。しかし、パウロはダビデやモーセと同じように荒野で長年過ごしたのです。
モーセは四十日四十夜断食し、イエスも四十日四十夜断食し、ヨナはニネベが悔い改めるために四十日与えました。ノアが箱舟にいるときには四十日四十夜雨が降り、イスラエルの子らは荒野を四十年間さまよいました。それはいつでも四十です。
私は幼い信者であったとき、甘い考えを抱いていました。私は「主よ。私は科学を専攻し、週に数千ドル(数十万円)を稼いでいます。主よ、これらすべてをあなたに差し上げます」と言い、イスラエルに行き、イスラエルの地で終わりの日におけるユダヤ人への伝道者に なろうと考えていました。そこで私を待っていたのは、惨めで退屈な処方箋を書くだけの 仕事でした。なぜなら、それしか分からなかったからです。私は救われたときに、自分は もう薬を売る仕事はしないと思っていました(ジェイコブは救われる以前麻薬の運び屋で した)。私はそこで年を取った女性にイーデッィシュ語で薬が何個必要か聞いていました。それは彼らがヘブライ語を理解できず、私も当時はそうだったからです。私は何も無い場 所にいました。そこの窓から外を覗いてみると砂がありました。なぜそこに砂があったの でしょうか?なぜなら私は砂漠の中にいたからです。文字通りそこにはベドウィンとラク ダがいました。私がニューヨークを出たのはこんな荒野に来るためだったのですか?こん なことのために高い地位をあきらめたのですか?主はこのために私をここに導いたのです か?こんな荒野に。私は主に用いられるためにここに来たと思ったのに!そのとき主は
「あなたは全く間違っている、それは後にやってくることだ。私はあなたをこの場所で用いるためにイスラエルに導いたのではない。イスラエルを用いてあなたを試みるためにここに連れてきたのだ」と言っていたのです。
まず退けられるのです。私はニューヨークにいるユダヤ人からも同じ経験をしました。イスラエルにいるユダヤ人もイエスについての話を聞きたがりません。ニューヨークならたまに石を投げつけられるくらいですが、少なくともイスラエルのイェシバに通う学生からは手榴弾以上の物を投げつけられることもありました。私たちはハイファの通りで石を投げつけられました。実際に石を持った暴徒に追いかけられたのです。私はかつてニューヨークでジューズ・フォー・ジーザズの小冊子を配っていました。するとある老婆は私につばをかけ、ときには JDL(ユダヤ防衛連盟)が来て嫌がらせを受けることもありました。
私はキブツ(イスラエルの農場)にいてヘブライ語を習得しようとし、またそこでイスラエル人の小さなグループを相手に伝道的な聖書の学びをし始めました。しかし、そこで救
われたのは非常にわずかな人でした。「主よ、あなたは何のために私をここに連れて来た
のですか?以前は私が小切手を切り、奉仕と伝道のためにお金を送っていたのに今はいつでもお金が足りません。私はエジプトの王子だったのに今は無きに等しい者となっています。あなたが用いてくれると言ったと思ったのに」「いいえ、退けられ荒野に行くのが先です」と神は言われます。モーセはなぜ自分にそのようなことが起こったのか分かりませんでした。「あなたは私の父の神であるので、私は民のために立ち上がりました。そして正しいことをし、私の地位、権力、教育をあなたのために用いました。なのに、今はただ退けられ、荒野へとさまよい出ています」その荒野において、そのときのモーセには理解出来ないことが起こっていました。どのようにしてモーセはイスラエルの子らを 40 年間同じ
荒野の中を導くことができたのでしょうか。モーセはイスラエルの子ら、つまり 150 万人
の大人と在留していたエジプト人、子どもとを合わせた人たちを 40 年間も荒野で導くこと
ができたのです。そのようなことができたのはモーセがそこで 40 年間過ごしたからでした。荒野は死の場所であり、サソリ、コブラ、ハゲワシが頭の上に群れをなすような場所です。水もオアシスを見つけない限りありません。それは点在しています。どのようにして荒野 で生き延びるのでしょうか。そうです。それがモーセが学ばなければならないことだった のです。「モーセよ。私があなたに荒野で生き延びる知恵を与えた後に、荒野の中であな たがひとつの国を導くようになるのだ」と神は言われます。
もう気付いたでしょうか。私たちは救われたときにパロの領土から出てきました。エジプトから出はしましたが、私たちはまだ乳と蜜の流れる約束の地には至っていません。私たちはこの世から出てきました。しかし、1 コリント 10 章が告げるように、まだ天には至っていないのです。私たちは荒野に滞在しています。
モーセがそのようなことをなしえた理由は、彼がとても長い年月をその荒野で過ごしてい たからです。どの大学、神学校、聖書学校でも教えてくれないことがあります。世の中で 最も優れた神学の教育機関はあなたに聖書について教えることはできるでしょう。しかし、ただ荒野の中においてのみ、あなたは聖書の意味していることが分かるのです。聖書につ いて学ぶのは良いことです。聖書の学問的な知識は役に立ち、実用的です。私はギリシア 語やヘブライ語、文芸批評、聖書の歴史、考古学を学ぶことの重要性をさげすむことはし ません。聖書について知るのは良いことですが、それで十分ではありません。それは重要 ですが、最も大切なことではありません。聖書を学ぶことは必要不可欠ですが、最初にす るべきことは聖書が何について書いてあるかを学ぶことです。それは誰も教えることはで きません。それは神のみがあなたに教えることです。民をどうやって荒野の中で導けるの でしょうか。指導者になりたいのなら審査を受けさせるのです!(1テモテ 3 章 10 節)「こ の人はこの役職にふさわしいのでしょうか?健康の問題や奉仕の中での問題、財政の危機、この人はこれらをどうやって処理するのでしょう」この人がこれらのことを主の力と知恵
によって取り扱うことができたなら、やっとその後に神の器として整えられ、同じ荒野に
いる者を励ませるのです。その後になってから神はパロのもとに「行け」と言われます。
荒野を通った後に
私たちが荒野を通った後にだけ、学問的な教育は実際に使える価値を持ちます。私は、大学や聖書の学校に行き、その後から奉仕に入ろうとしているくだらない考えを持った人たちを何人も見てきました。そのように物事は運びません。この世の職業においてさえそうなりません。ボーイング社(アメリカの航空機メーカー)やマクドナルド・ダグラス社の請負人を考えてください。彼らは修士号や博士号を持った人たちを一番良いエンジニアの学校から採用します。彼らはロンドンのインペリアル大学やマサチューセッツ工科大学のようなところにおもむきます。そしてその大学の一番優秀な人を採用するでしょう。そして言います。「さあ今からあなたがエンジニアになるための訓練をしましょう」「いや私はあの大学を卒業したのですよ!」「いいえ。あなたは 5 年間私たちの下で働いてください。
5 年経つまではあなたは使い物にならないのです」と言うことでしょう。
あなたがアメリカから薬剤師の資格を持って卒業しても、実習生となったら次に研修医となることができます。イギリスでは研修医の補助となった後に研修医となれます。「でも私はすでに薬学の学校に通ったのですよ!」と言ってもそれでは通用しないのです。
あなたがロースクールを終えたら、論文を書いて受付に行ってください。弁護士補助員になったら、事務弁護士の補助、そして次に下級の事務弁護士になるのです。今から 5 年経ったらあなたは自分を弁護士と名乗れるでしょう。「私は学位を持っているのですよ!」と言う人もいることでしょう。
エンジニアの世界でもそうはいきません。薬学や法律学の分野でもそうです。ましてや奉仕においてそのようになるわけがありません。あなたが荒野を通ったその後にだけ、教育は役に立つのです。今パロのもとに行くのです。今あなたはそうするのにふさわしいのです。
あなたは砂漠の中にいると全く方向感覚を失います。すべてが同じように見えるのです。脱水症状のために蜃気楼のようなものを見るようになります。自分がどこに向かっているか分からなくなるのです!日の出や日没によって何らかの方向感覚を得るかもしれませんが、道に迷わないで荒野を通るのに一番最適なのは夜です。ベドウィンたちは星を頼りにします。荒野で生き延びるということは並外れた能力を必要とします。しかし、モーセは荒野で一国を養っていかなければならなかったのです。小さな事をし続ける日をさげすん
ではいけません。神があなたを召したとき、すべての人にそれぞれの奉仕が用意されてい
て、最初に私たちが期待すべきことは退けられることです。なぜなら私たちはキリストに似ることによってしか、主に仕える者となり得ないからです。キリストが最初に経験したのは退けられることでした。
『私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。』(イザヤ 53 章 1 節-2 節)
これがイザヤがメシアについて語ったことです。神があなたを用いることができる前に、あなたは退けられることを経験しなければならないのです。
神は人々を日常の中で非日常的なことのために整えておられます。あなたが荒野を出てから――それは後になって思い出せるだけなのですが――神がその荒野でしてくれたことを気付くのです。モーセが荒野にいたとき、彼が知らなかったことは自分を退けた民が絶望に陥り、モーセを受け入れる状態に至ったということです。モーセの奉仕の場所はまだ整えられていなかったのです。
同じような例
同じことがサムエルに王として油注がれた後のダビデの生涯にも言えることです。「ダビデよ。あなたはこれから王となります。サウルが追跡してきてあなたを殺そうとするでしょう」まず退けられます――イスラエルの見捨てられた者たちがダビデに連なりました。すべての者が負債を抱えていたり、負け犬たちであり、名も無い人たちでした。しかし、後に私たちはダビデの勇者たちについて書いてある箇所を読みます――彼らは軍隊の司令官やイスラエルの戦いにおいての大将たちでした。それらのイスラエル軍の大将たちとは誰であったのでしょうか?主の軍勢の司令官たちとは、ダビデの勇者たちとは誰だったのでしょうか?同じ負け犬たち、見捨てられた者たちです!そうです、アドラムの洞窟に来てダビデと合流した希望のない者たちです。神はそのような負け犬たちを集め、ダビデの勇者とされました。神は名も無き人たちを取り、荒野において主の軍勢の司令官とされました。最初に彼らはサウルを出し抜く方法を学びました。それからぺリシテ人の裏をかく方法を学んだのです。後に彼らはペリシテ人を征服しました。どこでそのようなことを学んだのでしょうか?ダビデが教えたのです。
ダビデはダビデの子と呼ばれたキリストの象徴です。ベン・ダヴィード・イェシュア(Ben
David Yeshua)である方、主ご自身、ダビデの子であった方が荒野についてのことを教え、他のどこにおいても教わることの出来ないもの――敵を出し抜く方法を教えるのです。し かし、そこは快適な場所ではありません。モーセのことを考えてみてください――「私は エジプトの王子で、富も、権力も、地位も、特権も持っており、教養のある者だったのに、今荒野にいます。神よ、あなたが私を召されたと言われました。このようなことのために 私は水から引き出されたのですか?」と思ったことでしょう。
タルソのラビ・サウロも同様です。「私は異邦人への使徒となるのに、かごに吊るされて城壁づたいにひそかに逃げなければならないのですか?」しかし、アラビヤにいるときにパウロに何かが起こりました。パウロは実際に 1 コリント 11 章において、最後の晩餐について書くことができました。それはほとんど不思議な方法によってです。彼は『私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです』と書きました。パウロは最後の晩餐の席にはいませんでした。その場所にいなかったのに、どのようにしてそれを主から受けることができたのでしょうか。一体どこから得たのでしょう?パウロは荒野にいるときにそれを受けたのです!砂漠でそれを受け取りました。パウロが 2 コリントの手紙で第三の天にまで引き上げられたという出来事は荒野であったことかもしれません。肉体によってか霊よってかを知らないと書いていますが、パウロの見たことは言葉にすることも出来なく、驚くべきもので、信じがたいことだったのです。それがタルソのラビ・サウロであり、ダビデ王も同じ、またモーセも同じでした。それなら真に神に仕えたいと思う者すべてがそうであるということです。
荒野に行くことの目的
しかし、多くの日が過ぎた後、思いがけないときに荒野の中のモーセにあることが起こり ました。ある時点で、ダビデは孤立していた状態から抜け出し、彼のいた荒野から帰ってきました。ある時点において、パウロはアラビヤから戻ってきました。ある時点において、神はあなたを荒野から呼び戻します。それは後に待ち受けていることのため、あなたが知 っておくべきすべてのことを学び終えたときです。この堕落した世においては、そのよう な必要なことを学ぶのに適した場所と方法は荒野の他には無いのです。
神があなたを荒野に留めているとき、ただ神はあなたを奉仕のために整えているだけではありません。神は奉仕をあなたのために整えているのです。状況は困難そのものでしょうが、今私たちは神が本当になされていることに気付きます。何も無いようなところで神は燃える柴の中からモーセに語りかけて言います。「これがしるしです。あなたが民を導いてくるとこの同じ山に来る。ここでわたしはあなたに契約、すなわち律法(トーラー)を与えよう」
つまり言い換えると、奉仕においてあなた自身が到達したことの無い場所に、決して誰も
導くことはできないということです。あなたがそこに到達し、生ける神と会うことがどのようなことであるかを知った後に、神はあなたを用いて誰かを導くのです。しかし、あなたがそこに自分自身で達しない限り、誰も導くことは出来ません。
モーセは燃える柴の中におられる神と出会ったときに 80 歳でした。世の与えるひとつの嘘は定年退職という考えです。クリスチャンにとって定年退職が唯一意味することは、もし健康が許すなら、今あなたはパートタイムではなくフルタイムで神に仕えられるということです。この世は人の一番の全盛期は中高年であると言います。しかし、神は老齢になったときであると言われます。世の言うことは正反対です。どういうわけか教会はこの世の歪んだ考え方を許容してしまっています。一方で神は違ったように見ておられます。神はすべての出来事を老齢のための準備であると考えています。神は世が考えるようには考えていません。残念ながら、教会は世の考え方に聞き入り、主の考え方よりもそちらを重要視しています。定年退職したならあなたのこの世でのキャリアは終わります。もう生計を立てるために奮闘し、子どもたちを大学に行かせることは済みました。男性ホルモンと女性ホルモンの生成も少なくなってきて、肉の欲はあなたに対して以前ほど大きくならないでしょう。世は若さ、中年が良いと言います。しかし、神は若さや中年が一番ではなく、それは老齢になるときの準備だと言われます。ヘブライ語で“長老”という言葉は年を重ねた者という意味です。世の考えがクリスチャンであるあなたの頭の中に忍び込んでこないようにしましょう。使徒ヨハネが黙示録を書いたのは彼が 90 代の頃であって、当時としては信じられないほどの老齢でした。
荒野にいたことの結果
神が荒野に導き入れた男の人や女の人は、その荒野から出てくるときには完全に違った人となっています。荒野に入っていく者は自分の強さを知っていますが、そこから出てくる者は自分の弱さを知っているのです。それからその人は神の力を知ります!神の力はいつも私たちの弱さによって栄光を受けます。神が荒野に導き入れる男の人や女の人はひとりの人です。神がその人を出されるとき、その人は人柄、考え方、振る舞い方において完全に違った人となっているのです。
荒野に入るとき、その人は自分の持つすべての能力について知っており、自信を持って入っていきます。そこから出てくるときには自分にどんな信頼も置かないようになっています。その後に神はその人の経歴を用います。私たちが自分の教育、賢さ、経歴、地位に頼らなくなったなら、そして、私たちが自分の至らなさを知った後に神はそれらを用いるこ
とが出来ます。私たちの強さは神の中になければならないのです。荒野に入っていく者は
自分の強さを知っていますが、そこから出てくる者は自分の弱さを知り、神の強さを実感するのです。
同じことが起こります。このパターンが明らかになってきたでしょうか。あなたは神に用いられたいのですか?最初に期待すべきことは退けられることです。あなたは自分の兄弟や姉妹、同じ民から退けられるでしょう。そのようなことはとても辛い経験です。イエスは兄弟であるヘブライ人に退けられ、モーセは兄弟であるヘブライ人に退けられ、ヨセフも同じ目に遭いました。ヨセフ、モーセ、イエス、パウロ、そしてあなたと私は自分の仲間から退けられます。すべての教育や経験、富、権力、地位、名声も荒野に行くとそこでは意味を成さないものになります。神が燃える柴からあなたに語りかけるまでは、それらは完全に意味の無いものなのです。神はあなたに確かに語りかけます。「私はどのようにして行きましょう」「なぜなら私があなたを遣わすのだ」「あなたは誰なのですか」「わたしはあるという者だ」(※1)モーセがエジプトの王子であるとき、彼は自分がどのような者であるかを知っていました。モーセが知る必要があったのは、神がどのような方であるかだったのです。
あなたは荒野で神と出会わない限り、神がどのような方かを知ることは出来ません。良い 時であれば誰でも霊的になれるのです。荒野においてあなたにあることが起こります。あ なたはそれが何かを知らないでしょう。はじめはそれに興味をそそられます。これに近づ いて見てみようというように。そのすぐ後にあなたは聖なる地に立っていると気付きます。その聖なる地で神はあなたを使って他の人を導かれます。聖なる地に彼らを導き上りなさ いと言われます。「主よ、このためにあなたはここまで導かれたのですか?」そうです。
「しかし、彼らは私を退けました」「彼らは整えられておらず、あなたもそうであったからだ。今彼らは整えられてあなたも準備が出来ている」「しかし、それをどのようにしてなしえましょう。私は話すこともできないし、そのことを成し遂げられません」「いいえ、あなたには可能だ。いつでもそれをできた。もし、あなたがそれをできないのなら、あなたはここにいるはずはない。わたしは見込みが無い者を荒野に導いて時間を浪費したりはしない。かつてはあなたは自分が能力を持っていると考えていたが、今あなたはわたしの強さの内においてのみそれが可能だと知っている。行ってそれをなしなさい。行くのです」燃える柴の中からモーセはイエスの声を聞き、“ヒネニ”と答えました。(“ヒネニ”とは「ここに私がおります。何をしましょうか」という意味)
私たちの中で神がその人生における召し、奉仕を与えられていない人は誰もいません。私はそれが何かを知りません。それはリーダーシップであるかもしれないし、宣教地においてのことや、伝道に関することかもしれません。もし、神があなたを何かに本当に召して
おられるなら、最初の段階は退けられることです。次は荒野、そして燃える柴となるでし
ょう。
また私は約束します。荒野から出てきた男の人や女の人は誰であれ、最初に入っていた人と全く違う人になるのです。†††
(※1)
それはテトラグラマトンでヤハウェと呼ばれ、YHWH とは昔ある方、今おられて後に来られる方、わたしはあるという方を示しています。また、ヨハネ 8 章シムハ・トーラーにおいて、人々はイエスに石を投げようとしました。なぜなら「アブラハムがいる前からわたしはいる(ギリシア語ではエゴ・アミ)」と言われたからです。イエスは自分自身を神と認識していました。
Christian Cult - Japanese
l イントロダクション
もちろん選ばれた者たちが騙されるなんてあり得ないという人たちがいます。 ですがそれ自体が嘘です。起こりもしないことをイエスさまが何度も警告する ことはありません。それはそうとして、イエスさまはクリスチャンを騙す人た ちに関して警告していました。モルモン教やエホバの証人に騙される人がいる なら、それは救われて間もない人か、物事を何も知らない人たちです。救われ て 3 年、4 年、5 年経った人たちはそのような人たちの犠牲にはなりません。
l 人から始まる カルトにも神学的な「カルト」と社会的な「カルト」があります。ですが、
この二つはどこかの時点で必然的に合流し、ひとつとなります。
あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私 はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。 キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけ られたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたの はパウロの名によるのでしょうか(1 コリント 1 章 12 節-13 節)
人々は「パウロにつく」、「ケパにつく」、「アポロにつく」と言っていました。
「私はキリストにつく」と言っていた人たちは「どんな指導者をも認めず、指
導者の必要性も感じない。イエスが私たちのリーダーだ。牧師の権威など認め ない」と考えていました。人々は「私はあの人につく、あの人につく」と言い、 人を教祖に祭り上げてしまいました。
カルトの行うことは、関心を人間に向けること、時には死人に向けることで す。今日のカルト――福音派のカルト――でも創始者が生きていた時より、死 んだ後のほうが人気のあるカルトが存在します。
アッセンブリーズ・オブ・ゴッドはウィリアム・ブランハム(William Branham ※1)が生きていた時にも彼の考えを退けました。E・W・ケニヨン
(E. W. Kenyon ※2)の考えはペンテコステ派主流にとっては忌むべきもので した。「神の子たちの現れ・後の雨運動」、「再建主義、神の国は今」などのよう
なものは、40年代から50年代のアッセンブリーズ・オブ・ゴッドを含め、ペン テコステ派主流によって一般的に退けられていました。カルトと見なされてい たのです。これらかつてはカルトや異端と見られていたものは、現代急激に台 頭してきており、今日でもブランハムを信奉する者たちがいます。
カルトのリーダーは死んだ人物であることもあります。それはエホバの証人 やモルモン教のようなカルトのことではなく、真実の福音を信じる人たちのカ ルトです。人がそのような団体の中で救われると問題が発生します。モルモン 教徒が救われても何ら問題はありません。ジョセフ・スミス(Joseph Smith) は偽預言者だと分かっているので、モルモン教全体も偽りの道に入っているこ とが分かります。エホバの証人が救われても何ら問題はありません。チャール ズ・テーゼ・ラッセル(Charles Taze Russell)も偽預言者だったので、ものみ の塔も終わっています。ですが「クリスチャンカルト」を通して人が救われる と大きな問題が発生します。クリスチャンカルトとは神学的には「教会」です が、社会的に「カルト」である団体です。
そのように神学的にだけ「教会」で、社会的にカルトである団体は次第に異 端的になってきます。背教的な教えに引き込まれていくのです。ですがそのよ うな団体も最初は真実の福音をもって始まりました。
このような団体を通して救われると、人は真に新生したために、指導者が霊 的、心理的な影響を強く持ち、指導者からコントロールされるようになります。
私は「神の子ら(The Children of God)」という団体を通して新生しました。
クリスチャンになって最初の 5 年間はそのような団体と関わっていました。も うひとつは「聖書を理解する教会(The Church of Bible Understanding)」と いうものでした。また別のクリスチャンカルトは「聖書は語る(The Bible Speaks 別名 Greater Grace)」というものでした。そのようなカルトがなぜそ れほど危険かというと、真実の福音を伝えているからです。エホバの証人やモ ルモン教を排除する方法でそれらは排除できません。大きな問題がそこにはあ
ります。その団体に属している人と、そのような団体を通して救われた人は束 縛の下にあります。霊的に、そして心理的にも縛られてしまうのです。
l カルトの第一のしるし パウロなど使徒たちがこのような精神に反対していたことに注目してくださ
い。パウロがあなたを救ったのでしょうか?救いをもたらしたのはイエスであ って、福音であり、教会ではありません。ローマ・カトリック教会は救いの道 具だと自称し、司祭によって執り行われた秘跡によって、人が救われると教え ています(エクス・オペレ・オペラート)。これらの団体はキリストを宣べ伝え ますが、キリストとその団体との区別はつけません。
パウロは後にガラテヤ人への手紙で「肉の行ない」(ガラテヤ 5 章 19 節)「党 派心(20 節)」と呼んだカルトの第一の性質を非難していました。
「党派心、分裂、分派」(ガラテヤ 5 章 20 節)カルトの第一のしるしはパウ ロが「党派心」と呼んだものです。党派心の罪は、特定の団体が自分たちだけ が聖書の真理を握っていると主張するところに発生します。党派心を生むもの のひとつにグノーシス主義があります。グノーシス(Gnosis)とは「神秘的知 識」を表すギリシア語から来ています(1 テモテ 6 章 20 節「霊知」)。
ローマ・カトリック教会内にあるグノーシス主義は「センサス・プレニア
(sensus plenior)」――聖書の「完全な意味」というものです。聖書にはより 豊かな意味があることは事実ですが、ローマ・カトリック教会の主張している ことは、教皇がペテロの後継者であるために、みことばの意味を間違いなく定 義でき、それを基礎に教理を作ることが出来るということなのです。
グノーシス主義においては、聖書の釈義が大事なのではなく、聖書について 語る指導者の言葉が重要視されています。
ジョン・ウィンバーの運動である「ヴィンヤードムーブメント」は初代教会 にも存在したクリスチャンのグノーシス主義に基づいています。例えば、ヴィ ンヤードや後の雨運動、カンザスシティーの預言者などの基本的な教えは、再 建主義であり、「ヨエルの軍隊」と呼ばれるものです。
「町を襲い、城壁の上を走る。 主の命令を行なう者は力強い」
これはいなごに譬えられています。歴史的な背景からこれはネブカデネザル の軍隊で、悔い改めないユダを裁くために神が用いた軍隊です。ですがこれは また黙示録に登場する反キリストの軍隊の象徴でもあります。ヨエル書に登場 したいなごは黙示録でも再び現れています。それゆえ、この軍隊が何であれ、 終わりの時代に登場する反キリストの軍隊であり、ヨエル書 2 章 20 節には「わ たしはこれを滅ぼす。その臭いは天にまで立ち上る。それを西の海に追いやろ う」とあります。ヴィンヤード運動はこれが自分たちだと教えています。神に 裁かれ、滅ぼされる軍隊に入りたいと思う人たちがもしいるなら、ヴィンヤー ド運動に入るべきです。神の子たちの現れや後の雨運動もしかりです。
彼らにとっては聖書が何を語っているかは問題ではありません。神秘的知識 が語ることだけが重要なのです。「神さまが私だけに見せてくださった」という ようにです。
コープランドとヘーゲンは共にケニヨンの教えに頼っています。イエスさま が十字架上で「完了した」(ヨハネ 19 章 30 節)、また「父よ。わが霊を御手に ゆだねます」(ルカ 23 章 46 節)と言ったにもかかわらず、ケニヨン信奉者たち は「十字架上ではイエスさまではなくサタンが勝利を得たという啓示を、私は 受けた。イエスさまは三日三晩地獄で拷問を受け、サタンとひとつの性質とな り、そのサタン付きのイエスさまは地獄で新生し、死人からよみがえった」と 主張します。このようなものはイエスと全くの別人物であり、買い取ってくだ さった主をも否定する偽りの福音です。
繁栄の説教者たちもそうです。「神は私に 啓示を与えて下さった」と言いま すが、これらはみなカルト的です。
それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわ ち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、という
ことです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされ たのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語っ
たのだからです(2 ペテロ 1 章 20 節-21 節)
この節の直後に「パレイサズーシン(pareisazousin)」――「偽りの傍に真 理を置く」というギリシア語が登場します。そのような人たちは聖書預言の解 釈などを自分の解釈次第であるかのようにみなしてしまっています。それゆえ 聖書が何を語っているかが大事なのではなく、その指導者がどう語っているか が重要視されているのです。
l 人の上に立とうとする者たち これらの二つの特徴(党派心とグノーシス主義)が重なれば、第三のものが
来るのも時間の問題です。
イエスさまはニコライ派の行いを憎みました(黙示録 2 章 6 節)。ニコライ
派がどのような人たちであったか歴史から知ることは出来ません。使徒 6 章に 列挙されている執事たちのうちの息子がニコライで、ニコライ派は彼に従って いたのではないかという推測がありますが、誰も分かりません。このような話 は伝承から来たものです。ですが私たちが知ることが出来るのは「ニコライ派」 のギリシア語における意味です。「ニコス(nikos)」は「抑圧」、「ラオディクー ス(laodikeus)」は「民」という意味です。彼らは自分たちを支配層に押し上げ たのです。
次のような主のことばが私にあった。「人の子よ。イスラエルの牧 者たちに向かって預言せよ。
(ヘブライ語で「羊飼い」と「牧師」とは同じ言葉です)
預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。 ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わ なければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛 を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強 めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たも のを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で 彼らを支配した。彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野
の獣のえじきとなり、散らされてしまった。(エゼキエル 34 章 1
節-5 節)
聖書的なリーダーシップは模範によるものであり、他者を支配するものでは ありません。イエスさまはこのことでパリサイ人を強く非難しましたが、これ が初代教会にも入り込んでしまっていました。
「党派心」のあるところには大抵の場合、「グノーシス主義」があります。人々 は「あの先生は私たちより聖書に精通しておられるから」と言います。
ある時、本当におかしなことを語る人がいて、完全に異端でした。ですがそ の人は聖書に関して非常に深い洞察力を持っていました。自分の知名度を気に している指導者たちに気をつけましょう。本当に賜物のある人が、自己崇拝す る人々を容認している時には警戒しましょう。人はそのような人に関して「私 たちは先生のしていることが理解できないが、先生は私たちよりも神に近いお 方だ。深い洞察力を持っておられる」と言います。深い洞察力を持っているの は事実かもしれませんが、聖書の語ることと正反対を行っているなら、「あなた がたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい」という状況と同 じです(ヨシュア 24 章 15 節)。ですがそのような時点になると、従っている人 たちはもうすでに強い束縛の下に置かれています。
次に来るものはニコライ派の行い、重いくびきを負わせることです。「我々に 異議を唱え、我々に挑戦するとは君は一体何様のつもりなんだ。君は反抗的な 霊を持っている」と指導者は語ります。
l カルト指導者の人格 法医学の精神科医も同じことを言うと思いますが、カルト指導者の人格は独
裁者の人格とほぼ同じものです。アドルフ・ヒトラーやジョセフ・スターリン を含む多くの独裁者たちに関して、法医学の精神科医による評価が下されまし た。精神科医の一団が 1940 年代のイギリスやアメリカ連合軍に対するアドル フ・ヒトラーやジョセフ・スターリンの人格評価を行った際、彼らはあること について意見が一致しました。それはヒトラーやスターリンは、スターリング ラードの戦い(1942・1943 年)やバルジの戦い(1944・1945 年)で戦う勇気 は持っておらず、強制収容所の人々に強制したことを自分たちが行うのは明ら かに耐えられなかっただろうということでした。
カルト指導者は独裁者のようなもので精神的に不安定です。カルト指導者は 人格的に精神不安定であり、より精神不安定な者たちを回りに集めることによ り、その人たちをコントロールし、彼らを通して人々のもとに行きます。カル ト指導者は、一緒に怒鳴りつけてくれる者無しには、ほとんど誰かと関わろう としません。カルト指導者は基本的に自分の言うことを繰り返すだけのオウム のような人物を送り出します。カルト指導者は精神不安定であり、その部下、 代理人もまた精神不安定で容易に操作されてしまう人たちです。
すべての人が同じ訳ではありませんが、ひとつのことは確実に言えます。あ る人が新生したなら、その人は霊的に変化し始めます。そして霊的に変化する と、心理的に変化してきます。神は人を内から外へと変えていきます。イエス にあって成長するにつれて、その人はキリストにあって安定していき、共にキ リストにある者たちと和合するようになります。クリスチャンのカルトではこ れが起こりません。クリスチャンのカルトとは神学的には「教会」ですが、社 会的に「カルト」である団体です。その人たちはキリストにあって安定するこ とがありません。彼らの安定は指導者との関係性に基づいてしまっています。 程度の差こそあれ、カルトに属する者はすべて同じです。
再建主義神学に陥っている大半の「ハウスチャーチ運動」は、どの程度カル ト化しているかで差があるだけです(1990 年代から始まったハウスチャーチ運 動は、新使徒改革を通してキリストが再臨する前に、この世に神の国を打ち建 てることを目指してきました。その中で悪名高いのがピーター・ワグナー、シ ンディー・ジェイコブス、リック・ジョイナー、ビル・ジョンソンです)。みな 同じ道をたどっています。そのようなハウスチャーチ運動とエホバの証人やデ イビッド・コレシュが違う点は、ただ彼らの方がより深く堕ちて行ってしまっ ているということだけです。神学的には「教会」であっても社会的に「カルト」 である教会は時間が経つと確実に異端の教えを持つようになります。ささいな 誤りではなく、根本的な誤りです。「神の子ら」もそれをし、「聖書を理解する 教会」もそれを行いました。時間が経つとそのようなものは教理的誤りに陥る のです。しかしそれはただの始まりに過ぎません。
このような人たちは精神的に不安定なので、自分たちが知らないことを知っ ている人を恐れます。
私たちは教育を崇拝すべきではありません。アポロとパウロは正式な学問が
ありましたが、ペテロとヨハネはそうではありませんでした。そうであっても ペテロとヨハネの持つ使徒の権威はパウロのものに劣ることはありませんでし た。しかしながらペテロは手紙の中で「これらのことは複雑だ。パウロがそれ
らを説明するほうが良い」と語っています(2 ペテロ 3 章 15 節-16 節参照)。
ある人の知性が十字架にかけられ、知性に頼らず、キリストに頼ることを学 べば、知性はとても良いしもべとなります。「知性」は良いしもべですが危険な 主人です。ですが「無知」は死をもたらす主人です。「知性」は良いしもべです が悪い主人です。「無知」は悪いしもべであるだけでなく、死をもたらす主人で す。
このような人たちが神学校や聖書学校、ギリシア語を読める人々を無意識の うちに貶めるのが見受けられるでしょう。彼らはその人々を恐れるでしょうか ら。彼らは自分の知らないことを知っている人々に出会うと、自分の団体の中 でその人々を貶め、卑下し、笑い者にせずにはいられないでしょう。彼らは原 語のギリシア語やヘブライ語を読め、神学校に行った人たちが自分たちにとっ て脅威であると知っています。それは独裁者たちと同じです。彼らは自分が持 っていない知識を持つ者を恐れるので、結果その人たちを貶めるのです。「そん なもの必要無い」と彼らは言います。そしてそれ自体は事実であることを言い ます。「大学には博士号を持ち、ギリシア語やヘブライ語が読める者が多くいる が、彼らは地獄へ向かっている。彼らは救われてもいない」彼らはその点を強 調しますが、コインの裏側を見ようとはしません。彼らは人をコントロールす るのに見合うことだけを強調します。
独裁者やカルト指導者たちを見ると、彼らは自分自身が精神不安定であるた めに、人々を同じく精神不安定にすることによってだけコントロールすること が出来ると分かります。
l 教理の誤りを越えて 最終的に彼らは教理の誤りに陥ります。ですが必然的にある時点からふたつ
の事柄――両方同時とはいかなくとも――が起こります。最初のものはエゼキ エル 34 章に記されたような金銭的不祥事です。「あなたたがは私腹を肥やすた めに羊をほふるが、彼らの生活を見てみなさい」(エゼキエル 34 章参照)
ひとつの例が、ネズミが出るような犯罪率が多いスラムに信徒たちが住む一
方で、5 機の飛行機を保有し、バハマで二人目の妻と休日を楽しんでいる指導者 です。ある人はニューヨークシティーの劣悪な地域に住み、一日 14 時間カーペ ットを掃除し、すべてのお金をそのカルトに寄付しています。その寄付の名目
はハイチに住む子供たちに与えるためだといわれています。もしかすると寄付 金の一部がそこに届いたかもしれませんが、確実にそのお金はその指導者と彼 の妻しか乗らない 5 機の飛行機のために使われたことでしょう。
金銭的不祥事が最初のものです。そこには大抵の場合、格差が見受けられま す。奉仕は仕える立場であるはずなのに、牧師たちは「先生」と呼ばれる栄誉 と、世俗社会では得られない金銭的な地位を得ようとしています。世界的に見 て、これらのことはペンテコステ派の牧師たちの中に見られ、神学的な理解は ないがしろにされ、お金や繁栄が強調されています。(このようなことは、仏教 カルト「幸福の科学」にも見られるものです。神道の神官でも家から霊を追い 払う振りをして、人を恐れさせ、お金を巻き上げています)
このような人たちの中に多くの場合、見受けられる二つ目のものは性的不祥 事――性的不品行です。それは明らかになるまで、ある期間は内密に行われま す。
短期的にカルトを見ると、これらが脱出するための警告です。そこにはある 形でグノーシス主義と関連した「党派心」の罪があります。そして他者が気付 いてこなかったとする教理の偏りがあり、支持者たちはそれに傾倒しなければ なりません。その時点で脱出しなかった場合はその次に金銭的不正があり、金 銭の搾取があります。非常に多くの場合、金銭の搾取を行うためにその人たち は什一献金などの聖書の教えを歪曲します。そしてそこには不品行――大抵の 場合性的なものがあり、異常な性的嗜好を持つ者までが時には存在します。
l どのようにして生じるのか 新約聖書から読み取れるサタンの最初のトリックは、4 世紀に教会を異教化
する以前、教会をユダヤ教化することでした。といってもこれは教会を「ユダ
ヤ化」することとは違います。教会は事実神学的にユダヤ的なものだからです。 イスラエルは本来の根です(ローマ 11 章)。聖書はヘレニズムの観点から理解 されるべきではなく、ユダヤ・キリスト教の観点から理解されるべきです。主 はみことばをご自分の民、文化を持つ国を通して啓示されたため、私たちはそ れを理解しなければなりません。聖書的キリスト教を理解するためには、聖書
的ユダヤ教をまず神学的に理解することが必要不可欠です。イエスさまは律法 を成就されました。サタンの最初の誘惑は人々を律法の下に置くことであり、 本来キリストを指し示すものとしての律法を違った形で用いることでした。
これは慣習とは違います。イスラエル系ユダヤ人の家族を持ち、ガラリヤで 生れた子供を持つ者として、私たちは文化のためと、未信のユダヤ人への証の ために過越の祭りを守っています。ドアにはメズザーもあり、家庭でヘブライ 語を話しています。ハヌカを祝えば、プリムも祝い、ユダヤの祭りの多くを祝 います。私たちは日曜に教会に行き、土曜日――安息日にはメシアニック系の 交わりに参加します。従ってサタンが教会をユダヤ教化したということは、自 分の文化の中でユダヤ人に福音を伝えようとして文化を守ることとは違います。 これは間違っていません。また第一コリント人への手紙 9 章でパウロが語って いるような、証のために文化を採用した人たちによるユダヤ人への伝道も同じ です。問題となってくるのは律法を守ることが、救いや聖化に必要不可欠だと 誰かが主張する時です。そのような人たちは「あなたたちは恵みによって救わ れたけれど…」と言います。
律法を守ることが救いに不可欠だと言われる時にはそれは「律法主義」に陥 っています。聖化のために不可欠だと言われる時、また救われた人があれやこ れをしなければならないと言われる時、それは「ノミアン主義(Nomianism)」 と呼ばれます(その言葉はギリシア語の「ノモス」から来ています)。
今日、二つの契約の下で生きようとしている二種類のグループに気をつけな ければなりません。ひとつはメシアニック運動の過激派です。これにはアーノ ルド・フルクテンバウム(Arnold Fruchtenbaum)のようなメシアニックの良 い教師や、新約聖書のユダヤ的背景の理解を助けている人たちなどは含まれて いません。またユダヤ人に伝道するためにユダヤ的文化の枠組みで礼拝してい る人たちもこれには含まれません。問題なのは、律法を守ることが義務だと教 える人たちです。
デイビッド・クリス(David Kriss)という人がメルボルンにいますが、彼は 危険な人物です。しかし彼だけが過激派メシアニックではありません。イング ランドでは最終的に刑務所に入れられたフィリップ・シャープ(Philip Sharp) という人がいます。彼はイスラエル人の妻と子供を捨て、集会で自分を王なる メシアとして崇めさせていました。彼は「メシアニック・ジューイッシュ・ラ ビ」でした。ある人たちは狂っています。クイーンズランドにはある種のハラ
ハー共同体がありますが、私はそこに近づくことさえもしたいと思いません。
再度強調しますが、これにはアーノルド・フルクテンバウムやアルト・カッ ツ(Art Katz)のような人は含まれていません。私は良い人たちのことを言っ ているのではなく、おかしな人たちのことを指摘しています。ですがメシアニ ック・ジューだけが隔ての壁を再建しようとしているのではありません。二つ の契約の下で生きようとする人たちが他にもいます。それはセブンスデイ・ア ドベンチストです。デイビッド・コレシュ(David Koresh 信者の集団自決を 引き起こしたカルト指導者)の信奉者たちの大半がセブンスデイ・アドベンチ ストでした。
二つの契約の下で生きるような、深刻で根本的な教理の誤りに陥ると、人は さらに深刻な誤りに陥りやすくなります。いったん根本的な教理の誤りに陥る と、自動的にその人はより深刻で、より危険な誤りに対して無防備になります。 ただそこにあるのは程度の違いだけです。
デイビッド・コレシュについて記された記録を読むと信じ難いものですが、 福音派のカルトでも不可解な事を人々に行わせた
Christmas is Coming - Japanese
クリスマスがやって来る
ジェイコブ・プラッシュ
はじめに
“クリスマス”をヘブライ語では“ハグ・ハ・ノロド(Hag Ha nolod)”といいます。文字通りには“誕生の祭り”という意味です。ローマ 14 章 4 節ではどんな宗教の祭りを祝うか
についてさばいてはいけないと書いてあり、似たような文脈でコロサイ 2 章 16 節から 18節では、誰もあなたをさばかせてはいけないと書いてあります。どの祭りを祝うかということは、個人の文化と背景の問題であり、自分と主の間で決めるべき事柄です。私は人がクリスマスを祝うかどうかということには関心がありません。それは私にとって大きな問題ではないからです。私が関心を持っているのはクリスマス、または降誕についての神学です。イエスさまがいつ生まれたかは誰も分かりません。しかし、イエスさまが生まれたことは私たちみなが知っています。
私の家族はイスラエル人でハヌカの祭りを祝います。ヨハネ 10 章において、イエスもハヌカの祭り――すなわち宮きよめの祭りを祝いました。反キリストの到来を理解するためにはアンティオコス・エピファネス(B.C.215-164 セレウコス朝シリアの王)とマカベア家の出来事を通して理解することが非常に重要です。私たちはハヌカのパーティーを開いて未信のユダヤ人たちを招きます。
私の家ではクリスマスは祝わずに、降誕を祝います。私たちは教会に行って、キャロルサービスに参加します。それだけです。私たちは奉仕や生活に困っている家庭のために何かしますが、それ以上のことは何もありません。私の家族にとってクリスマスは完全に教会の行事なのです。お祝いとして私たちはハヌカの祭りを祝います。
クリスマスと終わりの日
クリスマス、またはキリストの降誕が終わりの日とどう関係があるのでしょうか。これを聞いて驚くかもしれませんが、その答えはすべてに関してです。
キリストの初臨(最初の到来)を理解しなければ、再臨を理解することは決してできません。キリストの初臨に起こったことは、再臨において繰り返され、反復されるのです。イ
エスさまがお生まれになったとき、ローマ皇帝は以前オクタヴィアヌスと呼ばれていたカ
エサル・アウグストゥス(アウグスト)でした。アウグストゥスは史上初めて生存中に神聖化されたローマ皇帝です。したがってイエスが最初に来られた時に、ローマ帝国をローマ皇帝が統治しており、神として崇拝されていました。このローマ皇帝は人口調査を行い、民に番号を与え――実際に民に番号を付けたのではありませんが、当時知られていた全世界の人にそれぞれ番号を与えました。実はアウグストゥスによって人口調査は二度行われており、そのどちらも世界の金融支配を握るために実施されたのです。イエスさまが戻って来られる時にも同じことが起こります。その時にはローマ帝国が復活し、実質的には神聖化された人が政権を握るのです。この半分神のようにみなされた者が世界の経済を支配するために人々の数を数えます。イエスの初臨において起こったことは再臨において再び起こります。クリスマスはただ過去に起こった出来事ではありません。クリスマスは未来の出来事であり、預言的な事柄なのです。
ヨエル書や黙示録、オリーブ山の訓戒(マタイ 24 章など)ではキリストの再臨に先立って空や宇宙にしるしが現れると書いてあります。ユダヤ人は当時自分たちの土地にいながらも、ローマ皇帝の支配下にありました。ローマ皇帝はどのようにその地に支配を広げたのでしょうか。それは誘惑によってです――ローマの軍人であったポンペイウス(B.C.106-
48)はユダヤ人を誘惑し、神殿の至聖所に侵入しました。大祭司以外が、それも贖罪の日ではないときに至聖所に入るなら、その出来事は反キリストを何らかの形で表しています。ローマ帝国のポンペイウスのもとで起こった事は再び繰り返されます。今日、ヨーロッパや中東で起こっている出来事はその準備段階にあるのです。
ヨハナン・ハ・マトビル――バプテスマのヨハネ――はエリヤの霊と力をもって現れました。ヨハネはイエスの生まれる直前に生まれ、イエスが現れる直前に登場しました。預言者マラキはそのことをエリヤが現れるという言い方で予告し、イエスもその事実を認めました。
イエスが最初に来られたとき、イスラエルには多くのにせ預言者がいたので、イエスが戻られるときも、また多くのにせ預言者が現れるでしょう。イエスを信じるべきであった当時の信者たちが堕落してしまった一般的な状況は、今イエスを信じるべきである信者たちの堕落した状況と何ら変わるところがありません。
イエスの初臨は再臨がどのようになるかを示しています。クリスマスは大して重要ではありませんが、イエスさまの降誕はとても重要な事柄です。イエスさまが最初の到来においてどのように来られたかということを理解しなければ、二度目の到来について理解することはできません。もちろん両者には違いがありますが、一方が他方を象徴しています。
過去 20 年間をユダヤ人への伝道師として過ごした中で、私が考え続けていた疑問があります。イスラエルはメシアの到来に2千年という歳月をもって備えられ、神と契約を結んだ関係であり、聖書を持っていたのに、どうしてイエスさまが最初に来られたとき、数少ないユダヤ人しか整えられていなかったのか、という問題です。パウロは悪魔がユダヤ人の目を見えなくしたと書いています(ローマ 11 章 25 節)。イエスが来るまでにイスラエルには2千年間あり、神と契約を結んだ関係であり、聖書を持っていたのです。しかしそれにもかかわらず、残りの者たちだけがイエスの到来に整えられていました。同じことがイエスさまの戻って来られるときにもいえます。ただ今回はイスラエルだけにではなく、いわゆる教会にも同じことが起こるのです。
どのようなクリスチャンが終わりの時代にイエスを迎える準備が出来ているのでしょうか。その答えを知りたいのなら、イエスの最初の到来において、どのようなユダヤ人が準備を していたのかをよく調べる必要があります。イエスが戻って来る際に、どのようなクリス チャンが準備を出来ていないかを知りたいのなら、最初の到来においてどのようなユダヤ 人が準備をしていなかったのかを調べる必要があります。イエスの最初の到来は、再臨が どうなるかを示しています。私たちは最初の到来を理解しないかぎり、再臨を理解するこ とはできません。もっとも二度目にイエスさまは地上の母親から生まれた赤子としてやっ て来るのではありません。ふたつの到来に違いはありますが、本質的に最初の到来は再臨 を前もって示しています。
準備が出来ていなかった者たち
最初の到来において、どのようなユダヤ人が準備をしていたかを見る前に、どのようなユダヤ人が準備をしていなかったかを見てみましょう。そのようなユダヤ人のことを理解すると、どのようなクリスチャンが準備をしていないかが分かります。
マタイによる降誕の物語を読んでみましょう。マタイ 2 章 1 節から、
『イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。『ユダの地、ベ
ツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたし
の民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」』(マタイ 2 章 1 節
-6 節)
ここを読むと分かるのは、イエスさまが最初に来られたときに備えが出来ていたのが誰も予期しないような人であったということです。博士たち、または賢者たちはペルシャから来た者でした。彼らは古代メディア人とペルシャ人の間で儀式を執り行う者でした。どういうわけか古代ペルシャにはゾロアスター教と呼ばれ、何世紀にも亘って変化してきた宗教がありました。ゾロアスター教は一神教であり、この宗教は唯一の神がいること、また人は自分の罪に対して責任を負うことを信じていました。そして光の子らと闇の子らとの間に争いがあるということも信じていました。言い換えるなら、ゾロアスター教はエッセネ派とクリスチャンが信じていたものと同じようなことを信じていたのです。
バビロン捕囚の期間、ペルシャがダニエルの預言の成就としてバビロンを征服したとき、すでに一神教に傾倒していたペルシャの王たちの幾人かがユダヤ人の神を信じるようになりました。ペルシャには長い間ユダヤ人の影響が根強く残っていたのです。例を挙げると、エステル記やメディア人ダリヨス、またその誕生の 200 年前にイザヤによって名前が預言されていたクロスなどが存在しました。エズラ記やネヘミヤ記を読むとその場所で何が起こったかが分かります。ハスモン朝時代からイエスの時代にかけて、ペルシャ人はずっとユダヤ人を手厚く扱ってきました。実際、イランの“シャー(Shah=王)”が倒れるまでペルシャ――イラン――はイスラエルを大事にしてきました。私は確信を持って言えるのですが、ダニエルが三週間祈りと断食をもって対抗したペルシャの君(ダニエル 10 章 13 節、
20 節)は今日もシーア派イスラムという形で、イランのイスラム原理主義の中に存在して
います。現代的なクリスチャンの団体に属している人たちは、悪霊のことを“地域を支配する霊(territorial spirits)”と呼ぶのを好みますが、これは良い翻訳でも解釈でもありません。これはギリシア語で“アルケ(arche)”、またヘブライ語では“シェディーム(shedim)”といいます。この言葉の良い訳語は“支配者(principalities)”であり、国々の上にある悪霊の力のことです。今日、他のおかしなことに加えて、“結ぶことと解くこと”を行っている正気ではない人たちが大勢いますが、国々の上に“支配者”がいることは否定できません。ダニエル書はそれを明らかにしており、ゲラサ地方では悪霊たちがイエスに、その地から追い出されずに豚に入ることを熱心に請いました(ルカ 8 章 31 節-33 節)。この言葉を使うことをお望みなら、地域を支配する霊は存在しますが、これは良い解釈とはいえません。その霊は存在します。北アイルランドのベルファストではケルト系の戦いの神が壁画に記されていますが、そこはプロテスタント系とカトリック系がどちらも仲間を集めた場所でもあります。
そうです、東方からの賢者たちは時のしるしを見分ける方法を知っていました。残念なこ
とに、新生したクリスチャンであっても、今中東で起こっている出来事の大切さが分らない人たちがいます。その人たちの目はそのようなことに対して盲目で、あたかも聖書の中にゼカリヤ書が無いかのように考えています。その人たちはヨーロッパ経済共同体(EEC)で何が起こっているか――世界経済のグローバル化、環境破壊などのどんなしるしでも、賢者たちが悟っていたようには理解していません。
東方の博士たちはメシアをひと目見ようと足を運び、非ユダヤ人が、誰も期待していなかった人たちが東で星を見たためにやってきたのです。彼らがエルサレムに来たとき、ヘロデは彼らの話を聞き、戸惑い、エルサレム中の人も王と同様でした。エルサレムはここにメシアが来るとダビデによって語られた都市であり、そこに神殿がありました。神殿はユダヤ人のアイデンティティー、またメシアへの希望の中心でしたが、そこに住むほとんど誰も、メシアが来るのを望んではいませんでした。
多くの教会の中にも同じ態度を見受けられるでしょう。道路を車で走り、通り過ぎて行く教会を見て、イエスさまに本当に戻って来てほしいと願っている教会がいくつあるかを考えてみてください。エルサレム中の人が戸惑っていました。確かに彼らは儀式や典礼、祝祭や休日を守っていましたが、イエスさまが現れるときになると、すべての人が心穏やかではなかったのです。その中で特に戸惑っていたのが国や宗教の指導者たちでした。このことを考えてみてください。
さらに恐ろしいことに――指導者たちはみことばを知っていました。ヘロデはメシアがどこで生まれるのかを知ることを望み、民の祭司長たちや学者たちはミカ 5 章 2 節の記述から、メシアはベツレヘムで生まれるとヘロデに告げました。彼らは頭ではみことばを分かっていましたが、肝心の心にはみことばを蓄えていませんでした。イエスさまが現れたことは、彼らが望み、欲していたことと限りなく正反対だったのです。イエスさまが戻って来られるときには少しでも状況が違っていると、みなさんは思われるでしょうか。
サタンの罠 信仰を失うこと
今日、教会の中でサタンが付くほとんどの嘘は、ひとつの目的のためにあります。それは神の民の期待をこの人生とこの世に置かせることです。これが信仰を失うことの定義です。神の国は今、支配主義、勝利主義、カルヴァン的再建主義――これらのことは一体何をしようと試みているのでしょう。それは神の国を今建て上げ、この人生に望みを置くことです。繁栄の信仰、お金目当ての説教者たち――彼らは貪欲の罪を教えてそれを信仰と呼び、マモン(富の神)崇拝を教えて神の礼拝と呼んでいます――今どのようなことが起こって
いるのでしょうか。この人生に望みを置くことです。
後千年王国信奉者のジェラルド・コーツとリック・ジョイナーという人は、携挙(クリスチャンが空中に引き上げられること)が悪魔の嘘であり、幻想、神話であると言っています。この人たちは携挙をあざけって、『スタートレック』の「Beam me up, Scotty(瞬間移動させてくれという場面)」と同列に置くのです。彼らの目的は何なのでしょうか。それは教会に携挙のことを忘れさせ、この世に望みを置かせることです。エキュメニカル運動の目的は何だと思われるでしょうか。人間の兄弟愛を立て上げることです――これもまた世に望みを置くことです。イエスさまが最初に来られたときにエルサレム中が戸惑っていました。またイエスさまがお戻りになられるとき、エルサレム中が、いやエルサレムだけではなく、イスラエルが再び恐れ戸惑うのです。
イスラエルの国や宗教の指導者たちはみことばを知っていましたが、イエスを望んでいませんでした。2千年という年月を要して、神はイスラエルをイエスの到来のために備えておられました。イスラエルが国として、民族として存在する唯一の目的はイエスの到来のためでしたが、ごく少数の者しかイエスを待ち望んでおらず、彼が戻られるときも同じようになるのです。
準備が出来ていた者たち
一方で、イエスの到来に備えていたユダヤ人たちはどのような人だったのでしょうか。調べてみましょう。ルカの福音書1章を開いてください。
ルカ 1 章 46 節から 55 節には“マニフィカト(マリアの賛歌)”が記されていて、ギリシア
語でそれを読んだなら、七十人訳の士師記 5 章のデボラの歌にとても似ているものだということが分かります。御使いガブリエル――“神の力強い者”という意味の名の御使い―
―はやって来て彼女が女の中で最も偉大な女性であることを告げました。「女の中の祝福された方。全能の神はあなたの中に肉体をとって宿られる」彼女の名前はマリアではなく、モーセの姉と同じミリアムという名前でした。“ミリアム”という名のヘブライ語の語根は
“苦い”という言葉です。彼女は金髪で青い目をしていたのではなく、むしろ黒い髪をして、セム人の容貌をしていたでしょう。彼女はメジュゴリエやグアダルーペ、ファティマ、ルルドなどの地(マリアの顕現があると言われる場所)にはおもむいたことは一度もありません。彼女の名はミリアムで、ガブリエルからその重要な告知を受けたときはおそらくまだ十代半ばでした。女の中で最も偉大な女性は、自分がどのような者であるかと告げられたとき、それに対してどう答えたでしょうか。
『わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます』(46節-47 節)
女の中で最も偉大な女性は神をわが救い主と呼び、自分が罪から救い出されなくてはならないことを、はっきりと口にしました。女の中で最も偉大な女性が救い主を必要としていたのなら、私はどうなるのでしょうか。『義人はいない。ひとりもいない』(ローマ 3 章 10
節)『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ』(ローマ 3 章 23節)ないのです。ギリシア語の“セオトコス(Theotokos)=神の母”という言葉は新約聖書には出てきません。彼女は、ご自身の民をその罪から救われる方メシアの母になると告げられ、それに対して『わが救い主なる神を喜びたたえます』という言葉をもって答えたのです。全能なる神が肉体をとって自分のうちに宿ると告げられた女性の発した言葉は、ただ自分も救われる必要があるということでした!
女の中で最も偉大な女性が救い主を必要としていると言うのなら、私は彼女を信じます。私は彼女が嘘を付いたとは思わず、もし嘘を付いたとしても、神はみことばの中に嘘を入れることはなかったでしょう。そうすると私は誰を信じるべきなのでしょうか。マリア自身か、マリアが母の胎から原罪を持っていなかったとする“無原罪懐胎”の嘘でしょうか。なぜこのようなものが出てきたかというと、このマリアのイメージは女神ミネルバやエペソのダイアナなどを偽ってキリスト教化したものであって、エゼキエルやエレミヤにある預言の通り、それらをマリアに当てはめた結果なのです。幼子と共にいるマドンナは、元来タンムズ(バビロンの神)崇拝から由来しており、それはエゼキエルが反対して立ち上がったものでした(エゼキエル 8 章 14 節)。エレミヤは天の女王を礼拝することについて警告していました(エレミヤ 7 章、44 章)。
ミリアムは救い主が必要だと言いました。神は人となって、私の罪を取りそれを御子であるメシアに負わせ、御子の義を取り私に与えてくださいました。なぜ神が私の代わりとなるために、人となる必要があったのでしょうか。
私がまだ幼いクリスチャンであった頃、「イエスさまは私の個人的な救い主」というきまり文句を使っていました。しかしながら、実際その意味を完全には理解していませんでした。私はただ救い主を個人的に受け入れたからだという意味だとしか思っていませんでした。しかし当時は半分の意味しか分かっていなかったのです。“個人的な救い主”という言葉が全体として伝えていることは、もし私だけが罪を犯した唯一の人間であったとしても、ただ私だけのためにイエスさまはミリアムから生まれ、十字架に行き、死者の中からよみがえらなければならなかったということなのです。私だけのためにです。なぜ神は私のために死ななければならなかったのでしょう。こんなコカイン中毒者のために。なぜ神が人と
なって私のために死ななければならなかったのでしょう。なぜイエスさまは死者からよみ
がえって私に永遠のいのちを与えなくてはならなかったのでしょう。ミリアムに関してなら理解しやすいことかもしれません。それでも彼女は救い主が必要であるということをはっきりと告げていたのです。
宗教的な人は救い主が必要だと思いません。儀式や何らかの祝いを行っているからです。悪魔は麻薬や性的不品行、ギャンブル、アルコール中毒をすべて合わせたものよりも、宗教を使って人々を地獄に落とします。ほぼ間違いなく言えることですが、人間の文明において最も影響力があった二人の人物はカール・マルクスとイエス・キリストでした。どちらもユダヤ人でしたが双方には大きな違いがあります。実際どちらも物事の捉え方に関して両端に位置しています。しかし両者が同意することがあります。宗教は人類に対して行われた最大の詐欺であったということです。福音は宗教ではありません。福音は神との関係性です!
「救い主が必要」そのようにマリアは言いました。マリアは十代の少女でありながら音楽番組に出ているブリトニー・スピアーズに夢中になったり、自分の虚栄心に左右されている者ではありませんでした。彼女の応答は、自分自身が救い主を必要としているということだったのです。このようなユダヤ人が最初の到来において備えをしていました。
私はミリアムのことが好きで、ミリアムを愛し、ミリアムを尊敬しています。ミリアムを素晴らしくて、最高で、他にはいないような人だと思い、彼女に会うのを待ち遠しく思っています。しかし名ばかりの教会のゆえに、金髪でふしだらな女となったマリアとは何の関係も持ちたくありません。
ゼカリヤとエリザベス
ミリアムには親類がいました。ルカ 1 章 5 節と 6 節ではそのことについて書かれてあります。
『ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。』(ルカ 1 章 5 節-6 節)
ここで思い出してほしいのがサンヘドリン、聖職者たちは堕落し――金儲けに走っていっていたということです。それは現代ベニー・ヒンやコープランド、ヘーゲンの行っているようなものでした。このような状況はイエスさまが最初に到来したときと同じです。しか
し聖職者たちの間で広まっていた腐敗や偽善にも関わらず、その中には個人的に正しい者
たちがいました。
アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの中で自分の教団に起こったことに心砕かれている牧師たちを私は知っています。イギリスでは、英国国教会に起こったことに対して心砕かれている聖公会の教区牧師たちを私は知っています。バプテスト派の中にもそのような人たちがいます。どんなに状況が悪くても、ゼカリヤのように正しく、献身的で、敬虔な人たちがいるでしょう。制度や聖職者たちがどんなに堕落したとしても、そのような人たちはついて行きはしません。その数は多くはないかもしれませんが、確実にそのような人たちがいます。それがイエスさまの最初の到来の時に準備が出来ていた者であり、イエスさまが再臨されるときもこのようなクリスチャンは備えが出来ているのです。
シメオン
さらに詳しく見てみましょう。ルカ 2 章 24 節では、マリアが山ばと一つがいをささげ物としたことが書かれています。繁栄の信仰を教える説教者のひとりは、イエスの家族が貧しくなく裕福だったと教えています。私の仲間が彼の集会でどうしてそう言えるかを公に質問しました。「もしそうだったなら、なぜマリアは貧しい人のささげ物を持って行ったのか」と。彼の応答は、質問をした人を外に案内するというものでした。間違った質問を聞いてしまったのです。
ルカ 2 章 25 節
『そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。』
サンヘドリンはイエスを望んではいませんでした。エルサレム中が困惑していましたが、シメオンはイエスさまを待ち望んでいました。26 節によると、それが彼の生きながらえている唯一の目的だったのです。
『また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。』(ルカ 2 章 26 節)
古い契約の下では、聖霊はただ特定の人物に特定の時期――大祭司、王、預言者と特定の他の個人たちにしか与えられませんでした。ある意味において彼らだけが聖霊を持ってい
たのです。ペンテコステの後に信じるすべての者に下るまではそのようでした。ペンテコ
ステの前には、御霊の賜物は今日のように多くは与えられていませんでした。
27 節
『彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。』
(両親は私が子どものときにこのために連れて行きましたが、今であったなら無理でしょう。これはもちろん割礼を受けさせることを意味しています。私の息子が生まれて八日になって割礼を受けさせた時、ラビが入ってくる際にヘブライ語の祈りを唱える必要がありました。そのラビはコットンの玉を取って、それをワインに浸し、赤ん坊の口に押し込みました。それは何のためにするのかと聞くと、ワインは痛みを和らげるためだと言っていました。そこで私は「もしこの子がナイフを見たら、ウイスキーをくれと言うだろうな」と言ったのです)さて、本題に戻りましょう。28 節から
『すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」』(ルカ 2 章 28 節-
32 節)
このシメオンという人は聖霊に満たされて、メシアを見るまでは死なないという約束を与えられていました。彼は年老い、髪の毛は少なくなり、歯は抜け、目は悪くなり、もうデートする相手を見つけることもできませんでしたが、イエスさまが現われるまでは死なないことを知っていました。彼は新約聖書で信仰の賜物と呼ばれるものを持っていたのです。
新約聖書は私たちみなに信仰の量りが与えられていると教えています。私たちは信仰を通して恵みによって救われ(エペソ 2 章 8 節)、信仰が無ければ神を喜ばせることはできず(ヘ
ブル 11 章 6 節)、信仰によってなされなかったことはすべて罪だと(ローマ 14 章 23 節)みことばによって伝えられています。しかしながらこれと違って、信仰の賜物はすべての人が与えられているものではありません。信仰の賜物とは聖霊に啓示された、聖書に特別に書かれていない事柄に関して完全に神に信頼する能力のことです。この賜物を持つ多くの人たちはとりなしをする人です。ヘブライ語とギリシア語はどちらも、祈りととりなしとの間に区別を設けています。その賜物を持つ人たちは祈りにおいて本当にとりなし――そうなればいいと思ったり、自分の心の愚かさを信頼するのではなく――信じて、知り、神が与えてくださった信仰によって約束に固くつくのです。本人にこう言えばおそらく否
定したかもしれませんが、イギリスにいたジョージ・ミュラー(1805-1898)は信仰の賜物を持っていたと思います。彼は路上にいた子どもたちを引き取り、次の日に天文学的な量のお金が必要であったにもかかわらず、祈ることによってまさに必要な時にお金を受けました。
考えてみてください。年老いた老人がイスラエルの慰められることを待ち望み、聖霊に満たされていたということを。シメオンはただイエスさまが来るのを望んでいました――彼が気にかけていたことはそれだけで、朝ベッドから起き上がるのもそれが唯一の目的だったのです。
アンナ
そこにはただ年老いた愛らしい男性がいただけではなく、年老いた愛らしい女性もいました。ルカ 2 章 36 節ではこう言われています。
『また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。』
(英ユ同祖論 [イギリスなどのヨーロッパの先祖がイスラエルの失われた十部族だったという教え] やアームストロング説を信じないでください。この人たちは自分の民族アイデンティティーを紀元 2 世紀や、3 世紀まで持ち込んでしまっています)
『この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。』(ルカ 2 章 36 節-38 節)
何年も何年も、この愛らしい老女がしていたことはただ神の家で、祈り、断食し、神に仕えるということでした。そして彼女はイスラエルの贖いを待ち望んでいるすべての人に向かって、イエスについて話さずにはいられませんでした。この世は若い女性が魅力的であると言います。神さまは違います。箴言を読んでみてください――神は霊的な意味において、年老いた女性を魅力的だと言っています。そこにはこの年老いた老女がいて、人生すべてを祈りと神への奉仕に傾け、彼女はついにイエスさまについて話し出したのです。このようなユダヤ人がイエスさまの最初の到来に備えが出来ていた者であり、イエスさまが戻ってこられるときも、まさしくこのようなクリスチャンは備えが出来ている者となります。
忠実な羊飼い 昔と今
それではルカ 2 章 8 節に戻って、羊飼いたちについて見てみましょう。
『さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』
(ルカ 2 章 8 節-11 節)
14 節をラテン語のウルガタ訳でたどってみると“Gloria in Excelsis Deo(グロリア・イン・エクセルシス・デオ)”となります――「いと高き所に、栄光が、神にあるように」
ヘブライ語において“羊飼い”と“牧師”は同じ言葉です。同じことがギリシア語にもいえます。羊の番をしていたのは羊飼いであり、雇い人(ヨハネ 10 章 12 節)ではありませんでした。時代の終わりには大きな霊的な暗やみが迫ってきます。
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『夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か』(イザヤ 21 章 11 節)
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『夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か』(マルコ 13 章 35 節)
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『主の日が夜中の盗人のように来る』(1テサロニケ 5 章 2 節)
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『遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます』(ヨハネ 9 章 4 節)
どんなに暗くなっても自分の群れを見守る忠実な牧師がいます。
私はかつてチャック・ミスラー(Chuck Missler)と集会を開き、そこでジンバブエという悲惨なことが起こっている国から来たイギリス生まれの牧師に会いました。彼はイギリスに何日か滞在していて、現地での状況がとても悪かったので、元気ですかと聞かれても祈りに感謝しますとしか答えられませんでした。彼はジンバブエでどんな悪質なことが起こったかを話し、ほとんどの白人と、それと共に教養のある黒人たちはそこを去ろうとしていると語っていました。私は彼に少し一緒に出かけないかと言ったのですが、次の日にジンバブエに戻るから無理だと言っていました。「私の羊たちがそこにいるから」と彼は語ったのです。そこにはエイズで死んでいく黒人たちを世話するために人生すべてをささげた白人男性がいたのです。その黒人たちは彼の羊たちです。アメリカにいればお金をたくさ
ん儲けられるのに、ジンバブエに彼と一緒に行き、そこに滞在している医者を私は知って
います。彼らはそこを去ろうとはしません。なぜでしょうか。確かにそこは暗い場所であり、ますます暗くなるような場所ですが、彼らは羊飼いなのです。シメオンのようなユダヤ人がイエスさまの最初の到来において備えが出来ていた者であり、イエスさまの再臨のときにもこのようなクリスチャンが備えをしています。
要約
どのような人が準備が出来ているのでしょうか。「ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった」。サンヘドリンは困惑していました。神学者たちは髪を引き抜いていました。彼らは準備が出来ていなかったのです――そのような人たちが備えをしていることはまれです。しかしゼカリヤのような個人的な聖職者たちや彼の妻、イエスの育ての父であるヨセフ――正しい人、また「私には救い主が必要だ」と言った十代の少女、羊たちの番をしていた羊飼いたち、人生すべてを祈りと神に仕えるためにささげ、イエスについて語っていた愛らしい老女、またイエスさまがやって来るのを待ち望み、聖霊に満たされていた老人――それぞれが違う物語を伝えています。彼らこそが、イエスさまの最初の到来の時に備えが出来ていたユダヤ人であり、私は約束しますが、同じような人たちがイエスさまの再臨の時に備えができているクリスチャンなのです。
あなたがたすべて、あなたの家族、私自身また私の家族に対しての私の祈りは、イエスさまの最初の到来に備えが出来ていたユダヤ人を見る時、イスラエルの神の恵みによって、私たちが再臨の時に備えができている忠実な者となることです。イエスさまにある私の親愛なる兄弟たち、間違えてはいけません。クリスマスはやって来るのです。
私がクリスマス・キャロルの中で最も好きな曲は「天には栄え(讃美歌 98 番)」です。その理由はこれです。この作曲はユダヤ人のフェリックス・メンデルスゾーンによってなされ、作詩は異邦人クリスチャンであったチャールズ・ウェスレーによってなされました。この曲は私が知っている中で最も素晴らしいユダヤ人と異邦人との合作です。私と一緒に歌いませんか?
天(あめ)には栄え 御神(みかみ)にあれや地(つち)には安き 人にあれやと
御使(みつか)い達の たたうる歌を
聞きて諸人(もろびと) 共に喜び
今ぞ生まれし 君をたたえよ†††
Curses and Christians - Japanese
呪いとクリスチャン
ジェイコブ・プラッシュ
初代教会は現代の私たちが失ってしまったあるものを持っていました。“私たち”と言うのは私のような人たちという意味です。御霊の賜物を信じる人たちのことです。
“教祖信仰”
現代の教会の中には無宗教の世界から、また偽りの宗教体制から来たものがあります。それは“教祖信仰”です。ヒンドゥー教祭司が言うことは何でも、信奉者や敬虔な信者は信じます。教祖様が言ったことは何でも信じてしまうということです。
ローマ・カトリック教徒は教皇の教えを信じます。正統派ユダヤ教徒はラビたちが言うことを何でも信じます。レッベ(現代のラビ)やツァディク(ハシド派指導者)が言うことなら、それが彼らにとっては神のことばなのです。イスラム教徒はイマーム(イスラム教指導者)に尋ねに行きます。イマームがアッラーのもとに直接行くので、信徒たちはイマームを通してアッラーのもとへ行くのです。
このような考え方はこの 30 年のうちに、特にこの 10 年間にまるで雪崩のようにキリストの体に押し寄せてきました。
ただ召された者や神から賜物を受けた者の言葉を、何も調べることなく、神のことばであると受け取る考え方がクリスチャンの中で大きくなってきました。その人が言ったから正しいのだという姿勢です。
タルソのラビ・サウロ
パウロは奇跡やしるし、不思議なことを行いました。彼は癒しを行い、パウロによって非 常に多くの人が回心しました。パウロは多くの教会を立て、新約聖書の半分を書きました。パウロはラビの中のラビであり、ヒレルの学校で学んだパリサイ人でした。パウロはラ ビ・ガマリエルの弟子だったのです。
想像してみてください、今の時代に有名なラビがイエスに人生を明け渡し、奇跡を行い始めたらどうなるでしょうか。人々はその人を教祖にして、その人が言うことは何でも正しいとするでしょう。
しかし、パウロは自分自身を教祖のようにすることはありませんでした。パウロはどのように言っていたでしょうか。
『しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福
音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです』(ガラテヤ 1 章 8 節)
パウロという人を偉大にしていたのは、いつも彼が本当の権威がイエスまた神のことばから来ていることを認識していたからです。パウロは与えられた権威に対して忠実な管理人でした。
今日、神に召され、しるしや癒しなどの賜物に恵まれ、神に用いられ、その人を通して多くの人が救われるような人がいますが、ある考え方が教会に忍び込んできて、そのような人たちが言うことは何でも真理となり、口をはさむ余地を無くしてしまうことが起こっています。私たちはそのような人たちを教祖にしてしまいます。ユダヤ教徒、カトリック教徒、ヒンドゥー教徒、モルモン教徒だけではなく、クリスチャンでも同じことをしています。それは特に、“復興主義運動”や“ハウスチャーチ運動”などで顕著です。
“党派心”
ギリシア語での“異端(英語での heresy)”という言葉は単に間違った教理のことをさすだけではありません。その本当の意味は教会を分離させようとしたがる者や、分派を起こす者のことです。
ガラテヤ人への手紙はそのような“党派心”の罪についてはっきりと語っています。党派心とは神の霊によらず同盟を結ぶもので、真理を自分たちだけで独占しようとするものです。そのようなものを作る人たちは自分のグループ以外の人を二流の信者やクリスチャンであると見なします。
真理の基礎となる唯一のものは聖書です。最も素晴らしい教会に行ってみても、そこにはいくらかの間違ったことや間違った人たちがいて、悪い教会でもそこにはいくらかの正しいことや正しい人たちがいるでしょう。黙示録にある7つの教会もそのようでした。
党派心または派閥を作る傾向は“肉の行い”です(ガラテヤ 5 章 19 節-21 節)。教派が存在することと、教派主義とはまた別のことであり、教派主義とは党派心の罪の別の言い方です。奉仕や伝道、貧しい人を支援するために教会がひとつになって働くための現実的な仕組みとして組織を作ることに、私は反対しているのではありません。しかし、人が派閥を作り、キリストの体から自分たちを切り離すならそれはまた違ったことです。
エキュメニズム
分裂にはふたつの種類があります。聖書は、本当の信者が明らかにされるために分裂はさ
けられないと言っています。当然、エキュメニズム(キリスト教統一運動)は神の霊によ
らない一致であり、偽りの一致です。
聖霊は真実の霊です。霊の一致を誤りの上に立てることはできません。救いが秘跡を通してやってくると教え、新生することの代わりに化体説を信じ、死者に祈ることを教える教会と一致することは目に余る背徳的な行為です。それは霊の一致ではありません。聖書を信じるクリスチャンはこの世の偽りの宗教制度とひとつになることはできません。
その一方で、クリスチャンが過度に分裂し合うことは完全に間違っています。私はここである種の単一的な組織が必要だと言っているのではなく、キリストの体には霊の一致があるべきであり、それは誰もが持つ神さまが与えてくださった恵みの経験と、イエスにある救い、また神のみことばの権威への献身に基づくべきだということです。
人は教理的な真理から拡大した、ひとつの教えにこだわり、それをある種の巨大な核心とし、その教えに基づいて教会を形成する傾向があります。しかしある真理をすべて他の真理の基礎としてしまうとき、それは偽りとなります。
これを説明しましょう。すべての真理の中で唯一の聖書的な基礎となるのはイエスです。 キリストは葬られ、キリストは死者からよみがえり、キリストはまた来られます。十字架、空になっていた墓、オリーブ山(ゼカリヤ 14 章 4 節)――この基礎となる真理の上に、す べて他の真理は築き上げられるべきです。すべて他の真理はイエスの真理を中心として基 礎を置かれなくてはならないのです。
聖霊が歪められる
聖霊についての真理はカトリックとプロテスタント両者によって抑圧されてから数世紀たち、カリスマ派やペンテコステ派は聖霊についての真理を取り、すべて他の真理の基礎としてしまいました。彼らは結局、非常に歪められ、非聖書的な聖霊のイメージを抱くようになってしまいました。
聖霊の働きは、アブラハムがイサクの妻をめとるためにしもべを遣わしたことによって象徴されています。子であるイサクはイエスに関連しています。アブラハムは御父に関連していて、しもべは聖霊です。御父は自分の民の中から、息子のために花嫁を備えるため、しもべを遣わしました。聖霊はいつでも人の目をイエスに向けさせるしもべです。
聖霊がイエスにまさって強調されるとき、人々は「聖霊様、来てください」と歌います。聖書の中で、聖霊に向かって祈りがなされたことは一度もありません。聖霊は唯一、三位一体の中で神の神格として礼拝されますが、直接祈りを向けられてはいません。
したがって、真理が偽りとなっているのです。イエスこそがすべての真理が築き上げられ るべき、中心的な真理であるのに、他の真理がイエスの代わりに置かれてしまっています。聖霊自体は真理なのですが、その教えは実質的に偽りのものとなっています。そしてこの 偽りの教えから、カリスマ派のあらゆる種類の行き過ぎた行為や、正気を失った教えが出
てきています。
悪魔を中心としたキリスト教
もうひとつの分裂は、呪いに関しての事柄です。聖書の中には呪いに関する事柄がありますが、人々はそれに取りつかれています。
私は以前、いろいろな奉仕の強調点がすべて“悪霊をクリスチャンから追い出す”ことや呪いを解くことに置かれている教会にいました。そこの人たちはイエスについて話すよりも、多くの時間を悪魔について話すことに費やしていました。
彼らが考えるにはすべての問題が呪いや悪霊と関連していました。この問題は、人々がイエスとの自分との関係について、個人的な責任を取りたくないことに大きく起因しています。そしてまたこれも教祖信仰です。
私たちは専門化された社会に暮らしています。法律の問題を抱えているなら、弁護士に電話をかけます。医学的な問題があるなら、医者に電話をかけます。金銭的な問題なら、銀行員に電話をかけます。それでは霊的な問題があったならどうするでしょうか、牧師に電話をするのです。
その人が専門家で、彼が権威者なのです。「お医者さん、どの薬を飲んだら良いですか?弁護士さん、どの法的行為を取るべきですか?」それと同じように、「牧師さん、どうしたらいいのでしょう」と人々は尋ねます。
神のことばに関する無知
私のように御霊の賜物を信じる人たちの中には、学識がある人が欠けています。私たちにはすぐれた才能を持つ教師が不足しているのです。その中のほとんどの牧師が教理に関して何も知りません。ごくわずかな人しか専門的な神学を知らず、ギリシア語やヘブライ語に自信を持っていません。
聖書は『わたしの民は知識がないので滅ぼされる』(ホセア 4 章 6 節)と言い、今日も人々は知識が無いことによって滅んでいます。
この理由のために私はデレク・プリンス(Derek Prince 1915-2003 イギリス人聖書学者)
に多大な尊敬の念を抱いています。デレク・プリンスはカリスマ派の牧師の中でも数少ない、聖書を本当に勉強した人で、労を惜しまず原語を調べ、語彙から解釈を導き出すことにおいてとても優秀でした。
彼はそのようなものを用いて、人々の実際的な必要に応えていました。私は彼と一度話しただけですが、私はいつでもデレク・プリンスと彼の奉仕を尊敬してきました。
私が思うに、デレク・プリンスの教える 90 パーセントの教えがとても良いものから、素晴らしいものです。良いものがあるのに、すべてを拒否してしまうのはとんでもない悲劇で
す。
ふたつの危険があります。ひとつは間違っているものを見つけるか、神から何かを間違っていると示され、そのことのために誰かの奉仕全体を拒否してしまうことです。福音自体に影響を及ぼす基礎的なこと、たとえばコープランドやケニヨン、ヘーゲンらが「イエスは霊的に死んだだけで、十字架の上ではすべてが終わっていない」というようなことがあれば別の話しです。しかし、基礎的なことに誤りが無い限り、誰かが言ったひとつやふたつの間違い、わずかな比率のことをもとに、誰かを退けることは極力避けるべきです。誰も完全ではありません。私も確実に完全ではありません。
偽りの教師を退ける
誰かの奉仕を完全に退けるには4つの基準があります。
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性的不品行:告白されず、継続的で、悔い改めることのない不品行――それはその人の奉仕を知り退けるひとつの要因です。
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福音:誰かが福音の代わりに他の方法で救いの道を設けるなら――たとえば救いが行い、律法、秘跡によるなど――そのような人たちは退けられるべきです。聖書はすべ
ての信者が祭司であると教えています。ローマ・カトリックや東方正教会、モルモン教などはすべて特別な祭司職を設け、新約聖書が教える新しい契約を否定しています。
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キリストの人格:イエスについて何を信じているでしょうか。イエスは道であり、真
理であり、いのちでしょうか。イエスについて何か正統的でないことを教えている場合、そのような教えと教えている人たちを退けてください。
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みことばの権威:みことばの権威を何か他の教理的な権威をもったものと置き換え、他の“啓示”に基づいているなら、それを退けてください。
性的不品行、みことばの権威とイエスの人格の拒否、また別の福音を信じているならすべてを退けてよいのです。
多くの者が教師になってはいけない
私は問題が自分たちにあると考えています。私たちはベレヤ人(使徒 17 章)の精神を失ってしまいました。私たちは多くの場合、ただその人が正しいように思えるため、その言ったことを受け入れてしまいます。
『多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです』(ヤコブ 3 章 1 節)
私は聖書を教えたくはありません。私はむしろ伝道者になって、この種のものを他の人に
任しておきたいのです。私がこのことをしている唯一の理由は、主に世界中の多くの人を通して、これが私の集中すべきことだと聖霊から示されたからです。私のしたいことを自分で決められるなら、私は外に行って救われていない人に伝道をしているでしょう。
神はみなさんより、私に大きな責任を問われることを知っています。
『からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい』(ルカ 11 章 34 節-35 節)
これは人体の構造に関してのミドラッシュで、人間の目は教師を表しています。
私の言うことをただそのまま受け取らないでください。私は自分の教えることに関して神さまに責任を負っているのです。
学問における問題
祝福と呪い、またはクリスチャンが呪いを受けるということを教えている人たちの第一の問題は、彼らが原語であるヘブライ語とギリシア語を調べず、その言葉が使われている文脈をよく考えない点にあります。
このことをするなら、クリスチャンがどのような点で呪いを受ける可能性があり、どのような点で呪いを受ける可能性がないかが分かります。
ヘブライ語とギリシア語には呪いに関するさまざまな言葉があり、いつも置き換えがきくというわけではありませんが、そのほとんどは特定の形で使われています。
聖書の学問を複雑にしているもののひとつは、新約がヘブライ的な概念を用い、それをギリシア語に翻訳していることです。私たちは古代の七十人訳を確認し、ラビたちがヘブライ語の単語をギリシア語に翻訳するときにどう考えていたかを理解する必要があります。時々、あることに関してギリシア語ではさまざまな言葉があるのに、ヘブライ語ではひとつの言葉しかない場合があります。ヘブライ語で“愛”を表す言葉は“アハバー(ahabah)”といいますが、ギリシア語では最低でも7つ以上“愛”に関する言葉があり、聖書の中では3つ、ひょっとすると4つあります(3つが記され、4つ目は記されることなしにほのめかされています)。
原語におけるさまざまな言葉を調べ、それらが使われている文脈を理解しようとするなら
ば多くの問題が浮上してきます。とはいえ人が、しかもクリスチャンがある点において呪いを受ける可能性があり、また同時にどう呪いを受ける可能性がないかをそこから学び取ることができます。
ヘブライ語を理解する
ヘブライ的・ユダヤ的思考におけるある単語や概念の意味することを知るのに最良の方法は、その言葉の反対を知ることです。もし“寒い”という言葉を知っているなら、その反対である“暑い”という言葉も理解できます。“左”という言葉を知っているなら、“右”が何を表すかは分かります。もし“凸”という言葉を知っていれば、“凹”という言葉が何かが分かります。
ヘブライ語はそのようなものであり、対句として構成されています。何かの言葉の対句を理解すれば、その言葉が意味していることを理解するのに助けになります。
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ケロラー(Kelolah)
最初の単語は“ケロラー”「のろいの言葉――誰かの悪や不幸を祈ること」です。これは祝福されることと反対の状態です。良い事が起こるときそれは“ベラカー(berachah)”祝福です。
イスラエルの農業周期は雨によって決まります。雨が降るとき、それがとても激しく鉄砲水を引き起こすようなものであっても、イスラエル人は雨が祝福だと言います。雨が降らないことは呪いと見なされているのです。
『わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。』(イザヤ 44 章 3 節)
聖書はイザヤ 44 章とエレミヤ書において生ける水について語っています。イエスさまはヨ
ハネ 7 章においてそれを引き合いに出されました。この雨、生ける水は聖霊が降り注がれることを象徴しています。
雨は収穫をもたらします。雨が無ければ穀物は実りません。それは今日でも同じです。雨が無ければ穀物がなく、そうすると収穫が無いのです。今、神のみことばを聞くことの飢きんがあります。たましいの収穫は潜在的にありますが、刈り入れられてはいません。作物は実っていないのです。
“ケロラー”という語の概念が聖書で主に強調していることは人に関してではなく、国々が呪いを受けたり、祝福を受けることに関してです。“ケロラー”は個人的なものというよりかは、集団における祝福や呪いに関係しています。
『わたしはまた、刈り入れまでなお三か月あるのに、あなたがたには雨をとどめ、 一つの町には雨を降らせ、他の町には雨を降らせなかった。一つの畑には雨が降り、
雨の降らなかった他の畑はかわききった。』(アモス 4 章 7 節)
誠実な伝道者がアフリカで正直な福音を宣べ伝えたなら、文字通り何万人もの人々がたったひとつの伝道集会や、たったひとつの集会で自分の生活をイエスに明け渡すでしょう。
なぜでしょうか。それは聖霊がアフリカで降り注がれているからです。その同じ伝道者が同じ賜物、同じ油注ぎをもってイギリスやその他のヨーロッパの国々に行っても、実際比べても無きに等しいことしか起こらないでしょう。
賜物はそこにあります。油注ぎはそこにあります。ですが雨はとどめられています。その地は呪われて、“ケロラー”があるのです。
霊的な降り注ぎがないことの呪い
今日イギリスに見られるような霊的な欠乏――新異教信仰、教会が活気のない中流階級組織になり、道徳構造の根本的な破壊、家族観の崩壊、これらすべてのこと――はこの国が呪われていることによります。
イギリスは祝福されておらず、呪われています。1951 年には世界第三位の大きな経済を誇っていました。ドイツや日本などは言うまでもなく、イギリスはもはやイタリヤやフランスに対抗できないまでになっています。イギリスの経済的・政治的な減退は霊的な減退を反映しています。呪われてしまっているのです。
『もし、あなたがたがわたしに聞き従わ(ないなら)…あなたがたを憎む者があなたがたを踏みつける』(レビ 26 章 14 節-17 節)
2010 年には――私は自分の政治観と聖書観を区別するように心がけていますが――実際今
年、2010 年となり、イギリスの 80 パーセント以上、もしくは少なくとも 80 パーセントの法律が自分たちが選んだ国会によらず、厳密に言うとベルギー・ブリュッセルの官僚たちによって作成されています。
2010 年、イギリスの大半は自分たちが投票しなかった者たちによって支配され、経済、金融、商業規制などの領域、また外交や国防政策から始まって、法的、医療、法執行機関の領域においてますます自由の幅が狭くなっています。
この民主的なプロセスの停止はすでにイギリスとアメリカで行われており、遠くの話しで
はないのです。同じ方向に向かって動き出している呪いがイギリスとアメリカの上にはあります。
この呪いの兆候は、その国家に聖霊が降り注いでいないという現実なのです。そこには収穫はありません。
ビリー・グラハム伝道集会のような大きなイベント――よく運営され、財政的にも余裕のある集会――でさえ、国に関して言うまでもなく、教会を好転させることに何も貢献するところがありません。
しかしガーナやブラジル、韓国に行ってみると、そこでの教会の成長は信じられないほどのものです。なぜなのでしょうか。それはその国々に雨が降り注ぎ――聖霊が降り注がれているからです。
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メアイロー(Me’airoh)
次の単語は“メアイロー”、苦みという意味で――人の不幸を祈ることではなく、ののしること(憎む、嫌う、憎悪する)、憎しみを表現することです。この反対語は“愛”です。 神が旧約聖書と(部分的に)新約聖書を生み出すにあたって用いたヘブライ的な思考パターンと世界観を理解するためには、反対の原則を理解しなくてはなりません。何かを理解するためには、その反対を理解しなければならないのです。
この“メアイロー”の考え方は、人を愛さないことによって呪うということです。愛はこの種の呪いを断ち切ります。
クリスチャンがこの種の呪いの下に置かれる可能性はあるのでしょうか。あり得ます。イエスさまは言われました。
『もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。』(ヨハネ 15 章 18 節-19 節)
クリスチャンの女性で、未信者の夫から憎まれている人たちを私は知っています。救われたユダヤ人で家族から憎まれている人を私は知っています。そうです、クリスチャンはこの種の呪いの下に置かれることがあります。私たちは皆この種の呪いの下にいるのです。
『世全体は悪い者の支配下にあることを知っています』(1ヨハネ 5 章 19 節)
イエスさまは世が私たちを憎むと言われました。この意味において、クリスチャンは呪い
を受けることがあります。
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カラル(Kalal)
次の言葉は“カラル”です。
『ユダの家よ。イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのように、わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出 せ。』(ゼカリヤ 8 章 13 節)
この“カラル”という言葉は“カル(kal)”、軽いことを意味する言葉(重くないということ)から由来しています。ヘブライ語での“重い”は“コヴァイド(kovaid)”といい、この言葉は肝臓(人体や哺乳類の体の中で最も大きな臓器)を意味します。
ヘブライ語で“敬う”という言葉は“コヴァッド(kovad)”であり、これはこのコヴァイド=重いことから由来しています。ヘブライ語の反対の原則がここで適用できます。“呪う”ことの反対は“敬う”ことです。誰かや何かを敬う場合、その対象は重みを持っているのであり、あなたに対して“重い”存在となっているのです。
あなたの父と母を敬え
何かが軽蔑されるなら、それは呪いを受けています。それは自分にとって軽くしか考えないものとなっています。物事は軽いか、重いかのどちらかです。
「あなたの父と母を敬え」という戒めのヘブライ的な概念は実際、父と母を自分にとって重いものとして扱わなければならないことを意味しています。誰かがあなたにとって重い存在であるなら、その人は重要だということです。
政界の大物が新聞でコメントをしていても、その人を好まないのなら、それは自分にとって軽いものにしかすぎません。その人をそれほど尊敬していないからです。
聖書を読んでいるときに、聖霊が何かについての確信を与え、聖書の内容を明らかにしたのなら、それは自分にとって重い事柄となります。
軽い=“カラル”の反対は、重い=“コヴァイド”であり、そのコヴァイドは実際的な敬意と尊敬である“コヴァッド(kovad)”とつながっているのです。
この意味においてクリスチャンは呪いを受けることがあり、自分で他者を呪うことがありえます。私たちが神の新しい被造物と見なされずに、他者から軽く扱われるならそれは一種の呪いです。しかし私たちが他の信者や自分の両親を特別自分にとって重い存在として
いなければ、私たちが彼らを呪っているのです。
実際に行うことにおいて、重く扱うという概念は責任とつながっています。神の設計において、私たちは自分の両親が老齢になったときの福祉について責任があります。
私たちは他の老人や、高齢者、定年退職した人のことを気にかけているかもしれません。しかし、自分の両親こそ私たちにとって重いものとなるべきです。もし両親の金銭的な満足についておろそかにしているのなら、私たちは彼らを呪っています。
聖書の中で両親を呪うという考え――これは旧約聖書の中で死に値することであり、新約聖書でもとても深刻な罪ですが――は自分にとって彼らを重い存在と扱わず、軽い存在であるとすることです。
私の家族はアイルランド系カトリック教徒とユダヤ教徒の組み合わせです。もし母と同じ部屋にいて聖書に関して話し始めたなら、議論が始まるのに 5 分とかかりません。あの女性はひどく私を苛立たせます。そのような母がいるので妻が来たときには私の準備はばっちりでした。
私は母の考えがあまり好きではなく、特に仲がうまくいっているわけでもありません。しかしそれでも母は私にとって重い存在なのです。母のことを考えるときいつも私はこう祈ります「主イエスよ。私の母を救ってください。父のように死んで地獄には行かせないでください。お願いです、彼女は私にとって重い存在なのです」
母は金銭的に適度に潤っています。もしそうでなければ彼女の世話をするのは私の責任となっていたでしょう。
もし私が母の世話をしなければ、彼女を自分にとって重い存在とせずに軽く扱い、呪っていることになります。この意味においてクリスチャンは呪いを受ける可能性があります。
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ケレム(Cherem)
“ケレム”とは、何かが悪い運命に渡されているということです。
『彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる [エリヤの奉仕について語っています] 。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。』(マラキ 4 章 6 節)
のろいで地を打ち滅ぼすということは、地が破壊されるために引き渡すということであり、神の定めた計画のために何かを廃れるに任せるということです。
この世は堕落していて、“ケレム”の下、呪いの下にあります。
『私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。』(ローマ 8 章 22 節)
自然災害――森林火災、火山噴火、地震、飢きん、干ばつなど――これらのものはすべて
人の堕落の産物です。
神は人にすべての被造物の支配をゆだねました。人が堕落した時、被造物も人と共に堕落しました。地質、物理、気象においてもある変化が起きたでしょう。
私たちは呪われた世界に住んでいます。ただ堕落した世界ではなく、呪われた世界なのです。この意味においてクリスチャンは呪いを受けることがあります。
エジプトは神の民を去らせなかったために、神のさばきに引き渡されました。しかしそのさばき――過越の祭りで祝うもの――がエジプトの上に注がれたとき、神の民はエジプトの中で、エジプトを通して守られました。私たちは呪いの中、呪いを通っても守られますが、それでも未だに呪いの下にいるのです。これらすべての意味において、クリスチャンは呪いを受けることがあります。
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カタラ(Katara)
ヘブル人への手紙はユダヤ人クリスチャンに対して書かれたため、初代教会におけるユダヤ的な考えを理解する上で重要なものです。
『土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。』(ヘブル 6 章 7 節)
この 7 節で新約聖書がいかにイザヤ 44 章とアモス 4 章の教え、雨が祝福であるということを繰り返しているかを気付いたでしょうか。この箇所は日々の農耕、日々の気象を用いて聖霊が降り注がれることについて教えています。
『しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。』(ヘブル 6 章 8 節)
これが堕落した世で起こっていることです。新約聖書はこの概念を“カタラ”呪いという言葉で繰り返しています。同じように被造物は呪いの下にあり、この呪いは私たちがただ世にいるからという理由でクリスチャンの上にも降りかかります。
『だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。』(ヘブ
ル 6 章 9 節-10 節)
被造物が呪われていて、私たちも呪いの影響下にあるにもかかわらず、神はそれを切り抜けさせ、呪いの中から私たちを救い出されます。しかしながら、この“カタラ”という言葉に先行する文脈を見てみましょう。
『一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで [このような人は救われた人です] しかも堕落してしまうならば [ギリシア語には現在形がなく、ただ現在進行形だけがあります――これは自分から戻れない状態まで堕落し続けてしまう人のことです] 、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。(土地は…そして雨と呪いについてこの箇所は語っています)』(ヘブル 6 章 4節-7 節)
すなわち、悔い改めない背教者は自分の身をもう一度呪いの下へ置いてしまいます
ただイエスにあって、私たちは呪いから救われているのであり、最終的に呪いから救い出 されるのです。イエスさまから離れてしまうと、あらゆる意味において自分を呪いの下に 再び戻してしまっています。後戻りし、作物を収穫する代わりにいばらを収穫するのです。この意味において背教したクリスチャンは呪いを受ける可能性があります。
『それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。』(マタイ 25 章 41 節)
同じ“カタラ”というギリシア語がここでも使われています。背教者は地獄の呪いの下へと自分の身を戻しているのです。
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カタル(Katal)
“カタル”というヘブライ語の単語がもうひとつあり、それは“悪を呼び下す”という意味です。クリスチャンは自分の身に悪を呼び下される可能性があります。
イエスさまの血は私たちを守りますが、このようなことから影響を受けないというのは非聖書的な教えです。
異教徒であったローマ皇帝は教会に呪いを呼び下し、迫害されたクリスチャンは殉教者として命を失いました。
私たちはこの意味において、確実に呪いを受けます。しかし神は言われます「あなたを祝
福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」。第二次世界大戦中、ナチスはユダヤ人の強制収容所の周りにひとつの壁を建てました。その壁を乗り越えて強制収容所から逃げ出そうとしたユダヤ人はみな機関銃で撃たれました。
数年経ち、ひとつの壁がかつて栄光に富んだ首都レイヒ、ベルリンに建ち、その壁を乗り越えようとするドイツ人はみな機関銃で撃たれました。これはほぼ 50 年間続き、その世代のドイツ人指導者が死ぬまで終わりませんでした。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」
デンマークやオランダのような国には信じ難いような度合いの性的不品行があります。デンマークのポルノ、オランダの薬物と性的な罪は悲惨なものです。神さまが今の時点までこのような国をさばいていないひとつの理由、おそらくその大きな理由は、ナチスがユダヤ人を出頭させ、黄色の星を身に付けなさいと命令したとき、デンマークやオランダの多くの人々が出てきて「イエスさまはユダヤ人だった、私もそうだ。この星を見なさい」と言ったからです。
福音派の人口が多いプロテスタントの国々では、人々はときには自分の命に代えてまでもユダヤ人を守りました。コリー・テン・ブームのような人のことを考えてみてください。
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アナセマティゾー(Anathematizo)
『しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません」と言った。』(マルコ 14 章 71 節)
ギリシア語の“アナセマティゾー”とは怒りをもって悪い事を言うということです。クリスチャンはこの意味において呪いを受けるのでしょうか。当然ながら受ける可能性があります。
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カタナセマティゾー(Katanathematizo)
“アナセマティゾー”と近い関係にある言葉が“カタナセマティゾー”であり、“愛する者
(家族など)を裏切る”という意味です。
『兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。』(マタイ 10 章 21 節)
クリスチャンは互いに裏切り合うようになります。特に終わりの日においてそれは顕著です。イエスさまがそう言われました。そして、迫害の時にはこのように呪いを受けること
があります。
もはや律法の呪いの下にはいない
私たちはこれまで、信者が呪われると聖書が語っているすべてのケースについて見てきました。
『というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」のだからです。しかし律法は、「信仰による」のではありません。「律法を行なう者はこの律法によって生きる」のです。』(ガラテヤ 3 章 10 節-12 節)
律法の主要な目的は、ユダヤ人たちに自分は律法を守れないと教えることであり、神の基 準に決して届かないということを知らしめるためでした。彼らに必要だったのは救いをも たらすメシアだったのです。私たちはただイエスの中にあって律法を守ることができます。それはイエスさまが律法を私たちのために成就されたからです。
律法の下に自分を引き戻す宗教に入ってしまうと、自分では決して実践することの出来ない基準を打ち立てることになります。
イエスは言われました。
『あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれていま す。』(ルカ 7 章 28 節)
なぜでしょうか。
バプテスマのヨハネは、良いわざによって成し遂げられる究極の義の基準を象徴していたからです。彼が究極の遵守者でした。行動の基準においてヨハネより優れていたり、より宗教的であった宗教者は誰もいません。バプテスマのヨハネは他には例をみない人物であり、母の胎にいたときから聖霊に満たされていました(ルカ 1 章 15 節)。
古代ユダヤの異端であったエビオン派(Ebionism)が間違ってイエスについて信じていたこと――イエスが独特な霊感を受けた者であったという教え――は実際バプテスマのヨハネに関して真実なことでした。イエス、またおそらくアダムを除いて、ヨハネはそれまで存在した中で最も特異な人物でした。
「しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています」これはなぜなのでしょう
か。
新生し、律法を成就されたイエスの義を持つ者は、自分の良いわざによって得られるどんな正しさよりも優ったものを持っているからです。
ヨハネは人が到達できる最高頂を象徴しています。しかしイエスの義はそれをはるかにしのぐのです。
宗教はキリスト教の反対である
ローマ・カトリック教徒のように律法の下にいる人たちを見てください――小さな老婆がバチカンの階段を関節炎の膝を使ってはい上がり、祈りとビーズをもって、煉獄(カトリックが死後天国に行く前に自分の罪を償うために行くと教える場所)から逃れられることを望んでいるのです。イエスさまはそのような罪悪感と抑圧から人々を自由にするために来られました。このような教えは人々を律法の呪いの下へと引き戻します。
モルモン教――アメリカ・ユタ州の人口の 70 パーセントがモルモン教徒です。ユタ州は他から抜きん出て最高の自殺率を記録しています。なぜでしょうか。モルモン教徒は律法の下にいるからです。罪悪感は、モルモン教の基準を達しないという無力さから来ます。イエスさまはそのようなものから人々を自由にするためやって来たのです。
正統派ユダヤ教徒――彼らの多くがノイローゼです。宗教は人をおかしくします。宗教というものは確実に一種の精神病です。罪深い人間がどのようにして完全で聖い神の基準に達することができるのでしょう。この理由で、神は人となり、私たちが決して出来ないことを行わなくてはならなかったのです。
宗教は福音を無力にします。宗教はキリスト教に根本的に反対するものです。宗教の中にいる人たちは律法の呪いの下にいます。それはユダヤ人でも異邦人でも問題ではないのですが、ここからはユダヤ人に目を向けてみましょう。
『というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」のだからです。しかし律法は、「信仰による」のではありません。「律法を行なう者はこの律法によって生きる」のです。』(ガラテヤ 3 章 10 節-12 節)
わたしの選んだ者たち
「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、の
ろわれる」この箇所はユダヤ人についての具体的な意味がありますが、すべての堕落した
人間にも適用されます。レビ記 26 章や申命記 28 章の恐ろしい呪いを見てみてください。
『わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たち [異邦人たち] に、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民 [異邦人たち] に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ」と言った。わたしは、反逆の民 [ユダヤ人] 、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。』(イザヤ 65 章 1 節-2 節)
『それゆえ、神である主はこう仰せられる。「見よ。わたしのしもべたちは食べる。しかし、あなたがたは飢える。見よ。わたしのしもべたちは飲む。しかし、あなた がたは渇く。見よ。わたしのしもべたちは喜ぶ。しかし、あなたがた [ユダヤ人] は恥を見る。見よ。わたしのしもべたちは心の楽しみによって喜び歌う。しかし、 あなたがたは心の痛みによって叫び、たましいの傷によって泣きわめく。あなたが たは自分の名を、わたしの選んだ者たちののろいとして残す。それで神である主は、あなたがたを殺される。ご自分のしもべたちを、ほかの名で [クリスチャンと] 呼 ばれるようにされる。』(イザヤ 65 章 13 節-15 節)
神はイスラエルとユダヤ人に関して終わりの時代の目的を持っていますが、彼らは今呪い の下にいます。救われていないユダヤ人たちは呪われています。彼らは呪いの下にいます。堕落した人間はすべて律法の呪いの下にいますが、ユダヤ人は律法を前もって持っていた のでなおさら呪いの下にいます。
ここで「律法」が何であるかを説明しましょう。律法は風船のようなものです。風船にヘリウムガスを入れなければ重力の法則によって風船はいつも地に落ちていきます。もしその中にヘリウムガスを入れたなら、それは空気より軽いため、重力の法則より浮力の法則がまさり、風船は浮き上がるようになります。
ヘリウムガスは聖霊のようなものです。ただ恵みの律法の下に来て、神の聖霊が自分の中に宿り、イエスさまの義を生み出してもらわない限り、神を喜ばせる生活はできません。風船に空気を入れてもそれを浮き上がらせることは決してできません。重力より強い法則を使うしかないのです。
そのより強い法則は恵みです。それは古い契約よりも強い新しい契約です。人類はすべて古い契約の呪いの下にいます。
ユダヤ人は律法を前もって持っていたので、結果的に責任をより求められます。さばきは最初にユダヤ人に来ます。
『…福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救い
を得させる神の力です。
患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。』(ローマ 1 章 16 節、2 章 9 節-10 節)
最初ユダヤ人にとって救いが手に届くところにあったために、福音を退けたことの結果は彼らに最初にやってきます――ホロコースト、スペインの異端尋問、十字軍、ユダヤ民族の極度の苦しみがそうです。
神は何と言われていたでしょうか。「わたしはあなたがたを敵の手に渡す」。これは反セム主義やユダヤ人の迫害を正当化することでは全くありません。むしろユダヤ人は神のみこころの中にあってだけ安全でいられるということです。いったんみこころから外れてしまうと、律法の呪いのために、彼らは自分たちを呪うことになってしまいます。
罪のための備えはない
救われていないユダヤ人たちは呪われています。実際律法の下にいて罪のための規定が無いため、彼らは二重に呪われています。
神殿にささげられたいけにえに関していうと、それが正式な祭司によってささげられ、適切な状況の下で、それに信仰と悔い改めが伴っていたなら、ユダヤ人たちはいけにえによる贖いを受けていました。
これら動物の血はメシアが来て、罪を取り去るまで、罪を覆っていました。
しかし現在、彼らのための備えはありません。神殿も無ければ大祭司職も無いからです。現在、存在していている唯一の神殿はキリストのからだです。新約聖書において7回、教会は幕屋であると書かれています。
私と私の家族は過越の祭りを子羊の肉をもって祝います。救われていないユダヤ人たちは、子羊の代わりに鶏肉を食べます。彼らには神殿、祭司職が無いからです。ユダヤ人信者は ひとつの神殿とひとりの祭司を持っています。新しい大祭司はイエスさまです。大祭司が 存在しているので、私たちは過越に子羊をもって参加できるのです。
すべての正統派のシナゴーグ(会堂)にヘブライ語で「イ・カボデ(栄光は去った)」と書かれているのは、神殿が破壊されたという事実を認めているからです。
現代のユダヤ人の宗教はモーセの宗教ではありません。ローマ・カトリックやリベラルなプロテスタント、ギリシア正教会、モルモン教、エホバの証人らが新約聖書のキリスト教ではないのと同じように、ラビ的ユダヤ教は全くもって旧約聖書のユダヤ教ではありません。ラビ的ユダヤ教は、ラビ・ヨハナン・ベン・ザッカイによって創始された別の宗教です。
彼らはそうは認めないでしょうが、彼らの礼拝と祝祭がそれを証明しています。もしラビ
的ユダヤ教が同じ宗教ならば、どうしてトーラーが命じているように過越の食事をしないのでしょうか。
ただ一度だけで
ユダヤ人は呪われています。イエスさまだけがその呪いを断ち切ることが可能であり、実際そうなされました。ヘブル人への手紙の3箇所においてイエスさまは一度だけ死なれたとあります。
『また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。』(ヘブル 7 章 26 節-27 節)
『しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。』
(ヘブル 9 章 11 節-12 節)
『このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。』(ヘブル 10 章 10 節)
偽りのキリスト教は何らかの形でイエスの十字架を否定します。ローマ・カトリック、エホバの証人、モルモン教、コープランドとヘーゲン――彼らはイエスが霊的に死んで、サタンのような存在になったと教えていますが――これらすべてのものは十字架を否定しています。
しかしイエスは完全ないけにえであり、一度で十分でした。イエスさまはご自分の民の生活から律法の呪いを永遠に取り去りました。キリスト・イエスのうちにある者にとってはすべてが新しいのです。しかし何かの事柄が新しいものではないと言い始めるとき、それはイエスさまが十字架の上でなされた働きの十全性を巧妙に否定するものとなってしまいます。
ラザロをほどく
イエスさまがラザロを墓から呼び出されるとき、弟子たちに「石をとりのけなさい」と言
われました。その後、ラザロに墓から出るように命じられました。
ラザロが出てきたとき、弟子たちに「ほどいてやりなさい」と言われました。
これはミドラッシュ的な伝道の描写です。墓とはこの堕落した世です。私たちが誰かに証しをするときに石はとりのけられます。私たちが行う唯一のことは、人々にイエスさまの声を聞かせることです。唯一、人の子だけが死んでいる者をいのちへと呼び起こします。もしイエスさまが「ラザロよ、出てきなさい」と名指しで言わなかったら、この世のすべての死者が目を覚ましただろうと言う人もいます。
石をとりのけることは伝道です。人々はただイエスさまの声が聞こえた場合にだけ墓から出てきます。聖霊によって確信を与えられ、御父に引き寄せられ、イエスさまの声を聞かないかぎり、人は救われることはありません。
人が墓から出てきたとき、イエスさまは私たちに向かって「ほどいてやりなさい」と言われます。私は祈りやカウンセリング、弟子訓練の必要性を否定しません。上記に記した場合以外にクリスチャンが呪われることがあるのを私は否定しません。しかしクリスチャンは、意図的に堕落し、自分自身を律法の下に引き戻さない限り、律法の呪いの下に来ることはありません
おばあちゃんが占い師だったから
私は昔よく占い師のもとへ行き、タロットカードを読んでもらっていました。私は初対面 の人に会い、その人の星座を言い当てることができ、多くの場合それは当たっていました。しかしそのようなことをしていた人物はもう死んだのです。魔術と関わっていたジェイコ ブ・プラッシュはもう死んでいます。
悪魔はいつもあなたに十字架を否定するようにけしかけます。悪魔は人々に次のようなことを言わせたいのです。「私の祖父が魔術師だったから、わたしのおばあちゃんが占い師だったから…。だから私は呪いの下にいて、人生のすべてのことがうまくいかないんです」悪魔は嘘を付く者です。イエスは「完了した」と言われました。イエスさまが十字架にかけられた時、私は彼と共に死に、あなたも彼と共に死んだのです。
私たちが毎日死ぬ必要があるのも事実です。自分の十字架を負い、イエスさまについていくのです。古い人はいつもそこにあります。私たちは同じ古い家に住んでいるのです。しかし霊に関しては、私たちは新しい人です。あの古い人は死んだのです。
悪魔はいつも、私たちに古い人の中で生きさせようとし、私たちが新しい人でないかのように思わせます。悪魔はいつも私たちを肉の中で生きさせようとするのです。
今あなたは新しい人
「私はこのことやあのことのために呪われている」と言い始めるなら、それは自分を律法
の下へ引き戻すことです。
あなたは呪われてはいません。キリスト・イエスにあって新しい人です。その呪いは十字架において砕かれました。悪魔が嘘を付き、異なったことを言うのを許しておいてはいけません。
色々なしがらみから自由にされることが必要でしょうか?もちろん。祈りが必要でしょうか?もちろん。カウンセリングは必要でしょうか?もちろんです。
しかしあの“呪いを打ち砕く”という現代の多くの教会で教えられているものは、全く十 字架のわざを信じず、自分を律法の呪いの下へと引き戻していることにすぎません。自分 の人生に告白していない罪があるなら、その罪を悔い改めてください。それが解決策です。しかし、あの“呪いを打ち砕く”というくだらないものは忘れてください。
信仰のゆえに迫害されて、人々が自分の上に悪を呼び下しているのなら、もちろん、あなたは呪いを受けています。私たちはみなその意味で呪われています。イエスさまは私たちをそこから切り抜けさせ――みこころとそれにかなった時に――そこから救い出してくださいます。
しかし、旧約聖書の呪いが自分の上にあると言うことは十字架の否定です
あなたは新しい人です。あなたは何かに縛られているかもしれません。心理的にも、感情的にもあなたを抑圧している何かがあるのかもしれません。祈りやカウンセリングが必要であるかもしれません。私はそれを否定しません。私たちの生活の中にサタンの要塞があるという考えを私は否定せず、それは実際、悪魔が利用できる古い性質の中の弱さであると私は考えています。それを要塞であるというよりも、弱さであると考えましょう。
インスタマチックな社会
私たちが新しい人のうちで生きれば生きるほど、より肉に打ち勝つようになります。しかし人々は即座の解決策を探します。言い換えると、肉は十字架を負いイエスについて行きたくはないのです。
私たちは“インスタマチック化された(何でも便利になった)”社会に住んでいます。自分の十字架を取り、イエスさまに対して恵みや、信仰の忍耐、祈りにおける聖い生活を送ることを望まず、人々は出て行って悪霊を追い出してほしいと考えます。
自分の問題に目を向けることをせず、こう言いましょう。「主よ。私はなぜこのような問題を抱えているのでしょうか。何を教えようとされているのでしょうか。このことを用いて私をどのようにイエスの御姿に似させてくださるのでしょう。この問題を使ってどのように私の人生に良いことを導き入れられるのでしょう。この苦しみを通してどのように私
を祝福されるのでしょうか」
私たちに悪いことが起こるのを神がお許しになる場合、それはただ終わりに私たちに良いものをもたらすためなのです。大抵の場合、神のなさっていることは後になって思い出してみないと分かりません。私たちは目に見えるところによって歩むのではなく、信仰によって歩みます(もちろんあなたがケネス・ヘーゲンに従っていなかったらの話ですが)。
福音を再文脈化する
福音を私たちの世界観のために再文脈化するのは完全に有効な手段です。パウロは言いました。『すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。』(1コリント 9 章 22 節)
私と私の家族は豚や甲殻類を食べません。それは私の証しとしてユダヤ人たちに対して悪いものとなるからです。私たちにとって食べないほうが良いので、そうはしません。
すべてのことが許されたことですが、すべてのことが益になるのではありません。それは私にとっては正しくないのですが、あなたにとってはどうぞと言うでしょう。何を気にすることがあるでしょうか。
この国(イギリス)では主の聖餐をぶどう酒で祝っても、グレープジュースで祝っても私はどちらでも満足します。あなたの教会がすることなら何でもしましょう。このことは問題ではないからです。
しかし、アルコール依存症があれほどの問題になっているアイルランドに行ったなら、私はどんな公の席でも、アルコールに触るのを見られたくはありません。それは私が主の聖餐をぶどう酒をもって祝うことに問題を感じているからではなく、その状況(文脈)としては私の証しのために良くないからです。私たちのインスタマチック化された社会では人々はすぐに手に入る喜びのために、福音を再解釈します。再文脈化は正しいものですが、再解釈や再定義は間違っています。
私たちは大量消費の世界に生きています。すべてが消費されることを目的とされています。広告業界は人々に常に消費するように促しています。繁栄の神学は西洋の大量消費観にし たがって再定義、再解釈された福音です。
私たちは高度技術の社会に住んでいます。「ハードウェアに合ったソフトウェアを買えば、あなたのパソコンは思うがまま」と考え、このため人々は正しい教会成長プログラムを手に入れさえすれば教会は成長すると考えてしまっています。
私は人が救われることに反対しているのではありません。私が言おうとしていることは
“正しいプログラム”を手に入れることはリバイバルをもたらさないということです。
私たちは物事をすぐに手に入れたがります。自分の十字架を背負い、イエスさまについて行くことは容易ではありません。あなたが何度呪いを打ち砕いたかは私は気にしません。
それはあなたの問題を解決しないからです。あなたがその下にいたことがある呪いはすべ
て十字架によって打ち砕かれました。呪いは自分が救われる前にしたことや、あなたの祖父がしたことと何の関わりもありません。
だれでもキリスト・イエスのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。悪魔は真理を否定させ、十字架を否定させたいのです。
私たちが日々死ぬことは事実です。イエスとひとつであると見なされることにより、彼の死と復活を通して私たちは自由を得ます。このことは呪いを打ち砕くことによってはやってきません。御霊の力のうちにあって、十字架につけられた、復活のいのちを生きることによってあなたは自由を見出します。
もしかしたら、あなたにとって十字架につけられた生活とは、人間関係や金銭的、健康的な問題で四苦八苦することを要求するかもしれません。それがあなたの十字架かもしれません。すべてのことが働いて益となります。神はご自身の方法と時を用いて、あなたにとって最善である手段を使って自由にされます。
その十字架は呪いですが、必要悪でもあります。十字架無しにはよみがえりはありえません。十字架を通してイエスさまはあなたを自由にされます。
クリスチャンはどのように呪いを受けるのでしょうか?
私たちクリスチャンは尊敬される代わりに軽くあしらわれます。私たちはその意味で呪われます。自分の国に悪が呼び下されるでしょう。それは西洋ヨーロッパ諸国でまさに起こっています。人々は私たちに関して悪く語り、怒りを持って私たちを呪うでしょう。
しかし私たちが律法の呪いの下に戻る唯一の方法は、私たちがそこに後戻りすることです。クリスチャンにとってそうして呪われる唯一の方法は、イエスを否定することにより、自 分をその下へ引き戻すことです。
この場合を除いて、悪魔は自分たちの問題を誤診させ、人々に聖書的な解決策を見つけないようにさせます。
だれでもキリスト・イエスのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。イエスの十字架は一度だけで十分です。あなたが呪いを受ける唯一の時は、十字架を投げ去るときです!
呪いの下にいるクリスチャンになりたいのなら十字架を投げ去りましょう
呪いから解放されたクリスチャンになりたいのなら自分の十字架を負い、イエスに従うのです
Daughters of Zion - Japanese
シオンの娘
ジェイコブ・プラッシュ
私たちがよく聞かれる質問のひとつに教会内での女性と女性の役割があります。今回はこのテーマをクリスチャンの観点から、またユダヤ的観点から考えてみます。このテーマをより立体的に見ていくために幾人かの『シオンの娘』たちを見ていくこととします。まず皆さんがすでにご存知の箇所から見ていきましょう。最初のものは第一コリントの手紙です。
『教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。もし何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、妻にとってはふさわしくないことです』1 コリント 14 章 34 節-35 節
閉鎖的なブレザレンはこれを文字通りに取ります。といっても聖書を文字通りに解釈すべきではないと言っているのではありません。ですがこの箇所は閉鎖的なブレザレンが行っていることを本当に意味しているのでしょうか。教会内の女性はただ座って、何も話すことを許されていない、ある人は聖書がその通りのことを語っていると言います。ですが確信を持って言えるのは、私たちがこの箇所をより大きな文脈をもって見るとき、そのような意味ではないということです。とはいえ、今日の教会内の現状が良いと言っているのでもありません。パウロはここで一体何を言わんとしていたのでしょうか。大きな論議を引き起こすもうひとつの箇所は第一コリントの 11 章 3 節から 7 節です。
『しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリス トであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることにな ります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです』1 コリント 11 章 3 節-7 節
パウロは 9 節でもこう語ります
『また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです』1 コリント
11 章 9 節-10 節
いつもこの箇所について多くの手紙や、直接の質問を受けるので、この場を借りて一挙に答え
てしまうのが良いかと思われます。
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女の子孫(種)が蛇の頭を踏み砕く
もちろん、これは創世記 3 章 15 節からです
『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく』(創世記 3 章 15 節)
オーストラリア人のケビン・コナー(Kevin Conner)という人物は初期に良い本を書いていましたが、今彼は再建主義に入れ込んでいます。彼はこの箇所をもって、キリストの再臨無しに教会がサタンを支配することができると言います。しかしながらこの文脈において、エバは教会よりも先にイスラエルを象徴しています。置換神学は間違っており、この女はイスラエルです。教会はイスラエルに置き換わったものではなく、イスラエルに組み入れられたと聖書は語っています。この女はある面まで教会も含んでいますが、イスラエルの代わりとされているわけではありません。第二に、女の子孫がサタンの頭を踏み砕くのであって、女ではありません。これは大きな間違いです。
ローマ 16 章 20 節には
『平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます』(ローマ
16 章 20 節)
誰が女に勝利を与えたでしょうか。主です。女が踏み砕くのではありません。士師記に登場するヤエルがシセラの頭を天幕のくいで刺し通した時、シセラの頭は砕かれましたが、誰が彼女に勝利を与えたでしょうか。その出来事は主が遣わされた軍隊が来るまで起こりませんでした。これはまたゼカリヤ 12 章とも同じです。イエスさまが再臨されるとき、イエスさまが勝利を与えます。女性が夫の助け無しに勝利を得て、その勝利を贈り物として捧げるという考えはおかしなものです。教会はキ リストのなさったことにより最終的に勝利を得ます。キリストは勝利した教会のために来るのではなく、千年王国を打ち立てるために勝利する教会と共にやって来るのです。蛇の頭を踏み砕くのは女の子孫です。ここで違う点からこのテーマの性質を考えてみましょう。私は聖書の語る環境問題について大きな懸念を抱いています。黙示録には『地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時』とあり(黙示録
11 章 18 節)、創造の初めから地球を管理するように神に言われたのに、人間は地球を汚染します。
環境破壊は罪です。その一方で、環境保護運動の中にはニューエイジの強い影響が入り込んでいるのが分かります。その多くのものが東洋の『母なる地球』や、ローマ・カトリック教会の『母なる
何々』という考えから来ています。みなさんご存知でしょうか、熱心なローマ・カトリック教徒に「マリヤ
も罪を犯した」と言えば、彼らは自分たちの母親が馬鹿にされたように感じます。聖書の「すべての人は罪を犯した」という箇所や、マリヤが救い主を必要としていると語ったことを彼らは気にかけません。それが彼らの母なのです。忠実な花嫁はいつでも自分の夫の誉れを尊びます。しかしイゼベルのように不忠実な妻は自分に誉れをもたらすために夫を利用します。忠実な妻は夫を敬い、妻の誉れは夫から来ます。教会の誉れはイエスです。
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二人組で登場するシオンの娘たち
一、二の例外を除いて、聖書に登場する忠実な女性はいつも二人組で描かれています。ラケルとレアの例を見てみましょう。ヤコブは妻としてラケルを望みましたが、ラケルと同じ程レアを愛せるようになってからラケルをめとることができました。初めはレアが子宝に恵まれていましたが、後にラケルが多く産むようになりました。イエスはイスラエル、ユダヤ人、またいってみるならばシオンの娘たちのために来られましたが、最初に異邦人教会をめとられました。イエスさまがイスラエルと同じ程、異邦人教会を愛されるようになると、再臨においてイスラエルをめとられます。初めは異邦人教会が多くの霊的子孫を産んでいましたが、最後にはイスラエルが多く産むようになります。レアとラケルと同じです。ひとりはめとる必要があった者で、もうひとりは実際に望んでいた方の者です。そこには二人の女性がいました。
ルツとナオミももうひとつの例です。ひとりはユダヤ人で、もうひとりは異邦人でした。二人の女性はいつでもイスラエルと教会の象徴です。私たちは象徴を元に教理を作ることはしませんが、象徴は教理を例えをもって示し、的確に理解できるように私たちを導きます。さて、ルツ記の最後には何が書かれてあるでしょうか。
『しゅうとめナオミは彼女に言った。「娘よ。あなたがしあわせになるために、身の落ち着く所を私が捜してあげなければならないのではないでしょうか。ところで、あなたが若い女たちといっしょにいた所のあのボアズは、私たちの親戚ではありませんか。ちょうど今夜、あの方は打ち場で大麦をふるい分けようとしています』(ルツ 3 章 1 節-2 節)
(ボアズという名は「彼の力にあって」という意味で、ボアズはイエスの象徴として打ち場にいました。ボアズはイエスのように手に箕をもって麦と殻を分けていました)
『あなたはからだを洗って、油を塗り、晴れ着をまとい、打ち場に下って行きなさい。しかし、あの方の食事が終わるまで、気づかれないようにしなさい。あの方が寝るとき、その寝る所を見届けてから入って行き、その足のところをまくって、そこに寝なさい。あの方はあなたのすべきことを教えてくれましょう。」』(ルツ 3 章 3 節-4 節)
ここでユダヤ人女性が異邦人女性に男を手に入れる方法を教えました。救いはユダヤ人から来
ます。ユダヤ人は諸国にトーラーと教会をもたらし、イエスを『手に入れる』方法を教えました。またルツがルツ記 4 章 11 節から 14 節で夫を得た後、ベツレヘムで男の赤ん坊が生まれ、その名は
『ゴエル(goel)』――贖い主(買い戻す者)と呼ばれました。そして異邦人の女はその子をユダヤ人の女に与えました。第一世紀に神が福音を異邦人教会に伝えるためユダヤ人を用いられたように、最後の時代にはユダヤ人に福音をもたらすために異邦人教会を用いられます。疑う余地なく 85 パーセントのユダヤ人が異邦人信者によって救いに導かれています。そしてユダヤ人の救いに欠かせないのが、これまで見たこともないほどの数の異邦人信者たちの祈りです。ユダヤ人伝道のための 90 パーセントの資金が異邦人クリスチャンから来ているのでないかと私は思います。ナオミはどのような女性だったでしょう。彼女はイスラエルのように、その子を授かるまで苦い思いを抱いていました。その子は贖い主と呼ばれ、ダビデの町であるベツレヘムで生まれました。そしてルツによってそのユダヤ人女性の手に与えられました。16 節でナオミがその子を抱くと近所の女たちは「ナオミに男の子が生まれた」と言いました。その子はユダヤ人の子どもとなったのです。このようにひとりはユダヤ人、もうひとりの女性は異邦人です。これがシオンの娘たちです。そして 11 節にはこうあります。
『「私たちは証人です。どうか、主が、あなたの家に入る女を、イスラエルの家を建てたラケルとレアのふたりのようにされますように。』(ルツ記 4 章 11 節)
(ルツは教会の象徴であり、ルツ記は教会の誕生日、『シャブオート』――ペンテコステの時期にユダヤ人のシナゴーグで朗読される書です)
イスラエルの礎となったヤコブの十二人の息子たちは、旧約聖書での十二使徒のようなものです。黙示録に登場する 24 人の長老たちは、私が考え得る限り、十二人の族長(ヤコブの息子たち)と十二人の使徒たちです。イエスは彼らにイスラエルの部族を裁くことになると語られました。これを考えてみても、族長と使徒たちが二組になって登場しています。
モーセと関連する女性を見ていきましょう。メシアはモーセのような預言者です。彼の母を除いて、モーセの奉仕に密接に関係していた二人の女性がいます。それは姉のミリヤムと妻のチッポラです。ひとりはユダヤ人で、もうひとりは異邦人でした。そしてユダヤ人であったモーセの家族は異邦人との結婚を快く思いませんでした。現代、熱心な正統派で無い限り、ユダヤ人女性が異邦人男性と結婚することは受け入れられています。しかしユダヤ人男性が異邦人女性と結婚するなんてことがあったなら、もう大変です。チッポラは黒人女性で、クシュ人であり、何らかの人種差別があり、モーセの家族は黒人女性と結婚したことを快く思っていませんでした。モーセと関係していた二人の女性、ユダヤ人女性と異邦人女性がいましたが、ミリヤムは断ち切られ、その異邦人女性がモーセにとって重要な役割を果たすようになりました。
従ってレアとラケルがいました。レアは少なくとも異邦人教会を象徴しています。そしてユダヤ人
と異邦人であるミリヤムとチッポラ、またユダヤ人と異邦人であるナオミとルツ。士師記を見るとそこにはデボラとヤエルが登場します。ヘブライ語で『デボラ』とは『蜂』という意味で、蜂蜜を表すヘブライ語も『デバッシュ(d’vash)』です。そしてこのペアもユダヤ人女性であるデボラと、異邦人女性のヤエルです。イスラエルの勝利は互いに協力し合うユダヤ人女性と異邦人女性の手にかかっていました。シオンの娘たちは二人組で活躍します。そして二人の関係はいつも二つの契約の関係を示しています。
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旧約の子と新約の子
ここでルカを見てみましょう。二人組で登場するというパターンは新約にも見られます。
『エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。』(ルカ 1 章 41 節)
母の胎の中にあってもヨハナン・ハマトビル――バプテスマのヨハネは聖霊で満たされ、マリヤの胎内にいるイエスを喜びました。マリヤはその時妊娠したばかりでした。エリザベス――『エリシェバ
(Elishevah)』とは『わたしの神は誓われた』という意味で、おそらく妊娠 6 カ月でした。命が産道を過ぎてから始まるなんてことを誰にも言わせないようにしましょう。それは嘘です。命は胎内から始まっています。さて、なぜ二人の女性が顔を合わせたときにヨハネが胎内でおどったのでしょうか。その胎内の子どもたち二人が二つの契約の子だったからです。ヨハネは旧約の子であり、イエスは新約の子でした。古い契約はメシアを望んでおり、古い契約のために人々は罪定めされており、救い主を必要としていました。宗教は誰も救うことができません。律法は誰も救えません。それを示すためにモーセは約束の地に入ることができませんでした。ヨシュアが民を導き上らなければならなかったのです。律法は約束の地に導き入れるのに誰か他の人が必要であり、自分に不可能なことをしてくれる人がいることだけを教えています。神が定めた宗教はただひとつであり、それは聖書のユダヤ教です。それは今日見られるラビのユダヤ教ではありません。神が定められた唯一の宗教はガラテヤ人への手紙で言われている通り、『パイダゴーゴス(paidagogos)』――『養育係』だけであり、その養育係は救いの必要性を私たちに教えます。それが古い契約の主な役割でした。そのためにヨハネはイエスさまが来ると喜びました。パウロが言うように律法は無益だったからです。ルカ 16 章
16 節を見てみましょう。
『律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています』(ルカ 16 章 16 節)
ここの「無理にでも入る」というギリシア語は「アウテーン・ビアゼタイ(auten biazetai)」です。ギリシア語の知識が何も無いモーリス・セル― ロ(Morris Cerullo )やアンドリュー・シェアマン
(Andrew Sherman)という人たちはおかしなことに、この「アウテーン・ビアゼタイ」を、『力によって御国を勝ち取ることだ』と教え、この箇所を勝利主義神学(triumphalism)のために用いていますが、本来の意味はそうではありません。律法は私たちが罪深く、救われる必要があることを教えます。それは沈みゆく船で警報が鳴り響いているようなときに、救命ボートに人が無理にでも駆け込んでいくような状態のことです。律法はヨハネまで宣べ伝えられ、イエスからは御国が宣べ伝えられました。律法の子であるヨハネは恵みの子を見ました。
これまで話してきたようなパターンが『ブノット・ツィオン(b’not tsion)』――シオンの娘たちに見られるもので、彼らはいつもペアになって活躍します。一方は律法を予兆し、もう片方は恵み、しばしば一方はイスラエルを示し、片方は教会を表しています。また一方は旧約を象徴し、もう一方は新約を象徴しています。それではここからは聖書に見られるさらなるパターンを見ていきましょう。
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彼女の頭はいつも覆われている
旧約聖書、タナクにおいて神に用いられた女性はどのようなものであったでしょうか。彼女たちの頭はどうなっていたでしょう。神はエステルを用いられましたが、彼女の『頭』はモルデカイによって覆われていました。神はダビデの系図を始めるためにルツをも用いられ、彼女を通して後にベツレヘムでメシアが生まれましたが、彼女の『頭』はボアズによって覆われていました。神はデボラも用いイスラエルに勝利をもたらされましたが、彼女の『頭』はバラクによって覆われていました。
頭はいつも覆われています。ルツの夫はボアズ(彼の力によって)でした。彼女の強さは夫の中にあったのです。女性は男性が持ち合わせていない内側の強さを持っています。そう思われないなら出産の光景を見てください。ラグビー選手でもあれほど大変なことを経験したらもう試合に出られなくなるでしょう! ですが霊的な強さ、感情的な強さ、真理的な強さについていうと、妻は夫から、また女性は覆いとしての男性からそれらを引き出す必要があります。
このような理解をもって再び第一コリント 11 章 3 節から 16 節を見てみましょう。女性は御使いたちのために頭を覆わなければならないとあります。これはどのような意味なのでしょう。神が良きものとして設計されたものは何であれ、人の堕落により敵は悪のために用います。男性は鈍感で、私も鈍感です。男性は女性の敏感さに依存しています。夫婦が救われたとき、私が知っている中の
85 パーセントは奥さんが最初に救われています。夫婦が共に導きを祈るとき、85 パーセントの割合で奥さんが聖霊の声を聞き取ります。女性はより敏感であるために明確に、また迅速に聞き取ります。女性はいつでもより敏感でしたが、堕落のために男性は鈍感になりました。また一方で堕落のために女性は過度に敏感になってしまいました。そのため女性は聖霊の声を聞き取り易いのと
同時に、他の霊の声を聞き、騙されやすくなっています。女性は霊的な誘惑や欺きに対してもろく
出来ています。エデンの園で蛇はアダムの妻を通して彼を攻撃しました。サタンはイエスを攻撃できないので、今は教会を通してイエスを攻撃しようとしています。このことのために奉仕に携わっている男性が正しい妻を見つけることは重要なのです。妻は神に用いられるか、悪魔に用いられるかどちらからです。ジョン・ウェスレーの妻の場合は(主が彼女を取り去られるまで)彼の働きを妨げるために悪魔によって用いられていました。ここで第二コリントの手紙を見てみましょう。
『私の少しばかりの愚かさをこらえていただきたいと思います。いや、あなたがたはこらえているのです。というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。』(2 コリント 11 章 1 節-3 節)
黙示録 11 章には竜と蛇が登場します。サタンには 2 つの攻撃形態があります。迫害者としての竜と、誘惑者としての蛇です。女性は蛇の攻撃に対して弱さを抱えています。蛇の攻撃は竜に食べられるのと同じほど危険なものです。毒があるからです。そのために男性の権威は支配ではなく、保護することに基づいています。夫はキリストが教会を愛されたように妻を愛することが求められています。キリストは自分を明け渡して、教会を愛しました。不従順という問題を抱える女性には、たいていの場合妻を愛さず、自分を明け渡していない夫がいます。夫がキリストのように明らかに自分を妻のために明け渡すとき、そこまでして反抗的である女性はそうはいません。女性は従順にならなければなりませんが、その従順は男性が勝ち取るものでもあります。妻は夫を上司のようにではなく、保護のための権威として見るべきです。それは神が女性の物質的な安全と共に、女性の霊的な安全に対する責任を男性に問われるからです。神は私の妻の安全に対する責任を私に問われます。妻はその責任を理解すべきです。一方で、男性はその責任をもって自分を妻に明け渡すべきです。これが理想的な形です。現実の世界では、堕落のために男女関係の上には呪いがあります。神は私たちを贖われましたが、同時に結婚生活における摩擦を通して、私たちをよりイエスに似せていきます。私たちは組み合わされたレンガ(ヘブライ語ではヒート・ハ・ブルット)のようであり、
『鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる』のです(箴言 27 章 17 節)。神が定められ
た 2 人の交わりの中で最も密接なものがクリスチャン同士の結婚です。結婚は堕落以前に神が定めたものであり、人間の文化によって作られたものではありません。
第一コリント 11 章には男が頭にかぶり物をして祈るのは自分をはずかしめることだとあります。パウロはこの手紙をコリントの教会に書き送っており、そこにはいくらかのユダヤ人と多くの異邦人がいました。ここで扱われているのは中東のユダヤ文化ではなく、離散し、ヘレニズムの影響を受けたユダヤ文化です。そしてこれは異邦人クリスチャンの問題を扱っているものです。
ユダヤ人の男性はタリートと呼ばれる祈祷用ショールを持っています。聖書時代でさえ、大祭司
には衣装がありました。大祭司は『レハクリブ(lehakriv)』――『執り成し』に向かうときターバンを被っていました。ユダヤ人の男性が頭を覆って祈っていたのです。そうすると、男性が頭を覆って祈るのは不自然で自分をはずかしめることだとある人たちは言います。ですがこれは文化的な問題で す。一方、そこに含まれている原則は文化的なものではありません。私たちの文化では結婚指輪が結婚のシンボルとなっています。他の文化ではそれは女性が頭を覆うことです。お分かりでしょうか。長い髪はある文化では女性の誉れとみなされていますが、他の文化ではそうであるとは限りません。原則を反映する形の文化は相対的なものですが、原則自体はすべての文化、すべての時代に当てはまるものです。私はお風呂場にまで帽子を被っていく女性を知っています!ですがその人は とんでもなくお喋りで、彼女のご主人は犬の鎖につながれているような状態でした!その人は帽子は被っていましたが、本当に『頭』は覆われていたでしょうか。少なくとも彼女はそう思っていました。原則の表現の仕方は文化に縛られるものですが、原則自体はそうではありません。といっても、教会の伝統や慣習としてブレザレン教会のいくつかがしているように、女性が頭の覆いをしていることに私は何の問題も感じません。ペンテコステ派の一部もしていますし、私はそれを問題と感じていません。私の言いたいことは、それがパウロの伝えたいことではなかったということだけなのです。パ ウロの言いたかったことは、霊的誘惑に対する女性のもろさと、男性からの保護の必要性でした。男性は鈍感ですが、女性より信じやすくなく、騙されにくいものです。おかしな流行やおかしな教理に最初に飛びついてしまうのはたいてい女性です。それではさらに考えていきましょう。
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責任感を持たない男性
『同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行ないを自分の飾りとしなさい。女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。』1 テモテ 2 章 9 節-15
この箇所はいくつかのことを語っています。結婚生活で主人をコントロールしている厚かましい女性がいても、問題はその女性にあるのではなく、夫婦関係において権威を持たない夫にあります。女性牧師がいる教会の問題は女性ではありません。女性は本来堕落のために霊的に不安定であ り、男性からの強さを求めています。女性差別に聞こえたら申し訳ないのですが、これは本当です。教会がその強さと導き、安全性をキリストに求めるように、妻も導きと安全性、強さを自分の夫から得るべきです。また妻は夫の強さにも貢献できます。賢明な妻は白馬の王子様のような男性がいない
ことを分かっています。クリスチャンの中にもいません。それゆえ妻は「私は夫を理想の姿に近づけ
るために用いられる神の器だ。夫はまだその姿には達していないけれども、その姿に近づけるために神の器になる必要がある」と言うべきです。白馬の王子様はイエス様だけです。同じことが箴言
31 章の理想的な妻にも言えます。
ユダヤ人が結婚する時には、ヘブライ語で「モーセとイスラエルの律法にしたがってこの指輪をもって結婚します」、また「アニ・メクデシェット・ラク」――「私はあなたを聖なるものとします」と言います。夫は妻を聖なるものとし、神に対して清いものにするための神の器です。性行為でさえ聖なるものです。『寝床を汚してはいけません』(ヘブル 13 章 4 節)。ハシド派ユダヤ人は性行為が行われるときに、シェキナー――神の御霊が寝床の上を覆っていると言います。それはある意味で的を得ています。私たちはカバラー的に考えることはありませんが、その説明には真理があります。
女性エバが騙され、男性アダムは騙されませんでした。結婚関係において男性が家族の頭とならないならば、女性が押しつけがましくとも、それは女性の責任ではなく、男性の責任です。もしそれが女性のせいであったとしても少なくとも彼の責任であり、その責任を処理しなければ男性のせいとなります。私の夫婦関係や子供に何か悪いことが起きたなら、私のせいではないかもしれませんが、神の目から見ると私の責任です。それは夫婦や家族関係において私が神の権威となっているからです。女性がイゼベルのように厚かましいという男性の文句を聞くのは好きではありません。男が男らしくしていればそのような問題は起こりません。私が受け取る多くの手紙の中には、講壇上で女々しい男や、夫婦関係において女々しい男について語る女性たちからのものがあります。
「私の夫はなぜあの教えを間違っていると言わないのでしょう。私たちは 20 年間教会にいて、金儲
けの福音や、エキュメニズムが入って来ているのに、なぜ私の夫は反対しないのでしょうか」というような内容です。私はこのような手紙をいつも受け取ります。このような女性たちに何の悪い点もありません。
霊的に成熟した女性であれば、それはデボラに起こったことと同じです。「バラク、責任を取りたくなければ、それでいいでしょう。私が取ります。あなたは私の覆いとなり、私がそれを行います。しかし報酬はあなたではなく、私が取ることになります」神がそのような方法で女性を用いるときは、男性が任された仕事をしていないときです。例外はありますが、トロントの実情を見、信仰のことばやエキュメニズムの真の姿を知りながら立ち上がらない多くの教会指導者たちがいます。教会が間違いにおびき寄せられているのを見ても、何もしない牧師たちがいます。
『見よ。あなたの兵士は、あなたの中にいる女だ。あなたの国のもろもろの門は、敵のために広くあけ放たれ、火はあなたのかんぬきを焼き尽くす』(ナホム 3 章 13 節)
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原則と文化
第一テモテで他に何が語れているかを見てみましょう
『同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく』(1 テモテ 2 章 9 節)
ここでも私たちは原則と文化の違いを理解しなければなりません。雅歌にはメシアと花嫁、神とイスラエルのアレゴリーが描かれています。その中で花嫁は、このギリシア人女性が付けてはならないと言われている、まさにその飾りを多く身につけています。ペテロが第一ペテロの手紙の中でよりユダヤ人の指導者たちに書いたのに対し、半分ユダヤ人、半分異邦人であったテモテは主に異邦人で占められている教会を任されていました。ではペテロがどう書いているかを見てみましょう。
『同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行なえば、サラの子となるのです』(1 ペテロ 3 章
1 節-6 節)
パウロは「髪を編んだり、宝石を付けるな」と言っており、ペテロは「そのようなことだけをしてはならない」と言っています。ユダヤ文化の中で髪を編んだり、宝石をひとつふたつ付けることは何も悪いことではありませんでした。ペテロは主にユダヤ人に対して書き送っています。しかしギリシア文化の中ではそのようなことは、売春やみだらなことと関連しており、神殿娼婦が当時存在しました。本文は原則を強調しています。著者は「売春婦のような身なりをするな。不品行な身なりはするな」と語っています。女の人たちには売春婦のような格好をして教会に来てほしくはありません。ギリシア文化では髪を編んだり、宝石を付けることがそのまま売春婦や神殿娼婦と関連していました。そのような原則を著者は言っています。原則がどう表現されるかは文化次第です。この二つの箇所でみたように、同じ命令でも主にユダヤ人で占められた教会に対する強調点と、主に異邦人で占められた教会に対する強調点とは違います。そこには同じ原則が存在しますが、その表現方法はさまざまです。
人が「化粧をするな」というようなルールを作りだすと、それは(律法主義ではなく)ノミアン主義に陥っています。そのような人たちは救われるためにあれこれをしなさいと言っているのではなく、
イエスによって義とされるためにイエスへの信仰に加えて、このようなことをしなさいと言います。主
のことを思って化粧をしないという人がいても私は何ら問題がありません。女性は自然の美しさを持っています。女性は元から美しいものです。すべての女性は夫が魅力的に感じるものを与えられています。すべての女性がそうです。しかし先の聖書箇所のために女性は絶対、化粧も宝石も付けてはならないというのは誤解です。聖書箇所はひとつの原則に訴えかけているからです。私は人が水着を着ていないエイラットのビーチに行き、そこで日光浴をしている人たちにトラクトを配ることができます。彼らはスカンディナヴィアやドイツ、オランダなどから来たかわいい女の子たちで何も着ていません。私はそれでもセックスのことすら頭に上ることなくトラクトを配ることができます。しかし性欲をかき立てるような水着を着た人たちがいるテルアビブに行くと、私は気が狂いそうになります。耐えられないのです。その場所の女性たちは夫以外の者を性的に煽るためだけにそのような水着を着ています。私個人にとっては「着ても着なくてもいいが、誘惑しないでくれ」と思います。女性が挑発的に振る舞うのは正しくありません。私はカリスマ派の女性たちに関しても多くを見てきました。聖書の学びに行くと、自分の夫にしかしないような仕方で他の男性に腕を回す女性がいつもいます。クリスチャンの女性はそのように振る舞うべきではありません。クリスチャンなら過度にタイトな服や、性欲をかき立てる服を着るべきではありません。これが原則です。しかし実際にどの服装がそう見なされるかは時代と文化によります。パウロはその原則に訴えかけていました。この世的に見えてはいけません。けばけばしくなってはいけません。女性の真の美しさは内からのものです。それは雅歌のようなものです。最もセクシーな女性は真の美しさを持った女性です。体型がどうであれ関係ありません。敬虔な女性は何か内側から発し、夫を惹き付けるものを持っています。
『同じように、年をとった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。そうすれば、彼女たちは、若い婦人たちに向かって、夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。それは、神のことばがそしられるようなことのないためです。』テトス 2 章 3 節-5 節
「悪口を言わないように」とあります。男の人は女の人とは違う種類の罪に陥ります。激しい怒りは女性よりも、男性によく見られるものです。女性に関しては悪口が一般的なものです。女性はその種の罪に陥ります。年配の女性は若い女性にそうならないよう教えるべきです。パウロは女性が教えてはならないと言っていますが、女性は他の女性を教えるべきとも言っています。それが聖書の命じていることです。しかし男女混在する教会で女性が教師となろうとするとき問題が発生します。それでは再び第一コリント人への手紙を見てみましょう。
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女性が語ること
『教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うよう
に、服従しなさい。』(1 コリント 14 章 34 節)
これは律法です。しかしこれは正統派ユダヤ教徒たちが今日まで唱えているようなことではありません。彼らは「神よ、私が犬に生まれず、異邦人や女に生れなかったことを感謝します」と言っています。キリスト教は女性を解放した信仰です。キリスト教到来以前のヘレニズム世界の大半と、ユダヤ世界をご存知でしょうか。ペテロが男女お互いに仕え合うことや、女性もキリストにある共同相続人だと教えた時、当時の結婚観を全く打ち砕きました。当時にとってはとても進歩的な教えだったからです。それと同じように聖書は奴隷制に関しても否定的な見方をしています。それも進歩的な考えでした。ともあれパウロは女性に静かにしているよう望みました。そして次のように続けます。
『自分を預言者、あるいは、御霊の人と思う者は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。もしそれを認めないなら、その人は認められません[ =その人を認めてはいけません ]。それゆえ、私の兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。』(1 コリント 14 章 37 節-40 節)
これは女性が教会で黙り、話してはいけないということでしょうか?いくつかのブレザレンや、ペンテコステ派、ホーリネスを強調する教会はその通りの意味だと言います。ですが私たちはパウロが話していることの全体像を見なければなりません。もちろんこの箇所の言いたいことは女性が完全に黙るということではあり得ません。それではどのような理由でそう言えるかを見て行きましょう。
『しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。』(1 コリント
11 章 5 節)
女性が黙っていなければいけないならば、どのように集会で声に出して祈ったり、預言したりすることができるでしょうか。女性がただ完全に黙り、何も言わないという意味ではないのは明らかです。それがあり得ないのはその直前の箇所で女性が祈り、預言もするとパウロが言っているからです。ではどのようにして祈り、預言をするのでしょうか。頭を覆ってです。女性が何かの奉仕をするとき、彼女の頭は覆われている必要があります。もしその女性がクリスチャンの夫を持たない場合や、独身である場合、頭覆いはクリスチャンの父親または年上の兄弟になります。女性がそのどちらも持っていない場合、頭覆いは教会の男性指導者になります。女性の頭覆いはいつでも保護のためです。女性はただ教会に来てじっと黙って座っているだけではありません。それはパウロが否定しているからです。ですが大切な原則は女性の頭が覆われなければならないということです。ではこれが何を意味するか考えてみましょう。女性は教会で完全に黙っていなければならないという人は使徒の書簡を手紙として読んでいません。包括的に見ずに、ただ一つの箇所だけを取り上げてし
まっています。
『兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。』(1 コリント 14 章 26 節)
パウロはここで御霊の賜物のことを話しています。人々は賜物を持って教会に来ます。主からの教えや言葉などです。パウロは女性が祈ったり、預言をすべきではないと教えていません。彼が教えていることは、女性は自分の夫を通してそのような奉仕をするということなのです。自分の妻が預言を語るなら、彼女だけが責任を負うのではなく、夫である自分も責任を負います。それは夫は妻の覆いだからです。自分の妻が奨励を語るなら、彼女だけが責任を負うのではなく、夫である自分も責任を負います。これがパウロの言わんとしていることです。女性は合同の集会にて自分の権威のみで話すべきではありません。一方で女性は他の女性を教えるべきです。女性の頭が覆われているなら、女性が証を分ち合ったり、預言を語り、声に出して祈り、励ましを与えることに対して、私自身何の問題も感じず、聖書から見て何の問題もありません。私は男女混合の会衆の上に女性が立つべきではないと考えます。ですが女性は他の女性の上に指導者として立つべきだとも考えます。女性の指導者としての賜物は、直接的に他の女性たちに対するものか、自分の夫の覆いのもとで機能すべきです。女性牧師は論外です!女性牧師は間違っており、非聖書的です。ですが、もうひとつの極端、女性の抑圧も間違っています。女性の頭覆いはいつも保護のためにあるためです。
女性はもろい特徴を持っています。ある時、私のことを何かのパワーのように語り、私に触りたがる女性がいました。その姉妹は「あなたが部屋に入って来たとき、御使いがあなたの前を歩くのを見ました」と言ったので、私は「それは良い天使か、悪い天使かどちらだったんだい」と冗談で聞き返すと、彼女はそれを真剣に考え始めていました。女性は感情的にもろく、おかしな事柄に陥りやすい性質を持っています。夫たちがいるのは、女性たちを問題から遠ざけるためでもあります。逆に男性が鈍感であるということは明白です。鈍感であるため敏感に物事を受け取る妻が夫たちには必要です。両者が互いを必要としています。それは男性、女性のどちらが優位かということではなく、役割の違いがあるということ、機能の問題です。それではさらにシオンの娘を幾人か見ていきましょ う。士師記 4 章 8 節から 24 節です。
『バラクは彼女に言った。「もしあなたが私といっしょに行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私といっしょに行ってくださらないなら、行きません。」』(士師記 4 章 8節)
何て腰ぬけな態度でしょう!ですが私も腰ぬけです。これまで私は誰かに反対しなければなら
ない時が多く、妻に共に祈ってくれるよう頼みました。そして彼女が私の意見が間違っていると言う
なら非常に信憑性があります。私が「(誰々のことを)放っておけない、反対する」と言うと、「その人に反対するなら、返り討ちに遭わないことを確めてからにしてくださいね」と妻のパビアは言います。女性は男性の強さでもあります。女性に対する男性の強さとは違いますが、間違えてはいけないのが女性は確実に男性の強さとなることです。
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独身の賜物を持つ人
まず独身の賜物を持たない男性は彼女や妻がいないと、「自分に何か悪いところがあるんじゃないか」と考えます。これは女性も同じです。特に出産適齢期が過ぎてしまうと女性はいらいらしてきます。人はロンドン・バイブルカレッジのことをもじってロンドン・『ブライダル』カレッジと呼びます。女性寮のシャワールームには爪を立てて引きずった跡が必ずあると人は言います。また若い女性が年上の女性より早く結婚したりすると、年上の女性のはらわたは煮えくりかえります。同じことが違った形で男性にも起こります。人がひとりでいるのは良くありません。独身の賜物を持っていれば大丈夫ですが、独身の人は不完全です。独身の賜物が無く、共にいてくれる女性がいない男性は不安感を抱いています。男性も女性も独身であれば完全さを欠いています。それでは多くの誤解がある独身の賜物について見てみましょう。独身の賜物を持つ男性、または女性にはたいてい次の三つのものがあります。次の三つがどれもなければ、独身の賜物を持っているか疑うのに十分な根拠があります。
第一に、男性または女性が独身の賜物を持っているなら、独身であり続けても、男性らしさや、女性らしさに影響はありません。独身の賜物を持っていない男性が長い間自分のシャツにアイロンをかけすぎていると、物腰が柔らかくなり、次第に女性のように文章を書くようになってしまいます。これは女性が薪割りを長い間しすぎて、筋肉隆々になるのと同じです。独身の賜物を持っていれば、男性が独身であっても男らしさが損なわれることはありません。また女性が独身であっても女性らしさを損なうことはありません。その女性はレディーであり、性別をしっかりと持ち、女性らしい魅力があり、他の女性が持っているすべてのものを持ち続けます。これらのものが女性や男性に欠けているなら、その人は独身の賜物を持っていない可能性が限りなく高いです。
第二に、誰かが独身の賜物を持っているなら、大抵の場合に妻や夫が助けではなく、妨げとなるような特別な奉仕に召されているということが言えます。イランに聖書を密輸する奉仕をしているなら、安全に戻って来れるか分からないため、妻や子供が家で待っていたらどうでしょうか?独身の賜物を持つ人は特別な奉仕に召されているために、その賜物を頂きます。パウロのことを考えてみてください。何度も難破するような旅をしているのに、家で家族が待っていては気が気ではありません。
第三に、独身の賜物を持つ人は性的なことに関し平安を持っています。彼らは性的なことで頭
が一杯ではなく、更年期に入ることや子供を持てなくても心配しません。そのような人たちは自分たちの両親が持っていたような家庭生活を持っていなくても気にしません。そのようなことを気に掛けている人は独身の賜物を持っていません。
平安を持てず、特別な奉仕に召されておらず、年を重ねて男性らしさや女性らしさに影響が出るなら、その人は特別な独身の賜物を持ってはいません。ですが、大半の国の大半の教会では、男性ひとりに対して女性がふたりいる状況です。女性は男性より救われやすいものです。このために女性は男性よりも大いに祝福を受けています。独身の賜物を持っているなら失わないようにしましょう。神の創造の時から、結婚は男性と女性の自然な形です。ですが堕落のために迫りくる欲求が他にあります。独身の賜物を持っているならば結婚によって台無しにしないようにしましょう。反対に独身の賜物を持っていないならば、他の人に押し付けられないようにしましょう。親しいクリスチャンの友人で、結婚が叶わなかった人が言いました。「私はひとりだけれども寂しいとは全く思わない」。それでは士師記 4 章を再び見てみましょう。
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デボラとバラクの戦い
『バラクは彼女に言った。「もしあなたが私といっしょに行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私といっしょに行ってくださらないなら、行きません。」そこでデボラは言った。「私は必ずあなたといっしょに行きます。けれども、あなたが行こうとしている道では、あなたは光栄を得ることはできません。主はシセラをひとりの女の手に売り渡されるからです。」こうして、デボラは立ってバラクといっしょにケデシュへ行った。』
(男性が責任感を持たない時、何が起こるかがここで分かります)
『バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに呼び集め、一万人を引き連れて上った。デボラも彼といっしょに上った。ケニ人ヘベルは、モーセの義兄弟ホバブの子孫のカインから離れて、ケデシュの近くのツァアナニムの樫の木のそばで天幕を張っていた。』
(樫の木はいつも強さと関連しています)
『一方シセラは、アビノアムの子バラクがタボル山に登った、と知らされたので、シセラは鉄の戦車九百両全部と、自分といっしょにいた民をみな、ハロシェテ・ハゴイムからキション川に呼び集めた。』
(ハロシェテ・ハゴイムは異邦人の鉄または銅という意味)
『そこで、デボラはバラクに言った。「さあ、やりなさい。きょう、主があなたの手にシセラを渡
される。主はあなたの前に出て行かれるではありませんか。」それで、バラクはタボル山から下り、一万人が彼について行った。主がシセラとそのすべての戦車と、すべての陣営の者をバラクの前に剣の刃でかき乱したので、シセラは戦車から飛び降り、徒歩で逃げた。バラ クは戦車と陣営をハロシェテ・ハゴイムに追いつめた。こうして、シセラの陣営の者はみな剣の刃に倒れ、残された者はひとりもいなかった。しかし、シセラは徒歩でケニ人ヘベルの妻ヤエルの天幕に逃げて来た。ハツォルの王ヤビンとケニ人ヘベルの家とは親しかったからである。ヤエルはシセラを迎えに出て来て、彼に言った。「お立ち寄りください、ご主人さま。私のところにお立ち寄りください。ご心配には及びません。」シセラが彼女の天幕に入ったので、ヤエルは彼に毛布を掛けた。シセラはヤエルに言った。「どうか、水を少し飲ませてください。のどが渇いているから。」ヤエルは乳の皮袋をあけて、彼に飲ませ、また彼をおおった。シセラはまた彼女に言った。「天幕の入口に立っていてください。もしだれかが来て、『ここにだれかいないか』とあなたに尋ねたら、『いない』と言ってください。」だが、ヘベルの妻ヤエルは天幕の鉄のくいを取ると、手に槌を持ってそっと彼のところへ近づき、彼のこめかみに鉄のくいを打ち込んで地に刺し通した。彼は疲れていたので、熟睡していた。こうして彼は死んだ。ちょうどその時、バラクがシセラを追って来たので、ヤエルは彼を迎えに出て、言った。「さあ、あなたの捜している人をお見せしましょう。」彼がヤエルのところに来ると、そこに、シセラは倒れて死んでおり、そのこめかみには鉄のくいが刺さっていた。こ うして神はその日、イスラエル人の前でカナンの王ヤビンを服従させた。それから、イスラエル人の勢力がますますカナンの王ヤビンを圧するようになり、ついにカナンの王ヤビンを断ち滅ぼした。』(士師記 4 章 8 節-24 節)
以上が事の流れです。先にも見ましたが、男性が権威を持たず、神が女性を用いられる時、神はそれでも女性の覆いを取り去りはしません。バラクは腰ぬけであったかもしれませんが、神はそれでも頭覆い無しでデボラを用いることはありませんでした。彼女がその功績を認められたにせよです。今日も、男性が腰ぬけであるために、神が女性を用いる時、神は権威の順序を破ることはありません。
14 節ではデボラが全軍を励ましました。ですが気を付けてください。女性は正しい助言をすることと、間違った助言をすることのふたつに長けています。時にはひとりの女の人が反対のことを行います。サラを考えてみてください。サラがアブラハムにイシュマエルを作らせました。私の妻でも非常に正しい時もあれば、全く間違っている時もあります。神は確実に妻を通して語られますが、他の女性と同じくいつも感情がひとつの要素となっています。その箇所ではデボラから正しい激励が出ました。
21 節ではヤエルがシセラを殺しました。彼女はただバラクが軍隊とやって来た後にシセラに勝
ちました。ゼカリヤ 12 章には教会の勝利が書かれてあり、イエスさまは教会と共に来られます。主がご自身の軍隊と来られるまで勝利はありません。再建主義や神の国は今という教えはくだらないものです。さてここで 6 節、7 節を見てみましょう。
『あるとき、デボラは使いを送って、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せ、彼に言った。「イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか。『タボル山に進軍せよ。ナフタリ族とゼブルン族のうちから一万人を取れ。わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車と大軍とをキション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す。』」』
(士師記 4 章 6 節-7 節)
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すべてはハル・メギドで起こる
これがどこで起こったかというと、タボル山のふもとです。聖書はそこをメギドと呼んでいます。今日もその場所におもむけば遠くにタボル山が見えます。ですが、この戦いが実際に起こった場所、清算の場所はメギドです。ヘブライ語では『ハル・メギド』と言い、『メギドの丘』という意味です。『ハル・メギド』という語は間違って『アルマゲドン』と後に訳されました。それはそうとして、メギドで起こったことは、終わりの日に起ろうとしていることを私たちに教えています。聖書の中で、地理的に同じ場所で起こったことには意味があります。ルツが贖い主と呼ばれるようになった赤子をベツレヘムで生んだのには訳があります。それはイエスさまがベツレヘムで生まれたからです。
それでは黙示録を見てみましょう。
『こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。』(黙示録 16
章 16 節)
これを士師記と見比べてみると、同じ話しです。
『王たちはやって来て、戦った。そのとき、カナンの王たちは、メギドの流れのそばのタナクで戦って、銀の分捕り品を得なかった。天からは、星が下って戦った。その軌道を離れて、シセラと戦った。』(士師記 5 章 19 節-20 節)
また黙示録を見ると、
『さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、』(黙示録 12 章 7 節)
天で起っていることと、地上で起こっていることには関連性があります。ハル・メギドで起こってい
たことは天で起っていたことの写しでした。星々は天使の象徴であり、クリスチャンの象徴です。黙示録で、イエスさまは御手の中に星を持っており、それは御使いたちのことですが、アブラハムの子孫たちは天の星のようになるとも聖書は語っています。ここで士師記 5 章、デボラの歌を見てみましょう。
『農民は絶えた。イスラエルに絶えた。私、デボラが立ち、イスラエルに母として立つまでは。』(士師記 5 章 7 節)
デボラはイスラエルの母のような人物となっています。
『目ざめよ、目ざめよ。デボラ。目ざめよ、目ざめよ。歌声をあげよ。起きよ。バラク。とりこを捕らえて行け。アビノアムの子よ。』(士師記 5 章 12 節)
デボラは勝利の歌を歌いました。24 節では、『女の中で最も祝福されたのはヤエル』とあります。女の中で最も祝福された者…もうみなさん、お気づきでしょうか。敵の頭は砕かれ、マリヤが女の中で祝福された者でした。創世記には女の種が蛇の頭を砕くとあります。ここで象徴が厳密に重なり 合うわけではありませんが、二人の女性には関連があります。この二人が「女の中で祝福された」者と呼ばれました。デボラの歌、そしてマリヤに関してはルカ 1 章 42,48 節にそうあります。もうひとり
は、出エジプト 15 章 20 節から 21 節で歌を歌うモーセの姉ミリヤムです。ミリヤムという名は、イエスの母であるマリヤと同じです。
『アロンの姉、女預言者ミリヤムはタンバリンを手に取り、女たちもみなタンバリンを持って、踊りながら彼女について出て来た。ミリヤムは人々に応えて歌った。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた。」』(出エジプト 15章 20 節-21 節)
勝利と贖いをもたらしたイエスの母、ミリヤムに起こったことは、もうひとりのミリヤムにも起こりました。彼女は同じこと、勝利と贖いを語りました。そしてヤエルも勝利と贖いをもたらしました。彼らこそがシオンの娘たちです。ヤエルとデボラの歌はマリヤの前兆となっています。ミリヤムの歌もマリヤを象徴しています。これらの女性は神に従う女性を様々な側面から象徴しています。
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最終的なシオンの娘
最終的なシオンの娘は箴言 31 章に描かれています。私たちはこの箇所を一般的に妻に当て
はめますが、ミドラッシュ的にはもうひとつ深いことを語っています。
『しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。夫の心は彼女を信頼し、彼は「収益」に欠けることがない。彼女は生きながらえている間、夫に良いことをし、悪いことをしない [夫はイエスであり、花嫁は教会です] 。彼女は羊毛や亜麻を手に入れ、喜んで自分の手でそれを仕上げる。彼女は商人の舟のように、遠い所から食糧 [霊的な食糧] を運んで来る。彼女は夜明け前に起き、家の者に食事を整え、召使いの女たちに用事を言いつける。彼女は [宣教の『畑』を見るように] 畑をよく調べて、それを手に入れ、自分がかせいで、ぶどう畑を作り、腰に帯を強く引き締め、勇ましく腕をふるう。彼女は収入がよいのを味わい、そのともしびは夜になっても消えない。』
夜になってもともしびが消えなかった人は他に誰がいるでしょうか。マタイ 25 章の賢い乙女と愚かな乙女です。この箇所が妻について語りつつも、同時に教会について語っていることをお気づきになったでしょうか。患難にあっても彼女のともしびには油があります。
『彼女は悩んでいる人に手を差し出し、貧しい者に手を差し伸べる。
[これが忠実な教会です]
彼女は家の者のために雪を恐れない。家の者はみな、あわせの着物を着ているからだ。
[別訳:『緋の着物を着ている』=イザヤ 1 章 18 節に関連]
彼女は自分のための敷き物を作り、彼女の着物は亜麻布と紫色の撚り糸でできている [霊的に] 。夫は町囲みのうちで人々によく知られ、土地の長老たちとともに座に着く。彼女は亜麻布の着物を作って、売り、帯を作って、商人に渡す。彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ。彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みのおしえがある。
[教会は知恵を求めるべきです]
彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。
[彼女はなまぬるい教会ではありません]
その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言い、夫も彼女をほめたたえて言う。「しっかりしたことをする女は多いけれど、あなたはそのすべてにまさっている」と。麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。彼女の手でかせいだ実を彼女に与え、彼女のしたことを町囲みのうちでほめたたえよ。』(箴言 31 章 20 節-31節)
これがイエスさまが求めている汚れの無い花嫁です。もちろんこの箇所は理想的なクリスチャンの妻、また理想的なユダヤ人の妻にも当てはまります。しかしこの箇所は真実のシオンの娘について語っています。教会の性質は男性的ではなく、女性的です。ある面で男性のほうがイエスさまに
共感することができます。それはイエスさまが男性だからです。女性は夫を通してイエスさまを見な
い限り、ある意味で見ることができません。女性は、男性としてのイエスさまに共感できないため、夫たちを通してイエスの愛を見なければなりません。反対に男性がイエスさまを恋人としてみるなら、それはおかしな状態です。それゆえ女性がどのように夫に愛されたいと思っているか、またどのように夫を敬いたいかを見て、男性はイエスさまをどう敬うかを知る必要があります。妻を通して神が見たいと思われているものに夫はなるべきです。同じように妻も自分の夫を通して、神が何を望んでいるかを見るべきです。これは夫と妻がどちらが優れているかという問題ではなく、補い合う関係、役割の問題なのです。
このようなテーマを話す際に、私はいつも警告を付け加えています。もしみなさんが、女性であり独身、または未亡人ならば、どんな状況下であってもイエスを個人的な夫、恋人と見なしてはいけません。イエスさまはいつも集合的な花嫁の夫であり、個人的な花嫁の夫ではありません。女性が感情的に混乱に陥り、イエスを個人的な恋人と見なしてしまったために、悪霊の抑圧を受けるようにまでなった例を私は知っています。修道女が自分のことをキリストの花嫁と言い、最終的な誓いをした後、指輪をはめ、結婚式を行うのはローマ・カトリックの考えです。これは完全に偽りで、非聖書的です。ローマ・カトリック神秘家のアビラの聖テレサという人は、雅歌を性的な読み物として読み、イエスとの情事を空想していました。これは完全に間違っています。イエスの花嫁はいつも集合的なものであり、決して個人的なものではありません。
教会は箴言 31 章の花嫁にならなくてはなりません。そのような妻のために尽くさない男性はひとりとしていません。そのような女性は存在するでしょうか?キリストが戻って来られる時、主が箴言
31 章の女性以外のものを受け入れることはありません。
神の祝福がありますように。
Day Of The Lord - Japanese
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Elijah, the man who could make it rain - Japanese
エリヤ 雨を降らせることのできる者
ジェイコブ・プラッシュ
『義人の祈りは働くと、大きな力があります。エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。』(ヤコブ 5 章 16 節-18 節)
エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨を降らせることのできる者でした。この箇所を通して、聖霊が私たちに伝えようとしていることは、もし彼ができるのなら、私たちもできるということです。私たちも雨を降らせることができます。しかし、それはどのような意味なのでしょうか?
雨は聖霊が注がれることの象徴
聖書の象徴の中で、様々な種類の液体は聖霊の異なった側面を表しています。
新しいぶどう酒は、聖霊を賛美の面において象徴している液体です。もうひとつの液体は、油であり、それは聖霊が注がれることについて語っています。一方、聖書の中の生ける水 はいつでも、聖霊が降り注がれることを表しています。雨は降り注ぎ、地下水となり、湧 き水となるのです。
イエスは次のような形で説明されました。『わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。』(ヨハネ 7 章 38節-39 節)イエスは、生ける水とは聖霊が流れ出ることだとはっきりと語りました。『わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。』(イザヤ 44 章 3 節)
再び、神はかわいた地に水(雨)を注がれると言われています。そして、それは神が御霊を注がれるという意味だと言っているのです。雨とはその象徴です。
一つの町には雨を、他の町には雨を降らせない
『わたしはまた、刈り入れまでなお三か月あるのに、あなたがたには雨をとどめ、 一つの町には雨を降らせ、他の町には雨を降らせなかった。一つの畑には雨が降り、雨の降らなかった他の畑はかわききった。』(アモス 4 章 7 節)
例えばなぜラインハルト・ボンケ(Reinhard Bonnke)がアフリカで説教するとひとつの集 会で、何万人もの人が救われるのに、彼がドイツやイギリス、オーストラリアに行っても、大したことは起こらないのでしょうか。その答えはこのアモス 4 章 7 節にあります。神は 一つの町には雨を降らせ、他の町には降らせないのです。そして、雨が降らなかった町に 収穫は来ません。
御霊の注ぎに関して、神は恵みをみこころのままに与えます。ブラジル、韓国、インドネシア、フィリピン、アフリカの多くの地に雨は降り注いでいます。しかし、500 年間聖書を持っていた西洋のプロテスタントの国々は、今はかわききっています。神はその恵みを裕福な国から、貧しい国へと移されました。
白人によるプロテスタント系キリスト教は、数において、道徳面において、財政面において、神学的にも、霊的にも世界中で減退しています。
カトリック教国や黒色人種の国、オリーブ色の肌をした民族の国々、黄色人種の国で教会は増えつつあります。イギリス国教会は大幅に減退しています。それに対して、アフリカの聖公会(英国国教会)の多くの主教たちは大胆な福音伝道者です(デズモンド・ツツ
(Desmond Tutu)主教は聖公会の中での目立った例外的存在です)。アフリカの聖公会はナイジェリアにおいて、イスラム教徒からひどく迫害を受けています。アジア全域にわたって、聖公会はとても生き生きとしています。しかし、本国イギリスの聖公会は生命力の無い教会です。昔オーストラリアのサンシャイン・リバイバル(Sunshine Revival)、カリフォルニアのアズサ・ストリートのリバイバル(Azusa Street Revival)、スミス・ウィグルスワース(Smith Wigglesworth)に導かれたイギリスでのサンダーランド・リバイバル
(Sunderland Revivals)、それらの場所で注がれた火は、今エクアドルやチリ、フィリピン、インドネシア、ケニアのような場所で注がれているのです。神は一つの町には雨を降らせ、雨の降らない他の町はかわききるのです。今日、教会成長のための秘訣のようなものを教えている人々がいます。しかしそのようなものは無意味であり、何も変えることは出来ません。神の主権による恵みという要素が欠けているのです。御霊が注がれなければなりません。
神のことばは無駄に帰ってくることがありません。ここにひとりあそこにひとりというよ
うにある人々は救われますが、大量の収穫を得るのに雨が無ければ、穀物は実らないのです!しかし、エリヤは雨を降らせることのできる者でした。そして、私たちと同じような人であったのです。言い換えると、彼ができるのなら、私たちもできるということです。
父たちのため、また彼の御名のため
私は確信を持って言えるのですが、イエスが戻られる前に、神は西洋のプロテスタント民主主義にもう一度悔い改める機会を与えたいと願っておられます。それは私たちのためではなく、彼の御名のためです。私たちがそれを受けるに値するからではありません。私たちの教会は大きな規模で堕落しているのでふさわしくないのですが、それは私たちの父たちのためなのです。
ローマ 11 章で言われているように、神はイエスが再臨するこの世の終わりにおいて、ユダヤ人にもう一つのチャンスを与えようとされています。なぜなのでしょうか?それは、神がイスラエルを見るとき、ただイスラエルの罪、自分たちのメシアを拒否し続けていることだけではなく、神の目からは、エレミヤがまだ牢獄に閉じ込められ、イザヤがマナセ王によってのこぎりで半分に切られ、ゼカリヤが神殿で殺され、バプテスマのヨハネの首がはねられたときのように見えているからです。そして、神は言われます。「彼らの父たちのために、わたしはこの国にもうひとつのチャンスを与えよう」。
イギリスに対してもそうです。神がイギリスを見られるとき、ただ今日の状態だけを見てはおられません。この名ばかりのキリスト教国では、カンタベリー大聖堂でヒンドゥー教の神々が礼拝され、一方、主教たちは復活と処女懐胎を否定しているのです。
神が現代のイギリスを見られるとき、過去、現在、未来のすべてを見られます。その目は、ジョン・バニヤンがベッドフォードの牢獄の壁に 12 年間つながれ「天路歴程」を書いてい るのを見、国教会によって扇動された暴徒に石を投げられていたジョン・ウェスレーを見、また、私たちが英語で聖書を読めるようにと努力したティンデールがローマ教会によって 生きたまま焼かれるのを見ています。その他にも、神はチャールズ・ハッドン・スポルジ ョンを見ています。またリドリー(Ridley)やラティマー(Latimer)、フーパー(Hooper)などのイギリスの殉教者たちを見ています。そのため、神は言われるのです。「彼らの父 たちのため、そして私の御名のため。私はこの国にもう一度チャンスを与えよう」
これはアメリカに関しても同様に真実です。神の目は未だにジョナサン・エドワーズや
D・L・ムーディー、ハリー・アイロンサイド(Harry Ironside)を見ています。神は忠実なクリスチャンを見ておられます。神は今日あるような、繁栄だけを約束する説教者、拝金主義者たちや異端者たちだけを見てはおられないのです。
神はこれらの西洋プロテスタントの国々にもう一度、悔い改める機会を与えたいのです。しかし、彼らがその機会を得るためには、雨が降らなくてはなりません。
まず初めに、私たちが干ばつの中にいるという事実を認めなくてはなりません。そして、この干ばつが終わるまで、この世のすべての試みは教会に悔い改めとリバイバルをもたらすことはありません。雨が必要なのです。雨が無ければ穀物は実りません。雨が無ければ収穫は来ません。エリヤは私たちのような人でしたが、雨を降らせることのできる者でした。そして、今日、神は私たちのような雨を降らせることのできる男女を探しておられます。
『ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕え ているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」それから、彼に次のような主のことばが あった。「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身 を隠せ。そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであな たを養うように命じた。」
それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。すると、彼に次のような主のことばがあった。「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」
彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私
の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」
エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」
彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。これらのことがあって後、この家の主婦の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。彼女はエリヤに言った。「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」
彼は彼女に、「あなたの息子を私によこしなさい」と言って、その子を彼女のふところから受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋にかかえて上がり、その子を自分の寝台の上に横たえた。彼は主に祈って言った。「私の神、主よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」そして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、主に祈って言った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った。そこで、エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に降りて来て、その子の母親に渡した。そして、エリヤは言った。「ご覧、あなたの息子は生きている。」その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」
それから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。
「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」そこで、エリヤはアハブに会いに出かけた。そのころ、サマリヤではききんがひどかった。』(1列王記
17 章 1 節-18 章 2 節)
『アハブがエリヤを見るや、アハブは彼に言った。「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。」』(1列王記 18 章 17 節)
『そこでエリヤは彼らに命じた。「バアルの預言者たちを捕らえよ。ひとりものが
すな。」彼らがバアルの預言者たちを捕らえると、エリヤは彼らをキション川に連
れて下り、そこで彼らを殺した。それから、エリヤはアハブに言った。「上って行って飲み食いしなさい。激しい大雨の音がするから。」そこで、アハブは飲み食いするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。それから、彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」若い者 は上って、見て来て、「何もありません」と言った。すると、エリヤが言った。「七たびくり返しなさい。」七度目に彼は、
「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海から上っています」と言った。それでエリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。アハブは車に乗ってイズレエルへ行った。主の手がエリヤの上に下ったので、彼は腰をからげてイズレエルの入口までアハブの前を走って行った。』(1 列王記 18 章 40 節-46 節)
雨はとても激しく降り注ぎました。
重要な背景情報
三年半の間雨が降らなかったということは、ダニエル書と黙示録に言及されている三年半の期間の象徴です。世の終わりに御霊は注がれなくなります。これは終末に起こることの予型であり、預言者マラキが予告したように、エリヤの霊が何らかのかたちで戻ってくるときに起こることです(マラキ 4 章 5 節)。
同様に、エリヤが異邦人の女とその息子を助けたことは、神が何らかの方法を用いて、エリヤの霊を使って、異邦人の教会を世の終わりに守られることを示しています。
エリヤとエリシャ、それにバプテスマのヨハネはみな同じ霊を持っていました。主はモーセに向かって、『あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。』(民数記 11
章 17 節)と言われました。
同じ地理的な場所で起こった複数の出来事は、多くの場合、霊的または神学的につながりがあることを意味しています。エリヤの奉仕はエリコの平原で終わりました。そこで、エリシャは彼の(権威を意味するものである)上着を取り、またバプテスマのヨハネの奉仕はその同じ場所で行われました。邪悪な女であるイゼベルは、黙示録に出てくるイゼベルのように、偽りの宗教の霊の象徴です。彼女は王や政治的な権威を自分が操ることのできるようにしました。彼女は、アハブに代わって、彼の欲しがっていたナボテのぶどう畑を
奪いました(1列王記 21 章)。聖書の中で、ぶどう畑はイスラエル、ひいては教会について語っています。邪悪な女は王のためにぶどう畑を取り上げようとしました。このことによって、エリヤは彼女との争いに巻き込まれ、彼女はエリヤを滅ぼすために王を説得しました。これはヘロデヤの話(マタイ 14 章 3 節-12 節)と全く同じことであり、邪悪な女が“エリヤ”(バプテスマのヨハネ)に対して王を敵対させたのです。
聖書の中での全ての邪悪な女は何らかのかたちで、黙示録に出てくる邪悪な女の特徴を示しています。エリヤとの争いは終わりの時代において繰り返されようとしているのです。
なぜ雨が止まったのか?
神がどのようにしてエリヤを用い、雨を降らせる者へと変えたかを学ぶにあたって、最初に考えるべきことは、なぜ雨が止まったのかということです。雨は神の民の罪のために止まりました。西洋プロテスタント諸国(他の日本のような国々)に聖霊が降り注がれないのは、罪のため、エリヤの時代のイスラエルと同じような罪があるためです。
妊娠中絶は、旧約のイスラエルとユダにおいて、子どもたちが悪霊に捧げられていたのと同じことです。他の神々に対しての礼拝――バアルの祭司たちは外国人ではなく、ユダヤ人でした。今日でも同じことです。西洋プロテスタント世界のいたる所で、イスラム、ニューエイジ、ヒンドゥー教など、他の神々を拝むということが劇的に増加しています。ニューエイジは多くの福音派やペンテコステ派の教会に浸透しています。人々はキリスト教と異教を混ぜ合わせ――ローマ・カトリックはそこから生まれたのですが――今日もそのようなことが多くのペンテコステ派の教会で起こっています。
物質主義――教会はなまぬるく、物質主義的であり、おかしな教理で満たされています。人の考える“信仰”は聖書的でなくなり、クリスチャンであるように見せかけ、お金を拝んでいます。貪欲がキリスト教に変装しているのです。
これらのことのために雨は止まりました。何よりもまず、西洋文明の減退の責任はこの世にあるのではなく、私たちにあります。雨を止めたのは神の民の罪なのです。私たちの社会に蔓延する――薬物、中絶、離婚、暴力、犯罪などのすべては、教会の失敗を証言しています。
神の民は妥協してしまい、その結果、最終的にイスラエルの中はバアルの祭司であふれたのです。これがエリヤの時代に起こったことであり、今日起こっていることです。私たちの国々には雨は降っていません。それは神の民の罪のためです。
ケリテ
神がエリヤに最初に言われたことは、ヨルダン川の東にあるケリテ川に行き、そこでカラスにパンを与えられるということでした(1列王 17 章 3 節)。
ケリテはヨルダンの向こう側にあります。神がエリヤにこの地を去ってケリテに行けと言われたとき、エリヤに彼の国民性や文化的アイデンティティー、故郷の快適さを捨てろと言われたのです。それに加えて、カラスがパンを運んで来ました。カラスは「コシェル
(kosher)=律法にかなったもの」ではなく、“汚れている”鳥でした。神はエリヤが思いつきもしないような方法で、彼を養おうとされたのです。
今日の西洋では干ばつがとても厳しいので、雨を降らせる人々はケリテに行くことをよしとしければならないのです
それはときには、妥協してしまった伝統的な教派を教会が離れることを意味しているかもしれません。ときには、妥協し、誤りに陥り、悔い改めることを拒んでいる教会を、クリスチャンが離れるということを意味するでしょう。そして確かにそれが意味していることは、私たちが考えもしないような方法・場所で必要を満たしてくださる神に信頼するということです。たとえそれが、カラスのような、私たちが全く聖いと思わないものを通してであってもです。エリヤは神を第一優先にし、自分の土地を第二にすることを心に決めなければなりませんでした(これは日本において特に真実です。日本人の人と争わないという伝統のために、ほとんどのクリスチャンは福音を伝えるとき大胆に社会の罪を明らかにしません。また教会の中の罪も公に非難しません。日本社会での主な罪である性的不品行、教会の中での学歴についての誇り、それらが罪であると詳しく指摘されるのを最近いつ聞いたでしょうか。日本のクリスチャンが雨を降らせたいのなら、このような罪に対して公に立ち上がって反対する必要があります)。今日ある大抵の問題は、人々が彼らの土地―
―文化やアイデンティティー、教派、それに教派に対しての忠誠心――を神のことばへの
服従の前に置いてしまうことにあります。
しかし、雨を降らせるような人々は、ケリテに行き神を信頼することを恐れてはならないのです
ツァレファテ
夜明けの直前が一番暗いものです。物事は良くなる前にもっと悪くなります。ケリテ川は
次第にかわいていくのです。
9 節を見ると、エリヤはツァレファテと呼ばれる場所に、行かなければならなかったとあります。ツァレファテという言葉は、「焼く」または「火できよめる」という意味のヘブライ語の語幹から来ています。私たちのような者を用いて、雨を降らせる者へと変えるには、神はその者たちを火できよめなければならないのです。
これからはとても困難な期間になるでしょう。ただ試練や試み、干ばつ、迫害だけではなく、それらが合わさったものとなるのです。そして、それはツェレファテのやもめのように、自分が助けようとしていた者が裏切られたと考えてしまう段階まで達するでしょう。
しかし、いくら状況が悪くなり、暗いものとなり、干ばつが激しくなっても、私はふたつのことを約束することが出来ます。きよめられたいと願う者のかめの粉は尽きず、つぼの油はなくなることはありません。物事は打開されるまでは悪くなるものです。しかし、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならないのです。あなたは、何があっても、神のことばと聖霊の油注ぎに欠けることはありません。他の者たちが飢饉で死んでいく中、あなたの穀物と油は尽きないのです。
古い皮袋は破れる
『彼女はエリヤに言った。「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」』(1列王記 17 章 18 節)
彼女の息子は死に、そのためにエリヤを非難しました。あなたが助けようとしたまさにその人が困難に会い、あなたを非難するようになります。状況はとても長い間悪いものとなって、私たちが愛しているものは復活する前に、死ななければならなくなるのです。
西洋世界の大半の教会は、復活する前に死ななければなりません。新しいぶどう酒は古い皮袋には合いません。これがカリスマ派運動にある問題のひとつです。彼らは古い皮袋に新しいぶどう酒を蓄えようとしているのです。ある教会を改善するためには古い皮袋を取り替えなければなりません。私たちの愛しているほとんどのものは復活する前に死ななければならないのです。
イスラエルを煩わす者
『これはおまえか。イスラエルを煩わすもの』(1列王記 18 章 17 節)教会を煩わすものはあなたですか?バプテスト連合を煩わすものはあなたですか?アッセンブリーズ・オブ・ゴッドを煩わすものはあなたですか?
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エキュメニズム(キリスト教統一運動)や、「神の国はいまここに(Kingdom Now)」、
「繁栄の信仰(Faith Prosperity)」、「名を挙げて要求すること(Name It and Claim It)」などに対して、立ち上がって反対している者!
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目的に導かれたキリスト教に立ち上がって反対している者!
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お客様向けの教会(傷付けないように罪を指摘しない教会)に立ち上がって反対している者!
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イスラエルを煩わす者!
エリヤはこれらのことを言われたのであって、もし、雨を降らせたいなら、あなたもこれらのことを言われるのです。
次に彼らはカルメル山に行きます。そこでイゼベルと対立が起こります。それは偽りの宗教の霊との争いであり、ローマ・カトリック、エキュメニズム、イスラム、同性愛、不品行、教会内にあるキリスト教のふりをした心理学、中絶やニューエイジなどに対しての争いです。そこには対立があり、その対立の中で勝利を得るのは、ツァレファテにおいてきよめられた者です。
私たちが今日“カリスマ派的な礼拝”と呼ぶものの大半は、騒がしく、わめき散らし、狂乱状態になり、熱狂しているものであって、カルメル山にいたエリヤよりも、バアルの祭司たちによく似ています。注目すべきなのは、彼らはそれがうまくいくと思い、答えが得られると考えていたということです。
※編集者注
(ジェイコブはここで、トロント(カナダ)やペンサコーラ(アメリカ)などの賛美礼拝において一般的に見られた動物のまねや体が震えること、自制を欠くことなどを語っています。この現象は世界中に広がり、西洋のカリスマ派教会において顕著になりました。これらのものは“トロント・ブレッシング”といって、世界中で人気を得ているテレビを使った礼拝の中で、ロドニー・ハワード・ブラウン、ケネス・コープランド、ベニー・ヒンなどが勧めた“笑いのリバイバル”というものから由来しています。最近ではそれはフロリダ・レイクランドのリバイバルで暴力という形をもって現われました。その“リバイバル”の指導者であったトッド・ベントリーは“御霊によって”人々を実際足で蹴りました。それが世界中の主要なカリスマ派の指導者たちによって支持されていたにも関わらず、ト
ッド・ベントリーは結局、姦淫と離婚の不祥事に陥り、リバイバルは突然終焉を迎えたの
です)
今日、エキュメニズムや“神の国は今ここに”という教理、再建主義に陥っている兄弟たちは非聖書的で間違った危険な教理、偽りと起こるはずのない預言を信じています。しかし、そこに対立は生じ、人々はだれが真実の預言者であるかを理解します。
雨雲
それは小さなことから始まります。最初は何も起こらないかのように見えます。「どこにあるのですか?」と言いたくなるようなものです。
バアルの祭司たちはみな大言壮語を言い、横柄であり、声を大きく上げ、偽りの者たちでした。しかし、神はそのような方法では働かれません。小さなことから始めるのです。人の手のひらほどの小さな雲が海から上ってきました。いつもそのように始まります。しかしそれはすぐ大きくなり、雨雲は空を覆いつくすほどになります。稲妻が光り、神の霊は注がれます。そして、どしゃぶりの激しい大雨となるのです。
自分の責任
西洋のキリスト教の衰退を止めるのに簡単な方法はありません。あまりにも長い間ひどいものだったからです。私たちは自分たちのリーダーたちに裏切られてきました。この世のすべての計画、ごまかし、策略はたましいの収穫をもたらすことはありません。雨が必要なのです。しかしそれは止まってしまいました。
どうしてなのでしょうか?社会の罪の影響も部分的にはありますが、主に教会の罪が原因です。そして、教会に悔い改めが起こらない限り、世の悔い改めも起こりはしません。
なぜ、雨は止まってしまったのでしょうか?それは第一に、ポルノや売春業者、売春婦、 麻薬密売人、同性愛者、妊娠中絶をする人たちの責任ではありません。それは第一に、私 の責任です。なぜなら、私は真理を知っていて、そのメッセージは違いを生み出すことが できるからです。それは私たちの責任です。西洋の教会はラオデキヤであるからです(黙 示録 3 章 17 節)。私たちがイエスよりも自分の生活、この世に頼みを置いているためです。雨が止まったのは私の罪のためであり、あなたの罪のためです
雨を降らせる者たち
雨を降らせることのできる者たちは、ケリテに行くことを恐れない――文化や団体に縛ら
れない者です。それらの者は、古い皮袋に新しいぶどう酒を入れようとしません。彼らは神が言われたことを行い、自らの考えに頼らず、与えてくださる神に信頼するのです。
それらの者はきよめられることを恐れずに、ツァレファテに向かいます。そして、自分の愛していたものが死ななければならないことを理解し、またそれらは清くよみがえらされることを知っています。それは困難なことです。しかし、どんなに困難であろうとそれを行う者のかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならないということは確かです。
そして、きよめられた者はカルメルに行き、イゼベルの前――フリーメーソンや同性愛、ローマ・カトリック、イスラムなどの偽りの宗教の前に立ちます。彼らは、バアルの預言者の前――福音の奉仕者と自ら名乗りながら、偽りの教えに妥協している者たちの前に立ちます。
そこでは対立が生じるのです。そして、イスラエルを煩わす者が勝利を得ます。
Ezekiel 8 9 - Japanese
エゼキエル 8 章 9 章
ジェイムズ・ジェイコブ・プラッシュ
エゼキエルとはヘブライ語で、「神の力によって」という意味です。彼の奉仕はまさに、ただ神の力によって実行されたものでした。預言者たちの名前は大抵の場合、神が定めたその人の奉仕の特徴を描き、表現しています。
エゼキエルは、初めイザヤによって預言され、後にエレミヤが預言したバビロン捕囚の到来の直後に登場しました。それは最終的にエゼキエルの時代に始まったのです。民が悔い改めなければ来ると言われていた、その裁きが実際に始まっていたのです。それははっきりと神の裁きとして始まったのですが、人々はそれを神の裁きではないと否定していました。すべてのことが行き詰っていましたが、人々は勝利が来ると主張し続けていたのです。これは今日の状態に似ています。『勢いのある教会(The Unstoppable Church)』(より正確に今の状態を言い表すなら“勢いのあるモスク”ですが)というような本があったりします。彼らの体は実際には重病にかかっているのに、自分の体に対して嘘を付いているようなものなのです。人々は単純に、事実に目を向けたがりません。イザヤやエレミヤが最初から現実に起こると予告していたことを、認めたがらないのです。
エゼキエルは神の裁きは継続し、ますます悪くなると予告しました。その理由は民の罪が継続し、さらに悪くなっていたからです。彼らは神の裁きが来ているのを見ても、悔い改めることをしなかったのです。また、このことは黙示録の中でもほのめかされています。神の裁きが頻繁になり、激しくなってきても、人は心をかたくなにし、神を呪い、罪にとどまったとあります。エゼキエルの時代にもそうであり、終わりの時代にもそうなるのです。エゼキエルは黙示録と深い関連があり、同じことを示しています。
エゼキエル 9 章 4 節『主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」』裁きが始まる前に、神の家、神の町の中で行われている忌みきうべきものを見る人たちがいます。また、神は言われます。「本当に私のものである者たちにしるしをつけよ。間違っていることを見て、何が間違っているかを理解し、嘆いている者にしるしをつけよ。裁きが来る前にしるしをつけるのだ。」
『また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上っ
て来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫ん
で言った。「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」』(黙示録 7 章 2 節-3 節)黙示録 13 章に至っては、獣のしるしに関して書かれており、主の与えられるしるしと獣のしるしは、互いに排他的であるということが分かります。
歴史と考古学によって、エゼキエルで言われているしるしはヘブライ語の「トブ(tov)」という文字であったことが知られています。今日、ヘブライ語のトブという文字は H
に足が付いたような形に書かれます。しかし、捕囚以前のイスラエルでは傾いた十字のように書かれていて、おそらくその原型は直立の十字でした。したがって、エゼキエルの時代の神のしるしは実際に十字架のしるしだったのです。
黙示録 9 章 4 節『そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。』もう一度、神の裁きが来る前に彼の民にはしるしがつけられます。教会は患難に入りますが、その最も酷い状況からは救い出されるのです。しかしながら、その中のある時期は耐え忍び、主にしるしをつけられ、何らかのかたちで守られるのです。終末に登場する 14 万 4 千人の奉仕者たちは、確実に主のしるしを持っています。イスラエルの子孫たちはエジプトにおいて裁きの大半を経験しました。出エジプトで記されている同じ裁きがこの世の終わりに再現されます。そして、それは黙示録で起こることの主な予型なのです。暗闇や水を打つことなどがそうです。ヘブライ人たちはある部分は経験しましたが、最も酷い中からは救い出されました。それと同じことが世の終わりにも起こります。神はご自分の民にしるしをつけるのです。
主のしるしという考えは、もちろん黙示録から始まったことではなく、エゼキエルですらなく、トーラーからであり、出エジプトで言及されています。出エジプト 13 章 9 節『これをあなたの手の上のしるしとし、またあなたの額の上の記念としなさい。それは主のおしえがあなたの口にあるためであり、主が力強い御手で、あなたをエジプトから連れ出されたからである。』
エゼキエルに戻ってみましょう。裁きがやって来る前に、忌みきらうべきものとその悪とを見て、嘆く者たちは―その心が真実に神のものとなっている者たちは―十字架のしるしが付けられました。また黙示録では、忌みきらうべきものを見て、嘆く者たちに十字架のしるしがつけられるのです。
エゼキエルの時代にその裁きは始まっていました。捕囚が開始されていたにもかかわらず、
民は「ああ、ただ私たちは一時的に痛手を負っているだけだ。長続きはしない。」と言って
いましたが、実際は、ネブカドネザルはユダヤを 4 回に分けて侵攻し、その度に結果はひどいものとなっていたのです。それはあたかも悪の波が次々と来るように、先にあったものより悪くなるのです。そのように神の裁きは来ます。しかし、神の民はしるしがつけられます。彼らは真実に神のものなのです。
エゼキエルの幻は主に神殿周辺に関してでした。エゼキエル 47 章は千年王国の幻であり、ヘブライ語で「シムカ・ベイト・ハ・ショイバー(Simchat beit Ha Shoyivah)」と呼ばれる神殿の丘で水を注ぎ出す儀式を背景にしています。それはハ・スコット(Ha Succoth)と呼ばれる仮庵祭が祝われていたときでした。ヨハネ 7 章もこのことを示唆していて、その意味はいつも千年王国についてでした。
私はニューエイジ“クリスチャン”であるパトリック・ディクソン(Patrick Dixon)が意識の変化した状態について話しているのを聞きました。彼が言うには、聖書の中でいつも神の臨在が現れるとき、人々は理性を失い、普段とは違った意識に入ると言っていました。これはトロント・ブレッシング(Toronto Blessing)などを受け入れることが出来るという彼の弁護なのです。その例として、彼はペテロがイエスの山で姿が変わったことを取り上げ、彼は幕屋を作りたいという愚かで、おかしなことを考えたと言っています。ディクソンはそれをばかげたことと考えているのです。私は彼に次のことを示し、それは何もばかげたことではないと指摘しました。つまりペテロはその変貌が、ユダヤ人の祭りである仮庵祭のメシアによる成就だと考えていたのです。モーセとエリヤがメシアと共にその姿が変えられたので、何もばかげたことではなく、ペテロはそれが千年王国の到来だと考えたのです。明らかにディクソンはこのことを一度も考えたことがないようでした。その文脈において、ペテロの行為は全く理性的なものだったのです。彼は私に「どうしてそう言えるのか?あなたはそこにいたのか?ペテロと話したことがあるのか?」という質問をもって答えてきました。私はそれに対して、「私は第二神殿期の仮庵祭のメシア的な象徴がどのようであったかを知っている」と言いました。これに対してはディクソンも返す言葉が無かったようでした。このように現代はどうしても、さまざまな毒が大きな釜に入っているような状態なのです。
エゼキエルの神殿:「神殿の象徴(The Typology of the Temple)」のテープでは、ギリシヤ語とヘブライ語において少なくとも七箇所で“神殿”に関する単語、ナオス(naos)、オイコス
(oikos)、ヒエロン(hieron)、べト・ミシュカン(beth mishkan)、ベト・ミグダシュ(beth
migdash)、ハ・ヘカル(Ha Hekal)、これらが色々な箇所で教会の象徴として用いられていることを詳しく教えています。そして例えば、1ペテロ 2 章 5 節では『あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。』とあり、コリント人への手紙では教会は神殿
と呼ばれており、エペソ人への手紙の 2 章・4 章では神殿は教会の象徴です。また、使徒の働きではダビデの幕屋を建て直すことが語られていて、それはアモス書の『その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。』(9 章 11 節)という箇所の引用です。新約聖書は少なくとも、これは部分的に異邦人の教会において成就されたと明らかにしています。また、反キリストについてのテープでは、荒らす憎むべき者に関して語っており、ダニエル書で語られた至聖所である聖なる場所に、彼が立つことについてです。このことは歴史の中のいくつかの時点で部分的に成就されました。その最も顕著な例がアンティオコス・エピファネス (Antiochus Epiphanes) によって成就されたときです。またこのことも「ハヌカー
(Hanukah)」のテープに収録されています。
エルサレムに神殿が再建され、憎むべきものがそこに建てられるとしても、それが物理的な神殿に関して起こることですが、それはただ霊的に起ころうとしていることの反映でしかないのです。イエスが十字架上で死んだとき、神殿の幕は上から下に裂けました。このことは罪深い人間と聖い神との隔たりが、もはや無くなったことを示しています。物理的な奇跡はその物理的な神殿で起こりました。しかし、それは一番大切なことではありません。一番大切なことはその奇跡が象徴していることです。私たちの大祭司であるイェシュアが罪のためにささげられたために、人間はもはや神から離れてはいないのです。したがって、荒らす憎むべき者についてもその通りです。憎むべきものが何らかの形で神殿に建て上げられるとしても―私はそれが実際に起こることを確信していますが―それはただ単に霊的に起こることの前兆なのです。反キリストは神の家で礼拝されたがります。このことは反キリストについてのテープで扱われています。そこではアラム語での荒らす憎むべき者について説明しています。
エゼキエルは主の家で忌みきらうべきことを見ました。もう一度、8 章 1 節から始まる 2
章を読んでみましょう:
『第六年の第六の月の五日、私が自分の家にすわっていて、ユダの長老たちも私の前にすわっていたとき、神である主の御手が私の上に下った。私が見ると、火のように見える姿があった。その腰と見える所から下のほうは火で、その腰から上のほうは青銅の輝きのように輝いて見えた。すると、その方は手の形をしたものを伸ばし、私の髪のふさをつかんだ。すると、霊が私を地と天との間に持ち上げ、神々しい幻のうちに私をエルサレムへ携え行き、ねたみを引き起こすねたみの偶像のある、北に面する内庭の門の入口に連れて行った。なんと、そこには、私がかつて谷間で見た姿と同じようなイスラエルの神の栄光があった。その方は私に仰せられた。「人の子よ。さあ、目を上げて北のほうを見よ。」(災いはいつも北からやって来ます)そこで、私が目を上げて北のほうを見ると、北のほうの祭壇の門の入口にねたみの偶像があった。』(8 章 1 節-5 節)
“人の子”とは終末的な称号であり、他のすべての預言者たちと同じく、イエスを何らか
の形で示しています。イエスは終わりの時代に関して神の子とは一度も呼ばれませんでした。彼の再臨について語られているとき、それはいつも人の子がやって来ると書かれています。
『この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは彼らのしていることが見えるか。イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌みきらうべきことをしているではないか。あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」』(8 章 6 節)
またここにおいても、荒らす憎むべき者が示唆されています。
『それから、この方は私を庭の入口に連れて行った。私が見ると、壁に一つの穴があった。この方は私に仰せられた。「人の子よ。さあ、壁に穴をあけて通り抜けよ。」私が壁に穴をあけて通り抜けると、一つの入口があった。この方は私に仰せられた。「入って行き、彼らがそこでしている悪い忌みきらうべきことを見よ。」私が入って行って見ると、なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていた。また、イスラエルの家の七十人の長老が、その前に立っており、その中にはシャファンの子ヤアザヌヤも立っていて――彼は名前をも明らかにします!――、彼らはみなその手に香炉を持ち、その香の濃い雲が立ち上っていた。この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行なっていることを見たか。彼らは、『主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた』と言っている。」さらに、私に仰せられた。「あなたはなおまた、彼らが行なっている大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」ついでこの方は私を、主の宮の北の門の入口へ連れて行った。するとそこには、女たちがタンムズのために泣きながらすわっていた。この方は私に仰せられた。「人の子よ。これを見たであろうが、あなたはなおまた、これよりも大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」そして、この方は私を主の宮の内庭に連れて行った。』(8 章 7 節-16 節)
旧約聖書の中では、神の宮を進んで行くにつれてさらに聖い場所に至ります。
『すると、主の宮の本堂の入口の玄関と祭壇との間に二十五人ばかりの人がおり、彼らは主の宮の本堂に背を向け、顔を東のほうに向けて、東のほうの太陽を拝んでいた。この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたはこれを見たか。ユダの家にとって、彼らがここでしているような忌みきらうべきことをするのは、ささいなことだろうか。彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている。見よ。彼らはぶどうのつるを自分たちの鼻にさしている。だから、わたしも憤って事を行なう。わたしは惜しまず、あわれまない。彼らがわたしの耳に大声で叫んでも、わたしは彼らの言うこと
を聞かない。」この方は私の耳に大声で叫んで仰せられた。「この町を罰する者たちよ。
おのおの破壊する武器を手に持って近づいて来い。」見ると、六人の男が、おのおの打ちこわす武器を手に持って、北に面する上の門を通ってやって来た。もうひとりの人が亜麻布の衣を着、腰には書記の筆入れをつけて、彼らの中にいた。彼らは入って来て、青銅の祭壇のそばに立った。』―青銅の祭壇は十字架の象徴です―『そのとき、ケルブの上にあったイスラエルの神の栄光が、ケルブから立ち上り、神殿の敷居へ向かった。それから、腰に書記の筆入れをつけ、亜麻布の衣を着ている者を呼び寄せて、主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」また、私が聞いていると、ほかの者たちに、こう仰せられた。「彼のあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ。惜しんではならない、あわれんではならない。』(エゼキエル 8 章 16 節-
9 章 5 節)
神はご自分の民に害を及ぼすことを許しませんでした。また、彼はご自分の者にはしるしをつけ、残りの者は打てと命じました。黙示録では、木々に害を加えないように命じられています。―『野の木々もみな、手を打ち鳴らす。』(イザヤ 55 章 1 節-2 節)―木々は神の民を象徴しています。これがエゼキエルでも起こったことなのです。
神はエゼキエルを取り、忌みきらうべきことを次々に見せました。それはますます悪くなるばかりでした。彼が最初に見た忌みきらうべきことに注目してみましょう:ねたみの偶像、主の家での偶像礼拝です。ヘブライ語での「礼拝する」という言葉は「ヒシャタクヴァー(hishtakvya)」といい、不定詞では「ヒスタカヴォート(Histachavot)」すなわち「ひれ伏す」ということです。誰でも像や彫られた偶像の前にひれ伏し、拝むならそれは偶像礼拝です。ハイ・カトリックやローマ・カトリック、これらのものは偶像礼拝です。
この話は次のように始まりました。神はエゼキエルを天と地の間に持ち上げて、「見よ。今あなたは天から、わたしが見るように見ている。彼らがわたしの家、わが聖所、会見の場所でしていることを見たか。」と言いました。エゼキエルはそれを見て、驚きました。しかし、神はエゼキエルに「これがわたしの家、わが聖所での偶像礼拝である。しかし、人の子よ、あなたはさらに忌みきらうべきものを見ることとなる。」と言われます。その後神は神殿の中へとさらに奥へと彼を導かれます。そこでは、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていたのです。ここでの
「忌むべき」とはヘブライ語で「シェケツィム(shektzim)」というもので、異邦人女性を軽蔑した言い方の「シクセー(shikseh)」という言葉はこれから来ています。黙示録において、サタンにはふたつの攻撃する形態があると、私が言っているのを聞いたことがあるでしょうか。蛇と竜です。竜は迫害者としてのサタンです。また、蛇とは欺くものとしてのサタンです。これらのはうものも「シェケツィム」と呼ばれ、それは「ねばねばした爬虫類」
という意味です。それらは古代中近東で行われていたヘビ崇拝などから来た悪魔の象徴で
すが、インドの西部に至るまでヘビ崇拝が行われています。荒らす忌むべき者はそこから取られたものです。主の家の中にいる悪霊:この時点でただの偶像礼拝が、明らかな悪霊崇拝になっていくのです。
しかし、神はそれからエゼキエルに言われます。「あなたはさらに悪いものを見ることになる。わたしの家でさらに忌みきらうべきものを見るのだ、人の子よ!」そして神は宗教指導者たち―レビ人やコヘニム(cohenim)などの“牧者たち”―をあちらこちらで名指しで呼びます。また彼はシャファンの子ヤアザヌヤが彼らの内に立っていたと書いています。そこにいるべきではない人々、いるはずのない人々が香を持ってそこにいるのです。香は聖徒の祈りを象徴しています。しかし、それらの祈りは本当の神にはささげられていないのです。彼らは真実の神を礼拝していません。パウロは1テモテ・2テモテにおいて、ヨハネは3ヨハネにおいて、信者たちを過ちに引き込もうとする指導者たちの名前を公に挙げました。使徒と預言者たちはためらうことなく、そのような者たちの名を明らかにしたのです。
このエゼキエルの箇所において、偶像礼拝が行われており、明らかな悪魔崇拝があり、また神の指導者たちが民をそこに引き込んでいました。神は主の家でそのように指導者たちが悪事に加担することは、何にも増してひどく忌みきらうべきことであると宣言しています。
『あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。』その次に神がエゼキエルに見せられたのはタンムズ礼拝でした。タンムズは乳飲み子の神であり、彼の母であるマドンナに抱きかかえられていました。ローマ・カトリックのマドンナと子どもという考えは、タンムズ礼拝をカトリック化したものです。そうでしかありません。エレミヤ 44 章では、女たちが天の女王のためにパン菓子を焼いている光景に出くわします。これはカトリックのマリア崇拝と同じものです。タンムズに関して言うと、イエスは無力な幼児として描かれ、一方でその母は力のある独立した大人として表現されています。このような考えのもと、マリアが私たちの共通の贖い主であり、共通の仲介者であり、共通の救い主であるとカトリックは主張しているのです。彼女は今まで存在した女性の中で最も偉大であることは事実です。しかし、彼女自身、救い主が必要であると言いました。
『あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。』そう神はエゼキエルに言いました。
『人の子よ。あなたは彼らのしていることが見えるか。』まず、それはねたみの偶像であり、
次に悪霊でした。その次に指導者たちが手をつけたものとは―より知識があるべき者たち
が民を迷わせます―タンムズ礼拝でした。この次には何が来るのでしょうか?
『あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。』神はエゼキエルを玄関と祭壇の間にある内庭に連れて行きました。そこで彼が見たものは公然と太陽を拝む者たちでした―公然と他の神々に祈っていたのです。これらのバビロンの宗教は単なる礼拝以上のもの、不品行などをも含んでいます。不品行と偶像礼拝は共に起こります。古代ギリシヤではそれは神殿娼婦でしたが、その起源はギリシヤ以前にさかのぼります。礼拝の中での性の堕落です。サタン崇拝にかかわりを持つすべての成人式は、何らかの性的な儀式を含んでいます。ロザラム(Rotherham)にいる、私の知っているクリスチャン女性の娘は、サタン的なカルトに参加していました。そこで大祭司がサタンと関わり持たせるため、彼女を“結婚”させたのです。儀式のすべてが性的で汚らわしいことで満ちていました。この女性は当然のことながらとても動揺していました。
状況はますます悪化していきます。民はそれを無視していましたが、イザヤやエレミヤが来ると、初めから警告していた神の裁きが実現していたのです。彼らは来るべき裁きを否定し、罪にとどまっていました。その一方で、指導者たちはそこに立ち、「もはや主はこれらのことを、本当には気遣っておられない。すべてはゲームなのだ。ただこれは私たちの仕事なのだから。」と言います。聖職者の中の多くのフルタイムの奉仕者たちが―彼らの中には福音派もいますが―奉仕がただの職業にすぎなくなっているのです。奉仕は仕事になっていて、召命でもなく、情熱をもってするものでもなく、神が天職として与えたものではなくなっているのです。ただ彼らの義務になってしまっています。
最終的に神は言われます、「真実にわたしのものである者たちにしるしをつけよ」。もはや望みはなくなりました。神はそのようなことを見て嘆いている者以外、あわれむことも惜しむこともなくなるのです。神はエゼキエルを天にまで上げて「わたしの聖所を見よ」そう言われると、彼は衝撃を受けました。また、神は「またそこにはあなたが見たものを見、ひどく驚いた者たちがいて、彼らはわたしの家で忌みきらうべきことが行われているのを見て嘆いているのだ。その偶像礼拝、不品行、また彼らの指導者たち自身が民を引き込んでいるのを嘆いている。これらの者たちにはしるしがつけられる。しかし、わが裁きは下ろうとしている。さらにあなたは忌みきらうべきことを見ることになるだろう」と言われ、
「人の子よ。あなたは彼らが行っていることを見たか。忌みきらうべきことをさらに見る
ことになる」と主は言われます。
白魔術を行う者が歴史上初めて、イギリスの大学で多神教のチャプレンになりました。「スーザン・ラドーン(Susan Ladourne)がリーズ大学で、オカルトを信じた生徒をカウンセリ
ングするために職務を引き継いだ。29 歳の魔術師は、魔術や多神教の儀式や礼拝をもって、生徒を指導する。」 しかし、これよりもさらに忌みきらうべきことを、私たちは見ます。一体どのようなものなのでしょうか?祭司たち―知識を持ち合わせているはずの者―が不品行に身をまかせ、魔術を受け入れているのです。いいですか、国教会のチャプレンであるサイモン・ロビンソン牧師(Rev. Simon Robinson)は魔術師にも果たすべき役割があるとしてそれを受け入れ、次のように言いました「私たちはすでにさまざまな宗教からチャプレンを採用している」。祭司たちは忌みきらうべきことや偶像礼拝が行われている中、香を持ち立っていました。彼らは「大丈夫、神は見てはいない」と言うのです。これがまさにエゼキエル書において起こっていたことです。「神は見てはいない」とコヘニムは言い、同じ事をレビ人も言いました。また、これはイギリス国教会の聖職者が今日言っていることなのです。
「あなたはなおまた、わたしの家で大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」と主は言われます。ヨークシャー・イブニング・ポスト(Yorkshire Evening Post)によると「一緒に住むことはもはや罪ではない―イギリス国教会は家族の価値観について姿勢を一変した」そうなのです。私は罪の中に生きていました。イエスが私の心の中に入ってきたとき、私はニューヨークに住んでいて、向かいの通りにいた、とても魅力的なアメリカ系イタリア人の女性と暮らしていました。そのとき、私は残りの薬物を取り、窓から 20 階下に投げ捨てました(それをガーナへ行く大使が拾って、自分のものにしたと思います)。そしてジューズ・フォー・ジーザス(Jews for Jesus)の当時リーダーだったサム・メードラー(Sam Madler)が私に言いました。「あなたは結婚するか、そこから出ていくかしなければならない。たとえ、あなたたちが一緒に寝ていないとしても、罪があるように見え、あなたの証を台無しにすることになる。」そこで私は彼女をキリストに導きました。よい証と信仰を保とうとして私は唯一の選択肢を選びました。つまり彼女に出ていくように告げたのです。
ここで言いたいのは、私がしていたことが間違っていると言われて、クリスチャンとしてそのままやっていけなかったということです。『結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。』(ヘブル 13 章 4 節)―もう彼女とはベッドを共にしないとしても、それは罪のように見えると言われたのです。証をし続けてきた私の隣人たちは、彼女と寝ていないということを信じはしなかったでしょう。しかし現在、イギリス国教会は一緒に住むことはもはや罪ではないと言っているのです。私は福音主義カリスマ派であると聞いていた、ジョージ・カーレイ(George Carey)大監督の、公式のイギリスの住所であるランバート官邸に電話をかけました。私は電話をし、かけ返してくれるようメッセージを残しました。彼らは私が何を望んでいるのか知りたがっていたので、『結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。』という新約聖書の箇所があるのに、どうやって結婚せずに寝床を聖く保てるのかと大監督に聞きました。それからという
もの返事は一切来ていません。
「あなたはなおまた、わたしの家で大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」と主は言われます。ギリシヤ語の「デモノイ(demonoi)」とヘブライ語の「シェディム(shedim)」は、
1 コリントと申命記で使われていて、他の神々や悪霊たちのことを述べています。旧約と新約はどちらもそれを告げています。エゼキエルははうものや悪霊などのシェディムが、神の聖所、主の家で崇められているのを見ました。カンタベリー大聖堂に行き、自分自身の目で異教徒の間でなされている礼拝を見てください。アンセルム・チャペル(Anselm
Chapel)に行き、仏教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、シーク教徒などの礼拝で溢れていて、“クリスチャン”たちがそれを受け入れているのを見てください。『あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。』
Ezekiel's Scroll
エゼキエル 8 章 9 章
ジェイムズ・ジェイコブ・プラッシュ
エゼキエルとはヘブライ語で、「神の力によって」という意味です。彼の奉仕はまさに、ただ神の力によって実行されたものでした。預言者たちの名前は大抵の場合、神が定めたその人の奉仕の特徴を描き、表現しています。
エゼキエルは、初めイザヤによって預言され、後にエレミヤが預言したバビロン捕囚の到来の直後に登場しました。それは最終的にエゼキエルの時代に始まったのです。民が悔い改めなければ来ると言われていた、その裁きが実際に始まっていたのです。それははっきりと神の裁きとして始まったのですが、人々はそれを神の裁きではないと否定していました。すべてのことが行き詰っていましたが、人々は勝利が来ると主張し続けていたのです。これは今日の状態に似ています。『勢いのある教会(The Unstoppable Church)』(より正確に今の状態を言い表すなら“勢いのあるモスク”ですが)というような本があったりします。彼らの体は実際には重病にかかっているのに、自分の体に対して嘘を付いているようなものなのです。人々は単純に、事実に目を向けたがりません。イザヤやエレミヤが最初から現実に起こると予告していたことを、認めたがらないのです。
エゼキエルは神の裁きは継続し、ますます悪くなると予告しました。その理由は民の罪が継続し、さらに悪くなっていたからです。彼らは神の裁きが来ているのを見ても、悔い改めることをしなかったのです。また、このことは黙示録の中でもほのめかされています。神の裁きが頻繁になり、激しくなってきても、人は心をかたくなにし、神を呪い、罪にとどまったとあります。エゼキエルの時代にもそうであり、終わりの時代にもそうなるのです。エゼキエルは黙示録と深い関連があり、同じことを示しています。
エゼキエル 9 章 4 節『主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」』裁きが始まる前に、神の家、神の町の中で行われている忌みきうべきものを見る人たちがいます。また、神は言われます。「本当に私のものである者たちにしるしをつけよ。間違っていることを見て、何が間違っているかを理解し、嘆いている者にしるしをつけよ。裁きが来る前にしるしをつけるのだ。」
『また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上っ
て来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫ん
で言った。「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」』(黙示録 7 章 2 節-3 節)黙示録 13 章に至っては、獣のしるしに関して書かれており、主の与えられるしるしと獣のしるしは、互いに排他的であるということが分かります。
歴史と考古学によって、エゼキエルで言われているしるしはヘブライ語の「トブ(tov)」という文字であったことが知られています。今日、ヘブライ語のトブという文字は H
に足が付いたような形に書かれます。しかし、捕囚以前のイスラエルでは傾いた十字のように書かれていて、おそらくその原型は直立の十字でした。したがって、エゼキエルの時代の神のしるしは実際に十字架のしるしだったのです。
黙示録 9 章 4 節『そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。』もう一度、神の裁きが来る前に彼の民にはしるしがつけられます。教会は患難に入りますが、その最も酷い状況からは救い出されるのです。しかしながら、その中のある時期は耐え忍び、主にしるしをつけられ、何らかのかたちで守られるのです。終末に登場する 14 万 4 千人の奉仕者たちは、確実に主のしるしを持っています。イスラエルの子孫たちはエジプトにおいて裁きの大半を経験しました。出エジプトで記されている同じ裁きがこの世の終わりに再現されます。そして、それは黙示録で起こることの主な予型なのです。暗闇や水を打つことなどがそうです。ヘブライ人たちはある部分は経験しましたが、最も酷い中からは救い出されました。それと同じことが世の終わりにも起こります。神はご自分の民にしるしをつけるのです。
主のしるしという考えは、もちろん黙示録から始まったことではなく、エゼキエルですらなく、トーラーからであり、出エジプトで言及されています。出エジプト 13 章 9 節『これをあなたの手の上のしるしとし、またあなたの額の上の記念としなさい。それは主のおしえがあなたの口にあるためであり、主が力強い御手で、あなたをエジプトから連れ出されたからである。』
エゼキエルに戻ってみましょう。裁きがやって来る前に、忌みきらうべきものとその悪とを見て、嘆く者たちは―その心が真実に神のものとなっている者たちは―十字架のしるしが付けられました。また黙示録では、忌みきらうべきものを見て、嘆く者たちに十字架のしるしがつけられるのです。
エゼキエルの時代にその裁きは始まっていました。捕囚が開始されていたにもかかわらず、
民は「ああ、ただ私たちは一時的に痛手を負っているだけだ。長続きはしない。」と言って
いましたが、実際は、ネブカドネザルはユダヤを 4 回に分けて侵攻し、その度に結果はひどいものとなっていたのです。それはあたかも悪の波が次々と来るように、先にあったものより悪くなるのです。そのように神の裁きは来ます。しかし、神の民はしるしがつけられます。彼らは真実に神のものなのです。
エゼキエルの幻は主に神殿周辺に関してでした。エゼキエル 47 章は千年王国の幻であり、ヘブライ語で「シムカ・ベイト・ハ・ショイバー(Simchat beit Ha Shoyivah)」と呼ばれる神殿の丘で水を注ぎ出す儀式を背景にしています。それはハ・スコット(Ha Succoth)と呼ばれる仮庵祭が祝われていたときでした。ヨハネ 7 章もこのことを示唆していて、その意味はいつも千年王国についてでした。
私はニューエイジ“クリスチャン”であるパトリック・ディクソン(Patrick Dixon)が意識の変化した状態について話しているのを聞きました。彼が言うには、聖書の中でいつも神の臨在が現れるとき、人々は理性を失い、普段とは違った意識に入ると言っていました。これはトロント・ブレッシング(Toronto Blessing)などを受け入れることが出来るという彼の弁護なのです。その例として、彼はペテロがイエスの山で姿が変わったことを取り上げ、彼は幕屋を作りたいという愚かで、おかしなことを考えたと言っています。ディクソンはそれをばかげたことと考えているのです。私は彼に次のことを示し、それは何もばかげたことではないと指摘しました。つまりペテロはその変貌が、ユダヤ人の祭りである仮庵祭のメシアによる成就だと考えていたのです。モーセとエリヤがメシアと共にその姿が変えられたので、何もばかげたことではなく、ペテロはそれが千年王国の到来だと考えたのです。明らかにディクソンはこのことを一度も考えたことがないようでした。その文脈において、ペテロの行為は全く理性的なものだったのです。彼は私に「どうしてそう言えるのか?あなたはそこにいたのか?ペテロと話したことがあるのか?」という質問をもって答えてきました。私はそれに対して、「私は第二神殿期の仮庵祭のメシア的な象徴がどのようであったかを知っている」と言いました。これに対してはディクソンも返す言葉が無かったようでした。このように現代はどうしても、さまざまな毒が大きな釜に入っているような状態なのです。
エゼキエルの神殿:「神殿の象徴(The Typology of the Temple)」のテープでは、ギリシヤ語とヘブライ語において少なくとも七箇所で“神殿”に関する単語、ナオス(naos)、オイコス
(oikos)、ヒエロン(hieron)、べト・ミシュカン(beth mishkan)、ベト・ミグダシュ(beth
migdash)、ハ・ヘカル(Ha Hekal)、これらが色々な箇所で教会の象徴として用いられていることを詳しく教えています。そして例えば、1ペテロ 2 章 5 節では『あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。』とあり、コリント人への手紙では教会は神殿
と呼ばれており、エペソ人への手紙の 2 章・4 章では神殿は教会の象徴です。また、使徒の働きではダビデの幕屋を建て直すことが語られていて、それはアモス書の『その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。』(9 章 11 節)という箇所の引用です。新約聖書は少なくとも、これは部分的に異邦人の教会において成就されたと明らかにしています。また、反キリストについてのテープでは、荒らす憎むべき者に関して語っており、ダニエル書で語られた至聖所である聖なる場所に、彼が立つことについてです。このことは歴史の中のいくつかの時点で部分的に成就されました。その最も顕著な例がアンティオコス・エピファネス (Antiochus Epiphanes) によって成就されたときです。またこのことも「ハヌカー
(Hanukah)」のテープに収録されています。
エルサレムに神殿が再建され、憎むべきものがそこに建てられるとしても、それが物理的な神殿に関して起こることですが、それはただ霊的に起ころうとしていることの反映でしかないのです。イエスが十字架上で死んだとき、神殿の幕は上から下に裂けました。このことは罪深い人間と聖い神との隔たりが、もはや無くなったことを示しています。物理的な奇跡はその物理的な神殿で起こりました。しかし、それは一番大切なことではありません。一番大切なことはその奇跡が象徴していることです。私たちの大祭司であるイェシュアが罪のためにささげられたために、人間はもはや神から離れてはいないのです。したがって、荒らす憎むべき者についてもその通りです。憎むべきものが何らかの形で神殿に建て上げられるとしても―私はそれが実際に起こることを確信していますが―それはただ単に霊的に起こることの前兆なのです。反キリストは神の家で礼拝されたがります。このことは反キリストについてのテープで扱われています。そこではアラム語での荒らす憎むべき者について説明しています。
エゼキエルは主の家で忌みきらうべきことを見ました。もう一度、8 章 1 節から始まる 2
章を読んでみましょう:
『第六年の第六の月の五日、私が自分の家にすわっていて、ユダの長老たちも私の前にすわっていたとき、神である主の御手が私の上に下った。私が見ると、火のように見える姿があった。その腰と見える所から下のほうは火で、その腰から上のほうは青銅の輝きのように輝いて見えた。すると、その方は手の形をしたものを伸ばし、私の髪のふさをつかんだ。すると、霊が私を地と天との間に持ち上げ、神々しい幻のうちに私をエルサレムへ携え行き、ねたみを引き起こすねたみの偶像のある、北に面する内庭の門の入口に連れて行った。なんと、そこには、私がかつて谷間で見た姿と同じようなイスラエルの神の栄光があった。その方は私に仰せられた。「人の子よ。さあ、目を上げて北のほうを見よ。」(災いはいつも北からやって来ます)そこで、私が目を上げて北のほうを見ると、北のほうの祭壇の門の入口にねたみの偶像があった。』(8 章 1 節-5 節)
“人の子”とは終末的な称号であり、他のすべての預言者たちと同じく、イエスを何らか
の形で示しています。イエスは終わりの時代に関して神の子とは一度も呼ばれませんでした。彼の再臨について語られているとき、それはいつも人の子がやって来ると書かれています。
『この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは彼らのしていることが見えるか。イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌みきらうべきことをしているではないか。あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」』(8 章 6 節)
またここにおいても、荒らす憎むべき者が示唆されています。
『それから、この方は私を庭の入口に連れて行った。私が見ると、壁に一つの穴があった。この方は私に仰せられた。「人の子よ。さあ、壁に穴をあけて通り抜けよ。」私が壁に穴をあけて通り抜けると、一つの入口があった。この方は私に仰せられた。「入って行き、彼らがそこでしている悪い忌みきらうべきことを見よ。」私が入って行って見ると、なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていた。また、イスラエルの家の七十人の長老が、その前に立っており、その中にはシャファンの子ヤアザヌヤも立っていて――彼は名前をも明らかにします!――、彼らはみなその手に香炉を持ち、その香の濃い雲が立ち上っていた。この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行なっていることを見たか。彼らは、『主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた』と言っている。」さらに、私に仰せられた。「あなたはなおまた、彼らが行なっている大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」ついでこの方は私を、主の宮の北の門の入口へ連れて行った。するとそこには、女たちがタンムズのために泣きながらすわっていた。この方は私に仰せられた。「人の子よ。これを見たであろうが、あなたはなおまた、これよりも大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」そして、この方は私を主の宮の内庭に連れて行った。』(8 章 7 節-16 節)
旧約聖書の中では、神の宮を進んで行くにつれてさらに聖い場所に至ります。
『すると、主の宮の本堂の入口の玄関と祭壇との間に二十五人ばかりの人がおり、彼らは主の宮の本堂に背を向け、顔を東のほうに向けて、東のほうの太陽を拝んでいた。この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたはこれを見たか。ユダの家にとって、彼らがここでしているような忌みきらうべきことをするのは、ささいなことだろうか。彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている。見よ。彼らはぶどうのつるを自分たちの鼻にさしている。だから、わたしも憤って事を行なう。わたしは惜しまず、あわれまない。彼らがわたしの耳に大声で叫んでも、わたしは彼らの言うこと
を聞かない。」この方は私の耳に大声で叫んで仰せられた。「この町を罰する者たちよ。
おのおの破壊する武器を手に持って近づいて来い。」見ると、六人の男が、おのおの打ちこわす武器を手に持って、北に面する上の門を通ってやって来た。もうひとりの人が亜麻布の衣を着、腰には書記の筆入れをつけて、彼らの中にいた。彼らは入って来て、青銅の祭壇のそばに立った。』―青銅の祭壇は十字架の象徴です―『そのとき、ケルブの上にあったイスラエルの神の栄光が、ケルブから立ち上り、神殿の敷居へ向かった。それから、腰に書記の筆入れをつけ、亜麻布の衣を着ている者を呼び寄せて、主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」また、私が聞いていると、ほかの者たちに、こう仰せられた。「彼のあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ。惜しんではならない、あわれんではならない。』(エゼキエル 8 章 16 節-
9 章 5 節)
神はご自分の民に害を及ぼすことを許しませんでした。また、彼はご自分の者にはしるしをつけ、残りの者は打てと命じました。黙示録では、木々に害を加えないように命じられています。―『野の木々もみな、手を打ち鳴らす。』(イザヤ 55 章 1 節-2 節)―木々は神の民を象徴しています。これがエゼキエルでも起こったことなのです。
神はエゼキエルを取り、忌みきらうべきことを次々に見せました。それはますます悪くなるばかりでした。彼が最初に見た忌みきらうべきことに注目してみましょう:ねたみの偶像、主の家での偶像礼拝です。ヘブライ語での「礼拝する」という言葉は「ヒシャタクヴァー(hishtakvya)」といい、不定詞では「ヒスタカヴォート(Histachavot)」すなわち「ひれ伏す」ということです。誰でも像や彫られた偶像の前にひれ伏し、拝むならそれは偶像礼拝です。ハイ・カトリックやローマ・カトリック、これらのものは偶像礼拝です。
この話は次のように始まりました。神はエゼキエルを天と地の間に持ち上げて、「見よ。今あなたは天から、わたしが見るように見ている。彼らがわたしの家、わが聖所、会見の場所でしていることを見たか。」と言いました。エゼキエルはそれを見て、驚きました。しかし、神はエゼキエルに「これがわたしの家、わが聖所での偶像礼拝である。しかし、人の子よ、あなたはさらに忌みきらうべきものを見ることとなる。」と言われます。その後神は神殿の中へとさらに奥へと彼を導かれます。そこでは、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていたのです。ここでの
「忌むべき」とはヘブライ語で「シェケツィム(shektzim)」というもので、異邦人女性を軽蔑した言い方の「シクセー(shikseh)」という言葉はこれから来ています。黙示録において、サタンにはふたつの攻撃する形態があると、私が言っているのを聞いたことがあるでしょうか。蛇と竜です。竜は迫害者としてのサタンです。また、蛇とは欺くものとしてのサタンです。これらのはうものも「シェケツィム」と呼ばれ、それは「ねばねばした爬虫類」
という意味です。それらは古代中近東で行われていたヘビ崇拝などから来た悪魔の象徴で
すが、インドの西部に至るまでヘビ崇拝が行われています。荒らす忌むべき者はそこから取られたものです。主の家の中にいる悪霊:この時点でただの偶像礼拝が、明らかな悪霊崇拝になっていくのです。
しかし、神はそれからエゼキエルに言われます。「あなたはさらに悪いものを見ることになる。わたしの家でさらに忌みきらうべきものを見るのだ、人の子よ!」そして神は宗教指導者たち―レビ人やコヘニム(cohenim)などの“牧者たち”―をあちらこちらで名指しで呼びます。また彼はシャファンの子ヤアザヌヤが彼らの内に立っていたと書いています。そこにいるべきではない人々、いるはずのない人々が香を持ってそこにいるのです。香は聖徒の祈りを象徴しています。しかし、それらの祈りは本当の神にはささげられていないのです。彼らは真実の神を礼拝していません。パウロは1テモテ・2テモテにおいて、ヨハネは3ヨハネにおいて、信者たちを過ちに引き込もうとする指導者たちの名前を公に挙げました。使徒と預言者たちはためらうことなく、そのような者たちの名を明らかにしたのです。
このエゼキエルの箇所において、偶像礼拝が行われており、明らかな悪魔崇拝があり、また神の指導者たちが民をそこに引き込んでいました。神は主の家でそのように指導者たちが悪事に加担することは、何にも増してひどく忌みきらうべきことであると宣言しています。
『あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。』その次に神がエゼキエルに見せられたのはタンムズ礼拝でした。タンムズは乳飲み子の神であり、彼の母であるマドンナに抱きかかえられていました。ローマ・カトリックのマドンナと子どもという考えは、タンムズ礼拝をカトリック化したものです。そうでしかありません。エレミヤ 44 章では、女たちが天の女王のためにパン菓子を焼いている光景に出くわします。これはカトリックのマリア崇拝と同じものです。タンムズに関して言うと、イエスは無力な幼児として描かれ、一方でその母は力のある独立した大人として表現されています。このような考えのもと、マリアが私たちの共通の贖い主であり、共通の仲介者であり、共通の救い主であるとカトリックは主張しているのです。彼女は今まで存在した女性の中で最も偉大であることは事実です。しかし、彼女自身、救い主が必要であると言いました。
『あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。』そう神はエゼキエルに言いました。
『人の子よ。あなたは彼らのしていることが見えるか。』まず、それはねたみの偶像であり、
次に悪霊でした。その次に指導者たちが手をつけたものとは―より知識があるべき者たち
が民を迷わせます―タンムズ礼拝でした。この次には何が来るのでしょうか?
『あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。』神はエゼキエルを玄関と祭壇の間にある内庭に連れて行きました。そこで彼が見たものは公然と太陽を拝む者たちでした―公然と他の神々に祈っていたのです。これらのバビロンの宗教は単なる礼拝以上のもの、不品行などをも含んでいます。不品行と偶像礼拝は共に起こります。古代ギリシヤではそれは神殿娼婦でしたが、その起源はギリシヤ以前にさかのぼります。礼拝の中での性の堕落です。サタン崇拝にかかわりを持つすべての成人式は、何らかの性的な儀式を含んでいます。ロザラム(Rotherham)にいる、私の知っているクリスチャン女性の娘は、サタン的なカルトに参加していました。そこで大祭司がサタンと関わり持たせるため、彼女を“結婚”させたのです。儀式のすべてが性的で汚らわしいことで満ちていました。この女性は当然のことながらとても動揺していました。
状況はますます悪化していきます。民はそれを無視していましたが、イザヤやエレミヤが来ると、初めから警告していた神の裁きが実現していたのです。彼らは来るべき裁きを否定し、罪にとどまっていました。その一方で、指導者たちはそこに立ち、「もはや主はこれらのことを、本当には気遣っておられない。すべてはゲームなのだ。ただこれは私たちの仕事なのだから。」と言います。聖職者の中の多くのフルタイムの奉仕者たちが―彼らの中には福音派もいますが―奉仕がただの職業にすぎなくなっているのです。奉仕は仕事になっていて、召命でもなく、情熱をもってするものでもなく、神が天職として与えたものではなくなっているのです。ただ彼らの義務になってしまっています。
最終的に神は言われます、「真実にわたしのものである者たちにしるしをつけよ」。もはや望みはなくなりました。神はそのようなことを見て嘆いている者以外、あわれむことも惜しむこともなくなるのです。神はエゼキエルを天にまで上げて「わたしの聖所を見よ」そう言われると、彼は衝撃を受けました。また、神は「またそこにはあなたが見たものを見、ひどく驚いた者たちがいて、彼らはわたしの家で忌みきらうべきことが行われているのを見て嘆いているのだ。その偶像礼拝、不品行、また彼らの指導者たち自身が民を引き込んでいるのを嘆いている。これらの者たちにはしるしがつけられる。しかし、わが裁きは下ろうとしている。さらにあなたは忌みきらうべきことを見ることになるだろう」と言われ、
「人の子よ。あなたは彼らが行っていることを見たか。忌みきらうべきことをさらに見る
ことになる」と主は言われます。
白魔術を行う者が歴史上初めて、イギリスの大学で多神教のチャプレンになりました。「スーザン・ラドーン(Susan Ladourne)がリーズ大学で、オカルトを信じた生徒をカウンセリ
ングするために職務を引き継いだ。29 歳の魔術師は、魔術や多神教の儀式や礼拝をもって、生徒を指導する。」 しかし、これよりもさらに忌みきらうべきことを、私たちは見ます。一体どのようなものなのでしょうか?祭司たち―知識を持ち合わせているはずの者―が不品行に身をまかせ、魔術を受け入れているのです。いいですか、国教会のチャプレンであるサイモン・ロビンソン牧師(Rev. Simon Robinson)は魔術師にも果たすべき役割があるとしてそれを受け入れ、次のように言いました「私たちはすでにさまざまな宗教からチャプレンを採用している」。祭司たちは忌みきらうべきことや偶像礼拝が行われている中、香を持ち立っていました。彼らは「大丈夫、神は見てはいない」と言うのです。これがまさにエゼキエル書において起こっていたことです。「神は見てはいない」とコヘニムは言い、同じ事をレビ人も言いました。また、これはイギリス国教会の聖職者が今日言っていることなのです。
「あなたはなおまた、わたしの家で大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」と主は言われます。ヨークシャー・イブニング・ポスト(Yorkshire Evening Post)によると「一緒に住むことはもはや罪ではない―イギリス国教会は家族の価値観について姿勢を一変した」そうなのです。私は罪の中に生きていました。イエスが私の心の中に入ってきたとき、私はニューヨークに住んでいて、向かいの通りにいた、とても魅力的なアメリカ系イタリア人の女性と暮らしていました。そのとき、私は残りの薬物を取り、窓から 20 階下に投げ捨てました(それをガーナへ行く大使が拾って、自分のものにしたと思います)。そしてジューズ・フォー・ジーザス(Jews for Jesus)の当時リーダーだったサム・メードラー(Sam Madler)が私に言いました。「あなたは結婚するか、そこから出ていくかしなければならない。たとえ、あなたたちが一緒に寝ていないとしても、罪があるように見え、あなたの証を台無しにすることになる。」そこで私は彼女をキリストに導きました。よい証と信仰を保とうとして私は唯一の選択肢を選びました。つまり彼女に出ていくように告げたのです。
ここで言いたいのは、私がしていたことが間違っていると言われて、クリスチャンとしてそのままやっていけなかったということです。『結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。』(ヘブル 13 章 4 節)―もう彼女とはベッドを共にしないとしても、それは罪のように見えると言われたのです。証をし続けてきた私の隣人たちは、彼女と寝ていないということを信じはしなかったでしょう。しかし現在、イギリス国教会は一緒に住むことはもはや罪ではないと言っているのです。私は福音主義カリスマ派であると聞いていた、ジョージ・カーレイ(George Carey)大監督の、公式のイギリスの住所であるランバート官邸に電話をかけました。私は電話をし、かけ返してくれるようメッセージを残しました。彼らは私が何を望んでいるのか知りたがっていたので、『結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。』という新約聖書の箇所があるのに、どうやって結婚せずに寝床を聖く保てるのかと大監督に聞きました。それからという
もの返事は一切来ていません。
「あなたはなおまた、わたしの家で大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」と主は言われます。ギリシヤ語の「デモノイ(demonoi)」とヘブライ語の「シェディム(shedim)」は、
1 コリントと申命記で使われていて、他の神々や悪霊たちのことを述べています。旧約と新約はどちらもそれを告げています。エゼキエルははうものや悪霊などのシェディムが、神の聖所、主の家で崇められているのを見ました。カンタベリー大聖堂に行き、自分自身の目で異教徒の間でなされている礼拝を見てください。アンセルム・チャペル(Anselm
Chapel)に行き、仏教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、シーク教徒などの礼拝で溢れていて、“クリスチャン”たちがそれを受け入れているのを見てください。『あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。』
The Future History of the Church - Part 1 - Japanese
未来の教会史1
ジェイコブ・プラッシュ
だれもが未来を知りたいと思っています。このために人は占い師やオカルトなど、さまざまなところに行き未来がどうなるかを知ろうとします。しかしながら、イエスさまは私たちに未来を告げました。
私は信者になる前、よくまじない師のところに行き、タロットカードを読んでもらっていました。そのまじない師はカードを読むのが得意で、彼女はある日、私がイエスを信じるようになることをカードをもって言い当てました。その人はカードを見て「これが起こったときに戻ってきて、私を火あぶりにしないでおくれ。これは確かだが、戻ってきて火あぶりにだけはしないでおくれ」と言い始めました。彼女のまじないはかなり正確でした。オカルトは未来を予測することにおいて、とても正確であることがあり得ます。しかしながら申命記 18 章を読むと、“かなり正確”でもそれは十分ではないということが分かります。預言者は毎回、寸分違わず正しくなければならないのです。現代には多くの人が自分は預言者だと主張し、自分中心の預言の奉仕を立ち上げますが、彼らは起こりもしない奇妙な予測を立てます。それが起こったとき、人々はにせ預言者を弁護して言います、「この人はだいたいは正しいじゃないか」。それはそうかもしれませんが、ニュージャージーでタロットカードを読んでいたまじない師もだいたい正しかったのです。申命記 18 章は非常に明快です。主の御名によって語ったことが実現しなければその人はにせ預言者なのです(申命記 18 章 20 節-23 節)。主の御名によって語るのはとても危険なことです。その“預言”が神からのものでなければ語らずに、口を閉じておいたほうが良いのです。聖霊を消すことをしてはいけませんが、その言葉が本当に聖霊からのものであれば実現せずにいることはありません。
私は本当の預言者を目撃する機会がありました。イスラエルのカルメル山にある一室に 40人くらいの人と、(当時の呼び名でいう)ソビエト連邦から来た男性がいました。当時はイスラエルとソ連の間に外交関係や直通の飛行機もなく、その人はヨーロッパを経由して来ることしかできませんでした。その人はテル・アビブに降り立ち、誰かがベン・グリオン空港に迎えに行き、ガラリヤまで連れてきました。その人は英語で話し始め、預言や予告をし始めたのです。彼が話しているのを聞いたとき、私はこの男が本当の預言者か、またはにせ預言者であるだけでなく、頭がおかしいに違いないと思いました。この紳士は一冊の本を書き、その中で赤の広場(モスクワの都心部にある広場)で主の聖餐式をすること
について語っていました。その人が言うには、赤の広場で立ち上がった後、神は聖餐式の
杯をモスクワ川に投げ込むように言われ、ソ連政府が教会を迫害しユダヤ人にイスラエルへ移住することを禁止したために、神はエジプトにしたのと同じことをソ連にも行うと予告していたというのです。その人たちは「わたしの民を行かせよ」また「わたしの福音を宣べ伝えさせよ」、さもなければ神はあなたの帝国を滅ぼすと宣言していました。「私たちはあなたの地にのろいを宣言する――神はあなたの地をのろわれる」その後まもなくチェルノブイリ原発事故があり、ソ連が経験した中で最悪の収穫期を迎えました。そのクリスチャンたちはまた「神はソ連の戦争兵器を破壊される」と言いました。その直後、ソ連はアフガニスタンから引き上げ、ワルシャワ条約機構(ソ連を盟主とした東ヨーロッパの軍事同盟)が解体しました。次にその信者たちは、レーニンが永久的にミイラ化され展示されてある墓に向かって、「これは死をもたらす霊だ。神はレーニン崇拝を崩壊させる」と言いました。当時、ソ連にはレーニンの像や胸像だけを製造する工場が 11 ほどありました。その後、夜のニュースで、その工場がひとつ残らず閉鎖され、レーニンの像の首が切り落とされているのを私たちは見ました。その後、その信者たちはクレムリン宮殿の方を向き、言ったのです「神はあなたの帝国を滅ぼされる。ソ連は崩壊し、誰も信じることができないほど神は迅速に裁きを下される。『わたしの民を行かせよ。そしてわたしの福音を宣べ伝えさせよ』」
このようなことを 1984 年や 85 年に言うことは不可解なことで、全く考えられないことでした。神から本当にそのことを聞いたのでなければ、ただ気が狂っているだけでした。しかし、そう語ることが突飛であったにもかかわらず、語られた言葉はみな現実となったのです。私はそれからその兄弟に会うことも、彼の本を読んだこともありませんが、私はその人が言ったことと自分の目の前で起きたことを知っています。
そういった出来事の後、私は聖書学校に通うためにイギリスに行き、カリフォルニアのカンザスシティーから来た人たちに会いました。彼らは自分たちをカンザスシティーの預言者・ヴィンヤードと名乗っていました。その人たちは何万人もの聴衆の前に立ち、1990 年
10 月に大きなリバイバルが起き、偉大な“後の雨”がやってくると予告しました。その“大きなリバイバル”から数年たち、イングランドには教会よりも多くのモスクが建造され続けています。
教会への侵入
申命記 18 章にはにせ預言者は“ネヴィー・シェカル(nebi shekar)”であると書かれてあります。にせ預言者たちはもはや石打ちの刑に処せられることはありませんが、偽りの預言をするという罪は同じくらい深刻なものです。エレミヤ 5 章と 28 章はにせ預言者がどのよ
うなものであるかを明らかにしていて、イエスも終わりの日ににせ預言者たちが現れると
語られました。新生したクリスチャンが犯してしまう大きな間違いのひとつは次のことです。マタイ 24 章やルカ 21 章のオリーブ山での教えを読むとき、イエスさまがにせ教師やにせ預言者が現れると4回言われたのを見て、私たちのほとんどは機械的に「これはエホバの証人や統一教会、モルモン教(末日聖徒キリスト教会)、クリシュナ教団、クリスチャン・サイエンスなどのことだ」と言ってしまうことです。確かにこのような人たちがにせ預言者、にせ教師であることに疑問の余地はなく、過去 100 年間でのカルトの急増自体が終わりの日のしるしであり、私たちが生きている時代を象徴しているものですが、マタイ
24 章、ルカ 21 章、使徒 20 章、マタイ 7 章をその文脈にそって読むと、これらのカルトはイエスや使徒たちが警告していたにせ預言者、にせ教師とは違っていたことが分かります。イエスや使徒たちが警告していたのは、選ばれた者を欺こうとする者たちです。
未信者はすでに悪魔に欺かれています。悪魔は2種類の人たちを欺こうと躍起になっているのです。それは国としてのイスラエルと聖書に信頼する教会です。国としてのイスラエルは霊的な暗闇の中にいます。エルサレムを含む多くの場所、ロンドンのスタンフォード・ヒルやブルックリンのクラウン・ハイツにはイスラエル人の看板が立ててあり、そこには
「私たちは今こそメシアを待望する」と書かれてあります。イエスはヨハネの福音書で、民はメシアを受け入れないが自分の名によって来る者を信じると二重の予告をされました
(ヨハネ 5 章 43 節)。これはシモン・バル・コクバの時代の初代教会において成就されましたが、明かにこれは自分のことをユダヤ人にメシアだと信じさせる反キリストの象徴でもあります。ユダヤ人は反キリストの到来のために手はずを整えられているのです。
したがって悪魔はこの世とユダヤ人を騙してしまいました。今悪魔はどのような人を欺こうとしているのでしょうか。あなたと私です。マタイ 7 章、使徒 20 章、マタイ 24 章、ル
カ 21 章を読んでみてください。これらの箇所で警告されているにせ教師やにせ預言者とは、教会内に入り込んできて選ばれた者を騙そうとする者たちのことです。
私はモルモン教やエホバの証人などのカルトの問題を懸念しています。それは新生したクリスチャンが、偽りに対してカルトが持つ熱意と同じほどの熱意を持っていれば、多くの人がそのようなものに入ることがなく、むしろ救われるからです。聖書を信じる教会が何もしない一方で、カルト団体が偽りのために熱心であるという状況は、ラオデキヤの教会の特徴です。西洋の教会はラオデキヤのようになってしまいました。しかしながら、クリスチャンでモルモン教徒やエホバの証人に騙される人は限られています。騙されるような人は信じて間もないときに羊のようにさらわれたか、最初から弱く、やっかいな信者なのでしょう。これらのカルトを、未信者に警告する責任を私たちは持っていますが、第一に心配すべきにせ預言者ではありません。私たちが気を配らなくてはならないのは、教会に
忍び込んでくる者たちです。霊的な欺きは終わりの日に増加します。
ユダヤ的観点からの聖書解釈
“カル・バ・ホメル (kol ve homer) ”といってユダヤ的観点から導き出された聖書の原則があります。これを日本語で表わすと「軽いものから重いものへ(軽から重へ)」という意味です。これはラビ・ヒレルのミドロットの最初の原則で、ヒレルとはラビ・ガマリエルの祖父であった人物です。ラビ・ガマリエル(使徒 5 章 34 節)は使徒パウロがラビになった
ときの教師でした。ラビ・ヒレルは 7 つのミドロット、つまり聖書を解釈する原則を考案しました。新約聖書はこの原則を繰り返し用いています。“カル・バ・ホメル”つまり“軽いものから重いものへ”という原則はこのうちの最初のものです。これを用いている箇所がへブル 10 章 25 節です。
『ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。』(へブル 10 章 25 節)
さして重要ではない(軽い)状況において真実なことは、重要な(重い)状況において特に真実になります。この箇所では交わりの問題が取り上げられています。交わりはいつであっても重要ですが、終わりの日において特別に重要なものとなるのです。私たちが共に立ちあがることができなければ、迫害が来たときにひとりで立つことはできません。
終わりの日に関して“軽いものから重いものへ”という原則が使われているもうひとつの例は、にせ預言者とにせ教師についての箇所です。彼らはいつの時代にも存在します――これが“軽い”です。しかし終わりの日に彼らの数は増えます――これが“重い”です。常に真実であることは終わりの日に特に真実になり、教会にとって常に危険なものは終わりの日に特に危険となります。
イエスの時代のユダヤ人は私たちがしている方法で聖書を解釈しませんでした。イエスはラビであって、他のラビと同じ方法で教えました。イエスはミドラッシュを用いていたのです。イエスはまた“マシャル・ニムシャル形式”というものも使いました。マシャルとは日常の生活、また自然などを描写したもので、ニムシャルとはその背後にある霊的な意味です。箴言はヘブライ語で“ミシュレー”と呼ばれ、マシャルの本という意味です。例を挙げると、箴言 11 章 22 節には『美しいが、たしなみのない女は』というのがニムシャルで『金の輪が豚の鼻にあるようだ』とありこれがマシャルです。たとえは単にマシャルを延長したものなのです。
西洋の寓喩と予型の考え方は基本的に西洋風に作り直されたものなのです。私たちはユダ
ヤ人の聖書の考え方を理解する必要があります。それはダニエル 12 章 9 節にこう書かれているからです。
『このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ』(ダニエル 12
章 9 節)
人が黙示録について本を書き、黙示録の内容をすべて解明したというときは気を付けてください。ダニエル書ではっきりと言われているのは、これらのことは終わりの時まで封じられているということです。何か新しい真理や、新しい啓示が与えられるのではありません。聖霊は終わりの日に聖書の奥深い内容について、神の民に理解を与えます。私たちに何か新しい教理や、新しい真理、新しい啓示が与えられるのではなく、聖書の中にすでに書かれてあることに関して、より深くより明らかな理解が与えられるのです。リベラル(自由主義神学者)がしていることは、聖書をその“シツ・イム・レベン (Sitz im leben) ”=“文化的背景”から切り離して解釈することです。福音主義者たちも同じことをしています。なぜならギリシア的な解釈法また釈義を使い、ユダヤ的な本を理解しようとしているからです。この問題について話すべきことがたくさんありますが、終わりの日に注目して、最も重要な点をみなさんに知ってもらいたいと思います。
聖書の預言は実際どのように成就するのか
西洋プロテスタントがとる預言解釈の方法は、“ 過去主義 (Preterism)” 、“ 歴史主義
(Historicism)”、“激励主義 (Poemicism)”、“未来主義(Futurism)”この4つのうちのひとつです。
リベラルは“過去主義”に傾倒しています。彼らは「神はいない、いたとしても未来は知らない。もし知っていたとしてもイザヤに未来を告げることは確実にない」と言います。それゆえ、クロス王に関することがその 200 年前にイザヤによって預言されると、リベラルの頭の中では自動的に、それが起こった後にイザヤが書いたか、イザヤ書がイザヤではない誰かに捕囚の後に書かれたと考えるのです。こうした考え方の基盤は、イザヤはクロス王のことを 200 年前に知っていた可能性はないというものです。神学用語でいうならこれは
“バチカン補間法 (ex-Vaticana interpolation)”というものです。リベラルは未来に関しての超自然的な知識を信じることができないので、過去主義を容認しています。
第二のものは“歴史主義”であり、これは神の国がもう到来したと信じる人たちが好むもので
す。改革者たちもまたこの考え方にひどく傾倒していました。歴史主義は「新約聖書の終
末に関する預言は、初代教会の時代に完全に成就した」と信じるものです。初代教会はローマをバビロンと認識していました。ペテロは最初に書いた書簡を閉じる際、『バビロンにいる、…婦人がよろしくと言っています。』(1ペテロ 5 章 13 節)と書きました。バビロンにおいてニムロデが始めた偽りの宗教は、小アジアに行き渡り(特にペルガモの町へ)、そこからギリシア・ローマ文化へ浸透しました。そこからローマ・カトリックやフリーメーソンなどの宗教が発生しました。しかしながらそのルーツはすべて、この世の偽りの宗教と腐敗した政治制度が組み合わさったバビロンに行き着きます。
バビロン人は第一神殿を“ティシャーベ・アブ(Tisha' b'Av)”、ヘブライ暦でのおおよそ 8
月 9 日に破壊しました。ほぼ同じような状況で、ローマ帝国の軍隊は第二神殿を同じ日付に破壊しました。その日も”ティシャーベ・アブ”でした。このため初代の信者たちはローマをバビロンであると認識し始めたのです。どちらも同じ偽りの宗教でした。
このことを説明するために私がよく使う例は“スコットランドヤード”です。スコットランドヤードという名は、ロンドンでホワイトホール(通りの名前)とビクトリア・エンバンクメント(テムズ川の近くにあるもの)の間にあった小さな通りの名前で、元々ロンドン警視庁の本部があった場所です。現在の警視庁はシャーロック・ホームズの時代と違い、ビクトリア駅から 800 メートル離れた場所に位置しています。しかしそれがもうホワイトホールのそばの小さな通りに位置していないにもかかわらず、本部はいまだに“スコットランドヤード”と呼ばれています。言い換えれば、施設の名前が本来の場所の名前を取ってしまったのです。バビロンに関しても同じことがいえます。このため黙示録に書かれてあるように、初代教会が7つの丘の上にいる女を見たとき、カピトリーナという名を冠していましたが、その女がひとつの町を表しているということから、彼らにとってローマはバビロンだったのです(黙示録 17 章 9 節)。
それゆえ皇帝ネロの統治下にローマが火に包まれたとき、それはイザヤとエレミヤによって預言されていたバビロンの崩壊の成就だったのです。このように初代の信者たちは考えていました。またベスビオ火山が噴火したとき(ポンペイが灰に埋もれ)、火山灰が電離圏と成層圏の上部に滞留し、ローマ帝国全体に太陽と月の光が届かなくなりました。これは実際に起こった出来事です。このようなことが最後に起こったのは 1960 年代のアイスラン
ドだったと思います。次におよそ紀元 70 年頃、神殿が破壊され、ローマ人たちは神殿の丘に異教の像を建て、その場で礼拝しました。当時のクリスチャンたちはそれが”荒らす憎むべき者”――ハシキューツィム・ハメショメム――であると考えていました。こうしてこれらの預言は成就したのです。これが歴史主義という考え方です。
プロテスタントの改革者たちは歴史主義に傾倒していました。なぜなら中世の教皇の権威
が拡大することを防いだのは、ローマ帝国、帝政ローマであったと主張していたからです。コンスタンティヌス帝が首都をコンスタンティノープルに移し、西ゴート族が移住してきてからローマ教会は繁栄しました。『彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがある』(2 テサロニケ 2 章 6 節)とあるように、改革者たちはローマ帝国がローマ教皇の権威を制限しており、後になってその制限は取り去られたと解釈しました。このために神の国はもう到来したという人たちは、“終わりの日”はただ紀元 70 年に至るまでの出来事を指すと言い、多くの場合、黙示録の記述に未来のことが書かれているとは考えません。
預言解釈の第三の手法は“激励主義”です。激励主義とは「黙示録は迫害の時代に生きているクリスチャンを励ますためだけに与えられたものであり、迫害されているクリスチャンに与えられるべき栄光と、迫害する者への裁きを思い起こさせることによって、勇気を与えようとして書かれたものである」というものです。これは的を射ています。黙示録はこれを読む者は幸いであるという言葉とともに始まり、黙示文学はどれも迫害下にある教会を励ますものです。部分的にその目的は正しいのですが、それが唯一の目的ではありません。
預言を解釈する第四の手法は“未来主義”であり、これはこのような出来事が終わりの日に起こるというものです。
どの方法が正しいのか?
プロテスタントの解釈を使う西洋の異邦人的な思考によると(ここではふれませんが、多くの理由によりこれはギリシア的な起源を持ちます)、この4つの手法のうちどれが正しいものであると考えます。問題はどれを支持するかということになります。あなたは過去主義、歴史主義、激励主義または未来主義のどれを支持するでしょうか。紀元1世紀のユダヤ人なら、イエスがそうであったように、これら4つすべてを同時に支持することでしょう。
マタイ 24 章 15 節から 33 節で、イエスはダニエルによって語られた“荒らす憎むべきもの”
が現れるのを見たなら、終わりが近いと言われました。ここで問題になるのが、マタイ 24
章やルカ 21 章のオリーブ山の訓戒で語られた、荒らす憎むべきものはイエスが語られる以
前に出現していたということです。イエスはヨハネ 10 章で“ハヌカ”、宮きよめの祭りを祝っておられました。イエスはアンティオコス・エピファネス(B.C.215-164 セレウコス朝シリアの王)が神殿に偶像を建て、神殿内で豚をほふり、その神殿をマカベア家が再び聖めたことなどすべてを知っていました。ダニエルによって預言された荒らす憎むべきもの
は旧約新約間の時代にすでに登場していましたが、イエスはその預言を指し、それがもう
一度起こると言われました。イエスは過去主義を用いたのです。イエスは過去の出来事を指し、それを未来形で話されました。
次に歴史主義です。もう一度、イエスがオリーブ山で預言された荒らす憎むべきものについて見ていきましょう。ヨセフスを読み、ローマ人がどのように神殿を破壊し、神殿の丘に異教の象徴を建て、礼拝したかを読むと、それが荒らす憎むべきものであったことが分かります。その後、2世紀にハドリアヌス帝はアエリア・カピトリーナという町を作り、神殿の丘にジュピター(ローマ神話の神)の神殿を建造しました。それがもうひとつの荒らす憎むべきものでした。コンスタンティヌスの甥であった背教者ユリアヌスは、ローマ帝国を再び異教化しようと試み、神殿を建て、神殿の丘で多くの不審火が起こりました。これがもうひとつの荒らす憎むべきものです。現在の神殿の丘では、オマール・モスク、岩のドームがあります。その外面にはコーランのスラーからの引用が刻まれています。それは「神には子がない」という意味です。これもまたもうひとつの荒らす憎むべきものです。
しかし来るべき荒らす憎むべきものが未だに存在します。すでに現れたものすべては、来るべきものを象徴しています。大事な点はこれです。西洋的な預言の考え方は預言が予告と成就とでなっているというものです。しかしヘブライ的な預言の考え方は、預言を反復するパターンと見なします。ひとつの最終的な成就と共に複数の成就があると、ヘブライ的な預言は考えられています。そしてそれぞれ複数の成就は、最終的な成就の予型であり、最終的な成就がどのようになるかを教えているのです。
もうひとつの例を挙げましょう。マタイがイエス降誕の記述を書いたとき、ホセア 11 章 1節から『わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した』と引用しました。問題になるのがそのホセア 11 章を読んでみると、ホセアはモーセの指導のもとエジプトを出たイスラエルの民のこと、出エジプトに関して語っているということです。しかしマタイは一見したところ、その文脈を全く無視し、イエスに当てはめているように見えます。しかしながら、本当の問題はマタイが文脈を無視したということではなく、西洋の教会がユダヤ人の本を取り、自分たちで文脈を読みとる方法を作ってしまったことにあります。マタイはミドラッシュを用いて考え、預言をパターンだと見なしていました。これを説明しましょう。
ミドラッシュ
それはアブラハムから始まります。創世記において、神はパロをさばき、アブラハムはその子孫と共にエジプトを出ました。アブラハムは原型であり、すべて信じる者の父です。
後になって出エジプト記において、神はパロをさばき――邪悪な王をさばき――再びアブ
ラハムの子孫はエジプトを出ました。このようにパターンは始まります。イスラエルに起こったことは最初アブラハムに起こったことの繰り返しなのです。アブラハムがパロから富を得たように、イスラエル人は出エジプト記においてエジプト人から富をはぎ取りました。
次に、イエスがエジプトから出た後、また邪悪な王――今回はヘロデ――がさばかれました。ミドラッシュ的にイスラエルはイエスを隠喩として表しています。聖書の中で「イスラエルはわが栄光、イスラエルはわが長子」という箇所を見つけたなら、それはミドラッシュ的にメシアをほのめかしています。これはラビでさえも知っています。それゆえ、イスラエルの現れであるイエスもエジプトを出たのです。
教会がキリストの体であるのと同じように、ある意味においてイスラエルもキリストの体です。そして 1 コリント 10 章に書いてあるように、私たちもエジプトを出ます!エジプトはこの世の象徴、またパロはこの世の神である悪魔の象徴です。またモーセが山に昇り、民の代わりに血で契約を結んだように、イエスも同じことをしました。モーセがイスラエルの子らをエジプトから導き出し、水の中を通して、約束の地に導いたように、イエスは私たちをこの世から導き出し、バプテスマを通して、天へと導かれます。一方が他方の象徴となっています。私たちはみな出エジプトの経験を持っています。
しかし出エジプトの最終的な意味は、教会の復活と携挙です。出エジプト記で行われたのと同じさばきが黙示録でも繰り返されます。またモーセとアロンのしるしをパロの呪法師たちが真似たのと同じように、反キリストとにせ預言者はイエスとその証人たちの奇跡を真似ることができるでしょう。黙示録ではなぜモーセの歌(“主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに”)が歌われているのでしょうか(出エジプト 15 章 1 節、黙示録 15 章 3 節)。出エジプト記が示しているのは、パロの敗北は悪魔の敗北の予型であるということです。またなぜイスラエル人は自分たちの所有物に先立ってヨセフの遺骸を運んだのでしょうか。それは 1 テサロニケ 4 章
16 節から 17 節に書いてあるように「キリストにある死者が、まず初めによみがえる」から
です。そして私たちも共にエジプトから出ます。
もう一度いいます。ヘブライ的な預言の考え方は反復されるパターンです。それはひとつの予告ではなく、最終的な成就をともなったパターンです。これがヘブライ的な終末に関する預言の概念です。終わりの日に関して書かれてある聖書の教えを本当に理解するためには、まず西洋的、異邦人的、ギリシア的な考え方をやめて、初代教会のやり方に倣って聖書について考え始めなくなくてはなりません。黙示録 2 章・3 章にでてくるエペソの教会
には他の教会にはない燭台が出てきたことを思い出してください(2 章 5 節)。
『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』(詩篇 119 篇 105 節)
マタイでのたとえ話に出てくるおとめたちは、夜を照らすためにともしびの中に油が必要でした(マタイ 25 章 1 節-13 節)。この話には後で戻ってきます。
終りの日には聖書の理解と忠実さはとても重要なものとなります。マタイ 25 章の賢いおとめはともしびに油があったために、夜でも見ることができたのを覚えているでしょうか。これは聖書を理解するための聖霊の照明です。ラオデキヤの教会は目が見えるようになるため、目に塗る目薬を必要としていました(黙示録 3 章 18 節)。終わりの日には、みことばの理解は忠実さと密接に関係してくるでしょう。ダニエル書には悪者はひとりも悟ることがないと書かれています(ダニエル 12 章 10 節)。ところで純粋な心を持ち、空っぽの頭をしている人に知恵を与えるのは神にとってたやすいことです。しかしながら、頭でっかちで知性を誇っている人に純粋な心を与えるのは容易ではありません。霊とまことが必要です。神は私たちにどちらも持っていてほしいのです。単純な人は教養のある人より救われやすい傾向があります。しかし救われた後には、単純だった人はそのままでいることはよくありません。
神の時間の枠組み
さて、これらのことを頭に入れながら、マタイ 10 章を見てみましょう。1 節から、
『イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。』
“イスカリオテ・ユダ”という名がどのような意味か知っているでしょうか。“郊外居住者ユダ”という意味です。5 節から続きます、
『イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。
病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い
出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。どんな町や村に入っても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。
いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。』(マタイ
10 章 1 節-24 節)
イエスが弟子たちを二人ずつで遣わされたとき、彼らはイエスの名のために総督たちや王たちの前に連れて行かれたでしょうか。いいえ。マタイ 10 章において裁判の中で聖霊が言うべきことを教えてくださったでしょうか。いいえ。兄弟が兄弟を死に渡し、親は子を死に渡したでしょうか。いいえ。イエスが弟子たちを二人ずつで遣わされたとき、イエスの名のためにすべての国々に嫌われたでしょうか。いいえ。そのときはどれも起こりませんでした。イエスは弟子たちを訓練しておられました。その前はバプテスマのヨハネが彼らを訓練したのです。今イエスは彼らを最初の予行演習に出して、「これらのことが起こる」
と言われたのに何も実現しませんでした。何が起きていたかというと、16 節でイエスは時間枠を完全に変えて話していたのです。
今日、再建主義者といって、イエス・キリストのために全世界を征服し、再臨の前に神の国を建て上げようと主張する人たちがいます。その人たちはこれらの預言が初代教会で成就し、自分たちが勝ち誇る教会になるべきであるなどと言います。これは完全にくだらないことです。神の国は今存在していますが、まだ来ていません。2種類の用語があります。ひとつは“開始された終末論(inaugural eschatology)”というもので、もうひとつは“実現された終末論(over-realized eschatology)”です。
“開始された終末論”とは神の国はもう挿入されていて、サタンの力は覆されており、サタンが勝利を収める可能性はないが、最終的な勝利はキリストの再臨までやって来ないというものです。ダニエル 7 章 21 節を見てみましょう。
『私が見ていると、その角は、聖徒たちに戦いをいどんで、彼らに打ち勝った。しかし、それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行なわれ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た。』(ダニエル 7 章 21節-22 節)
この箇所はマカベア家の話を再現しています。したがって、再建主義者たちはこの箇所はマカベア家や初代教会において成就され、私たちの時代が神の国なのだと主張します。これが“実現された終末論”であり、全くの誤りの教理です。将来に背教が起こり、迫害があり、反キリストが登場するのです。教会は勝利を得ます、しかしその勝利はイエスの再臨にかかっているのです。
十字架の問題
マタイ 10 章に書かれてあるもうひとつのことは、私たちが総督や王の前に連れて行かれ、イエス・キリストの名のために迫害を受けること、またしもべはその主人にまさることはないということです。
私の友人に、救われる以前 20 年間もクリスチャン・サイエンスに関わっていた人がいます。
E・W・ケニオンは、クリスチャン・サイエンスの創始者メアリー・ベイカー・エディ(1821
-1910)から影響を受けたと認めています。ケニオンの「私の体は嘘を付いている」という一連の考えは、クリスチャン・サイエンスから出てきたものであって、クリスチャン・サイエンスは医学を信頼していません。ケネス・コープランドやケネス・へーゲンらの教
えの多くはケニヨンから譲り受けたものであり、そのケニオンは自分の教えを確かにクリ
スチャン・サイエンスから得ました。
カルトや、キリストの福音を歪めた教えはすべて、例外なしに何らかの形でイエスの十字架を否定します。エホバの証人は十字架のことを十字架と呼ぶことさえ好まず、“苦しみの杭”と呼びます。そしてエホバの証人たちは救いが彼らの組織を通して、また組織への個人の献身を通してもたらされると主張しています。
これはローマ・カトリックとも同じことです。イエスは十字架上で「完了した」と言われました。しかしローマ・カトリックはミサがカルバリの丘でささげられたのと同じいけにえであり、繰り返しささげられるものだと主張します。ローマ・カトリックはイエスの十字架を根本的に否定しています。偽りの宗教です。カトリックの中には本当の信者がいるかもしれませんが、本当の信者ならそこから出てくる必要があります。そのような教えを信じ、参加しながらも神のみこころのうちにいることはできません。
また“イエスは霊的に死んだ”と主張するお金目当ての説教者たちがいます。ケネス・コープランド、ケネス・ヘーゲン、E・W・ケニオンら、またその支持者たちは、イエスが勝利を得たのは十字架上ではなく、地獄に行きサタンとひとつの存在になったときであると主張しています。このようなことを彼らは教えていて、十字架を根本的に否定しています。その結果としてどのようなことが起こってしまうのでしょうか?『しもべはその主人にまさりません』(マタイ 10 章 24 節)と書かれてあるように、イエスの十字架がその奉仕において見下されているために、十字架に付けられた生活は自分たちにとって重要ではなくなってしまいます。その代わりに「あなたが金持ちになることを神さまは望んでいる。決して病気にはかからない。神さまはあなたにあれやこれを所有してほしい」ということが教えられているのです。十字架はその方程式から取り除かれています。
そうです、この世にあるすべての歪められたキリスト教は、何らかの形でイエスの十字架を否定します。それと反対にパウロは「十字架を誇りとする」と書いています。昔書かれた賛美歌の中でも――直訳では「私は荒削りの古い十字架にしがみつく、そしてかの日に冠と交換する」(新聖歌 108 番)とあるように、私たちはその日に冠を与えられます。この世にいるときではありません。“神の国は今ここに”という教えはこれを否定し、今こそ冠を受けるときだと主張します。聖書が語っているのは神の国は今ありますが、まだ来ていないということです。しかし“神の国は今ここに”の支持者たちは今こそが神の国だと言うのです。
現在から未来へと切り替える
根本的な問題に戻りましょう。マタイ 10 章でイエスは使徒たちを遣わし、これらのことが
起こると言って警告しましたが何も起こりませんでした。マタイ 24 章を見てみましょう。
イエスは 1 節から 4 節まで神殿について語っています。イエスはダニエル 9 章の預言について語っており、メシアは第二神殿が崩壊する前に来て、死ななければならないということを説明していました。その後、イエスは使徒たちの生涯で起こる出来事や、神殿の崩壊について語りました。イエスはここでもマタイ 10 章でしていたのと同じこと―会話の真ん
中で時間枠を切り替えていたのです。マタイ 24 章も同じで―紀元 70 年についてのことを話していたと思えば、すぐに時間枠を切り替え、この世の終わりについて語っていたのです。これはもちろん、マタイ 25 章の預言を含んでいます。
同じことが使徒 2 章、聖霊が降り注ぎペテロがそのことについて説明しているときに見ら
れます。ペテロは使徒 2 章 15 節でヨエル 2 章を引用しています。
『今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。
すると、彼らは預言する。』
ペンテコステの日に預言は語られたでしょうか?語られませんでした。 19 節から
『また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。』(使徒 2 章 15 節-20 節)
天と地に不思議なわざが示され、血や火や煙がペンテコステの日にあったでしょうか?ありませんでした。太陽はやみとなり、月は血に変わったでしょうか?これも起こりませんでした。太陽は御子であるイエスの象徴であることを思い出してください。イザヤにこうあります、
『起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。』(イザヤ 60 章 1 節)
四福音書すべてにおいて、イエスがよみがえったのは日の出のときであったと記してあり
ます。太陽(sun)が昇ることは、御子(Son)が復活することの隠喩です。これに対して月は自ら光を放ってはいません。月はただ太陽から受けた光を反射します。これは教会がそのうちに何の光も持っていないが、イエスの光を反射することと同じです。私は聖書に書いてあるような天体現象が起こることを否定しているのではありません。私が言おうとしているのは、それが起こるときには、より深い事柄をただ反映しているにすぎないということです。地上にある教会にはイエスの光がもはや届かなくなり、教会は血で染まる――つまり迫害されます。私は文字通りの天体現象が起こらないと言っているのではありません。ただこのたとえの意味を理解しなければならないと言っているのです。21 節、
『しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』(使徒 2 章 21 節)
これはペテロの“カリグマ”と呼ばれていて、ギリシア語では文字通り“これはそのようになる”と書かれています。
そうです、マタイ 10 章でイエスが使徒を二人組で遣わし、彼らに対して起こると言われた
ことは実現しませんでした。マタイ 24 章においても、イエスは教会に対して起こることを告げましたが、当時の教会では完全に成就せず、ただ部分的に成就しただけでした。また使徒 2 章でペテロはこれから起ころうとしていることを告げましたが、どれも実現しませんでした。
では違った点からマタイ 10 章を見てみましょう。これらのことは誰に対して実現するのでしょうか。イエスは二人ずつ使徒を遣わし、彼らが総督や王に引き渡され、迫害されて、聖霊が言うべきことを教えてくれること、また家族にも裏切られるが、最後まで耐え忍ぶ者は救われることを語りました。これらのことはマタイ 10 章の使徒たちには起こりませんでした。しかしこれは誰に対して実現したでしょうか。これらのことはすべてイエスに対して実現しました。イエスの生涯の終りに起こったことは、私たちの教会の終りの日に起こります。私たちは統治者や王の前に連れて行かれ、人々は互いに裏切り合うが、最後まで耐え忍ぶ者が救われるのです。これらのことがイエスに起こったように、私たちにも同じように起こります。
再現され始める
一方でまた違った事柄があります。使徒の働きのはじめのほうで、これらのことは使徒たちに起こりました。使徒 4 章 18 節から 23 節を見てみましょう。
『そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはなら
ない、と命じた。ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。それはみなの者が、この出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。この奇蹟によっていやされた男は四十歳余りであった。釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。』(使徒 4 章 18 節-23 節)
ここで使徒たちが総督や王たちの前に引き渡され、会堂で非難され、聖霊によって誰も反論することのできない言葉を語りました。そして使徒 4 章 25 節から 26 節において彼らは
詩篇 2 篇から続けて引用しました。
『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。』(使徒 4章 25 節-26 節)
聖書は終わりの日における、この世から教会への迫害を多くの箇所で騒ぎ立つ海として表現しています。
詩篇 2 篇はイエスに対して起こりました。異邦人たちは立ち、主と油注がれた者に対して反抗したのです。今度は使徒の働きでそれが教会に対して行われています。このようなパターンは増加していきます。使徒 5 章 19 節から 25 節を見てみましょう。
『ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」と言った。彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間たちは集まって来て、議会とイスラエル人のすべての長老を召集し、使徒たちを引き出して来させるために、人を獄舎にやった。ところが役人たちが行ってみると、牢の中には彼らがいなかったので、引き返してこう報告した。「獄舎は完全にしまっており、番人たちが戸口に立っていましたが、あけてみると、中にはだれもおりませんでした。」宮の守衛長や祭司長たちは、このことばを聞いて、いったいこれはどうなって行くのかと、使徒たちのことで当惑した。そこへ、ある人がやって来て、「大変です。あなたがたが牢に入れた人たちが、宮の中に立って、人々を教えています」と告げた。』
(使徒 5 章 19 節-25 節)
この内容は非常に分かりやすいものです。マタイ 27 章 65 節を見てみましょう。
『ピラトは「番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい」と彼らに言った。そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。』(マタイ 27 章 65 節-66 節)
マタイ 28 章 11 節から 14 節まではイエスが復活された後のことを書いています。
『女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った』と言うのだ。もし、このことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」』(マタイ 28 章 11 節-14 節)
こう見てみると分かるのが、イエスが墓から御使いによって導き出されたように、使徒たちも御使いによって牢から連れ出されたのです。また祭司長たちが使徒 5 章 26 節で人々を
恐れていたことは、ルカ 22 章 2 節と同じことなのです。
もう一度繰り返しますが、マタイ 10 章においてイエスは使徒たちを二人ずつお遣わしになり、起こると言われたことは彼らにはその時起こりませんでした。しかしそれはまずイエスの身に起こったのであって、その後使徒たちや初代教会に起こり始めました。そこから分かるのがイエスに起こったことと、初代教会に起こったことは、また繰り返されるのであって、私たちに対しても起こることなのです。しかしどうしてそう言えるのでしょうか。またマタイ 10 章 17 節から見てみましょう。
『人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。』(マタイ 10 章 17 節-22a 節)
これらのことはマタイ 10 章では起こりませんでした。またルカ 21 章 12 節を見てみましょう。
『しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。』(ルカ 21 章 12 節)
ここで「これらすべてのことの前に」と書かれてあることに注目しましょう。教会は終わりが到来する前に迫害を受けるのです。13 節からつづけて読むと、
『それはあなたがたのあかしをする機会となります。それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。』(ルカ 21 章 12 節-19 節)
再び次の節から紀元 70 年のことへと時間枠は移ります。マタイ 10 章で予告されたことはその時成就しませんでしたがそれはイエスに対して起こり、また使徒たちと初代教会とに対して起こり、再び終わりの日にある教会に対して起ころうとしているのです。イエスは同じ言葉を使っています。私が意図的にルカの箇所を読んだのは、その考え方をしているのはマタイだけではないということを示すためでした。聖霊はルカの福音書にも同じことを啓示したのです。
しかし、これからこのミドラッシュはさらに目立つようになります。私たちが使徒の働きを読むとき理解しなければならないことは、それはただ1世紀の教会史を読んでいるのではなく、終わりの時代の教会史を読んでいるということなのです。
最初はキリストに、次はパウロに
ヨハネ 19 章 4 節から 6 節において、ラビたちはイエスに冤罪を着せ、ローマの権威に引き渡しました。この箇所においてポンテオ・ピラトはイエスを裁こうとする意思はありませんでした。これが始まりです。パウロの奉仕とその生涯の終わりの期間は、イエスの生涯の終わりに起こったことを繰り返しています。パウロにはラビたちによってあらぬ罪の訴
えがローマ人支配者に出されていましたが、使徒 18 章 12 節から 18 節においてローマ総督もパウロを裁こうとする意思はありませんでした。イエスに対して起こったことはパウロに対しても起こったのです。
マルコ 14 章 12 節から 15 節では、逮捕される時に先立って、イエスは弟子たちと過越の時
期に上の部屋で会い、パンを割きました。使徒 20 章 6 節から 8 節でパウロは彼の弟子たちと上の部屋で会い、捕われの身になる前にパンを割きました。
ヨハネ 10 章 15 節とマルコ 10 章 32 節から 34 節で、イエスはご自分の死を神のみこころ
だと受け入れ、付き従っている者に自分の死を予告しました。使徒 20 章 24 節から 25 節では、パウロは全く同じことをしました。
ヨハネ 11 章 8 節では、イエスの弟子たちは命の危険が迫っていることを思って、イエスに
ユダヤに行かないよう説得しようとしました。使徒 21 章 11 節から 13 節では、パウロの弟子たちもパウロの命を助けるために、エルサレムに下って行かないように説得を試みました。
マタイ 7 章 15 節や 24 章 11 節、マルコ 13 章 6 節、ルカ 21 章 18 節などはイエスが去った
後現れて羊を襲う狼についての警告であり、イエスはその警告を弟子たちとの 3 年間の関
係が終わるときに与えられました。使徒 20 章 29 節から 30 節でパウロは、3 年目の終わりに弟子たちの中に起こるにせ預言者について警告を与えました。
マルコ 15 章 12 節から 15 節やヨハネ 19 章 15 節、ルカ 23 章 21 節、マタイ 27 章 21 節か
ら 23 節などは、ラビたちに扇動された群衆がイエスの死を求めて叫んだことを記していま
すが、使徒 21 章 36 節と 22 章 22 節では、ラビたちに扇動された後、群集がパウロの死を求めていました。
マタイ 26 章 59 節から 61 節ではラビたちがイエスに対して偽証をつかもうとしていたことを記してあり、イエスは律法と神殿に逆らうことを教えたとしてあらぬ罪を着せられました。使徒 21 章 28 節ではパウロにも同じことが起こったと記されています――ラビたちはパウロが律法と神殿に逆らうことを教えていると彼に罪を着せました。
ルカ 23 章 8 節ではイエスがローマ市民政府の興味を引き、好奇心を起こさせたように、使
徒 22 章 30 節ではパウロもローマ市民政府の興味を引き、好奇心を起こさせました。このことが終わりの日にも起こるのです。政府は、私たちが他の人と何が違うのかを不思議に思い、初代教会に対してそうであったようにクリスチャンを好奇の目で見つめます。
ヨハネ 19 章とマタイ 27 章において、ローマ政府はイエスを釈放しようとしました。しかしイエスを釈放できないと分かると、無罪だと知っていながら、問題すべてをラビの権威へ委ねました。使徒 22 章 30 節と 18 章 15 節で同じことがパウロにも起きました。
マタイ 27 章 24 節ではローマ政府がイエスの件で暴動が起こるのを懸念して、仲裁するこ
とを余儀なくされました。使徒 23 章 10 節と 21 章 34 節から 36 節では、ローマ政府がパウロに関して暴動が起きるのを防ぐため、仲裁に入らなければならなかったことが記されています。
マタイ 26 章 4 節でラビたちがイエスを殺す策略を立てていたとき、ローマ総督はカイザリヤからエルサレムに下ってきました。同じような状況下でローマの地方総督はパウロの裁判を行うためにカイザリヤからエルサレムに下ってきました。使徒 23 章 12 節、21 節。
イエスはユダヤ人の兄弟によって異邦人と総督の手に渡されました。これはルカ 18 章 32
節、ルカ 23 章 1 節、マタイ 27 章 2 節に見られる具体的な預言に関する成就でした。パウロも具体的な預言の成就として、同じ境遇を味わいました。
ヨハネ 18 章 22 節でイエスは大祭司への話し方のために平手で打たれました。使徒 23 章 2
節ではパウロも同じ理由で打たれそうになりました。
マタイ 23 章 27 節でイエスは宗教的な偽善者のことを「白く塗った墓」と呼び、ペサハ(過
越)の時期に白塗りにされる墓のことをほのめかしていました。使徒 23 章 3 節でパウロは大祭司に向かって「白く塗った壁」と言いました。
イエスはルカ 20 章 26 節から 40 節で、パリサイ人とサドカイ人が一緒に向かってきたとき
に、復活の話題を使って彼らを巧みに操りました。使徒 23 章 9 節でパウロも同じ戦略を使いました。
“ユダヤ人が2人いれば、3つの意見が出てくる”という冗談を聞いたことがあるでしょうか。それは“ピルプル (pilpul )”として知られるものから来た言い回しです。“ピルプル”とはラビ たちの議論法で、どんな意見や立場でも正当化したり、批判するために使われ、他のラビ たちに関して注解をしているラビの権威をいくらでも引用するものです。これは議論のた めの議論であり、イエスはピルプルと関わりを持ちませんでした。山上の説教が終わった ときに、群衆はイエスが律法学者やパリサイ人のようではなく、権威のある者のように教 えられるのに驚いたとある箇所は、イエスが“ピルプル”と関わりを持たなかったという意味
です。イエスは率直に「こうである」とだけ言われ、当時のラビや現代のリベラルたちが
しているような神学論争やあらさがしはしませんでした。しかしひとつだけ例外があります。イエスはこれをパリサイ人とサドカイ人の間で論争を引き起こすために用いました。パウロも同じように、パリサイ人とサドカイ人の間に内輪もめを起こさせる目的以外にはピルプルを用いませんでした。
もう一度確認します。マタイ 10 章はイエスが語られたときには成就しませんでしたが、最初イエスに対して実現し、次に使徒たち、また非常にはっきりとパウロに対して起こりました――私がここに載せた以上に関連した箇所はあります。またマタイ 24 章とルカ 21 章を読むとそれが私たちにも起こることであると分かります。イエスに対して起こったことは初代教会に起こり、そのふたつの例が共に私たちに対して起こることが何かを教えているのです。ユダヤ的な預言は反復されるパターンです。複数の成就があり、それぞれの成就が最終的な成就に関することを示しています。私たちの結末を知りたいのなら、イエスの結末を見てください。終わりの時代の教会に何が起こるかを知りたいのなら、1 世紀の教会に起こったことを見るのです。
ヘブライ暦の象徴
そうです、私たちが使徒の働きを読むとき、それはただ過去の歴史を読んでいるだけではなく、未来の歴史をも読んでいるのです。初代教会は、春の雨と関連して、力強い聖霊の降り注ぎを経験しました。ヘブライ語の“マイム・ハイーム”つまり“生きた水”は聖霊の呼び名でもあります。雨が注がれることは聖霊が降り注ぐことの象徴です。イスラエルには春の雨と秋の雨(後の雨と前の雨)があります。初代教会に力強い聖霊の降り注ぎがあったように、終わりの日の教会にも力強い聖霊の降り注ぎがあります。これが初代教会に豊富な賜物が与えられ、終わりの日にもそれが復活することのひとつの理由です。そしてこれはイスラエルの雨期と関係があります。現在、再び大量のユダヤ人が救われているのもこのためなのです。収穫が来ています。
イエスはイスラエルの春の例祭を最初の到来において成就しました。過越の祭りはほふられる過越の子羊として、初穂の祭りは復活の初穂として、ペンテコステはイエスが聖霊を使徒たちに与えたときに成就されました。これらが春の例祭であり、春の雨が降り収穫を備えるときなのです。長く暑い夏は異邦人教会の時代と関連があり、その後イエスは再臨において秋の例祭を成就されます。秋に2度目の雨季が始まり、もうひとつの収穫期が来ます。使徒 2 章で引用されたヨエル 2 章は、はっきりと初代教会に見られたものが終わりの日に繰り返されると語っています。
このことは“賜物終結論 (Cessationism)”(御霊の賜物が初代教会で終わったとする説)の誤りに対する最も力強い論拠のひとつです。これを信じる人が間違って考えている、御霊の賜物は使徒とともに終わり、もう見られることはないという教えは、その対極にある“カリスマニア”と同じくらい極端なものです。真実はその中間にあります。御霊の賜物は初代教会に見られ、終わりの日の教会にも御霊の注ぎはあり、再び同じことが見られるのです。
聖霊の降り注ぎはしるしと不思議がその後に続きました。使徒 2 章 16 節から 21 節は、終わりの日の聖霊の降り注ぎもまたしるしと不思議がそれに続くと予告しています。しかし残念なことに、聖霊の降り注ぎとその結果であるしるしと不思議の後には、間違った教理や経験主義の神学、肉欲、霊的な賜物の誤用が続いていました――1 コリントを読んでみてください。今日ではどのようなことが起こっているでしょうか。御霊の賜物の後には、経験主義の神学や肉欲、性的不品行、与え主と賜物を置き換える人々、おかしな教理が続いています。初代教会が抱えていたのとそっくり同じ問題があります。
モーセの律法がクリスチャンとどのように関連しているかということが、使徒 15 章とガラ
テヤ 5 章において、初期ユダヤ人信者の間での対立的な問題となりました。また再び、メ
シアニック・ジューの間でその問題が起きています。過去 15 年間のうちに何万人ものユダヤ人が救われていて、初代教会の時代にあったのと同じ問題を私たちは今抱えています。
福音の動向
初代教会の時代に知られていた世界はローマ帝国や地中海を越えませんでした。しかし使徒 17 章 6 節を読むと、福音が当時の世界をひっくりかえしたことが分かります。マタイ 24
章 14 節では終りの日に神がもう一度地を震わせると主張されています。福音が地の果てまで宣べ伝えられることにより、神はもう一度地を震わせるのです。
韓国のように仏教徒が多数を占める国が、ひと世代のうちにキリストに立ち返ったことを私たちは目撃しています。地球上で最もイスラム教徒が多い国であったインドネシアでは、毎年 100 万から 200 万人ものイスラム教徒がムハンマドに背を向けて、キリストに自分たちの命をゆだねています。福音とキリスト教が西洋世界では衰える一方、発展途上国では急速に拡大しています。また福音はプロテスタント系の国々では衰え、ローマ・カトリック系の国々で爆発的に広がっています。そして異邦人が自分たちに与えられた真理と恵みを拒むにつれて、ユダヤ人が戻ってきているのです。
初代教会において、使徒 1 章 8 節で見られるように、神はユダヤ人を用いて異邦人に福音
を届けました。おそらく黙示録 7 章、また確実にローマ 11 章で『彼らの受け入れられるこ
とは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう』とあることを取り違えてはいけま
せん。神はユダヤ人を通して教会に恵みを与えようとされています。神はユダヤ人を用いて異邦人に福音を伝えようともされているのです。ちょうど1世紀にユダヤ人を用いて異邦人に福音を届けたように、終わりには神は異邦人を用いて福音をユダヤ人のところへ戻されます。それがなされると、神はユダヤ人信者を用いて教会を祝福されます。
反ユダヤ主義の復興
使徒 19 章 33 節、34 節を見ると、初代教会の時代には反ユダヤ主義が勃興していたことが分かります。終わりの日には、私たちは再び反ユダヤ主義が勃興するのを見るでしょう。聖書の中で神に選ばれた者と呼ばれている2種類の人たちは、ユダヤ人と新生したクリスチャンです。このことはすべて創世記 3 章で、神が蛇に向かって、蛇と女の間、蛇の子孫と女の子孫との間に敵意を置くと言われたときにさかのぼります。反ユダヤ主義と教会への迫害はコインの裏と表のような関係です。そのふたつを区別することはできますが、引き離すことはできません。
イスラム教徒はどの人たちを最も嫌っているでしょうか。ユダヤ人と新生したクリスチャンです。鉄のカーテンの背後にいた共産主義者たちはどのような人たちを一番迫害したでしょうか。ユダヤ人とクリスチャンです。ローマ・カトリック教会が何世紀にもわたって十字軍や異端審問、大虐殺などで迫害したのはどのような人たちだったでしょうか。ユダヤ人と新生したクリスチャンです。ロシア正教会が一番迫害したのはどのような人たちだったでしょうか。これもユダヤ人と新生したクリスチャンです。
すべては初代教会にさかのぼります。ローマ政府は教会と敵対した後に、ユダヤ人に牙をむきました。それが紀元 70 年に、また紀元 120 年から 132 年のバル・コホバの反乱で起こったことであり、確実に終わりの日に反キリストがなすことでもあります。反キリストは私たち教会に敵対し、次にユダヤ人に向かっていくでしょう。反ユダヤ主義は広まり、今でさえ、ある再建主義者たちによってそれは教会の中に入り込んで来ています。
マルティン・ルターは、間違いなく神の人でした。しかし彼が行きついた末路はひどく衝撃的なものでした。ルターは、農民の背を刺して殺し、ユダヤ人は囲いの中に集められて、ナイフの刃を突き付けてキリストを告白させなければならないと言い、ドイツ人は自分たちがクリスチャンであることを証明するために、ユダヤ人を殺さなければ非難されるべきだと主張しました。このようなことが現代の教会に再び忍び込んできているのです。
ユダヤ人を滅ぼそうとした腐敗した政治家たちは、いつもそれを神学的に正当化するため
クリュソストモスやルターのような人たちから引用してきました。現代も同じ状況が起こ
っています。私たちの時代に出版されたいくつかの本を読んでみてください。たとえば
『Whose Promised Land?』(約束の地は誰のものか)や『Blood Brother』(血を流した兄弟)などはイスラエルに対してひどい偏見を抱いています。人々はイスラエルに対しての憎しみを正当化し、神がユダヤ人のために抱いている終りの時代の目的を否定する奉仕者たちを見出そうとして、彼らは成功しているのです。しかし神がこの世を贖う計画は最終的にはイスラエルの贖いにかかっています。預言によると神がこの世を救われる計画はイスラエルの救いの計画と密接な関わりがあるのです。イスラエルは神の日時計です。これはユダヤ人の地位が高いとか、すぐれているとかいう意味ではありません。それでもなおイスラエルが神の日時計であることに変わりはないのです。
ローマの復興
ダニエル 7 章 19 節と 20 節、黙示録 17 章 9 節――ローマは初代教会の時代の世界を支配し ていました。私は確信を持って言えるのですが、ダニエル書の第4の獣はローマ帝国が再 編されたものになるでしょう。まだローマは終焉に至っていません。欧州評議会はローマ 条約によって創設されました。私たちが覚えておかなければならないことは、ローマ皇帝 はローマのパンテオン神殿のかしらであったということです。ローマ皇帝に向かってひざ まずいている限り、人はどのような神でも信奉することができました。ヘブライ語で“礼拝 する”と“ひざまずく”という言葉は同じ単語――“ヒスタカボート (Histachavot)”といいます。ローマ・カトリック教徒がマリア像の前でひざまずくとき、それは偶像礼拝の行為なので す。
皇帝を筆頭としてパンテオン神殿に入ってきたすべての神は、皇帝を全宗教と政治の霊的な指導者と認めている限り、人々はどのような神でも拝むことを許されました。皇帝は“ポンティフィカス・マキシマス (Pontificus Maximus)”すなわち“ポンティフ(Pontiff)”と呼ばれていました。コンスタンティヌス帝が首都をコンスタンティノープルに移してから、教皇はポンティフの名を名乗りました。教皇とポンティフは結局同じものになり――異教に物を贈る神がいたので、ポンティフはそれを聖ニコラウスと呼ぶことを決め、異教に愛の神がいたために、それを聖ウァレンティヌス(バレンタイン)と名付けました。アルテミスやミネルヴァなどすべて他の女神はマリアになりました。実質的にローマ・カトリックは同じ偽りの宗教のままなのです。これが終わりの日に再び起こることです。(ポンティフとは実際、橋渡しという意味です。この場合はさまざまな文化と宗教の仲介者となるということ)
ローマ人たちには公認宗教(religio licita)と非公認宗教(religio illicita)がありました。
公認された宗教はポンティフを指導者として認めている限り、許されていました。皇帝に
ひざまずくことを拒んだ非公認の宗教、最終的にこの分類に入る唯一の宗教は私たちの宗教です。ポンティフはキリスト教を非難しました。教皇ヨハネ・パウロ2世は、チベットの仏教徒たちから神として崇拝されているダライ・ラマと会見しました。教皇はゾロアスター教の祭司、まじない師、イスラム教のイマーム、正統派のラビ、カンタベリー大主教などとも会見し、すべての宗教を尊敬していると言い、神として崇拝されているダライ・ラマを“偉大な霊的指導者”として認めました!これが反キリストです。教皇はこの人たちにただ自分をポンティフとして認めるように要求しただけでした。
しかしながら、ポンティフであるヨハネ・パウロ2世が認めなかった宗教がひとつだけあります。7年前にボリビアで、また今から1年も昔ではないサントドミンゴ(ドミニカ共和国の首都)でこの教皇は新生したクリスチャンを“貪欲な狼たち”と呼びました。彼の中にも公認宗教と非公認宗教があります。私たちの宗教を除いてすべての宗教は彼にとって好都合なのです。これがポンティフが2千年前にしていたことであり、今も彼がしていることなのです。
ギリシア語での反キリストという言葉を見ると、それはただ“キリストに対して”という意味だけではなく、“キリストの代わりに”という意味を持っています。教皇のラテン語での称号は“ヴィカリアス・クリストス (Vicarius Christus)”、キリストの代理人というものです。“キリストの代理人”をギリシア語に訳すと“アンティクリストス (antichristos)”つまり反キリストとなります。
これが初代教会において起こっていたことであり、現在にも共通していることです。教皇ヨハネ・パウロ2世はひとつに統合されたヨーロッパにひとつの教会を望んでいると言いました。教皇は同盟を結んだヨーロッパがひとつしか共通に持っているものがないことをとてもよく知っています。それはローマ・カトリックです。聖公会は消え失せて、ローマのもとに下って行きつつあります。カンタベリー大主教であるジョージ・ケアリーは『The Meeting of Waters』(融合)という本を書き、聖公会が教皇の権威のもとに入ることを促しています。ヨーロッパ全域で、違った言語、違った文化、違った遺産を受け継いでいる人たちをひとつにできるのはローマ・カトリックであると教皇は知っています。彼はひとつのヨーロッパにひとつの教会ができることを望んでいるのです。言い換えると、16 世紀また宗教改革以前にあったものに戻ろうとしているのです。ポンティフは初代信者たちに向かってきました。そして今のポンティフが自分のしたいことを行うのなら――今その通りにしていますが――再び私たちに敵対するのです。救われたカトリック信者はバビロンから脱出する必要があります。
初代教会の時代には、多神教のローマは世界中の偽りの宗教の神殿となっていました。ロ
ーマが関わっているインターフェイス会談を見ると、確信を持って私が言えるのがローマその会談は何らかの形で世界の偽りの宗教が集まったもの、そして最後には政治体制と組み合わさったものとなるでしょう。偽りの宗教は信者を迫害しました。使徒 19 章 23 節-
29 節ではアルテミス礼拝に基づく具体例が示されていています。現代では世界中にマリア
礼拝で同じことがあります。マリア自身は救い主が必要だと言ったにも関わらず(ルカ 1
章 47 節)、ローマ・カトリックはそれを否定し、彼女を拝んでいます。
マリアは今までに存在した女性の中で最も偉大な人でした。ヘブライ語で“神の力強い者”
という名前の意味を持つ御使いガブリエルはマリアに言いました。
『あなたはどの女よりも祝福された方です』(ルカ 1 章 28 節)最も偉大な女性は自分自身についてどう語ったでしょうか。
『わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。』(ルカ 1 章 46 節-47 節)
マリアは「私には救い主が必要だ」と言いました。しかしながらローマはこれを否定し、マリアが胎の中から原罪を持っていなかったと主張します。このようなことはローマの中で頻繁に見られるようになります。
The Future History of the Church - Part 3 - Japanese
未来の教会史3
ジェイコブ・プラッシュ
エリヤ 昔と今
これについては説明できることがたくさんありますが、次のように説明しましょう。私たちはまずエリヤについて理解しなければなりません。
アハブ王はぶどう畑を欲しがりました――反キリストはダニエル書で麗しい地に入りました――しかし、アハブは簡単にはそのぶどう畑を取り上げられませんでした。そこで女王イザベルは彼のためにぶどう畑を我が物としようとしました。このことにより、エリヤフー・ハナヴィー(Eliyahu HaNabi)、つまり預言者エリヤとの争いに入ったのです。終わりの日に反キリストはそのぶどう畑を欲しがり、偽りの宗教体制を用いてそれを奪い取ります。このためにアハブはエリヤとの争いに陥ったのです。エリヤ、エリシャ、サムエル、またバプテスマのヨハネはすべてつながりがあります。ミドラッシュ的に、教会が思い付きもしない方法でそれらはつながりを持ちます。教会はギリシア的思考でユダヤ的な本を読んでしまっています。聖書中のどこでも、同じ地理的な場所で起こったことはミドラッシュ的につながりがあります。バプテスマのヨハネの奉仕はどこで行われたでしょうか?エリコの平原です。ここはエリヤの奉仕が終わり、エリシャの奉仕が始まったのと同じ場所です。サムエルは最後のさばきつかさでしたが、最初の預言者でした。バプテスマのヨハネは旧約における最後の人物でしたが、新約における最初の人物でした。使徒たちがユダの代わりを探しているとき、彼らは最初からイエスと共にいた者ではなく、ヨハネの奉仕の頃から共にいた者を探していました(使徒 1 章 21 節-22 節)。ヨハネは重要人物であり、過渡期にいた人物です。新約の時代はヨハネから始まりました。イエスからではありません。
バプテスマのヨハネとサムエルは誕生の際、同じような状況に置かれていました。人が奇跡的な状況で誕生するなら、そこには必ずミドラッシュ的なつながりがあります。エリヤとエリシャ、ヨハネは同じ霊を持っていました。そのように、邪悪な女が王をエリヤに敵対させました。同じことがヘロデヤとヘロデとに起こりました。邪悪な女が王をバプテスマのヨハネに敵対させたのです。これはパターンです。同じことが繰り返し、繰り返し起こります。両者に起こったことはエリヤに対して起こったことであり、それが終わりにも再びやって来ます。これについては語ることがたくさんありますが、とても複雑なもので
す。
アモス 8 章 11 節を見てみましょう
『見よ。その日が来る。――神である主の御告げ――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。』
物質的なことが霊的なことを反映していることを思い出してください。神殿の幕が裂かれた時、物質的な出来事は霊的な出来事を反映していました。イエスは終わりの日に飢饉がやって来ると言われましたが(マタイ 24 章 7 節)、物質的な飢きんはただ霊的な飢きんの写しにすぎません。バプテスマのヨハネがエリヤの霊をもってやって来たとき、イスラエルには 4 百年間預言者がおらず、彼は飢きんの中にいる神の民を養い、メシアの到来に民を備えたのです。
終わりの時代には飢きんがやって来ます。しかしなんらかの形で神の民はエリヤの霊にあって、養われ、メシアの到来に備えられます。エリヤが雨を止めた方法は、この世で聖霊の降り注ぎが無くなり、聖霊が取り去られることと同じです。しかしエリヤは異邦人の女を超自然的に養いました。彼女は教会の象徴であり、シェバの女王など聖書に登場する多くの異邦人の女と同じです。シェバの女王はソロモンの知恵を聞くためにやって来たとイエスが言われたのを覚えているでしょうか(マタイ 12 章 42 節)。
神の民はその飢きんの時代に養われます。ユダヤのカレンダーには雨が降り注ぐ時期と、収穫期があります。ユダヤ人が黙示録 10 章と 11 章を読んだなら、それをヨシュア記のミドラッシュだと呼ぶことでしょう。そこには同じ数字のパターンがあるからです。黙示録では七つの封印があり、七つ目の封印から七つのラッパが出てきます。数の集合です。それらのラッパは角笛を吹き鳴らす祭りと関連していて、それは最後のラッパ、またヨム・キプールに吹かれるラッパと関連しています――今これに立ち入ることはできませんが、これらのものはすべて一致します。ともあれ、七つある中の七つ目に七の集合があります。そしてその後に黙示録には天に半時間ばかり静けさがあったとあります。(私にとって、この節は聖書の中で最も複雑な箇所です――人の時間の数え方をどのように永遠に適用できるでしょうか。私はこの節を理解できていません)その次にゼカリヤ書で語られているふたりの証人が登場します。最後のラッパが吹き鳴らされると、『この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった』と本文は語っています。
ここでエリコの占領時に起こったことを見ていきましょう。彼らは町の周りを七度回り、
七日間そうしました。しかし七日目になると彼らは町の周りを七度回らなければなりませ
んでした。そうです。黙示録に書かれている同じ数のパターンがそこで登場します。ヨシュア記でエリコに遣わされたふたりの密偵は、裁きが下される前に異邦人の女、ラハブを救い出しに行きました。このふたりは黙示録に出てくるふたりの証人を予め示していたのです。黙示録はミドラッシュを用いてヨシュア記の記述を再現しています。ですが私の知る限り、このような解説をどの注解書にも見つけることはできません。なぜならギリシア的思考を持っている人たちがそれらすべてを書いているからです。
モーセは出エジプトに備えてイスラエルの子らを養いました。ヨセフは飢きんの期間その全世界を養いましたが、モーセはエジプトを去るようにとイスラエルを養ったのです。これはもちろん、復活・携挙の象徴です。最初の過越では暗やみがあり、ユダヤ人たちだけが過越の食事を食べるために家の中に灯りがありました。イエスがご自分の最期に直面されたとき、ご自分の弟子たちに起こることのために彼らを養いました。使徒 20 章ではパウロが彼の最期を覚悟してそこを去る前、上の部屋に行き、パンを裂き、弟子たちを養いました。使徒 20 章にはその部屋には多くのともしびがあったと書かれてあります。目は体の
ともしびです。聖書にはもし目が健全なら、体もまた健全だと書かれてあります(マタイ 6
章 22 節)。ゼパニヤ 1 章にはユダヤ人が過越の際に行う“ベディカット・ハメツ(Bedichat
Chametz)”が暗に示されてありますが、その時期にはそれぞれの家にパン種が無いか、住んでいる人たちが探し回ります。
『その時、わたしは、ともしびをかざして、エルサレムを捜し、…と心の中で言っている者どもを罰する。』(ゼパニヤ 1 章 12 節)
パン種は聖書の中で罪の象徴です(1 コリント 5 章 6 節-8 節)。ユダヤ人は過越の食事を食べる前に、家の中からすべてのパン種を除き去ってしまわなくてはいけませんでした。それは私たちが主の食卓にあずかる前に人生の中からパン種を除き去るべきであるのと同じことです。もう一度言いますが、昔のブレザレンは主の聖餐について、他のクリスチャンよりも多くのユダヤ的理解を有していました。
『わたしは、ともしびをかざして、エルサレムを捜し』
終わりの日のイエスが戻って来られる前、正しい教えによってシオンからパン種が除き去られます。
『からだのあかりは目です。』(マタイ 6 章 22 節)
イザヤ書から引用されたエペソ 6 章の武具のことを考えてみてください。それはナホム書
とイザヤ 52 章で語られています
『良い知らせを伝える者の足は、山々の上にあって、なんと美しいことよ。』(イザヤ 52 章 7 節)
エペソ 6 章は次のように忠告しています
『足には平和の福音の備えをはきなさい。』(エペソ 6 章 15 節)
教会はひとつの体です。その足は伝道者です。一方、からだの明かりは目です。これは教師について語っていて、教師とは見て、光(理解)を与える者です。なんらかの形で、エリヤの奉仕は終わりの日において教師のともしびに油を入れることになるでしょう。イエスは使徒たちを養いその後にパンを裂き、5 千人を養い、人々を 50 人に分けて養いました。
50 とは聖霊の数、ペンテコステです。エリヤはオバデヤを通して預言者の子らを 50 人ずつに分けて養いました。その食物はひとつの源から来ましたが、裂かれ、多くの集団に与えられました。私はこれを完全には理解しきっていませんが、これはパターンであり、どのようにしてか再びそのように繰り返されます。
エリヤは終わりの日に他の教師たちを養うようになります――エリヤが誰であれ、皆さんがどう理解しているか分かりませんが。その“エリヤ”がひとりの人物であれ、ひとつの運動であれ、ふたりの人であれ、他のものであったとしても私はここで深入りはしません。私は一旦確実に理解したこと、またどのような意味で、どのような機能があるか聖霊が完全に示してくれたことしか教えません。ヤコブは『多くの者が教師になってはいけません。』(ヤコブ 3 章 1 節)と語りました。神はあなたがた教師でない人たちよりも、私に多くの責任を追及されます。それゆえ、神が私に見せてくださったと確信を持つまで、私は何事も教理的に教えることはしません。
ダニエル 11 章に登場するマカベア家はこの点でエリヤに似ています
『民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。』(ダニエル 11 章 33 節)
箴言の中で、邪悪な女が両刃の剣のような真理を持ち(箴言 5 章 4 節)、油よりもなめらかだと言われています。これが欺きの本質です。もし人が神の知恵に欠けているなら、欺きに対して無防備になります。私たちが両刃の剣よりもするどいものを持っているため、彼らも似たものを持っています。私たちが注ぎの油を持つがゆえに、彼らも油よりなめらか
なものを持ちます。それらが良いわけではありません。しかし偽造されるのです。ダイヤ
モンドに関しても、もしその人が専門的な鑑定能力を持っていなければ、本物と偽造された物の違いを言い当てることはできません。磨かれたガラスや価値の無いものから出来た偽のダイヤでもとてもよく本物に見え、宝石商しか偽物だと分からない場合があります。複製品でもとても優れた品質の偽のダイヤなどは、専門家でさえ最初は見極めるのが難しく、あらゆる種類の焼灼(しょうしゃく)検査を行わなければなりません。同じように、今日のクリスチャンたちが明らかに間違ったものにはまり込んでいるなら――マタイ 24 章は終わりの日についての箇所ではないと言っているリック・ゴドウィン(Rick Godwin)らに騙されているなら――説得力のある嘘に直面した時にどうなるのでしょう?乾いた地で立つことができないなら、ヨルダンの密林においてどうやって持ち堪えられるでしょう?
(エレミヤ 12 章 5 節)また人々が「名を挙げて要求しなさい」などのくだらないものに騙されているなら、本当の欺きが来たときにどうなってしまうのでしょうか?
終わりの日の教会は、数多くのことのために分裂が起こることになります。そのひとつの要素は妥協する教会と、妥協しない教会の分裂です。もうひとつ教会を分裂させることになるものは、イスラエルへの神の役割とその召しです。三つ目は、聖書の権威と、聖書を解釈する方法です。他の事柄もあるでしょうが、この三つの問題のために教会が分裂することになります。エリヤに対して起こったことはこの患難について教えています。
ノアの日のように
終わりの日を示すもうひとつの聖書箇所は『ちょうどノアの日のようだ』(マタイ 24 章 37節)と言われた箇所です。ペテロの手紙では、ノアの直面した問題がひとつの観点から書かれています。ノアは義なる教師で人々に警告をしましたが、もう手遅れになるまで人々は聞き従いませんでした。これがノアの未信者に向けたメッセージです。それは第二ペテロ 3 章 9 節から 10 節にあります。
『主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。』
これを皆さんがどう解釈するか分かりませんが、アインシュタインとオッペンハイマーが発見するまで、誰も原子が分裂する際に爆発的なエネルギーを得るという意味での亜原子
粒子のことを知りませんでした。素粒子物理学などが知られるずっと以前、原子が分裂す
ると誰も考えもしなかった昔から、このガラリヤ出身の漁師は原子を分裂させることが可能であると語っただけではなく、それによって全世界を崩壊させるだけの爆発的なエネルギーを得ることが可能だと書いたのです。これがギリシア語においてまさにこの箇所で語られていることです。
ここでペテロは未信者に向けてのノアの日の警告を語っています。彼らはもう手遅れになるまで聞こうとせず、救われていない人たちは手遅れになるまで私たちの言うことを聞こうとしません。船は教会の象徴です。ノアの箱舟はその寸法によっても何らかのことを意味しています。とはいえ、これは未信者への警告です。彼らが耳を傾けなかったのは、自分たちの罪や不品行で満たされていたからであり、ただ残りの者たちだけが守られるのです。
しかしながら、イエスはマタイ 24 章でノアの日のようになるともう一つの側面から警告されました。
『人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。』(マタイ 24 章 37 節-
39 節)
飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりすることです!未信者は不品行について警告を受ける必要がありましたが、クリスチャンは一時的なものに夢中になることについて警告を受けなければなりません。
飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりすることに何ら悪い点はありません。しかしながら、終わりの日におけるクリスチャンに対しての危険性は、それらがクリスチャン生活の最大の関心事となり、信者がそれに熱中してしまうということです。次のことを覚えておくのはとても重要です。この世にあるもののために私たちは存在しているのではないということです。結婚したり、レストランに行ったりすることに本質的に悪いことはありませんが、それらのものがある人の生活の中心になってしまうと、その人は問題を抱えています。そのような人はイエスの再臨に準備ができていないのです。
それだけではなく、奉仕が偶像となってしまう危険性もあります。神の国を建てる代わりに自分たちの帝国を築いてしまうのです。
『畑にいる者は…』
――宣教の畑にいる者は――
『…着物を取りに戻ってはいけません。』(マタイ 24 章 18 節)
イエスは『あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう』と言われました(マタイ 4 章
19 節)。
考えてみてください。弟子たちは夜通し漁をしていましたが、イエスから網を投げる場所を教えてもらうまで何も獲れませんでした(ヨハネ 21 章 3 節-6 節)。漁をすることは伝道の象徴であり、そのように物事は起こります。イエスが彼らの漁を導かれた時、彼らは他の船を呼んで、助けに来てもらわなくてはなりませんでした。イエスさまが私たちの伝道を導かれるとき、同じ奇跡が起こります。ひとつの教会でリバイバルが起こると、それは他の教会にも広がります。
ヨハネ 21 章で漁をしている時、ペテロは主が待っているということを知り、非常に変わったことをしました。たいていの場合、泳ごうとしたなら、シャツを脱いで水に飛び込むでしょう。しかしペテロは自分の上着を着ました。なぜなら彼の上着はイザヤ書や黙示録にあるように救いの衣の象徴だったからです。ヨハネ 21 章 7 節で、「主です」という声があってから彼はすぐさま船から飛び込みました。その時、ペテロは漁をしていたのであって、象徴的に自分の奉仕に精を出していました。しかしイエスが来られるとすぐさま自分の奉仕を忘れました。イエスさまが来たからです。終わりの日には奉仕でさえ偶像になってしまう危険が真にあります。イエスさまがいつも第一優先でなければなりません。私はもっと多くのクリスチャンがこれを考えてくれることを望みます。私自身もよくこれを考える必要があります。
どれくらいの時間が残されているか?
アメリカのバスケットボールを考えてみてください。そこにはほぼ超人的な能力でバスケットボールをこなすアフリカ系アメリカ人選手がいます――彼らの能力は驚くべきものです。彼らにとっては試合の時間があと 2 時間残されていようと、30 秒であろうと関係がありません。試合にたった 10 秒しか残されていないとしても彼らはものすごいエネルギーや活力、集中をもってこなします。彼らはその時間で勝負を変えられると考えているからです。試合に 1 時間残っていたとしても同じことでしょう。しかし試合終了のブザーが鳴る
と同時に、激しいプレーは終わります。私たちもそうであるべきです。私たちも今行って
いることに完全に集中すべきです。イエスさまが戻って来るまでにあと 3 日であろうと、
300 年であろうと関係がありません。私たちは彼らと同じように、変わらない集中力、活力、激しさをもってこの試合をこなすべきです。しかし最後のブザーが鳴るとそれで終わります。これが私たちのあるべき姿です。
いつも真夜中の鐘は鳴ろうとしています。ヨハネはその手紙で今が終わりの時だと言いました。ギリシア語で示されているのは時間が凍りついたというものです(1 ヨハネ 2 章 18節)。イスラエルは諸国民に対しての神の日時計です。なぜ初代のクリスチャンたちは終わりの日だと言ったのでしょうか?これを説明しましょう。
ある日、ハロルドがテレビでラグビーを見ていると、スーザンが言いました。「いつ晩御飯にしたい?」その時、6 時 10 分前だったので「ええっと、あと 10 分たったらにするよ。
ラグビーの試合がもう 6 時で終わるんだ」そう言われたのでスーザンは晩御飯を電子レンジに入れて、ボタンを押しました。すると突然、6 時 10 分前にラグビーのグラウンドで負傷者が出て、レフリーは時間を止めました。医療班が出てきて医者無しにはこの選手を動かせないと言いました。そして医者が来ると、ある決まった運び方をしなければならないから救急車が必要だと言いました。その負傷者についてどうすることも出来ず、ゲームの残り時間は後回しにされました。ですが、試合にあと何分残っていたのでしょう?10 分です。10 分前に試合には 10 分残っていましたが、その時点から試合は前に進んでいません。試合の残り時間はいつも 10 分ですが、その負傷した選手が動かされるといつでも時計は再びスタートします。この時が異邦人の時です。これがイスラエルが神の日時計であるという意味です。
ネブカドネザルは聖書の中で多くのことを象徴しています。彼は聖書の中でとても興味深 く、複雑な人物です。黙示録に登場する七つの教会は、第一世紀の小アジアに文字通り存 在していた七つの教会です。またそれらはいつの時代でも存在する教会の七つの種類、特 に黙示録 4 章までの終わりの時代に存在する教会のことです。一方で、私が確信している のが、それらが教会史の中の重複する期間に関連しているということです。それらギリシ ア語の教会名はそれぞれ意味を持っています。“エペソ”は“継続しない”、“スミルナ”は“没薬”、
“ペルガモ”は“離婚した”、“テアテラ”は“継続するいけにえ”などです(私たちはこのテーマについての詳細な一連の説教を提供しています)。とはいえ、その七つの期間は黙示録 4 章、幻の主要な部分に至るまでに起こっています。ネブカドネザルは切り倒され、彼の周りに鉄の鎖がかけられました。聖書には彼が再び繁栄しないように鉄の鎖がかけられたとありますが、その七つの期間の終わりに鉄の鎖は取り去られ、彼は再び繁栄しました。これは同じことです。私の考える限りでは教会の時代はダニエルの 69 週と 70 週との間に起こり
ました。どのようにかしてルカ 21 章 24 節またローマ 11 章に言われているように異邦人の
時は終わりを迎え、その後に時計は動き始めます。試合にはいつも 10 分残されているのです。時間は凍りつきました。
従って、いつもこの時が“終わりの日”なのです。ノアの日に関して考えると、私たちは未信者に対して不品行を警告する必要がありますが、自分たちに関してはこの人生に執着してはいけないことを警告されなければなりません。ノアの日について理解するために私たちはノアの物語に戻って、それを読んでいく必要があります。
ネフィリム 昔と今
クリスチャンになったばかりの頃、私はドラッグ文化から救い出されたヒッピーでした。私たちはイエスが次の週にでも戻って来られると思っていたので、一日に 8 時間伝道していました。他に何のすることがあったでしょう。その中で他の惑星に住む神々や、UFO を信じている人たちと多く会いました。
ジミー・カーターがアメリカの大統領になったとき、彼は「ビューローレポート(The Bureau
Report)」と呼ばれる文書を機密解除しました。それはアメリカ空軍、NASA、中央情報局によってまとめられたものでした。すべてが機密解除されたわけではありませんが、カーター元大統領は大部分を機密解除しました。彼らは宇宙生物学から地球外生命体の証拠を発見しませんでしたが、多くの人々が超心理学を用いて、地球外のように見える現象を引き起こしていました。これらのことを現実にするカルト信奉者たちさえいました。同じような調査がイギリスでもなされました。ビューローレポートはとても恐ろしい文書です。地球外生命を信じることに科学的な根拠はありませんが、オカルトの中ではきちんと記録された根拠があります。イスラエル人でスプーン曲げを披露しているユリ・ゲラーは、他の惑星の人々が自分をメシアになるよう説得しようとしていると言いました。
堕落した者であるネフィリムは創世記において特異な存在です。彼らはノアの洪水を生き抜いたと思われます。ユダヤ人がカナンの地に来たときに遭遇したネフィリムと、そのネフィリムが同じであったかどうかは、神学者の中でも意見が分かれるところです。誰も核心を握ってはいません。ある人は同じであると言い、またある人は違うと言います。もしそれが同じならば、彼らが何らかの方法で大洪水を生き抜いたということです。ともあれ、彼らは“堕落した者”であり、聖書は彼らが人間の女性と性的に交わったと書いています。
さて、今日流行している“解放のミニストリー”の大半は聖書的な根拠を持たない、ゴーストバスターズ的な無意味なものです。私は真剣に疑っているのですが、これらの人たち大半
が実際に本当の悪霊につかれている人を前にするとそれを対処できるのでしょうか――これは冗談ではありません。私は、悪霊と性的関係を持っていた黒魔術師から悪霊をかつて追い出したことがあります。
アメリカのテレビで、イギリスにいる魔女のことが放送されていて、彼女は救われた時の証をしていて、悪霊と性的な交わりを持っていたことを話していました。他の人も目撃したようです。この種の行為はノアの日にも存在し、終わりの日にも再び現れます。なんらかの形で、ノアの日のように半分悪魔の人間――事実上の怪物ですが――が再び地上に現れるようになります。私たちはオカルト行為の増加、特にこの種の悪魔崇拝を目撃するようになります。それは人が悪霊たちと関係を持つ段階まで至るのです。このようなことはすでに見られるようなっていますが、将来に増加の一途をたどります。
人は完全に堕落しています。私は大学で科学を専攻したので、科学自体を否定することはありません。しかし、人が堕落しているという事実はそこにあります。したがって、科学自体を否定する気はないのですが、堕落した人の手に科学が渡るとき何が起こるかを私は知っています。遺伝子工学を用いて残虐な行為がなされることは想像に難くありません。人は次第にDNA をクローンし、スターリンを再創造したり、スターリンの家系全体を復元したりすることができるようになります。私が大学で生物学を学んでいたときにはサイエンス・フィクションに思われていたことが今この時代に実現しています。もはや空想ではないのです。
私は次のことを確信しています――これは教理的に語っているのではなく、私の意見ですが
――この世は、UFO や地球外生命体などのものが関係する大きな霊的惑わしのために備えられています。それらは例えばデヴィッド・ボウイのアルバムやスピルバーグの映画で見られるものです。聖書は“堕落した者たち”について語っています。天から堕ちた者たち、ネフィリムです。この宇宙は洗浄される必要があります。このような地球外の現象は、現在進行している霊的惑わしの大きな部分を占めると確信しています。私は遺伝子工学の発達を危惧しています――学問の発達自体ではなく、この種の技術が堕落した人の手に渡ることです。それが、“サイエントロジー”やこれらの種類の団体が実際行っているようなカルトと組み合わされれば、行く末は恐ろしいものとなります。なんらかの形でノアの日には悪霊たちの肉体的な現われがありました。これはイエスの再臨の前の終わりの日において、なんらかの方法で再び起こることになります。これ以上推測することはしませんが私は物事が進んで行っている方向が分かります。このような世界に対して私たちは子どもを備えなければならないのです。これを考えてみてください。キリスト教系の学校など信じられないでしょう。
ロトの時代 昔と今
スミルナ、エリヤの時代、ノアの時代のそれぞれは、ソドムの罪と同様になんらかの形で患難について教えています。使徒ヤコブが殉教の死を遂げた後、イエスの従兄弟であったシメオンの指導の下、信者たちはエルサレムからペラと呼ばれる場所、ペトラではなく、ペラへと逃れました。信者たちは教会の携挙が紀元 70 年に起こると考えていたのです。ローマ人たちを通り抜け、救い出された時――ヨセフスがこれを記していますが――彼らはイエスがその時到来すると思っていました。これが携挙の主要な予型です。これは終わりに起こることを教えています。周りを囲まれ、神の民が救い出され、破滅が来るというこの考えは非常に重要なものです。これが紀元前 720 年のサマリアの陥落で起こったことであ
り、またエルサレムの崩壊、紀元 70 年にローマの元で二度目にエルサレムが陥落した時に
起こったことです。これは神の民が救い出され、裁きがやって来るということです。
なんらかの形で、ロトの家族を救い出した二人の天使は、エリコでラハブを救い出した二 人の斥候、また黙示録での二人の証人と関連があります。彼らは皆なんらかの方法で同じ ことを教えています。ロトの娘たちはソドムの崩壊をこの世の終わりのように考えていま した。ロトの妻が振り返り、ソドムに未練を持っていたことはイエスが警告していたこと に似ています――その時が来れば振り返ってはいけません。この世に執着してはいけません。ロトは信仰の弱い信者を象徴しており、彼のためにとりなしの祈りをしていたアブラハム はイエスを象徴しています。塩は腐敗を防ぎます。一旦、塩が腐敗を防がなくなり、光が 差さなくなると、神は真にご自分のものである民のために介入され、裁きが下ります。
終わりの日において、本当の信者でさえも多くの問題を抱えるようになります。ロトがその分かりやすい例で、多くの点で信仰の弱い信者を表しています。ある時点まで彼はあのような邪悪な場所で快適に暮らしていました。
イザヤ書 28 章は旧約聖書の中で、終わりの日に関して最も重要な箇所のひとつです。そこでは終わりの時代のメッセージが語られていて、『この啓示を悟らせることは全く恐ろしい』(イザヤ 28 章 19 節)と言われています。聖書の深い意味が明らかにされるとき、そこには“恐ろしさ”があるのです。ハバククが未来を見たとき、それがとても恐ろしかったので、神に将来を変えてくれるよう願いました。しかしそうはできないと神は言いました(ハバクク 2 章 1 節)。何かとてつもなく恐ろしいことが起こりますが、神は真にご自分のものである民のために介入されます。
ロトの義理の息子たちのことを思い出してください。警告されたとき、彼らはロトの言葉を真剣には受け取りませんでした。それゆえ彼らは救い出されなかったのです。ロトは逃
げ、彼の娘たち、彼の妻も逃げました。彼の妻は救い出されましたが振り返ってしまいま
した。イエスは熱心な信者たち――イエスの再臨を望み、この世に執着していない者のために戻って来られます。このような人たちが再びソドムから救い出されるのです。
取り返しのつかなくなる時
赤ん坊は神の愛の究極のしるしです。未信者の人でもこれを理解できます。夫婦に初めての赤ん坊ができたとして――起こってはほしくないことですが――その赤ん坊の体調が思わしくなく、死に直面しているとき、赤ん坊が引き替えに生きられるのなら、両親は自分のいのちさえ惜しくないと思うでしょう。神は、ご自身がどれだけ私たちを愛しているかを教えようとして、そのような愛を創造されました。イエスは私たちが生きるためにご自分のいのちをささげました。赤ん坊は両親をひどくイライラさせるかもしれません――夜泣きをしたり、色々なことをするでしょう――ですが、それでも親は「これが私の赤ん坊だ。この子のために死ぬこともできる」と言うのです。神はご自身がどれくらい私たちを愛しているかを教えようとしてこの愛を創造されました。
イスラエルが取り返しのつかなくなった時は、悪霊たちやモレク、他の神々に自分たちの子どもを犠牲にした時です。現代の社会では中絶がなされる理由として医療的なもの――子宮外妊娠や膣がん、など――すべてを除いたとしても、西洋諸国でなされている中絶のほんのわずかの割合にしかなりません。大半の中絶が非医療的な理由でなされています。言い換えると、社会的または経済的な理由なのです。イエスさまはこれを「マモン(富の神)崇拝」と呼びました。注意してください。医療目的ではない中絶は神学的に、また霊的に悪霊崇拝とつながっています。神はイスラエルをそのために裁かれ、またアメリカとイギリスに対してもこのために裁きを行われます。人がこの神の愛の究極のしるしを悪霊にささげるなら、それが神の忍耐の限界となります。これにはまた戻ってきましょう。
ソドムの罪は同じようなものでした。私たちは人間の性についての神学を理解する必要があります。聖書は、キリストが教会のかしらであるように、夫は妻のかしらだと語っています(エペソ 5 章 23 節)。クリスチャン生活でのセックスは、イエスがご自身の花嫁のところに入り、実り豊かにすることの反映です。これは結婚における性的な愛が、性欲をかき立てるものでないとか、楽しいものではないと言いたいのではなく――それは聖なるものであるということです。創世記では神が共に下ってきて、創造者としての愛をもって、被造物を生み出しました。複数である神は共に下ってきて――ヘブライ語は“エハッド”――“複数からなる一”であり――被造物を創りました。神は私たちを神の御姿に似せて創造されました。したがって、神の愛にあって男性と女性が子を産むとき、
私たちは神の創造を再現しているのです。神は被造物を生み出した方であり、私たちは
神の御姿に似せて造られたので、私たちも子を産むように造られています。神が意図した人の性は神格の中の関係、また教会とキリストの関係にさかのぼる深い霊的な重要性を持っています。サタンの明確なしるしは、いつも神と反対のことを試みるということです。神の設計した性的な関係は喜びを受け合い、与え合う関係であり、異性愛のものです。現代世界にはびこる最も大きな二種類の性的倒錯は、疑う余地もなく同性愛とサディズム/マゾヒズムです。神の反対を行うという原則のために、これらのものはどちらも明確なサタンの特徴を有しています。異性愛の代わりに、性はねじ曲げられ同性愛になっています。喜びを与え合い、受け合う代わりに、セックスは痛みを与え、受け合うものとなっています。私は結婚したカップルが積極的なセックスを楽しむのが悪いと言っているのではありません。私は性の倒錯を憂慮しているのです。
ポップシンガーのマドンナがタイムズ紙かニューズウィークマガジンで昔取材を受けていました。私はそれを読んでいました。彼女はセックスについてのビデオを出していて、内容の大半がサディズムとマゾヒズムでした。彼女がこれについて聞かれ、なぜそこに性的魅力を見出すのかと尋ねられると、彼女は自分がローマ・カトリックの家庭で育ったために、厳しい男性の権威に辱められ、罰せられるのが好きだと答えたのです。皆さんがローマ・カトリックをご存じなら、彼女はある点で的を射ています。ローマ・カトリックは十字架の否定を通して、人々の上に罪悪感を植え付けます。十字架が罪悪感を取り去るものであるために、その十字架を取り去り、ミサの教理と共になるとローマ・カトリック教徒たちは深い罪悪感の問題を抱えるのです。多くの場合、ローマ・カトリック教徒が救われると、この罪悪感のコンプレックスから抜け出すには多くの時間がかかります。
私たちの社会には同性愛とサディズム/マゾヒズム両方が増え広がっています。最近ロンドンでは、レズビアンの女校長がいる学校が、ロメオとジュリエットを授業の一環で子どもたちに見に行かせるのを拒否しました。それはロメオとジュリエットが「あからさまな異性愛」だったからです。これはソドムの終わりの日を描いています。またイギリスとアメリカの終わりの日も描き出しています。裁きは神の家から始まり、それには“キリスト教系”諸国も含まれています。例を挙げると、ハリウッドやマリブで起こっている地震や山火事、地滑りなどの増加があります。神はイスラエルをこれらのために裁き、西洋諸国もそのために裁かれます。私たちはイスラエルよりひどいことを行ってきたので、イスラエルより罪深いのです。
偽預言者 昔と今
さらに、聖書は「バビロンは倒れた」と語っています(イザヤ 21 章 9 節、エレミヤ 51 章
8 節、51 章 44 節、51 章 49 節、黙示録 14 章 8 節、18 章 2 節)。聖書はエレミヤとイザヤからこのテーマを取り、黙示録で用いています。またそれは神殿が崩壊するというダニエル書のテーマと共にです――マタイ 24 章を見てください。エレミヤやダニエル、イザヤたちはバビロン捕囚に至る前に現われた預言者たちでした。この期間――捕囚に至るまでと捕囚時――にイスラエルに起こったことは、この世の終わりに起こることの象徴です。このために黙示録とマタイ 24 章はこれらのテーマを繰り返し、イスラエルと教会に対して様々な方法で適用しているのです。
エレミヤ 5 章 30 節から 31 節を見てみましょう
『恐怖と、戦慄が、この国のうちにある。預言者は偽りの預言をし、祭司は自分かってに治め、わたしの民はそれを愛している。その末には、あなたがたは、どうするつもりだ。』
預言者たちは偽って預言をし、指導者たちは自分の権威で人を導き、それを神の民は愛していました。現代のひとつの例は、ジョン・ウィンバーとポール・ケインが主の御名によって偽って預言した後に、それを信じた同じ人たちが再び彼らを見にバスに乗って行っていた事実です。エレミヤは彼らの国に下る神の裁きを警告していました。同じ 5 章の 27 節を見てください。
『彼らの家は欺きでいっぱいだ。だから、彼らは偉い者となって富む』
彼らはラオデキヤのように、物質的に富んでいるために神から祝福され、神の好意を得ていると考え、裁きがすぐそこに迫っていると認めたくはありませんでした。それがラオデキヤの教会です。エレミヤは真実を語っていました――「神の裁きが来る。悔い改めなければならない」ですが彼らは「いいえ、私たちは富んでいて、神は私たちに金持ちになってほしいんだ」と言います。エレミヤは裁きを警告していたのに、人々は否定していました。私たちは同じことを現代の「繁栄の信仰」を教える説教者たちや再建主義者たちのうちに見ます。「預言者は偽りの預言をし、…わたしの民はそれを愛している」気付いてほしいのが、彼らのことを「わたしの民」でないとは言っていないということです。
エレミヤ 28 章を見てください。ハナヌヤはカンザスシティーのにせ預言者たちのように、起こりもしない大それた予測を立てました。15 節ではこう言われています
『そこで預言者エレミヤは、預言者ハナヌヤに言った。』
――彼が預言者でなかったとは言われていません――
『「ハナヌヤ。聞きなさい。主はあなたを遣わされなかった。あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。それゆえ、主はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたを地の面から追い出す。ことし、あなたは死ぬ。主への反逆をそそのかしたからだ。』」』(エレミヤ 28 章 15 節-16 節)
ウィンバーよ、あなたは神の民を偽りに拠り頼ませた。ボブ・ジョーンズよ、あなたは神の民を偽りに拠り頼ませた。ポール・ケインよ、あなたは神の民を偽りに拠り頼ませた。彼らは実際そうしたのです。これは事実であり――彼らのビデオや本を読むと、彼らが同じことを行ったことを確かめられます。これが当時起こったことであり、イエスはご自身の再臨の前にこのようなことが起こると言い、現在まさに同じことが起こっています。このような人たちはグノーシス主義であり、エキュメニズム的です。「ローマ・カトリック教徒のまま死者に祈ってもよろしいですよ。神はそれを忌むべきことだと呼んでいますが、何ら問題はありません」と彼らは教えます。バビロン捕囚に至るまで、また捕囚時に起こったことは終わりの日の教会に起こることの主要な象徴です。またソドムとゴモラ、アハブとイゼベルに対峙したエリヤの生涯、スミルナの教会の時代、ノアの日、イスラエルとサマリアの終わりの日々にも同じことが言えます。そして、バビロン捕囚以前に神の裁きを引き起こしたのは子どもを悪霊にささげる行為であり、医療目的でない中絶は神の裁きを西洋にもたらす要因になると私は確信を持っています。
同じように、イスラエルの社会がバビロン捕囚以前に秩序を無くし、神の差し迫った裁きの特徴があらゆるところに現われたとき、人々は「私たちは富んでいる。神は私たちに金持ちになってほしい。私たちは勝利を得る。王様の子どもたちだ。エレミヤ、あんたは偽預言者だ」と言っていました。これは今日も同じです。神の来るべき裁きの特徴があらゆるところに現われ、社会は秩序を無くしています。しかし、人は神が私たちを富ませようとしているだとか、私たちは王様の子どもだ、勝ち誇る教会だと吹聴して回っています。そうです。これがイエスがマタイ 24 章で繰り返し警告していたこと、教会を欺く偽預言者のことです。
リック・ジョイナーは『収穫(The Harvest)』という本を書き、共産主義の繁栄を実際に予測し、それが発展途上国全体を飲み込み、アメリカの一部にまで広がり、西洋の主要な他の場所にも及ぶと語りました。しかしながら、それとまさに正反対のことが起こりました。それでも人々はこの男や彼と似たような人たちが真実の預言者であるかのように従っていくのです。「預言者は偽りの預言をし…わたしの民はそれを愛している」
用語が再定義される時
列王記や歴代誌、またエレミヤやイザヤ――捕囚に至るまでの過程を読むとき、私たちは終わりの時代について読んでいます。箴言 5 章 10 節を覚えているでしょうか、
『そうでないと、他国人があなたの富で満たされ、あなたの労苦の実は見知らぬ者の家に渡るだろう。』(箴言 5 章 10 節)
ヒゼキヤ王は自分の富をバビロンの王に見せてしまいました(2 列王記20 章 12 節-18 節)。終わりの日には、バビロン、偽りの宗教制度の繁栄が起こります。彼らは主の宮の宝を欲しがります。福音派たちがエキュメニカルになるとき――ジョン・ウィンバーやジョージ・ケアリーなど――彼らは私たちの宝をバビロンの王に見せ、バビロンの王はそれを奪い取るようになります。バビロン捕囚以前に起きたこと、またそれを引き起こしたこと――子どもをささげること、バビロンの王に私たちの宝を見せること、真実の預言者に聞き従わず偽預言者たちに従っていくこと、神が私たちを富ませたいと思っていると考え自分たちが富んでいるため大丈夫だと思うようになること――これらと同じことが終わりの日に先立って起こるようになります。
このグノーシス主義すべて、またその他の誤りはどれもエリート主義、簡単に言うと、霊的な高慢に基づいています。これに注意してください。私は最近、ロジャー・フォスター
(Roger Foster イギリスで始まった信者の行進運動の創始者のひとり)から手紙を受け取りました。私が彼に対して霊魂消滅説が間違っていると言ったことが気に入らなかったようです。彼は永遠の地獄は無いと主張していたので、私は地獄に関して「永遠に」続くと使われているギリシア語を見せ、その同じ言葉が神の栄光またイエスの大祭司職、私たちの救いに関して使われていることを示しました。それゆえ、もし地獄での苦しみが永遠のものでなければ、神の栄光も、イエスの大祭司職も、私たちの救いも永遠のものでなくなるのです。未信者の人たちに悔い改めてイエスの元に来なければ、死んだ時に存在は消えてしまうと言ったなら、彼らは「だから何なんだ?おれたちもそう信じているじゃないか」と言われるでしょう。残念ながらこれがマーチ・フォー・ジーザス(March for Jesus)の背後にある神学なのです。それがグラハム・ケンドリック(Graham Kendrick)とロジャー・フォスターの信じていることです。人々はそれに気付いていません。私はクリスチャンが共に立ちあがってイエスの御名を宣言し、福音を宣べ伝えることに賛成です。ですが支配主義神学では空に向かって宣言することが伝道と置き換えられています。グラハム・ケンドリックはとても才能に恵まれたミュージシャンであり、讃美歌作者です。おそらくチャールズ・ウェスレー以来の逸材だと人々は言います。しかしながら、彼の曲のすべてにはこの支配主義――「私たちは宣言する、私たちは公表する、勝利を収めている」などの
考えが含まれています。本当の問題は次のものです。グノーシス主義を対処するとき、そ
の支持者たちは私たちと同じ用語をいつも用いていますが、その用語に違う意味を持たせているということなのです。これを説明しましょう。
ローマ・カトリックの神学者とプロテスタントの神学者が神学フォーラムでエキュメニカルの対話をしたとしましょう。プロテスタント側は「私たちは恵みによって救われた」と言い、イエズス会側は同意して「そうです、私たちは恵みによって救われました」と言うでしょう。どちらも意見を同じくし、宗教改革が間違いであったかのようです。しかしながら、“恵み”を意味するヘブライ語は“ケセッド(chesed)”であり、それは契約の中にある神の慈しみです。ギリシア語では“カリス(charis)”であり、“賜物”を意味します。英語の意味は“受けるに値しない好意”であり、ラテン語の“グラジア(grazia)”から来ました。したがって私たちが“恵み”のことを話すとき、このようなことを私たちは考えるのです。しかしながら、ローマ・カトリック教徒にとって恵みとは、祭司による秘蹟によって得られる何かこの世のものではない物質なのです。それゆえ、両者とも「私たちは恵みによって救われた」と同意することができますが、“恵み”という言葉によって、二つの全く違ったことを意味しているのです。
ニューエイジ運動に関わっている人に証をする時、あなたは「私は光を見た」と言うかもしれません。そう言うのは、ヨハネ 1 章に書いてあるこの世に来た真実の光のことを考えているからです。ですが彼らも答えてこう言うでしょう。「私も光を見ました」。ただ彼らは「宇宙意識を悟ること」について語っているのです。どちらの人もそれぞれの証をするときに、光を見たと言うことはできますが、どちらも“光”という言葉の定義によって二つの違うことを意味しているのです。
同様に再建主義者たちが“勝利”や“御国”、“征服”、“支配”、“宣言”などの言葉を使うとき、彼らは私たちが使っているのと違う意味を持たせています。このような人たちはちょうどローマ・カトリック教徒や、ニューエイジ信奉者のように、聖書的な用語を非聖書的な方法で用いるのです。実際ローマ・カトリック、再建主義、グノーシス主義はすべて同じ場所から発生しました。それはアレキサンドリアです。それらはみなアレキサンドリア神学に根を下ろしています。
神殿 昔と今
私たちは神殿についての考えをここで話す必要があります。イエスはこの世の終わりについて話す際、マタイ 24 章で紀元 70 年の神殿崩壊について話し始めました。イエスは『こ
の神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう』(ヨハネ 2 章 19 節)と言
われました。彼はそこでご自分の体について話しておられたのです。
人は神の御姿に似せて造られています。私たちは神殿のようです。コリント人への手紙でパウロは「あなたがたは聖霊の宮であることを知らないのですか」と言いました。神殿は箱の中に箱があり、またその中に箱があるというものです。外庭があり、そして聖所、またコデシュ・コデシーム(Qodesh Qodeshim)すなわち至聖所があります。外庭は私たちの物質的な体と関連しています。聖所は私たちの思考や感情、知性を象徴しています。私たちのたましいです。至聖所は私たちの内に神の霊が宿るところに関連しています。これを理解するとクリスチャンから悪霊を追い出すといわれる多くの混乱状態が分かり、それを撲滅できます。しかし、クリスチャンであっても悪霊の影響下に置かれる可能性はあり、圧迫されることや、体や、時にはたましいまで侵入されることがあるでしょう。しかし悪霊に“憑かれる”ということは、内なる人の中に悪霊が入ることを指しており、その場所はクリスチャンにとって神の霊が宿る所なのです。これはあり得ません。イエスに従っているクリスチャンが悪霊に憑かれることはあり得ません。ギリシア語の“エクバロー(ekballo)”という言葉は“投げ出す”という非常に強い意味を持つ言葉です。私たちはそこから“バリスティック(弾道学)”という言葉を得ています。そのギリシア語は聖書中のどこにおいてもクリスチャンとの関わりで使われることは一度もありません。
イエスはご自分の体のことを神殿と呼ばれました。覚えているでしょうか。イエスの最期の日々に起こったことは初代教会にも起こり、そして使徒たちの終わりの日々にも起こったということを。これらのことは終わりの日の教会に何が起こるかということを共に教えています。再びヨハネ 2 章 19 節を見てみると、イエスは言われました
『この神殿をこわしてみなさい。わたしは、…それを建てよう』
物質的な神殿はイエスの体の象徴でした。ヘブライ語でホセアのことは“ ホシェア
(Hoshea)”と呼ばれます。この“シェ(sh)”の音はヘブライ語の構造のためにイエスとのつながりを示しています。ヘブライ語は語根に基づいています。あるふたつの違った言葉でも同じ語根があれば、ふたつの言葉はたいてい互いに何らかの神学的つながりを持っています。ミドラッシュでは同じ語根、ショーレーシュを持つ言葉はその解釈において、たいてい確立したミドラッシュ的なつながりがあります。ホセアのその“シェ”という語根は
“救い”を意味しています。イエスの名前はイェシュアでした。イザヤの名前はイシャヤフーであり、ヨシュアの名前はイェホシュアでした。その“シェ”の音があればいつでも救いと関連した意味があり、その“シェ”の音を持った人物はすべてイエスについて何らかの方法で教えています。
ホセア 6 章 2 節を見てみましょう
『主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。』
ここで分かることがあります。イエスに起こることは私たちにも起こるのです。新約聖書は七箇所で教会が“神殿”または“幕屋”だと言っています。聖霊はレンガを接着させるセメントのようなものです。第一ペテロ 2 章 5 節には
『あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、』
とあります。教会は聖なる宮、神殿であり、私たちがそれを構成する石です。ヘブライ語で“交わり”は“ヒートハブルット(hitchabrut)”といいます。ペテロの書簡はユダヤ人に対して書かれ、彼の奉仕はガラテヤの手紙で言われているように、主にユダヤ人に対してでした。それゆえ彼はとてもユダヤ的な視点から手紙を書きました。ユダヤ的な“交わり”の考え方は“ヒートハブルット”、つまり“組み合わされたレンガ”なのです。教会に来るということはひとつのことですが、交わりに入るのは別のことです。誰でもその建物に入ることはできますが、壁の中のレンガとなることは全く違ったことです。私たちの壁にひとつのレンガが欠けていたなら、その建物には何か問題があります。もしあるクリスチャンが教会に組み合わされていなければ、何か教会に問題があるのです。彼や彼女は組み合わされるべきです。私たちはその石だからです。
ミドラッシュ的にシュロの主日には何が起こったでしょうか?ルカ 19 章 37 節から 40 節に
は次のようにあります。イエスさまが神殿の丘に来たとき、人々は詩編 118 編からのハレル・ラバーを歌っていました――「ダビデの子にホサナ!」そこでパリサイ人は驚いて、静まらせるように言いました。しかしイエスは『もしこの人たちが黙れば、石が叫びます』と言い、神殿のヘロデによって据えられた石を指し示しました。言い換えると、「ユダヤ人がわたしをメシアだと宣言しなければ、クリスチャンが宣言する」ということなのです。パリサイ人とユダヤ人指導者たちは、自分たちがアブラハムの子孫だということで特別だと考えていました。しかし荒野にいるバプテスマのヨハネのもとに行くと、ヨハネは『神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになる』(ルカ 3 章 8
節)と言ったのです。何らかの形で、イエスの体に起こったことは紀元 70 年の神殿の崩壊
の際に繰り返されました。使徒 15 章ではダビデの幕屋が教会として建て直されるとアモスから引用されています。これは私たちにも起こることです。神殿は再び崩壊しますが、栄光のうちによみがえります。
初代教会は神殿のすぐ外にあるソロモンの廊で会合していました。神が古い神殿を壊そう
としているまさにその時に、すぐ隣に新しい神殿を造り始めていたのです。新しい神殿の準備が出来ると古い神殿は取り壊されました。これは私たちも同じことです。神は新しい神殿、新しい幕屋を建てようとされています。
エルサレムにあるその古い神殿は崩壊して、紀元 70 年の帝政ローマの侵入と共にその場所に荒らす憎むべきものが据えられました。それは神の宮に対する政治的支配を象徴していました。エラストゥス主義(Erastianism)、または国家的教会に注意してください。その考えは全くもって危険なものです。イエスが『カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい』(マタイ 22 章 21 節)と言われたとき、三つの問題を扱っておられました。最初の問題は、旧約のユダヤ教の中でも、ある種の国家と教会の分離があったということです。王はダビデの子孫でなければならず、大祭司はアロンの子孫である必要がありました。これはマカベア家時代の後、ハスモン王朝時代のヨハネ・ヒルカヌスの治世(紀元前 134-104)に複雑になってしまいました。この背景からイエスはこのことを扱っていました。
二つの契約間のつながり
二つ目の問題は二つの契約の間にある区別でした。エレミヤ 31 章に言われているように、新しい契約は古いものとは違ったものとなります。
『わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、…彼ら(先祖たち)と結んだ契約のようではない。』(エレミヤ 31 章 31 節-32 節)
彼らは国家的教会を持っていました。エレミヤの時代の民は国家的な契約に属しているため、自分たちは神と正しい関係にあると考えていました。エレミヤは「新しい契約はもはやそのようではなくなる。神はあなたの心にご自分の律法を記される。個人の応答に基づくものとなる」と語りました。バプテスマのヨハネも同じことを語りました。イエスは来て、その国家と教会の関係を取り除きました。神殿は崩壊したのです。
後にパウロはローマ 2 章で「それはもう終わった。新しい契約は古いものとは違ったものになる」と書きました。しかしイエスが取り除くとエレミヤが語ったまさにそのこと、バプテスマのヨハネが予告したまさにそのこと、イエスが死をもって取り除いたまさにそのこと、またイエスによって取り除かれたとパウロが確信していたことをコンスタンティヌス帝は元に戻しました。その後、宗教改革者たちは聖書に戻ることをせず、元に戻してし
まいました。カトリック系国家教会の代わりに、今度はプロテスタント系国家教会が出来
たのです。真の意味で教会を聖書に立ち返らせるために必要なことは、初めに国家と教会の非聖書的な婚姻関係を崩すことでした。第二のことはアウグスティヌスの「目に見える教会と目に見えない教会(The Visible and Invisible Church)」という偽りの教理を取り除くことでした。なぜならそれは教会が信者と未信者で構成されると教えていたからです。このような人たちはこれを取り除くことに失敗したので、本質的に古い契約の元に戻ってしまいました。
覚えておいてほしいのが、サタンは教会を異教化する前にユダヤ教化したということです。ローマ・カトリック主義とプロテスタント主義はどちらもユダヤ教化されています。彼らはエラストゥス主義、国家的宗教に戻り、どちらも数世紀にわたって相容れない信者たちを迫害しました。反キリストは最終的にそのように教会と国家を結婚させます。これがイエスさまが三つ目に警告していたことです。国家宗教は完全に非聖書的なものです。事実、本当の終末論が暗示していることを理解するなら、それは忌むべきものです。イギリスはジェームズ王(キングジェームズ)のような同性愛の王をいただき、今はニューエイジの国王が王座につこうとしています。その王たちすべてが本来キリストに冠せられるべき
――“教会のかしら”という称号を付けています。
使徒の働きを読むとき、それはただ単に過去の歴史を読んでいるのではありません。私たちは未来の歴史をも読んでいます。エレミヤやイザヤ、バビロン捕囚時の王たち、また捕囚に至るまでのことを読むとき、私たちは過去の歴史と共に未来の歴史をも読んでいるのです。同じことがダニエル書やダニエルが予告したマカベア家の歴史、ソドムとゴモラ、ノアの日についても言えます。イザヤ書には神は『終わりの事を初めから告げ』ているとあるのです(イザヤ 46 章 10 節)。
船の象徴
今、最終的な描写を見ます。再び言いますが、これは象徴です。私はこれを教理の基礎としているのではなく、真理を説明するものとして用いています。マルコ 4 章と 6 章では船が波に飲まれそうになる記事を読みます。これは患難の中にある教会の象徴です。地はイスラエルと関連していて、海は国々と関連しています――「なぜ国々は騒ぎ立つのか」などの箇所です。とはいえ、最終的な船は使徒 27 章に見られるものです。そこでパウロはマタ
イ 24 章 45 節で時に従って食べ物を与える忠実なしもべのように、また世界中を養ったヨセフのように、出エジプトに備えるためイスラエルの子らを養ったモーセのように振る舞っています。この象徴を見てみましょう。使徒 27 章 1 節から
『さて、私たちが船でイタリヤへ行くことが決まったとき、パウロと、ほかの数人
の囚人は、ユリアスという親衛隊の百人隊長に引き渡された。』(使徒 27 章 1 節)
思い出してください。パウロはカイザルの前に立たなければなりませんでした。カイザルは反キリストの象徴です。2 節、3 節
『私たちは、アジヤの沿岸の各地に寄港して行くアドラミテオの船に乗り込んで出帆した。テサロニケのマケドニヤ人アリスタルコも同行した。翌日、シドンに入港した。ユリアスはパウロを親切に取り扱い、友人たちのところへ行って、もてなしを受けることを許した。』(使徒 27 章 2 節-3 節)
(つながりが理解できるなら)ダニエル書にあるように彼らは「小さな助け」を受けました(ダニエル 11 章 34 節)。そして 4 節、
『そこから出帆したが、向かい風なので、キプロスの島陰を航行した。』(使徒 27 章
4 節)
ギリシア語での“風”は“ニューマ(pneuma)”であり、ヘブライ語では“ルアハ(ruach)”です。どちらも“霊”と同じ言葉です。
風には良いものと悪いものがあります。最も悪い風は北東からの風です。地中海に北東からの風が吹くとき、それはガリラヤのカルメル山脈を通り、ガリラヤ湖に吹き下ろし、荒々しい波を引き起こします。カルメル山脈の峡谷はピストン効果を生み出し、ガリラヤ湖に激しい波を作り出します。これがパウロの乗った船が遭遇した風です。ユダヤ人のカレンダーを見てみるなら(それは農耕用のものですが)、雨が降る時期と風がどの方向に吹くかが分かります。歴史の中で大きな影響を持つ霊的な力があったように、風にも向かい風と良い風があります。しかしながら最後にはその霊的な力はこの上なく敵対するようになります。5 節を続けて読みましょう、
『そしてキリキヤとパンフリヤの沖を航行して、ルキヤのミラに入港した。そこに、イタリヤへ行くアレキサンドリヤの船があったので、百人隊長は私たちをそれに乗り込ませた。幾日かの間、船の進みはおそく、ようやくのことでクニドの沖に着いたが、風のためにそれ以上進むことができず、サルモネ沖のクレテの島陰を航行し、その岸に沿って進みながら、ようやく、良い港と呼ばれる所に着いた。その近くにラサヤの町があった。かなりの日数が経過しており、断食の季節もすでに過ぎていたため、もう航海は危険であったので、パウロは人々に注意して、「皆さん。この航
海では、きっと、積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも、危害と大きな損失
が及ぶと、私は考えます」と言った。しかし百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した。また、この港が冬を過ごすのに適していなかったので、大多数の者の意見は、ここを出帆して、できれば何とかして、南西と北西とに面しているクレテの港ピニクスまで行って、そこで冬を過ごしたいということになった。おりから、穏やかな南風が吹いて来ると、人々はこの時とばかり錨を上げて、クレテの海岸に沿って航行した。』(使徒 27 章 5 節-13)
パウロは自分たちが困難に突き進んでいることを知っていました。彼はそれをどう避けるかを警告しましたが、大多数は本当に何が起こるかを知っている人に聞き従おうとしませんでした。そして風向きが変わり、状況が良くなったとみえると「ほら、あんなやつに従わなくてよかったじゃないか」という態度を示したのです。
再建主義者たちは鉄のカーテンが崩壊した時、「ほら、ハル・リンゼイはおかしいといったじゃないか。ロシアはイスラエルに侵略なんかしない」と言いました。しかしロシアにおける反ユダヤ主義は当時から高まる一方で、旧ソ連に属していた 4 つのイスラム教国がありますが、少なくともそのひとつが核兵器を備え、イスラム原理主義が隆盛を極めています。これは同じことです。『人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります』(1 テサロニケ 5 章 3 節)
米ブッシュ元大統領は“新世界秩序(New World Order)”について語りました。数週間後、彼と英メージャー元首相はペルシア湾岸諸国に数万もの軍隊を投入して、それは第二次世界大戦以来の大きな戦争となったのです。次に彼らはサダム・フセインが新世界秩序の脅威になると考え、彼を取り除こうとしました。しかし彼はまだそこにいます。そして次にユーゴスラビア、中東と続きました。世界のどこにも長く続く平和は無く、特に世界のその特定の地域に平和は存在しません。これはダビデの子、平和の君がユダヤ人とアラブ人に認識されるまで続きます。中東には偽りの平和があります。私はそれがゼカリヤの預言した偽りの平和であるかは確信が無いのですが、もしそうでないとしても、確かにその前触れとなるものでしょう。物事は改善していくように見えます。しかし思い出してください。これはまるで陣痛のようなものです。少しの間痛みはましになるかもしれませんが、子宮収縮は次第に強さを増し、前回よりも激しさを増します。
世のものを取り除く
使徒 27 章 14 節で次に起こることを見てください
『ところが、まもなくユーラクロンという暴風が陸から吹きおろして来て、船はそ
れに巻き込まれ、風に逆らって進むことができないので、しかたなく吹き流されるままにした。』
教会はその進む方向と目的地を自分の力ではコントロールできませんでした
『しかしクラウダという小さな島の陰に入ったので、ようやくのことで小舟を処置することができた。小舟を船に引き上げ、備え綱で船体を巻いた。また、スルテスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて、船具をはずして流れるに任せた。』
彼らは方向を制御することを諦め、ただ船が浮くことだけに気を遣っていました
『私たちは暴風に激しく翻弄されていたので、翌日、人々は積荷を捨て始め、』(使徒 27 章 14 節-18 節)
初代信者たちはこの世のものを捨て去らなければなりませんでした。終わりの日において、私たちは注意深くしていなければ、自分の持っているものに所有されるようになります。私たちに必要な態度は、私たちが持つものすべてはイエスに属しているというものです。もし私がお金持ちであっても、現実には一文無しですが、それは私のものではありません。私はただイエスに属するものの管理人だからです。反対に、もし私が何も持っていず、4 年間も無職だとしても、実際私は富んでいます。なぜなら私はキリストとの共同相続人だからです。これ以外の態度は非聖書的で、不健全であり、私たちを問題に突き当らせるものです。彼らは船を救うために積荷を投げ捨て始めました。ブラジルにいるとても貧しいクリスチャンたちを私は知っています。彼らは自分たちの家や車を売って教会を建てます。西洋のクリスチャンはそのような自分たちの積荷を捨て、自分たちの教会を救うためにこの世のものをはぎ取ることを良しとするでしょうか?そのような人は多くはいないでしょう。
さらに 19 節から見てみると
『三日目には、自分の手で船具までも投げ捨てた。太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた。』(使徒 27 章 19 節)
太陽も星も光を放ちませんでした。イエスはアブラハムに彼の子孫は天の星のようになると言われました。星が光を放たないとき――アブラハムの子孫たちがその光を隠すとき――
イエスの栄光は不明瞭になります。イザヤ 13 章 10 節から 11 節には次のようにあります
『天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。』(イザヤ 13 章 10 節-11 節)
これが使徒 27 章で起こったことです。船は暴風に翻弄されていました。何が起ころうとしているかを知っている人たちは大多数によって無視され、その大多数は真理を知りたがりませんでした。
カリスマ派運動に何がこれから起こるかを知りたいなら、イザヤ 24 章 7 節を読んでください
『新しいぶどう酒は嘆き悲しみ、ぶどうの木はしおれ、心楽しむ者はみな、ため息をつく。陽気なタンバリンの音は終わり、はしゃぐ者の騒ぎもやみ、陽気な立琴の音も終わる。』(イザヤ 24 章 7 節-8 節)
これがカリスマ派運動の終焉です。みことばの真理に基づいている限り、喜びと礼拝には活躍の場があります。一旦自分たちの教理を経験に基づかせてしまったり、聖書以外の基礎を持ってしまうと何も喜ぶことは無くなります。その先には滅びしか期待すべきものがありません。しかしながら、イエスさまは私たちを保とうとされています。
危機における正しい声
使徒 27 章の 21 節から続けると
『だれも長いこと食事をとらなかったが、そのときパウロが彼らの中に立って、こう言った。「皆さん。あなたがたは私の忠告を聞き入れて、クレテを出帆しなかったら、こんな危害や損失をこうむらなくて済んだのです。』(使徒 27 章 21 節)
もし人々が真理を語っている教師に聞き従い、聖書の方法で群れを導いている牧師に従う知恵を持っていたなら、教会に起こっている大半のことは理論上、避けることができたものです。しかし人々は耳をくすぐる者たちに従っていきます。現代、アメリカにいる有名な再建主義者たちや繁栄の説教者たちは大きな教会を持っています。なぜ彼らの教会が大きいかを知っているでしょうか?人々がそこで救われているからではありません――人々はそのような教会で救われたのではないのです。ペンテコステ派教会についていえば、彼
らはデイビッド・ウィルカーソンやニッキー・クルーズ(Nicky Cruz)などの伝統的なペンテコステ派の教会で救われています。再建主義者たちや繁栄の説教者らが大きな教会を持っている理由は、繁栄の福音や神の国は今という神学をもって耳をくすぐられたい人々を他の教会から引き込んでいるからです。もし、人々が神のことばに従い、その警告に注意していたなら、理論的には教会に来る大半の破滅や裁きを逃れることができたでしょう。
22 節を読むと
『しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』』(使徒 27 章 22 節-24 節)
私が確信していることは、イエスの戻って来られる前に悪霊による活動が増えるだけでなく、天使による活動も増えるということです。25 節から
『ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。』(使徒 27 章 25 節)
パウロの自信と落ち着きとを見てください。ただのいんちきと聖霊が語られた時の油注ぎとの違いは聖霊の声を聞いていたなら分かります。26 節から
『私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」十四日目の夜になって、私たちがアドリヤ海を漂っていると、真夜中ごろ、水夫たちは、どこかの陸地に近づいたように感じた。水の深さを測ってみると、四十メートルほどであることがわかった。少し進んでまた測ると、三十メートルほどであった。どこかで暗礁に乗り上げはしないかと心配して、ともから四つの錨を投げおろし、夜の明けるのを待った。』(使徒 27 章 26 節-29 節)
14 という数字は興味深いものです。ユダヤ人の系図は 14 という数字、7 の二倍を重要だと見なしています。彼らは自分たちの意図する議論にとって重要な神学的意味を持つ先祖だけを系図に載せました。例えばイエスの系図では、イエスがメシアだと示そうとするマタイの神学的理論に従って神学的重要性のある人だけが、14 人ごとに載せられています。14とは次の出来事に移行する中間状態といえます。良い例は何といってもマタイ 1 章 17 節です
『それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移
住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。』(マタイ 1 章 17
節)
これが聖書で頻繁に用いられている 14 という数字のひとつの例です。このパターンはパロ
の幻にも登場します。パロは 7 年間の幻を二度見ます。その収穫と飢きんも終末論に関係しています。
(この聖書の数字学に関してより多くの事柄がありますが、学ぼうとしている量に時間が追いつきません)
試みの時の一致
続けて読んでいきましょう。使徒 27 章の 30 節から
『ところが、水夫たちは船から逃げ出そうとして、へさきから錨を降ろすように見せかけて、小舟を海に降ろしていたので、』(使徒 27 章 30 節)
終わりの日には多くの者が堕落します。背教者について考えてみましょう。ユダの手紙の中では教会の中にいる背教者について書かれています。教会の中には外にいるのと同じくらい多くの背教者がいます。箴言では心の堕落している者は自分の道に甘んじると書いてあります(箴言 14 章 14 節)。背教者たちは離れようとするとき何かを企てます。彼らは教会に来なくなり、交わりに入らず、祈祷会にも来なくなります。そして次々に言い訳を考えるのです。彼らは人を操り、悪巧みを企むようになります。彼らが本当にしていることは、船の“オーナー”から離れ去ってしまったために、船から降りようとすることです。31節から
『パウロは百人隊長や兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたも助かりません」と言った。』(使徒 27 章 31 節)
交わりはいつでも重要なものです。第一ペテロの手紙のように、ヘブル人への手紙はとてもユダヤ的な書であり、ユダヤ的な交わりの概念を引き合いに出しています。
『ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。』(ヘブル 10 章 25 節)
もし極めて重要な場所から多くのレンガが外れたならば、その建物の屋根は落ちてしまい
ます。クリスチャンは一緒になって立つか、ひとりになって立つことができなくなるかのどちらかです。
このことを限定させてください。一致には御霊の一致と人の一致があります。聖霊は真理の霊です。何か嘘の上に聖霊の一致を築くことは出来ません。エキュメニカル運動やインターフェイス運動はこれを試みていますが、嘘の上に一致を建てています。しかしながら、真の御霊の一致はただ真理の上に築かれるものです。エキュメニズムは欺きの上に一致を建てており、彼らはある種の“霊の一致”を持っていますが、問題はどの霊であるかということです。人々が“聖霊の一致”と呼ぶ多くのものは実際、組織的な運営のために神のことばの真理を妥協した人の手による一致です。
養われ、救われる
使徒 27 章 32 節から
『そこで兵士たちは、小舟の綱を断ち切って、そのまま流れ去るのに任せた。ついに夜の明けかけたころ、パウロは、一同に食事をとることを勧めて、こう言った。「あなたがたは待ちに待って、きょうまで何も食べずに過ごして、十四日になります。』
(使徒 27 章 32 節-33 節)
3 年半の期間、エリヤは異邦人の女を養いました。パウロは、モーセやヨセフ、エリヤ、バプテスマのヨハネのように――良い忠実なしもべのように――暗やみと飢きんの時に神の民を養いました。終わりの時に同じことが起こります。良い忠実なしもべは神の民を養うのです。34 節から
『ですから、私はあなたがたに、食事をとることを勧めます。これであなたがたは助かることになるのです。あなたがたの頭から髪一筋も失われることはありません。」』(使徒 27 章 34 節)
このような状況で立ち上がるには、本当に神の人でなければなりません。すべての人がもう終わりだと思うとき、神の力と油注ぎをもって「いやまだ望みがある。イエスは私たちを愛し、ここから救い出そうとしておられる」と言うことが必要とされます。迫害が来たときに最初に裏切り合い、堕落してしまう者はユダの手紙に描かれているような者です。困難な時が来たとき、繁栄の説教者や彼らに付き従うものは最初に自分の信仰を失います。彼らは十字架に付けられた生活や困難に準備が出来ていないので、困難がやって来るとき
それをどう扱って良いか分からないのです。
35 節から
『こう言って、彼はパンを取り、一同の前で神に感謝をささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで一同も元気づけられ、みなが食事をとった。船にいた私たちは全部で二百七十六人であった。十分食べてから、彼らは麦を海に投げ捨てて、船を軽くした。』(使徒 27 章 35 節-38 節)
『あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。』
(伝道者 11 章 1 節)その患難の期間に何らかの形で、御国の福音は荒れ狂う海に宣べ伝えられます。御国の福音は福音とある形で違ったものです。それは同じ福音であり、良い知らせであることに変わりはありませんがその性質において違ったものです。御国の福音はマタイの福音のようなものです。イエスはマタイの福音書で天国について語るよりも、三倍多く地獄のことを語られました。バプテスマのヨハネは御国の福音を宣べ伝え、神がご自身の裁きを下されることを警告しました。使徒 27 章では彼らは自分たちが食べた後に、残りのパンを水に投げました。39 節から
『夜が明けると、どこの陸地かわからないが、砂浜のある入江が目に留まったので、できれば、そこに船を乗り入れようということになった。錨を切って海に捨て、同時にかじ綱を解き、風に前の帆を上げて、砂浜に向かって進んで行った。ところが、潮流の流れ合う浅瀬に乗り上げて、船を座礁させてしまった。へさきはめり込んで動かなくなり、ともは激しい波に打たれて破れ始めた。兵士たちは、囚人たちがだれも泳いで逃げないように、殺してしまおうと相談した。しかし百人隊長は、パウロをあくまでも助けようと思って、その計画を押さえ、泳げる者がまず海に飛び込んで陸に上がるように、それから残りの者は、板切れや、その他の、船にある物につかまって行くように命じた。こうして、彼らはみな、無事に陸に上がった。』(使徒 27 章 39 節-44 節)
ここで船は壊れましたが、その中にいる人々は救われました。ここから私たちが学ぶべきことは、もし私たちが共に立つことが出来ないなら、その時が来たときにひとりで立つことは無理だということです。使徒 28 章 1 節から
『こうして救われてから、私たちは、ここがマルタ [蜂蜜の意] と呼ばれる島であることを知った。島の人々は私たちに非常に親切にしてくれた。おりから雨が降りだして寒かったので、彼らは火をたいて私たちみなをもてなしてくれた。パウロがひとかかえの柴をたばねて火にくべると、熱気のために、一匹のまむしがはい出して
来て、彼の手に取りついた。島の人々は、この生き物 [原語では therion=獣] がパウロの手から下がっているのを見て、「この人はきっと人殺しだ。海からはのがれたが、正義の女神はこの人を生かしてはおかないのだ」と互いに話し合った。しかし、パウロは、その生き物 [=獣] を火の中に振り落として、何の害も受けなかった。』(使徒 28 章 1 節-5 節)
黙示録では悪魔である古い蛇は燃える火の中に投げ込まれたとあります(黙示録 19 章 20
節)。これはサタンへの裁きを象徴しています。
ユダヤ的なミドラッシュは一般の教会と違った聖書の読み方をします。それは教会が全体として、根を忘れるというローマ 11 章でパウロが警告した間違いを犯してしまったからです。私たちがその根を見られないのは地面の下にあるからです。しかしながら、もし根がなければ木自体も存在せず、根が枯れていれば木も枯れているのです。終わりの日においてユダヤ人を通して神は教会を祝福されます。私たちはより多くのユダヤ人がイエスに信仰を持つのを見るようになり、神によって自分たちのルーツに目を向けさせられ、聖書の正確な教え方を指し示されます。小さな光があれば普段は十分ですが、より暗くなったときには強い光が必要です。これらのことは終わりの時代まで封じられています。今私たちが終わりの日にいるというしるしのひとつは、聖霊がそれらの封印を解いていることなのです。
船は壊れますが、それに乗っている者は救われます。石は投げ倒されますが、よみがえります。サタンは裁かれるのです。これが将来起こります。次第に使徒 27 章で船に乗っていた人々は、大多数が聞き従わなかったにも関わらず、パウロが初めから真理を語っていたことを気付きました。彼らは身をもって彼が正しいということを知りました。ソドムの民はロトとふたりの御使いの言葉をあざけりましたが、身をもって彼らが正しいことを知りました。ノアの日の人々はノアをおかしいと思っていましたが、彼らも余裕が無くなってから彼が正しいと知りました。
多くの者を悟らせる
ダニエル 11 章では民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせるとあります(ダニエル
11 章 33 節)。もし私が何をしてもよいのなら、私は決して聖書を教えることはしなかったでしょう。私はむしろ伝道をしたいのです――私は人々が救われるのを見たいので、そのためにこのことをすぐに譲りたいほどです。私が教えている唯一の理由は充分な数の人がこれが神の望んでいることだと私に語り、彼らが正しいと私は思っているからです。もし終わりの日に備えるために神の民を養うことが私の召しならば、私はそれをしましょう。
賢いおとめと愚かなおとめがいましたが、愚かなおとめはともしびの中に油を持っておら
ず、賢いおとめたちが正しかったと分かると、それを買おうとしました。しかしながら、マタイ 25 章で見られるように、その時はもう過ぎていたのです。夜が来た時にすでにともしびの中に油を用意しておく必要があります。私が見たいと願っていることは皆さんがともしびの中に油を備えられることです。なぜならそれが必要になるからです。私は皆さんが自分の倉庫に穀物を貯えていることを望みます。それが必要になるからです。
しかし、この穀物を貯え、ともしびの油を買う時、事実に直面し、預言が目の前で成就していることを見ているこの時、私たちはノアの日やエレミヤの日、ソドムの日、エルサレムの終わりの日と同じ状況を抱えています。過去起こったことは今にも起こります。事実それはすでに現在起こっています。
分裂がキリストのからだに来ようとしています。そして少なくとも三つのことがそれを引き起こします。もう一度言います。妥協する者と妥協しない者たちです。多くの福音派たちが妥協してしまっています。バプテスト派やペンテコステ派、カリスマ派の中での分裂はすでに来ています。第二にイスラエルとその預言の中での役割です。この問題に関する教会の分裂も来ようとしており、実際すでに来ています。第三に分裂は神のことばの権威と神のことばが解釈される方法に関してやって来ます。これが現在起こっていることです。
誰も間違えないようにしてください――イエスは来ます。穀物を得、油を買う時は今です。そうするなら、あなたは賢いおとめとなります。もしそうしないなら、愚かなおとめとなります。イエスはそれを今得てほしいのです。彼はここにおられて、あなたにそれを渡そうとされています。どうぞ、それを受け取ってください。†††
The Future History of the Church - Part 2 - Japanese
未来の教会史2
ジェイコブ・プラッシュ
ローマ 昔と今
宗教改革の時期に起こったことは、現在ローマ・カトリック系の国々、特に南アメリカで起こっている途方もないリバイバルに比べると比較的穏やかなものでした。サンチアゴやチリでは毎週2万人もの人がローマ・カトリック教会を去り、ペンテコステ派になっています。グアテマラではこの 10 年間で人口の 10%がローマ・カトリック教会を去り、ペンテコステ派になっています。フィリピンとて同じです。アメリカでは、回心したローマ・カトリック教徒の数は驚くべきものです。アイルランドでは、今プロテスタントよりも多くのローマ・カトリック教徒が救われています。イタリヤでは1千を超えるアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教会がありますが、小さなものはなく、実際すべての教会が新しいものです。宗教改革があった国々ではアッセンブリーズ・オブ・ゴッドが教派として衰退している一方、カトリック系の国々では躍進しています。私たちはマリアの問題が扇動的なものとなるのを確実に見るでしょう。『偉大なのはエペソ人のアルテミス(ダイアナ)だ』
――使徒 19 章 23 節-34 節
昔のローマ皇帝は崇拝されており、神の民はその崇拝行為を拒んだため殺されました。第二テサロニケ 2 章と、黙示録 13 章はそのことを語っています。ローマでの皇帝崇拝は反キリスト崇拝を前兆するものです。教皇の指輪に口づけをすることや、その他の同じような習慣は皇帝崇拝から由来しています。同じように、終わりの日において反キリスト、その皇帝は同じ有様で崇拝されることを要求します。それを拒否する者たちはその行為のゆえに迫害を受けるのです。
聖書は使徒 5 章 37 節や降誕物語などで、ローマ皇帝が人口調査を行ったことを記しています。聖書中で人口調査がどのように用いられているかを理解したなら、ダビデがイスラエルで人口調査をしたことが(1歴代誌 21 章)、なぜバテシェバとの姦淫の罪より悪かったのかが理解できます。ローマ皇帝たちは人口調査を用いて人口を数え、世界の金融的支配権を得ようとしました。これが反キリストも行うことです。初代教会の時代に行われ、これが終わりにおいても再び行われます。最も悪い皇帝たちは教会に対し大量殺りくを行い、その後にユダヤ人に敵対しました。それは紀元 62 年のネロにおいて始まり、68 年から 70年にはその潮流がユダヤ人に向かうようになり、第二世紀にはディオクレティアヌスやマ
ルクス・アウレリウス、セプティマス・セベリトゥスが教会に敵対し、その後ハドリアヌ
スが紀元 120 年から 132 年までユダヤ人たちに敵対しました。
初代の信者たちは今にも起ころうとしている終末論を信じていました。彼らはイエスが自分たちの生きている間に戻ってくると信じていました。私たちもそのようなことが起こるのを見るでしょう。当時の世界における政治的出来事の全般的な風潮は具体的な終末預言を成就していました。神殿の崩壊や、ローマの炎上に伴う出来事などです――これらの出来事は預言を成就しました。ですが、もう一度言いますが、ユダヤ的な預言はパターンであって、これら同じ預言が将来に再び成就を見るようになるのです。私が言おうとしていることはこれです。使徒の働きを読むとき、私たちはただ初代教会の歴史を読んでいるだけではなく、終わりの時代の教会史をも読んでいるということなのです。イエスに起こったことは使徒に起こり、パウロに起こり、また初代のクリスチャンたちにも起こりました。すべてこれらのことは私たちに起こることを教えています。イエスの最期の日々に起こったことは、再び終わりの時代のキリストの体にも起こります。初代教会におこったことは、終わりの時代の教会にも起こります。使徒の働きは再び繰り返されるのです。ヨハネの福音書の 48 パーセントはイエスの生涯の最後の週を扱っています。受難物語です。四福音書は少なくともその三分の一を、地上でのイエスの生涯最期の日々に起こったことにページを割いています。このように読めば、新約聖書は私たちに関しても同じようにしており、終わりの時代に起こることについてかなりの部分を割いています。イエスさまは裏切られ、十字架にかけられ、そして勝ちを得て復活しました。私たちも同じように裏切られ、十字架にかけられ、勝ちを得て復活します。
欺き 昔と今
初代教会に対してサタンが謀った欺きは、終わりの時代の教会に対してサタンが用いる欺きと同じようなものであると気付くことは重要です。悪魔が初期にキリスト教に持ち込んだ同じ異端の教え、偽りの教理、欺きは終わりの時代において返り咲きます。
初代教会において“低いキリスト論”を信じていた人たち――イエスが神だと信じていなかった人たち――は“アリウス主義者”と呼ばれていました。今日のそれはエホバの証人です。このふたつは本質的に同じです。
初代教会において安息日遵守主義者や食事規定遵守主義者、ノミアン主義者たちは“ユダヤ教化主義者”と呼ばれました(ガラテヤ人への手紙を呼んでください)。今日のそれはセブンスデー・アドベンチストです。
初代教会において超ディスペンセーション主義者たち――ディスペンセーション主義を用いて旧約と新約の間に奇妙な極端さを見出だし、過激で途方もない区分を設ける人たち――は“マルキオン主義者”と呼ばれていました。今日のそれは排他的、またはクローズド(閉鎖的な)・ブラザレンです。
初代教会において御父はイエスで、御子もイエス、御霊もイエスだと主張していた人たちは“サバリアン主義者”また“パトリッパッション主義者”と呼ばれていました。今日のそれは唯一イエスだけだと信じるペンテコステ教会、またユナイテッド・ペンテコステ教会です。日の下に新しいものは一つありません。
しかしながら、これらの嘘やその他のものの中で疑いようもなく、最も危険なのがモンタヌス主義者とグノーシス主義者たちで、両者は互いに関係を持っていました。モンタヌス主義者はすでに成就した終末論を信奉していました。彼らは御国が今だと信じていたのです。彼らは多くのおかしな予測や預言をし、自分たちの首都にリバイバルが来るとか、現在のトルコであるフルギアにイエスがひとりでやって来るなどと教えていました。彼らはあらゆる形の狂気じみた予測をしましたが、人々を誘い込んだ方法はというと、しるしと不思議に過度な強調を置くことによりました。「使徒たちはこれらのことを行い、聖書はそれを教えているんだから、私たちも出来るはずだ」というのが彼らの考えでした。ニケア公会議以前の教会教父であるエイレナイオス(130 頃-202)は、彼らに関して正しい点を擁護しながらも、このような人たちについて批判的に書きました。彼はしるしと不思議、また御霊の賜物が聖書的であると確かに語りました。しかしこの特定のグループは、人々に別の奇妙なことを信じさせるためにそれを用いたのです。このようなことは今日でも同じです。
初代教会において、教会教父のテルトゥリアヌス(160-220)のような――おかしな間違いに引き込まれることを誰も想像しえなかった人が――おかしな間違いに引き込まれました。今日も同じで、私が想像し得なかったような人が、勝利主義や再建主義、支配主義などの同じような“神の国は今”という考えに巻き込まれています。これは同じ方法でなされ、しるしと不思議などに強調点が置かれています。
初代教会の中のこれらの人たちは実現しない非常識な予測を立て、人々を混乱状態に導きました。教会史中のどの転換期においても、この同じ「神の国は今」という神学は表面化しました。モンタヌス主義者たちはローマ帝国が衰退した時に明るみに出始めたのです。
ルネッサンスの時代、この時代はヨーロッパの歴史において非常に重要な転換期だったのですが、モンタヌス主義の教えを信じる信者たちはフィオーレのヨアキム(Joachim of
Fiore 1135-1202 )の信奉者たちと呼ばれました。当時の神の国は今という神学の指導者であったこの男は、今日のヴィンヤード運動のものと似通った信条を持っており、(現代に生きていたなら)ヴィンヤード運動の雑誌に投稿できるような者でした。私たちは彼らのうちに同じ考えを見つけることができます。例えば、三つの時代があると考えられていました。それは父の時代、子の時代、霊の時代といい、父の時代とは旧約聖書のイスラエルの時代で、子の時代とは教会時代で、霊の時代とは後の雨であるとし、自分たちの運動と重ね合わせていました。彼らは自分たちが新しい修道会に属しており、それが他の修道会に対して優勢になると信じていました。これは今日のジョン・ウィンバーに率いられたヴィンヤード運動の中にも見出すことのできる同じ信条です。
宗教改革の期間、ズウィカウ(Zwickau)の預言者たちと呼ばれる人たちが存在しました。さて、もしあなたがブラザレンやペンテコステ派、バプテスト派なら、自分をプロテスタントであると決して考えないでください。もしあなたが宗教改革の時代前後に生きていたなら、プロテスタント教徒からは“アナバプスト”と呼ばれ、カトリック教徒が手を下そうとするのと同じくらい早く彼らに殺されたことでしょう。ツヴィングリは「ならば、お前たちは洗礼をもう一度受けたいのか?」と言い、チューリッヒで氷に穴を開け、信者の洗礼を信じていた者たちを溺死させたのです。ルターやカルヴァン、ツヴィングリなどの信奉者たちはアナバプテストたちを殺しました。聖公会、ルター派、長老派、改革派ならプロテスタント教徒です。ですが、非国教徒である人は全員プロテスタントである訳ではありません。
アナバプテストたちはほとんどの点において、宗教改革者たちよりも聖書に近い者たちでした。プロテスタントたちは福音を再発見したと宣伝して回りましたが、真実の福音を一度も失わなかった人たちが事実存在していたのです。ルターやカルヴァン、ツヴィングリのはるか以前、ヨーロッパ大陸にはヤン・フスやボヘミアのブラザレン、イングランドにはジョン・ウィクリフの信奉者たち、また数世紀にわたってワルドー派が存在しました――これらの者たちはすべて聖書を信じるクリスチャンです。いつの時代でも基本的な真理を理解し、そこから教会が大きく遠ざかっていると知っている者たちが存在しました。
しかしながら宗教改革の時代にあることが起こりました。封建主義は終焉を迎え、資本主義が始まったのです。また神聖ローマ帝国――神聖でもローマでもありませんが――の衰退が起こり、帝国は国民国家に取って代わられることとなりました。人々は「私はイギリス人だ」「ドイツ人だ」、「スコットランド人だ」と言い始めたのです。それゆえ、教皇はクリスチャンたちを滅ぼし、暗黒時代を通してやってきたように福音の宣教を鎮圧するだけの政治的影響力を失っていきました。加えて、グーテンベルクが印刷機を発明したのです。その頃にはもう、修道士が写生していたラテン語版聖書であるウルガタ聖書ではなく、ル
ターが訳したドイツ語聖書や、ティンデールの英語聖書などが普及し、聖書はグーテンベ
ルクの発明によって大量生産が可能になりました。したがって聖書は行き渡り、識字率が上昇し、教皇は政治的に福音の伝播を止める力を失いました。このゆえに、宗教改革が起こったのです。ルターやカルヴァン、ツヴィングリのような人が行ったことはただ、彼ら以前の人たちがいつも言っていたこと、政治的また社会的な環境が整わなければ生きて伝えられないという時代を免れただけなのです。宗教改革者たちが正しい福音を再発見したというのは歴史のひとつの曲解です。
オランダの近く、ドイツのミュンスターを首都とするアナバプテストたちがいました。彼らはズウィカウの預言者たちと呼ばれ、狂気じみた予測や、預言、習慣を行い、御霊の賜物の過度の乱用などを行っていた“預言者たち”に従い、完全な混乱状態へと陥りました。今日、私たちも同じものを経験しています。ただそれはズウィカウの預言者たちではなく、カンザス・シティーの預言者たちですが。ポール・ケインがジョン・ウィンバーと共に公に偽りの予告をした後、これら偽りの預言を目にしていた同じ人たちはまた、主の御名によって偽って預言するこの男の何度も続くパフォーマンスを見に行きました。国教会主教のデイビッド・ピッチャーという人は、『ある者は雷が鳴ったと言った(Some Said it
Thundered)』という本を書き、すべての国教会福音派に向けてこの男に従うよう勧めました。彼らはその通りについて行き、その頃からポール・ケインは、誰にも分からないような数千万人の国民を殺したサダム・フセインという男の元に行き、アメリカとイギリスが
「彼に対して行ったことについて」代表して謝罪し、罪を悔いるようなことをしたのです。
ミドラッシュの適切な使用
神の国は今という神学はいつも歴史の重要な時期に現われました――日の下に新しいものは一つありません。これに関連して、本当に正気ではないものがグノーシス主義です。
アレキサンドリアはユダヤ・キリスト教世界が東洋と接触した場所でした。そこでゾロアスター教の祭司、ユダヤ教ラビ、仏教僧、キリスト教徒たちが思想を交換するために集まりました。キリスト教時代の始まりにおいても、フィロン(Philo)と呼ばれる者のヘレニズム(ギリシア)的な思想がすでにユダヤ教に浸透し始めていました。その思想はアレキサンドリアにいたクリスチャンたち、特にオリゲネス(Origen)――考えようによってはアレキサンドリアのクレメンス(Clement of Alexandria)もですが――確実にオリゲネスによって受け入れられました。これを説明しましょう。
ユダヤ人が聖書を扱った方法であるミドラッシュでは教理を例証し、明らかにするために象徴や予型、寓喩を用いますが、決してそれらの上に教理を据えはしません。最後の晩餐
の象徴としての過越の祭りを例に挙げてみましょう。ユダヤ的な過越の祭り、また過越と
しての最後の晩餐、過越のセデル(儀式的な晩餐)の象徴を理解したなら、他の方法では達しえないくらい深いレベルまで主の晩餐を理解することができます。寓喩や予型、象徴の目的は、教理をより深いレベルまで明らかにすることであり、それを教理の基礎とするのでは決してないのです。
とても簡潔に説明しましょう。紀元 1 世紀にユダヤ人クリスチャンがヨハネの福音書を読んだなら、ヨハネ 1、2、3 章がもちろん、創世記 1、2、3 章のミドラッシュであると言ったことでしょう。そして創世記が創造について語っている一方で、ヨハネ 1、2、3 章が新しい創造について語っていると言ったことでしょう。それゆえ創世記 1、2、3 章とヨハネ 1、
2、3 章はミドラッシュ的な並行箇所なのです。
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神は創世記の創造において歩き、ヨハネの福音書の新しい創造においても地上を歩いていました。創世記の創造では霊が水の上を動いて被造物を生み出し、ヨハネの福音書においても御霊が水の上を動いて新しい創造をもたらしました
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神は創世記の創造において、暗やみと光を分けるためにやって来られ、ヨハネの福音書の新しい創造においても再びそれをなされました
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創世記の創造において、そこには小さな光と大きな光が登場します。新しい創造では“ヨハナン・ハマトビル(Johannan Hamadvil)”――バプテスマのヨハネ(小さな光)と、“イェシュア・ハマシア(Yeshua HaMashiach)”、メシアなるイエス(大きな光)がいます
ミドラッシュ的に、いちじくの木はエデンの園にあったいのちの木の象徴(隠喩)です。そのいのちの木はエデンの園に登場し、ヨハネの福音書においても登場します。従ってミドラッシュ的にみると、イエスさまがナタナエルを「いちじくの木の下で」見た時、ユダヤ的な象徴によってイエスさまはただ「私は文字通りのいちじくの木の下であなたを見た」と言っていただけではなく、もちろんそれも事実ですが、ミドラッシュ的に「私はあなたを創造の時から見ていた。この世の始まりの時からあなたを知っていた」と言っていたのです。これは真実を明らかにしています。聖書は他の箇所で『神は、あらかじめ知っておられる』(ローマ 8 章 29 節)と直接的に語っています。私はカルヴァン主義者ではありませんが、その中には真実があります。ミドラッシュは真理を明らかにするものであって、真理の基礎となるべきものではないのです。
同様に、イエスさまが最後の晩餐で『この杯は、わたしの血による新しい契約です』(1コリント 11 章 25 節)と言われた時に、それは贖いの教理を明らかにする過越の晩餐であって、それが贖いの教理の基礎とはなっていないのです。これがユダヤ的解釈法が寓喩を用
いる方法です。改革者たちが行ったように寓喩を退けてしまうことは完全に間違っていま
す。なぜなら、そうしてしまうと、聖書の中にあるより深い事柄が決して理解できないからです。しかし一方で寓喩の上に教理を据えてしまうことも同じように間違っており、危険なことです。
グノーシス主義
グノーシス主義者たちが行ったことはこれです。彼らは聖書の中の予型や象徴に関して主観的で神秘的な洞察力があると主張し、ギリシア語で霊的な啓示を指すこの“グノーシス”の理解をもって、聖書のそのままの意味を再解釈すると言っていたのです。彼らは自分たちが特別な知識を持っていると主張し、それを他の人が理解できなければ、その人は霊的な欺きの下にあるか、反抗心に陥っているとみなされました。
ローマ・カトリックはグノーシス主義を基礎としています。教皇は間違って自分がペテロの後継者だと主張しています。聖書解釈を正しいものとするためには、まず教会論を正さなければなりません。言い換えれば、彼らは教会の教導権である教皇のみが聖書を解釈できると言っているのです。それゆえ、ルカの福音書 1 章 47 節のそのままの意味が、マリアは救い主が必要だと言ったということであっても、カトリックは答えて「そうです。ですがあなたはグノーシスを持っていないのでしょう。教皇はそれを持っています。なぜなら彼がペテロの後継者だからです。そして彼はマリアが罪無しにみごもられたので、救い主を必要としないと言いました」と主張するのです。
ハシド派(敬虔派)ユダヤ教も同じことです。彼らのラビは“レッベ”と呼ばれ、ユダヤ教のベシュク(Besch)であった、バアル・シェム・トブ(Bal Shem Tov 1698-1760)という者の子孫たちです。彼はユダヤ教グノーシス主義者で幽体離脱などのことに入り込んでいました。ハシド派ユダヤ教徒たちは、誰のレッベがベシュクの真の子孫であるか、誰が本当にベシュクの霊を持っているかということで争い合っています。それはヒンドゥー教から来た輪廻転生のひとつの形です。従って、ハシド派ユダヤ教徒たちにとって神への道はふたつあります。トーラーとレッベ、すなわち義なる者です。レッベはトーラーを通して神に到達します。他の者はそのレッベを通して神のもとに行くのです。トーラーが何を語っているかは重要ではなく、トーラーについてレッベが何と言うかが重要なのです。
同様にカトリックに関しても、新約聖書が何を言っているかが重要ではなく、教皇がそれについてどう語っているかが問題なのです。スーフィズムを信じるイスラム教徒にとってそれはスーフィーであり、シーア派イスラム教徒にとってはイマームです。コーランについてイマームがどう語っているかが大切なのです。ゾロアスター教徒たちにとってそれは
祭司です。ヒンドゥー教徒にとってはブラフマン祭司であり、カースト制度の最高位に位
置するいわば教祖です。彼がヴィシュヌとクリシュナのもとへ行くので、他の人は彼を通して行くのです。シャーマニズムに関してはシャーマンです。チベット仏教徒にとって必要不可欠な人物はダライ・ラマです。これらすべてはグノーシス主義に従います。
従って、これらグノーシス主義の形式にとって本質的な問題になるのが「あなたの教祖は誰ですか。あなたの教皇は。あなたのイマームは。あなたのレッベは。あなたのスーフィーは。あなたのラーマやあなたの祭司、あなたのシャーマンは誰ですか?」ということなのです。再建主義において、これに相当する質問は「あなたの使徒は誰ですか。あなたの預言者は誰ですか?」です。
現代のグノーシス主義
ヨエル 2 章は再建主義の神の子たちの現われ(Manchild/ Manifest Sons of God)の教えの基礎となっています。それではジョン・ウィンバーのヨエル 2 章に関する講解を見てみましょう。ユダヤ的な預言がパターンであったことを思い出してください。それゆえこの箇所は何らかの形で終わりの日に関するものです。しかしながら、この箇所の歴史的文脈はネブカデネザルの侵略について語っています。ヨエル 2 章には
『シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。…
…数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。これからのがれるものは一つもない。』(ヨエル 2 章 1 節-3 節)
ジョン・ウィンバー、ポール・ケイン、デイビッド・ピッチャーズ、ジェラルド・コーツら、“ハウスチャーチ”の中で彼らに従う人たちは、勝ち誇る教会がこのようになると語っています。ですがより詳しく見ていきましょう。
『その有様は馬のようで、軍馬のように、駆け巡る。
それは勇士のように走り、戦士のように城壁をよじのぼる。』(ヨエル 2 章 4 節、7節)
そしてここからこの軍隊はいなごに例えられています(25 節)。再建主義者たちは、勝ち誇る教会がこの食い荒らすいなごになり、すべてを支配すると語っています。しかしここで
20 節を読んでみましょう。
『わたしは北から来るものを、あなたがたから遠ざけ、それを荒廃した砂漠の地へ追いやり、その前衛を東の海に、その後衛を西の海に追いやる。その悪臭が立ち上り、その腐ったにおいが立ち上る。主が大いなることをしたからだ。』(ヨエル書 2
章 20 節)
この軍隊が邪悪であるために神は滅ぼし、裁かれます。それを裁き、滅ぼす方法はネブカデネザルの軍隊に対して行われたのと同じ方法です。これが聖書解釈、また文法的、歴史的、また他のあらゆる見方から分かる文脈です。ですがジョン・ウィンバーはやって来てグノーシスを主張して言います。「いいえ、そういう意味ではありません――これは勝ち誇る教会です」。もしこれが分からないなら、あなたは霊的な欺きに陥っていると烙印を押されるでしょう。またそれに賛成しなければ反キリストの霊を持っていると言って非難されるのです。
この種のことで罪があるもうひとりの人はアンドリュー・シェアマン(Andrew Shearman)という人です。彼は実際グノーシス主義的というよりかは聖書に自分の考えを読み込んでいるのですが。彼はひとつの箇所を取り上げて、福音はヨハネまで宣べ伝えられ、それから人は御国に激しく攻めるように入っていると言っています。彼はその箇所を曲解します
(マタイ 11 章 12 節)。原文のギリシア語の文脈において、ここの“激しく攻めるように”という言葉は“押し入る”という意味です。それは次のような状況に比べられるでしょう。ウェールズのホーリーヘッド(北西端の町)からダブリンに向かうアイルランド海を横断する船に乗っているとして、あなたが救命胴衣を着け、救命ボートに乗り込んだなら、他の乗客はあなたをおかしい人だと思うでしょう。このようなフェリーボートにはパブや、ディスコ、カジノまであります。そのように人が楽しんでいるのに、救命胴衣を着け、救命ボートに乗ったあなたが「航海に快適性と喜びをもたらしてくれる」と言って、それを付け、他の人にも入ってくるように勧めたなら、頭がおかしいんじゃないかと言われることでしょう。ですが突然警笛が鳴り響き、その船が沈み、絶望的な状況にいると分かれば、人は自分の命を救うために救命ボートに押し入り、救命胴衣を着けようとするのです。
律法と預言者はヨハネまでであり、ガラテヤ人への手紙で律法は私たちの養育係と呼ばれています。なぜならそれは私たちが罪定めされており、救いが必要だということを教えるためにあったからです(ガラテヤ 3 章 24 節)。これが本文の意味するところですが、シェアマンは「いいえ、これは勝ち誇る教会のことです。私たちが力強い者たちでその征服を行うのです」と言っています。このようなものは無意味であり、本文が意味するところに近くもありません。本来の文脈においてその本文を読み、そのような愚かな結論に至る人
は誰もいません。ですが、これがこの人の教えることなのです。そしてもしあなたが理解
しなければ、あなたが“霊的な欺きの下にある”と言われるのです。そうです。これも聖書が何を言っているかが重要なのではなく、グノーシスを持った人が何を主張するかが重要なのです。
2種類のグノーシス主義
これが今日のグノーシス主義者たちが行っていることであり、初代教会の中にいたグノーシス主義者たちもまさに行っていたことなのです。初代教会の時代には2種類のグノーシス主義がありました。完全な異教の形をしたものと、バジリ(Basiili)やヴァレンティヌス(Valentinus)のような人々の指導の元に教会に侵入して来た形です。これは現代にも適用できます。2種類のグノーシス主義の形があります。完全な異教の形はニューエイジ運動です。グノーシス主義こそが本当にニューエイジ運動を形作っているものです。それはオカルトの外観などを備えているかもしれませんが、その核心はグノーシス的です。現代の教会に入り込んできているこの種のグノーシス主義は再建主義(Restorationism)です。多くの人気がある教えの中で「可視化のテクニック」などすべてを再建主義者たちは取り込んでいて――ジョイス・ハジェット(Joyce Hugeet)の著書のようなもの――はニューエイジの考え方であり、完全に聖書とは異質のものです。祈りのためのブリージング・エクササイズ(呼吸法)を用いることは、彼女が説明するようにヨガから来ています。彼女はまたイグナチオ・デ・ロヨラの習慣がクリスチャンの祈りの模範として用いられるべきだと主張しています。イグナチオ・デ・ロヨラとはイエズス会の創始者であり、イエズス会は反宗教改革の運動の中にあって福音の拡大を防ぐために作られた修道会です。彼の命令はおそらく 50 万人のクリスチャンを死に至らせ、拷問し、虐殺したことに責任があります。そのような人物です。それでも、彼のシャーマン主義的な習慣は今日の教会の中でクリスチャンの祈りの模範として支持されているのです!このようなものが教会の中に忍び込んでいるニューエイジの考えです。(これは現代、リック・ウォレンとイマージング・チャーチによって広められています)このような欺きに初代教会は直面していました。同じものが戻ってきたのです。
あるものを“アリウス主義”やエホバの証人と呼ぼうと関係ありません。それは同じものです。エホバの証人運動の創始者であるチャールズ・テーゼ・ラッセルと弁護士のラザフォード はグノーシスを持っていると主張していました。彼らに同意しなければ、欺きの下にいる ということになります。ローマ・カトリック=グノーシス主義、シーア派イスラム=グノ ーシス主義、スーフィズム・イスラム=グノーシス主義、ゾロアスター教=グノーシス主 義、ヒンドゥー教=グノーシス主義、シャーマニズム=グノーシス主義です。
重いくびきを置くことやそれと似たような習慣によって人々にもたらされた損害をただ見
てください。この再建主義はあらゆる種類の誤ったものと自然にくっつくものであり、そのひとつが重いくびきを負わせることです。私たちはこのことを別の教えにおいてより深く説明しています。私がここで言っているのはこのようなものが初代教会における欺きであり、また再びこのようなものが現在の欺きとなっているということです。そのグノーシスを持っていると主張する人は自然と重いくびきを負わせるようになります。他にどのような選択肢があるでしょう?しかしながら、イエスさまは天におられる方だけが私たちの教師であると言われました(マタイ 23 章 8 節-10 節)。
神は新しいことをされます。4 人の子供を持つ夫婦が 5 人目を持とうと決めたなら(がんばってください)、神は新しいことをなされます。しかし、5 人目は 4 人が生まれたのと同じ方法で生まれるのです。神が新しいことをされるとき、いつもなされているのと同じ特徴を持ってなされます。グノーシス主義者が言うのは、神は終わりの時代に新しいことをなされるから、すべてが破棄され得るということです。それは真実ですが、神さまがこれまでずっとなさってきた特徴から外れることは決してありません。
妊娠中絶に悪い点はたくさんありますが、私を最も悩ましているひとつの点は、赤ん坊を養子しようとして待っている夫婦たちのリストです。そのリストは 3 マイルにも及んでいるのに、他の人たちは子どもを殺しているのです。望まれていない赤ん坊というものは存在しません。人は赤ん坊を切に望んでいると、障害児であろうが、どんな子どもでも養子にします。しかし他の人たちは子どもを殺しているのです。
夫婦が本当に愛し合っていて、その愛を赤ん坊と分かち合いたいと思っているなら、母親は決して次のようには言いません。「私はお産に耐えられない。私はつわりや陣痛に耐えられない。だから赤ん坊を産むのはやめておきましょう。惨めになるだけだわ」しかし子どもを持ちたいと思っている母親の考えていることは、ただ子どもが乗ったベビーカーを押すことや、公園のブランコに連れて行くこと、動物園に連れて行ってシマウマやお猿さんを見せに行くことだけでしょう。つわりや陣痛はそのような人の頭の中にはありません。そのようなものはただ子どもを持つために経験しなければならないことなのです。
私は女性に生まれなかったことを嬉しく思います。私は子どもが生まれる場所に立ち合い、陣痛の強度と頻度を測るモニターに目を向けていました。そのモニターに変化がある度に私は妻に言っていました。「これが最後の陣痛だよ、これだ!嘘なんて付いてないよ、ベイビー」そう言いながら、嘘を付いていました。英ウィギンのラグビー選手なんて比較になりません。女性はこの世で一番強い生き物です!もしあのラグビー選手たちが子どもを産んだなら、その年は試合に出場できないことでしょう。ランボーさえ無理でしょう。もし
ランボーが妊娠したなら、普通に産むより帝王切開を選ぶことでしょう!
増大する地震
陣痛と地震――特に陣痛は――イエスが来られる直前の教会に何が起こるかを描く、聖書が一般に用いる表現です。陣痛の特徴を考えてみてください。子宮の収縮はより頻繁になり、より激しくなる一方で、時に少しの間弱まります。陣痛は赤ん坊が生まれる直前に頂点を迎えます。同じことが終わりの日にも適用できます。圧力はより激しくなっていきますが、少しの間弱まるでしょう。ですが元に戻り、出産がなされるまでこのパターンは続くのです。これが黙示録の語っていることです。またこれが確実にエレミヤの語っていることです。エレミヤは「産みの苦しみ」について頻繁に触れています。彼は預言者であって、自分の時代、またイエスの初臨について、そして終わりの日について、また時にはほとんど同時にそれらを預言しました。聖書の中で、陣痛について触れられているとき、聖霊は終わりの日の教会に起こることを明らかにしようとされているのです。
第一テサロニケ 5 章はもうひとつの例です。
『人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。』(1 テサロニケ 5 章 3 節)
エレミヤ書を読んでください。陣痛のテーマが登場する時、それは終末的に重要性を持っています。さらに、産科学で登場することは何でも地震学と類似性があります。大地震を引き起こすプレートの大変動が起こる直前は、数多くの小地震が先に起こります。小さな揺れは、最終的な地震が起こるまでより頻繁に、そしてより集中して起こるようになります。アメリカと日本では、地震を予測するため揺れのパターンを識別しようと、天文学的な量のお金が使われています。彼らが確実に理解していることは地震が陣痛と同じ原則をもって起こるということです。地震もまた終わりの日に起こることを私たちに教えています。
地震は増加し、陣痛もひどくなります。その後に赤ん坊は生まれるのです。いったん赤ん坊が取り出されると、産科医や助産婦がその子を母親に手渡します。そのころには陣痛と出産のすべての痛み、苦痛、ごたごたはすぐに忘れてしまっています。大切なのはただ赤ん坊であり、赤ん坊がすべてに勝るのです。女の人の陣痛が 4 週間続いていたとしても(ジョーク)、赤ん坊が生まれるやいなやそんなことは忘れてしまいます。
イエスさまが戻って来られるときも同じようになります。彼が現われるやいなや、すべて
の痛みや苦痛は忘れ去られてしまうのです。私たちもイエスの到来について思いを巡らすべきです。私たちは、とても恐ろしい陣痛を考えるより、子どもの誕生を楽しみに待っている母親のように、イエスの到来に先立つ患難をじっくり考える必要はありません。一方、私たちは終わりの日に患難が来るということを認識しなければなりません。出産過程を逃れることは出来ないと分かっている母親のようにです。
過去と現在の例
マカベア家とアンティオコス・エピファネスに起こったことは、何らかの形で終わりの日にイスラエルと教会にも再び起こります。ダニエル書に書いてあることも再び起こります。マカベア家の時代に起こったことは次のようなことでした。多くのユダヤ人がセレウコス朝に妥協し、ヘレニズムと異教の礼拝(ヘブライ語ではアボダ・ザラー)を許し、それらが神の都、また最終的には神の宮まで達するようになりました。あれほど多くのユダヤ人が妥協することを良しとしなければ、状況はそれほど悪くならなかったでしょう。マカベア家がそれにどう立ちあがったか、また他の者たちが彼らにどう加わったかという事実は反キリストが現われる時に何が起こるかを教えています。アンティオコス・エピファネスはある日突然現れて、神殿で豚をほふり、ゼウスの像を建て、自分を崇拝させたのではありません。そのように将来の荒らす忌むべきものも現われません。そのような状況に至るまで、物事が積み上げられていったのです。ユダヤ人は妥協に妥協を重ね、もはや止められない状況にまである日達してしまったのです。
同じことが今起こっています。英国国教会は幼児洗礼のために赤ん坊に水をたらすことに同意しない者を奉仕者として任命しませんが、イエス・キリストの復活を否定するような者を主教に任命する教会です。そしてそれを福音派も含めた三分の二の主教たちが認めています。カンタベリー大聖堂はインターフェイス礼拝を行う場所となっています。ギリシア語の“ダイモニオン(daimonion)”、ヘブライ語での“シェディーム(shedim)”――他の神々は、申命記や第一コリントで聖書がはっきり語っているように悪魔です(申命記 32 章
17 節、1 コリント 10 章 20 節)。ヒンドゥー教の礼拝がカンタベリー大聖堂で行われています。2 千人の国教会主教たちが取りやめるよう嘆願書に署名をしましたが、福音派の大主教は「すべての宗教を尊敬している」と答えました。これが神の宮の中にある荒らす忌むべきものです。人々はもう取り返しのつかなくなるまで、譲歩に譲歩を重ね、妥協し続けてしまいます。
同じように、反キリストはたった一晩で教会の中で崇拝されるようにはなりません。そのようにはなりません。それはマカベア家の時代と同じ方法で起こり、もはや止められない
状況に至るまで神の民が妥協を繰り返してしまうのです。ダニエル 11 章 33 節から 35 節はこう語っています。
『民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。彼らは、長い間、剣にかかり、火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる。』
(私たちはこのテーマをクリスマス/ハヌカの説教で取り扱っています)マカベア家に対して起こったことは終わりの日に再び起こります。ダニエル書は繰り返されます。イエスははっきりと、荒らす憎むべきものが建てられたなら、贖いが近づいたと知りなさいと言われました(ルカ 21 章 28 節)。イエスはそうはっきりと語りました。ダニエル書を読むとき、また外典のマカベア書を読むとき、そこで何が起こったかを見てください。そうするとき、あなたは教会に再び起ころうとしている重大なことを読んでいるのです。荒らす憎むべきものは確実にやって来ます。
物質的なことは、より深い霊的なことを反映する
ギリシア語には“教会”や“神殿”を表すさまざまな言葉、“オイコス(oikos)”、“ナオス(naos)”、
“ヒエロン(hieron)”があります。ヘブライ語では“ハ・ヘカル(ha hechal)”、“ベイト・ミシュカン(beit mishkan)”、“ベイト・ミグダシュ(beit migdash)”などです。少なくとも 7 回、新約聖書は教会を神殿と呼んでいます。イエスが亡くなられた時、神殿の幕は天井から床まで裂けました。物質的に見える出来事が確かに神殿で起こったのです。しかしながら、重要なのは神殿の幕が裂けたことではありません。何が問題だったかというとそれが実際に意味していた事柄です。イエスが私たちの罪の代価を支払ったために、罪深い人間はもはや聖い神から離されていないということです(私たちはこのテーマを『神殿の象徴』という説教で扱っています)。昔のブレザレンは神殿の象徴を強調していました。そして多くの根本的な側面において彼らが象徴を強調していたために、昔のブレザレンはそれまでの異邦人教会よりも、初代教会のように聖書をユダヤ的な書物として解釈しようとしたおそらく最も原点に近い教会なのではないでしょうか。彼らは十分な点まで達さなかったかもしれません。多くのことがあったかもしれませんが、ユダヤ的な書物をユダヤ的なものとして読むという点において、彼らは異邦人の教会より近かったと言えるでしょう。
とはいえ、イエスが亡くなられた時、神殿の幕が裂けました。物質的な出来事がより深い霊的なことを反映していたのです。神殿が再建されるなら――私は再建されないと言うのではありませんが。エルサレムでは極秘と言われている多くの発掘が行われています。みながそれを知っていますが――そしてこの像がその中に建てられるなら、それは単により深い
霊的な現実の反映でしかないのです。間違えてはいけません。その反キリストはいわゆる
教会の中で崇拝されるようになり、マカベア家に起こったのと同じ方法でそれが起こります。神の民の継続的な妥協が取り返しのつかない点まで行ってしまいます。
現代の英国国教会を例として見てみましょう。彼らは女性司祭の問題に取り組んでいますが、新約聖書はとてもはっきりとクリスチャンすべてが祭司だと語っています。あなたが祭司でなければ、クリスチャンでもないのです。問題自体が聖書的ではないのに、この女性司祭の叙任という問題を巡って人々は反対して出て行っています。復活やイエスの処女懐胎を主教が否定しているときに、また同性愛が認められているときに、誰か反対して出て行ったのを見たことがあるでしょうか?悪霊がカンタベリー大聖堂で崇拝されているのに反対して誰か出て行ったのを見たことがあるでしょうか?誰もそうはしません。人々は非聖書的なもののために出て行ってしまうのです。そしてその出て行く先はどこなのでしょう?ローマです。それは誰かが英のブライトン(イギリスの一番良いビーチですが、ヨーロッパと比べるとつまらない場所)に休暇を取りに行って、「この場所は汚いな。ブラックプール(さらにつまらないビーチ)に行こう」と言うようなものです。
悪を引き止める
2 テサロニケ 2 章を見てください
『さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。』(2 テサロニケ 2 章 1 節-4 節)
イザヤ書やエゼキエル書で、サタンはバビロンの王のように神として崇拝されることを欲していることが分かります
『私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。不法の秘密はすでに働いて
います。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めて
いるのです。』(2 テサロニケ 2 章 5 節-7 節)
悪を引き止めているものは三つあります。ひとつは人の政府で、神がその目的のために定めたものです。新約聖書は、権威ある者のために祈りなさいとクリスチャンに語っています。初代のクリスチャンたちは皇帝たちのためにまで祈りました。なぜなら、皇帝が神の御霊によって影響を受けないなら、違った霊の影響を受けることを彼らは知っていたからです。私は政治家をあまり好きではありませんが、もちろん彼らのために祈ります。なぜならもし私が祈らないなら彼らは他の影響の下に置かれ、それは私たちに悪をもたらすと知っているからです。反キリストが現われるとき、人の政府は彼の手に渡されます。
このようなことが初代教会でいかに起こったかを理解するために、私たちはカリグラ(治世:紀元 37 年-41 年)などの教会を迫害した皇帝たちを見る必要があります。もうひとつの例は、政府がその手に渡ったときの中世の教皇権です。大患難を他にはない独特なものとしているのは次のことによります。神は歴史を動かす神です。しかし、何らかの方法によって、反キリストは時を変えようとすると聖書は語ります(ダニエル 7 章 25 節)。イエ
スの奉仕と同じ 3 年半という短い期間、歴史の支配権は限られた範囲でサタンの手に渡さ
れます。クリスチャンは、よく歴史の最後の 7 年間が大患難だと間違えて語ってしまっています。聖書はこの期間をダニエルの七十週目、また“ハテクファ・ハ・ツォラト・ヤコーブ(HaTekufa ha Tsorat Yakov)”“ヤコブの苦難の時”と呼んでいます。その期間の後半部分だけが、大患難であると証明することができます。その以前にも患難はありますが、後半部分がよりひどいものとなるのです。教会は大患難を通らないと言うのはひとつのことです。しかし、教会が最後の七年間に入らないという訳ではありません。またその 7 年間が始まった後に取り去られない訳でもありません。
起こってはほしくないことですが、あなたや私が今夜道端で死ぬなら――イエスさまは私たちのためにやって来られます。私たちはいつもイエスさまがいつ来られても良いような人生を生きるべきです。なぜならそうすることが出来るからです。イエスさまが今夜戻って来ようと、今から百万年後に戻って来ようと私たちとの歩みには何ら影響がありません。なぜならどのみち彼はいつでも私たちの元に来られるからです。しかし復活と携挙は、反キリストの素性が忠実な者に明らかにされるまで起こることはありません。「不法の人…が現われなければ…」
したがって、悪を引き止めている最初のもの、人の政府は反キリストの手に渡されます。悪を引き止めている第二のものは、福音を宣べ伝える教会です。
夜に関する隠喩を理解しましょう
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イエスは『だれも働くことのできない夜が来ます』と言いました(ヨハネ 9 章 4
節)
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イエスは『夜中の盗人のように』やって来ます(1 テサロニケ 5 章 2 節)
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イエスが来るのは『夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か』(マルコ 13 章
35 節)
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『夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か』(イザヤ 21 章 11 節)
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十人のおとめは、夜に見ることができるためともしびの中に油を必要としていました(マタイ 25 章 1 節)
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使徒たちは夜に捕えられ、イエスもそうでした(ルカ 22 章 54 節)。これには意味があります
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雅歌の中で花婿は花嫁のもとに夜にやって来ました(雅歌 3 章 1 節-5 節)
マタイ 25 章の賢いおとめと愚かなおとめのたとえは、過越の時期、雅歌がシナゴーグで読まれている同じ時に語られました。雅歌の中での登場人物、花嫁、花婿、合唱している天の万軍がどれであるかはヘブライ語本文の性によって明らかです。この物語は第 3 章と第 5章の花嫁の二つの夢を中心としています。3 章で彼女は花婿が来るのに備えが出来ていました。5 章では準備が出来ていなかったのです。イエスが戻られる時、それは教会にとって最高の夢、もしくはひどい悪夢となります。ユダヤ教の中で過越の月、ニサンの月は贖いの月です。この時期に雅歌がシナゴーグで朗読されており、それが過越においてイエスがマタイ 25 章で説教していたことなのです。賢いおとめと愚かなおとめのたとえは、まさにその週にシナゴーグで朗読されていたことを繰り返したものでした。
夜は聖書の中で最も頻繁に用いられる大患難の隠喩です。イエスが裏切られた時、それは夜でした。覚えているでしょうか。イエスの最後の日々は私たちの終わりの日々のようです。その夜がやって来ます。聖霊は、ヨハネ 16 章 8 節で言われているように、この世に罪を認めさせています。何らかの形で聖霊は悪を引き止め、教会に一致をもたらし、福音を宣べ伝える力を私たちに与えています。神の霊は『永久には人のうちにとどまらない』のです(創世記 6 章 3 節)。一方イエスは『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを
捨てない』と言われました(ヘブル 6 章 3 節)。神の霊はご自分の民の心から離れることは決してありません。聖霊は私たちから取り去られませんが、この世からは取り去られます。黙示録で(ディスペンセーション主義者でなくても)、神は旧約聖書で振る舞われたような状態に戻られています。恵みがある意味で、かつてそうであったように終わるのです。
御霊が内に宿ることと、御霊が降り注がれることの間には区別があります。御霊はヨハネ
20 章 22 節において弟子たちの内に宿られました。イエスは彼らに息を吹きかけて言われま
した、「聖霊を受けなさい」。その時聖霊が彼らの内に宿りました。しかし聖霊は教会に対
してペンテコステの日まで降り注がれず、福音を宣べ伝える力を彼らに与えはしませんでした。聖霊はまたヨハネ 16 章で言われているように世にその誤りを認めさせます。それは終わります。言い換えると、神の霊は神の民だけに備えられるものとなるのです。神は私たちからご自分の霊を決して取り去りませんが、もはや聖霊は世に誤りを認めさせることがなくなり、もはや今行われているようには、世に対して教会が真理を伝える奉仕に力を与えることはなくなります。恵みは終わりに近づき、あわれみはご自身のものである民に限られます。それは神がこの大患難の期間にその焦点をイスラエルとユダヤ人に定められるとしてもです。しかしながら、これは教会が大患難の始まりに取り去られると言いたいのではありません。非常に多くの人が、教会が携挙によって取り去られることと、聖霊が取り去られることを同一視してしまっています。それは間違っています――内に宿られる御霊と降り注がれる御霊があります。
そこには隔たりがあるのです。イエスさまの昇天とペンテコステの日の間には間隔がありました。御霊はその時期にも神の民の内に宿っていましたが、まだ降り注がれておらず、世にその誤りを認めさせることもありませんでした。逆のことが終わりの日に起こります。イエスは天に昇られて、聖霊が降り注がれるように遣わされました。終わりの時には、聖霊が去り、もはや降り注がれなくなり、イエスさまが遣わされます。すなわち、聖霊が取り去られるときと、教会が取り去られるときには隔たりがあるのです。神は私たちからご自分の霊を取り去りませんが、この世からは取り去られます。その期間が大患難です。サタンはもはや引き止められず、教会はそこから救い出されます――私たちは最悪の部分を経験することはないのです。それはヨブ書に言われています
『神は六つの苦しみから、あなたを救い出し、七つ目のわざわいはあなたに触れない。』(ヨブ 5 章 19 節)
私が大きな確信を持っているのが、教会が取り去られるのは黙示録の第六の封印と第七の封印の間であるということです。
この期間について教えている箇所は聖書の中にいくつかあります。その最初のものは、イエスが使徒たちに息を吹きかけられたときと、ペンテコステの日までの期間です。キリストはよみがえられ、勝利を得られ、神の霊が神の民の内に宿っていました。しかし教会は世と対峙する力を与えられておらず、またこの世の悪を引き止め、この世に誤りを認めさせる聖霊も与えられていませんでした。これが終わりに再び起こることです。神の霊は私たちと共にだけおられるようになります。
私たちは黙示録 2 章に登場するスミルナの教会を理解する必要があります。“スミルナ”はギリシア語の“没薬”から来た名称で、埋葬のとき死体に塗るために使われました。ローマ政府が私たちの宗教を除く、すべての宗教を合法の宗教――レリギオ・リシタ(religio licita)
――と宣言したことは、再び終わりにも起こります。反キリストと同盟を結ぶ政府はすべて他の宗教をレリギオ・リシタとしますが、私たちには敵対してきます。スミルナの教会に起こったことは、終わりの日の教会が経験することについて教えるもう一つの例です。
霊的な欺き
三つ目のものはより複雑です。私たちはエリヤのことを理解しなければなりません。それが文脈の中でひとりの人であれ、何か他のものであれ、そのような問題は今扱うことはできません――私たちはこれに特化した説教を用意しています。しかし、ヤコブの手紙でエリヤは雨を三年半の間止めたとあります。その雨は後半の三年半に止まる聖霊の降り注ぎを象徴しています。ユダヤ人の太陰暦では 1260 日です。ふた時とひと時、それに半時です。エリヤはその期間の間、異邦人の女性を養いました。(これは異邦人教会の象徴です)
ここで第一列王記に書いてある物語を見てみましょう。イゼベルです(これについては『反キリスト』の説教で詳細に扱っています)。聖書には良い女と、悪い女がいます。聖書の中で“良い女”を見つけたなら、それはいつでも神の女性、イスラエルまたは教会について何らかの形で教えています。雅歌でのシュラム人の女、エバ、ラケル、レベカ、サラ、マリア、デボラ、ヤエル、エステルなど――聖書の中の良い女性はすべて何らかの観点からキリストの花嫁について教えています。一方、聖書中の悪い女性は偽りの宗教の霊、サタンの花嫁について教えています。サタンの花嫁は黙示録でイゼベルとして擬人化されています。確実に列王記の女王アタリヤはもうひとつの例です。彼女の行いはネロの母親にそっくりでした。ネロの母親が彼に悪い影響を与え、それが原因のひとつでネロを教会に敵対させた状況は、列王記で女王アタリヤが自分の息子に影響を与えたのと同じものです。聖書中の邪悪な女性のすべては最終的に現われる邪悪な女性について教えています。偽りの宗教の霊です。
箴言を見てみましょう。ミドラッシュ的に読んでいきます。これは箴言の教えは文字通りの淫婦などに関して書いていないと言いたいのではありません。文字通りのことを書いています。しかしミドラッシュにおいて、“ペシェット(peshet)”と“ペシェル(pesher)”には違いがあります。ペシェットとは文字通りの売春行為、また偶像礼拝であり、霊的な欺きはそのペシェルです。これはもちろん、文字通りの売春や姦淫、不品行に関してです。ですがこの女性、この女性たちの特徴は偽りの宗教の霊を描き出しています。とても簡潔に箴言 31 章を見てみましょう。10 節から 31 節にはソロモンの理想的な女性像が描かれて
います。彼女は宣教地に行くように畑に行きます(16 節)。彼女は自分の夫に食事をもてなし、畑をよく調べてそれを買います。また彼女は夫を喜ばせます。18 節では自分の収入がよいのを味わい、彼女のともしびは夜になっても消えることがありません。気付いたでしょうか?これが良い女の人です(これらすべての特徴は教会を象徴しています)。ここで悪い女の人の幾人かを見ていきましょう。
悪い女の子のほうが面白いと誰が言ったのでしょうか?彼女たちは面白くはなく、死をもたらします。箴言 5 章を見てみましょう
『わが子よ。私の知恵に心を留め、』
――注意してください。神の知恵が無い人々は偽りの宗教によって欺かれます――
『これは、分別を守り、あなたのくちびるが知識を保つためだ。他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。』
――油は人に注ぐために用いられる物です。悪魔は油注ぎを真似るのに非常に長けています。どのようにしてそれを行うのでしょう?口先が上手いことと、人当たりの良さです。アメ リカで嘘を宣伝する人たちはとてもじょう舌です。そのような人たちは油注ぎをいんちき と取り代え、人々はその違いに気付かないのです。
『しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、』
給料日の酔っぱらった可哀そうな船乗りを例として挙げてみましょう。パブでのラストオーダーからの帰り、売春婦を見つけ、彼女について行くと、たった 2 週間後にエイズにかかったと分かるようなものです。このような種類の隠喩を聖書はここで使っています。
『しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。』
――これを見てください!悪魔は神の真理を真似出来るのです。(しかし神のことばは両刃の剣よりもするどいとあります)思い出してください。旧約聖書で悪魔は『明けの明星』(イザヤ 14 章 12 節)と呼ばれており、イエスも『輝く明けの明星』(黙示録 22 章 16 節)と呼ばれています。(このテーマには『反キリスト』の説教で立ち入っています)
『その足は死に下り、その歩みはよみに通じている。その女はいのちの道に心を配らず、その道筋は確かでないが、彼女はそれを知らない。子どもらよ。今、私に聞
け。私の言うことばから離れるな。あなたの道を彼女から遠ざけ、その家の門に近
づくな。そうでないと、あなたの尊厳を他人に渡し、あなたの年を残忍な者に渡すだろう。そうでないと、他国人があなたの富で満たされ、あなたの労苦の実は見知らぬ者の家に渡るだろう。』(箴言 5 章 1 節-10 節)
誰が邪悪な女性に自分の力を明け渡したでしょうか?サムソンです。デリラはその邪悪な女性の象徴です。彼女は神の人を誘惑し、彼の力を諦めさせました。彼女がサムソンを崩壊に導いた方法、しかし神が勝利のうちに彼に力を与えられた方法は終わりの時代についてのことを教えています。本当にイエスを愛し、信仰において、神との歩みにおいて誠実な男の人がいるかもしれませんが、意地の悪い女性にくびったけになっている人がいます。これは人に対して起こることです。しかし、これはまた教会に対しても起こること、霊的な欺きです。
私たちはここで偶像礼拝と姦淫の関係を理解する必要があります。イスラエルの夫はヤハウェであるべきでした。ヘブライ語での“夫”は“バアル”といい、“主人”と同じ言葉です。荒らす忌むべきものはアラム語で“シクーツ・ハ・メショメム(shikutz ha meshomem)”と呼ばれています。シクーツという言葉はヘブライ語の“シケッツ”、“ネバネバした爬虫類”または“忌むべきもの”から来ています。サタンは黙示録でふたつの攻撃形態を備えています。蛇と竜です。竜は迫害者であり、蛇は欺く者です。エバがエデンの園で蛇に騙されたやり方は、サタンが教会を騙そうとする同じやり方です。
女性は一般的に男性より霊的な欺きに弱くあります。それは、彼女たちがより敏感で、男性より容易に神さまは女性に語りかけることができるからです。そして神が善のために意図したものは何でも、サタンはねじ曲げて、悪のために用います。神は女性に頭を覆うように教えました。文字通りに覆うのではありませんが、エバが霊的な欺きに弱かったために、女性は保護という観点において男性の権威の下にいる必要があります。その文化では頭にスカーフを巻くことを意味しましたが、原則はどの文化においても真実です。私は、いつも頭を覆っている女性を知っていますが、その人は今まで見たことがないほど口を挟む女性でした。もし彼女の夫が口を開こうものなら、叩かれていました。その女性の頭は結局覆われていなかったのです。
姦淫=偶像礼拝
シケッツという言葉は聖書の中で多く登場します。残念ながら、それはたいてい「あなたの忌むべきもの」と訳されています。「ああ、シオンの娘よ。あなたは淫婦になってしまった。あなたはわたしの聖所を忌むべきもので汚した」その言葉はシケツィームです。これ
は欺く者であるサタンと関係があり、ほとんどいつも言って良いくらいバアル崇拝と結び
付けられています。バアルはもちろん、ヘブライ語の“夫”という意味の言葉です。荒らす忌むべきものは旧約聖書のバビロンの王に見られるように、サタンの神になろうとする欲望を明らかにするでしょう。彼は霊的な欺きによって神の女性を奪おうと試みます。それが荒らす忌むべきものの意味するところです。サタンは霊的な欺きを用いて神の女性を奪おうとします。姦淫と偶像礼拝は相性が良いのです。偶像礼拝は霊的な姦淫と同じです。このためにイスラエルが偶像礼拝の罪に陥ったとき、神は「ああ、シオンの娘よ。あなたは淫婦になってしまった。他の愛人のもとに行ってしまった」と語っているのです。不貞という言葉は偶像礼拝を表現するために使われています。
箴言 7 章
『わが子よ。私のことばを守り、私の命令をあなたのうちにたくわえよ。私の命令を守って、生きよ。私のおしえを、あなたのひとみのように守れ。それをあなたの指に結び、あなたの心の板に書きしるせ。知恵に向かって、「あなたは私の姉妹だ」と言い、悟りを「身内の者」と呼べ。』
終わりの日には、みことばの理解と忠実さは密接に関連するようになります。なぜでしょうか。それは理解を持っていない者が欺きに対して無防備になるからです。
『それは、あなたを他人の妻から守り、ことばのなめらかな見知らぬ女から守るためだ。私が私の家の窓の格子窓から見おろして、わきまえのない者たちを見ていると、若者のうちに、思慮に欠けたひとりの若い者のいるのを認めた。彼は女の家への曲がりかどに近い通りを過ぎ行き、女の家のほうに歩いて行った。それは、たそがれの、日の沈むころ、夜がふける、暗やみのころだった。』
これはいつであると書いていますか?たそがれ時、夜がふけるころです。カル・バ・ホメルを思い出してください。いつも真実なことが、終わりの日には特に真実となります。霊的な欺きはいつもそこら中にありますが、イエスが戻って来られるときに増大するようになります。
『すると、遊女の装いをした心にたくらみのある女が彼を迎えた。この女は騒がしくて、御しにくく、その足は自分の家にとどまらず、あるときは通りに、あるときは市場にあり、あるいは、あちこちの町かどに立って待ち伏せる。この女は彼をつかまえて口づけし、臆面もなく彼に言う。「和解のいけにえをささげて、きょう、私の誓願を果たしました。それで私はあなたに会いに出て来たのです。あなたを捜し
て、やっとあなたを見つけました。私は長いすに敷き物を敷き、あや織りのエジプ
トの亜麻布を敷き、』
エジプトは何の象徴でしたか?この世です
『没薬…で、私の床をにおわせました。』
そこは良い香りがしますが、死の床です。死体に化粧をすると良く見えるかもしれませんが、それでもなお死体の上の化粧なのです
『さあ、私たちは朝になるまで、愛に酔いつぶれ、愛撫し合って楽しみましょう。』ここで 19 節と 20 節を読んでみましょう
『夫は家にいません。遠くへ旅に出ていますから。金の袋を持って出ました。満月になるまでは帰って来ません」と。』(箴言 7 章 1 節-20 節)
このように彼女はこの男を騙します。気付いたでしょうか。彼女は夫が家にいないことを知っていました。彼女はイエスが長い旅に出て、“満月”に戻って来ることを知っていました。また満月とはどのようなものでしょう?それは月が太陽からの光を最大限に反射しているときです。人は聖書をある時点で理解しなければなりません。暗やみがあっても、そこには太陽の一筋の光があります。しかし、ともしびに油を備えていない人にとって、その時油を買いに行くのは時が既に遅すぎます。私たちは今、油を買うべきなのです。†††
Hannukah - Japanese
エゼキエル 8 章 9 章
ジェイムズ・ジェイコブ・プラッシュ
エゼキエルとはヘブライ語で、「神の力によって」という意味です。彼の奉仕はまさに、ただ神の力によって実行されたものでした。預言者たちの名前は大抵の場合、神が定めたその人の奉仕の特徴を描き、表現しています。
エゼキエルは、初めイザヤによって預言され、後にエレミヤが預言したバビロン捕囚の到来の直後に登場しました。それは最終的にエゼキエルの時代に始まったのです。民が悔い改めなければ来ると言われていた、その裁きが実際に始まっていたのです。それははっきりと神の裁きとして始まったのですが、人々はそれを神の裁きではないと否定していました。すべてのことが行き詰っていましたが、人々は勝利が来ると主張し続けていたのです。これは今日の状態に似ています。『勢いのある教会(The Unstoppable Church)』(より正確に今の状態を言い表すなら“勢いのあるモスク”ですが)というような本があったりします。彼らの体は実際には重病にかかっているのに、自分の体に対して嘘を付いているようなものなのです。人々は単純に、事実に目を向けたがりません。イザヤやエレミヤが最初から現実に起こると予告していたことを、認めたがらないのです。
エゼキエルは神の裁きは継続し、ますます悪くなると予告しました。その理由は民の罪が継続し、さらに悪くなっていたからです。彼らは神の裁きが来ているのを見ても、悔い改めることをしなかったのです。また、このことは黙示録の中でもほのめかされています。神の裁きが頻繁になり、激しくなってきても、人は心をかたくなにし、神を呪い、罪にとどまったとあります。エゼキエルの時代にもそうであり、終わりの時代にもそうなるのです。エゼキエルは黙示録と深い関連があり、同じことを示しています。
エゼキエル 9 章 4 節『主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」』裁きが始まる前に、神の家、神の町の中で行われている忌みきうべきものを見る人たちがいます。また、神は言われます。「本当に私のものである者たちにしるしをつけよ。間違っていることを見て、何が間違っているかを理解し、嘆いている者にしるしをつけよ。裁きが来る前にしるしをつけるのだ。」
『また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上っ
て来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫ん
で言った。「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」』(黙示録 7 章 2 節-3 節)黙示録 13 章に至っては、獣のしるしに関して書かれており、主の与えられるしるしと獣のしるしは、互いに排他的であるということが分かります。
歴史と考古学によって、エゼキエルで言われているしるしはヘブライ語の「トブ(tov)」という文字であったことが知られています。今日、ヘブライ語のトブという文字は H
に足が付いたような形に書かれます。しかし、捕囚以前のイスラエルでは傾いた十字のように書かれていて、おそらくその原型は直立の十字でした。したがって、エゼキエルの時代の神のしるしは実際に十字架のしるしだったのです。
黙示録 9 章 4 節『そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。』もう一度、神の裁きが来る前に彼の民にはしるしがつけられます。教会は患難に入りますが、その最も酷い状況からは救い出されるのです。しかしながら、その中のある時期は耐え忍び、主にしるしをつけられ、何らかのかたちで守られるのです。終末に登場する 14 万 4 千人の奉仕者たちは、確実に主のしるしを持っています。イスラエルの子孫たちはエジプトにおいて裁きの大半を経験しました。出エジプトで記されている同じ裁きがこの世の終わりに再現されます。そして、それは黙示録で起こることの主な予型なのです。暗闇や水を打つことなどがそうです。ヘブライ人たちはある部分は経験しましたが、最も酷い中からは救い出されました。それと同じことが世の終わりにも起こります。神はご自分の民にしるしをつけるのです。
主のしるしという考えは、もちろん黙示録から始まったことではなく、エゼキエルですらなく、トーラーからであり、出エジプトで言及されています。出エジプト 13 章 9 節『これをあなたの手の上のしるしとし、またあなたの額の上の記念としなさい。それは主のおしえがあなたの口にあるためであり、主が力強い御手で、あなたをエジプトから連れ出されたからである。』
エゼキエルに戻ってみましょう。裁きがやって来る前に、忌みきらうべきものとその悪とを見て、嘆く者たちは―その心が真実に神のものとなっている者たちは―十字架のしるしが付けられました。また黙示録では、忌みきらうべきものを見て、嘆く者たちに十字架のしるしがつけられるのです。
エゼキエルの時代にその裁きは始まっていました。捕囚が開始されていたにもかかわらず、
民は「ああ、ただ私たちは一時的に痛手を負っているだけだ。長続きはしない。」と言って
いましたが、実際は、ネブカドネザルはユダヤを 4 回に分けて侵攻し、その度に結果はひどいものとなっていたのです。それはあたかも悪の波が次々と来るように、先にあったものより悪くなるのです。そのように神の裁きは来ます。しかし、神の民はしるしがつけられます。彼らは真実に神のものなのです。
エゼキエルの幻は主に神殿周辺に関してでした。エゼキエル 47 章は千年王国の幻であり、ヘブライ語で「シムカ・ベイト・ハ・ショイバー(Simchat beit Ha Shoyivah)」と呼ばれる神殿の丘で水を注ぎ出す儀式を背景にしています。それはハ・スコット(Ha Succoth)と呼ばれる仮庵祭が祝われていたときでした。ヨハネ 7 章もこのことを示唆していて、その意味はいつも千年王国についてでした。
私はニューエイジ“クリスチャン”であるパトリック・ディクソン(Patrick Dixon)が意識の変化した状態について話しているのを聞きました。彼が言うには、聖書の中でいつも神の臨在が現れるとき、人々は理性を失い、普段とは違った意識に入ると言っていました。これはトロント・ブレッシング(Toronto Blessing)などを受け入れることが出来るという彼の弁護なのです。その例として、彼はペテロがイエスの山で姿が変わったことを取り上げ、彼は幕屋を作りたいという愚かで、おかしなことを考えたと言っています。ディクソンはそれをばかげたことと考えているのです。私は彼に次のことを示し、それは何もばかげたことではないと指摘しました。つまりペテロはその変貌が、ユダヤ人の祭りである仮庵祭のメシアによる成就だと考えていたのです。モーセとエリヤがメシアと共にその姿が変えられたので、何もばかげたことではなく、ペテロはそれが千年王国の到来だと考えたのです。明らかにディクソンはこのことを一度も考えたことがないようでした。その文脈において、ペテロの行為は全く理性的なものだったのです。彼は私に「どうしてそう言えるのか?あなたはそこにいたのか?ペテロと話したことがあるのか?」という質問をもって答えてきました。私はそれに対して、「私は第二神殿期の仮庵祭のメシア的な象徴がどのようであったかを知っている」と言いました。これに対してはディクソンも返す言葉が無かったようでした。このように現代はどうしても、さまざまな毒が大きな釜に入っているような状態なのです。
エゼキエルの神殿:「神殿の象徴(The Typology of the Temple)」のテープでは、ギリシヤ語とヘブライ語において少なくとも七箇所で“神殿”に関する単語、ナオス(naos)、オイコス
(oikos)、ヒエロン(hieron)、べト・ミシュカン(beth mishkan)、ベト・ミグダシュ(beth
migdash)、ハ・ヘカル(Ha Hekal)、これらが色々な箇所で教会の象徴として用いられていることを詳しく教えています。そして例えば、1ペテロ 2 章 5 節では『あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。』とあり、コリント人への手紙では教会は神殿
と呼ばれており、エペソ人への手紙の 2 章・4 章では神殿は教会の象徴です。また、使徒の働きではダビデの幕屋を建て直すことが語られていて、それはアモス書の『その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。』(9 章 11 節)という箇所の引用です。新約聖書は少なくとも、これは部分的に異邦人の教会において成就されたと明らかにしています。また、反キリストについてのテープでは、荒らす憎むべき者に関して語っており、ダニエル書で語られた至聖所である聖なる場所に、彼が立つことについてです。このことは歴史の中のいくつかの時点で部分的に成就されました。その最も顕著な例がアンティオコス・エピファネス (Antiochus Epiphanes) によって成就されたときです。またこのことも「ハヌカー
(Hanukah)」のテープに収録されています。
エルサレムに神殿が再建され、憎むべきものがそこに建てられるとしても、それが物理的な神殿に関して起こることですが、それはただ霊的に起ころうとしていることの反映でしかないのです。イエスが十字架上で死んだとき、神殿の幕は上から下に裂けました。このことは罪深い人間と聖い神との隔たりが、もはや無くなったことを示しています。物理的な奇跡はその物理的な神殿で起こりました。しかし、それは一番大切なことではありません。一番大切なことはその奇跡が象徴していることです。私たちの大祭司であるイェシュアが罪のためにささげられたために、人間はもはや神から離れてはいないのです。したがって、荒らす憎むべき者についてもその通りです。憎むべきものが何らかの形で神殿に建て上げられるとしても―私はそれが実際に起こることを確信していますが―それはただ単に霊的に起こることの前兆なのです。反キリストは神の家で礼拝されたがります。このことは反キリストについてのテープで扱われています。そこではアラム語での荒らす憎むべき者について説明しています。
エゼキエルは主の家で忌みきらうべきことを見ました。もう一度、8 章 1 節から始まる 2
章を読んでみましょう:
『第六年の第六の月の五日、私が自分の家にすわっていて、ユダの長老たちも私の前にすわっていたとき、神である主の御手が私の上に下った。私が見ると、火のように見える姿があった。その腰と見える所から下のほうは火で、その腰から上のほうは青銅の輝きのように輝いて見えた。すると、その方は手の形をしたものを伸ばし、私の髪のふさをつかんだ。すると、霊が私を地と天との間に持ち上げ、神々しい幻のうちに私をエルサレムへ携え行き、ねたみを引き起こすねたみの偶像のある、北に面する内庭の門の入口に連れて行った。なんと、そこには、私がかつて谷間で見た姿と同じようなイスラエルの神の栄光があった。その方は私に仰せられた。「人の子よ。さあ、目を上げて北のほうを見よ。」(災いはいつも北からやって来ます)そこで、私が目を上げて北のほうを見ると、北のほうの祭壇の門の入口にねたみの偶像があった。』(8 章 1 節-5 節)
“人の子”とは終末的な称号であり、他のすべての預言者たちと同じく、イエスを何らか
の形で示しています。イエスは終わりの時代に関して神の子とは一度も呼ばれませんでした。彼の再臨について語られているとき、それはいつも人の子がやって来ると書かれています。
『この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは彼らのしていることが見えるか。イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌みきらうべきことをしているではないか。あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」』(8 章 6 節)
またここにおいても、荒らす憎むべき者が示唆されています。
『それから、この方は私を庭の入口に連れて行った。私が見ると、壁に一つの穴があった。この方は私に仰せられた。「人の子よ。さあ、壁に穴をあけて通り抜けよ。」私が壁に穴をあけて通り抜けると、一つの入口があった。この方は私に仰せられた。「入って行き、彼らがそこでしている悪い忌みきらうべきことを見よ。」私が入って行って見ると、なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていた。また、イスラエルの家の七十人の長老が、その前に立っており、その中にはシャファンの子ヤアザヌヤも立っていて――彼は名前をも明らかにします!――、彼らはみなその手に香炉を持ち、その香の濃い雲が立ち上っていた。この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行なっていることを見たか。彼らは、『主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた』と言っている。」さらに、私に仰せられた。「あなたはなおまた、彼らが行なっている大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」ついでこの方は私を、主の宮の北の門の入口へ連れて行った。するとそこには、女たちがタンムズのために泣きながらすわっていた。この方は私に仰せられた。「人の子よ。これを見たであろうが、あなたはなおまた、これよりも大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」そして、この方は私を主の宮の内庭に連れて行った。』(8 章 7 節-16 節)
旧約聖書の中では、神の宮を進んで行くにつれてさらに聖い場所に至ります。
『すると、主の宮の本堂の入口の玄関と祭壇との間に二十五人ばかりの人がおり、彼らは主の宮の本堂に背を向け、顔を東のほうに向けて、東のほうの太陽を拝んでいた。この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたはこれを見たか。ユダの家にとって、彼らがここでしているような忌みきらうべきことをするのは、ささいなことだろうか。彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている。見よ。彼らはぶどうのつるを自分たちの鼻にさしている。だから、わたしも憤って事を行なう。わたしは惜しまず、あわれまない。彼らがわたしの耳に大声で叫んでも、わたしは彼らの言うこと
を聞かない。」この方は私の耳に大声で叫んで仰せられた。「この町を罰する者たちよ。
おのおの破壊する武器を手に持って近づいて来い。」見ると、六人の男が、おのおの打ちこわす武器を手に持って、北に面する上の門を通ってやって来た。もうひとりの人が亜麻布の衣を着、腰には書記の筆入れをつけて、彼らの中にいた。彼らは入って来て、青銅の祭壇のそばに立った。』―青銅の祭壇は十字架の象徴です―『そのとき、ケルブの上にあったイスラエルの神の栄光が、ケルブから立ち上り、神殿の敷居へ向かった。それから、腰に書記の筆入れをつけ、亜麻布の衣を着ている者を呼び寄せて、主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」また、私が聞いていると、ほかの者たちに、こう仰せられた。「彼のあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ。惜しんではならない、あわれんではならない。』(エゼキエル 8 章 16 節-
9 章 5 節)
神はご自分の民に害を及ぼすことを許しませんでした。また、彼はご自分の者にはしるしをつけ、残りの者は打てと命じました。黙示録では、木々に害を加えないように命じられています。―『野の木々もみな、手を打ち鳴らす。』(イザヤ 55 章 1 節-2 節)―木々は神の民を象徴しています。これがエゼキエルでも起こったことなのです。
神はエゼキエルを取り、忌みきらうべきことを次々に見せました。それはますます悪くなるばかりでした。彼が最初に見た忌みきらうべきことに注目してみましょう:ねたみの偶像、主の家での偶像礼拝です。ヘブライ語での「礼拝する」という言葉は「ヒシャタクヴァー(hishtakvya)」といい、不定詞では「ヒスタカヴォート(Histachavot)」すなわち「ひれ伏す」ということです。誰でも像や彫られた偶像の前にひれ伏し、拝むならそれは偶像礼拝です。ハイ・カトリックやローマ・カトリック、これらのものは偶像礼拝です。
この話は次のように始まりました。神はエゼキエルを天と地の間に持ち上げて、「見よ。今あなたは天から、わたしが見るように見ている。彼らがわたしの家、わが聖所、会見の場所でしていることを見たか。」と言いました。エゼキエルはそれを見て、驚きました。しかし、神はエゼキエルに「これがわたしの家、わが聖所での偶像礼拝である。しかし、人の子よ、あなたはさらに忌みきらうべきものを見ることとなる。」と言われます。その後神は神殿の中へとさらに奥へと彼を導かれます。そこでは、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていたのです。ここでの
「忌むべき」とはヘブライ語で「シェケツィム(shektzim)」というもので、異邦人女性を軽蔑した言い方の「シクセー(shikseh)」という言葉はこれから来ています。黙示録において、サタンにはふたつの攻撃する形態があると、私が言っているのを聞いたことがあるでしょうか。蛇と竜です。竜は迫害者としてのサタンです。また、蛇とは欺くものとしてのサタンです。これらのはうものも「シェケツィム」と呼ばれ、それは「ねばねばした爬虫類」
という意味です。それらは古代中近東で行われていたヘビ崇拝などから来た悪魔の象徴で
すが、インドの西部に至るまでヘビ崇拝が行われています。荒らす忌むべき者はそこから取られたものです。主の家の中にいる悪霊:この時点でただの偶像礼拝が、明らかな悪霊崇拝になっていくのです。
しかし、神はそれからエゼキエルに言われます。「あなたはさらに悪いものを見ることになる。わたしの家でさらに忌みきらうべきものを見るのだ、人の子よ!」そして神は宗教指導者たち―レビ人やコヘニム(cohenim)などの“牧者たち”―をあちらこちらで名指しで呼びます。また彼はシャファンの子ヤアザヌヤが彼らの内に立っていたと書いています。そこにいるべきではない人々、いるはずのない人々が香を持ってそこにいるのです。香は聖徒の祈りを象徴しています。しかし、それらの祈りは本当の神にはささげられていないのです。彼らは真実の神を礼拝していません。パウロは1テモテ・2テモテにおいて、ヨハネは3ヨハネにおいて、信者たちを過ちに引き込もうとする指導者たちの名前を公に挙げました。使徒と預言者たちはためらうことなく、そのような者たちの名を明らかにしたのです。
このエゼキエルの箇所において、偶像礼拝が行われており、明らかな悪魔崇拝があり、また神の指導者たちが民をそこに引き込んでいました。神は主の家でそのように指導者たちが悪事に加担することは、何にも増してひどく忌みきらうべきことであると宣言しています。
『あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。』その次に神がエゼキエルに見せられたのはタンムズ礼拝でした。タンムズは乳飲み子の神であり、彼の母であるマドンナに抱きかかえられていました。ローマ・カトリックのマドンナと子どもという考えは、タンムズ礼拝をカトリック化したものです。そうでしかありません。エレミヤ 44 章では、女たちが天の女王のためにパン菓子を焼いている光景に出くわします。これはカトリックのマリア崇拝と同じものです。タンムズに関して言うと、イエスは無力な幼児として描かれ、一方でその母は力のある独立した大人として表現されています。このような考えのもと、マリアが私たちの共通の贖い主であり、共通の仲介者であり、共通の救い主であるとカトリックは主張しているのです。彼女は今まで存在した女性の中で最も偉大であることは事実です。しかし、彼女自身、救い主が必要であると言いました。
『あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。』そう神はエゼキエルに言いました。
『人の子よ。あなたは彼らのしていることが見えるか。』まず、それはねたみの偶像であり、
次に悪霊でした。その次に指導者たちが手をつけたものとは―より知識があるべき者たち
が民を迷わせます―タンムズ礼拝でした。この次には何が来るのでしょうか?
『あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。』神はエゼキエルを玄関と祭壇の間にある内庭に連れて行きました。そこで彼が見たものは公然と太陽を拝む者たちでした―公然と他の神々に祈っていたのです。これらのバビロンの宗教は単なる礼拝以上のもの、不品行などをも含んでいます。不品行と偶像礼拝は共に起こります。古代ギリシヤではそれは神殿娼婦でしたが、その起源はギリシヤ以前にさかのぼります。礼拝の中での性の堕落です。サタン崇拝にかかわりを持つすべての成人式は、何らかの性的な儀式を含んでいます。ロザラム(Rotherham)にいる、私の知っているクリスチャン女性の娘は、サタン的なカルトに参加していました。そこで大祭司がサタンと関わり持たせるため、彼女を“結婚”させたのです。儀式のすべてが性的で汚らわしいことで満ちていました。この女性は当然のことながらとても動揺していました。
状況はますます悪化していきます。民はそれを無視していましたが、イザヤやエレミヤが来ると、初めから警告していた神の裁きが実現していたのです。彼らは来るべき裁きを否定し、罪にとどまっていました。その一方で、指導者たちはそこに立ち、「もはや主はこれらのことを、本当には気遣っておられない。すべてはゲームなのだ。ただこれは私たちの仕事なのだから。」と言います。聖職者の中の多くのフルタイムの奉仕者たちが―彼らの中には福音派もいますが―奉仕がただの職業にすぎなくなっているのです。奉仕は仕事になっていて、召命でもなく、情熱をもってするものでもなく、神が天職として与えたものではなくなっているのです。ただ彼らの義務になってしまっています。
最終的に神は言われます、「真実にわたしのものである者たちにしるしをつけよ」。もはや望みはなくなりました。神はそのようなことを見て嘆いている者以外、あわれむことも惜しむこともなくなるのです。神はエゼキエルを天にまで上げて「わたしの聖所を見よ」そう言われると、彼は衝撃を受けました。また、神は「またそこにはあなたが見たものを見、ひどく驚いた者たちがいて、彼らはわたしの家で忌みきらうべきことが行われているのを見て嘆いているのだ。その偶像礼拝、不品行、また彼らの指導者たち自身が民を引き込んでいるのを嘆いている。これらの者たちにはしるしがつけられる。しかし、わが裁きは下ろうとしている。さらにあなたは忌みきらうべきことを見ることになるだろう」と言われ、
「人の子よ。あなたは彼らが行っていることを見たか。忌みきらうべきことをさらに見る
ことになる」と主は言われます。
白魔術を行う者が歴史上初めて、イギリスの大学で多神教のチャプレンになりました。「スーザン・ラドーン(Susan Ladourne)がリーズ大学で、オカルトを信じた生徒をカウンセリ
ングするために職務を引き継いだ。29 歳の魔術師は、魔術や多神教の儀式や礼拝をもって、生徒を指導する。」 しかし、これよりもさらに忌みきらうべきことを、私たちは見ます。一体どのようなものなのでしょうか?祭司たち―知識を持ち合わせているはずの者―が不品行に身をまかせ、魔術を受け入れているのです。いいですか、国教会のチャプレンであるサイモン・ロビンソン牧師(Rev. Simon Robinson)は魔術師にも果たすべき役割があるとしてそれを受け入れ、次のように言いました「私たちはすでにさまざまな宗教からチャプレンを採用している」。祭司たちは忌みきらうべきことや偶像礼拝が行われている中、香を持ち立っていました。彼らは「大丈夫、神は見てはいない」と言うのです。これがまさにエゼキエル書において起こっていたことです。「神は見てはいない」とコヘニムは言い、同じ事をレビ人も言いました。また、これはイギリス国教会の聖職者が今日言っていることなのです。
「あなたはなおまた、わたしの家で大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」と主は言われます。ヨークシャー・イブニング・ポスト(Yorkshire Evening Post)によると「一緒に住むことはもはや罪ではない―イギリス国教会は家族の価値観について姿勢を一変した」そうなのです。私は罪の中に生きていました。イエスが私の心の中に入ってきたとき、私はニューヨークに住んでいて、向かいの通りにいた、とても魅力的なアメリカ系イタリア人の女性と暮らしていました。そのとき、私は残りの薬物を取り、窓から 20 階下に投げ捨てました(それをガーナへ行く大使が拾って、自分のものにしたと思います)。そしてジューズ・フォー・ジーザス(Jews for Jesus)の当時リーダーだったサム・メードラー(Sam Madler)が私に言いました。「あなたは結婚するか、そこから出ていくかしなければならない。たとえ、あなたたちが一緒に寝ていないとしても、罪があるように見え、あなたの証を台無しにすることになる。」そこで私は彼女をキリストに導きました。よい証と信仰を保とうとして私は唯一の選択肢を選びました。つまり彼女に出ていくように告げたのです。
ここで言いたいのは、私がしていたことが間違っていると言われて、クリスチャンとしてそのままやっていけなかったということです。『結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。』(ヘブル 13 章 4 節)―もう彼女とはベッドを共にしないとしても、それは罪のように見えると言われたのです。証をし続けてきた私の隣人たちは、彼女と寝ていないということを信じはしなかったでしょう。しかし現在、イギリス国教会は一緒に住むことはもはや罪ではないと言っているのです。私は福音主義カリスマ派であると聞いていた、ジョージ・カーレイ(George Carey)大監督の、公式のイギリスの住所であるランバート官邸に電話をかけました。私は電話をし、かけ返してくれるようメッセージを残しました。彼らは私が何を望んでいるのか知りたがっていたので、『結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。』という新約聖書の箇所があるのに、どうやって結婚せずに寝床を聖く保てるのかと大監督に聞きました。それからという
もの返事は一切来ていません。
「あなたはなおまた、わたしの家で大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」と主は言われます。ギリシヤ語の「デモノイ(demonoi)」とヘブライ語の「シェディム(shedim)」は、
1 コリントと申命記で使われていて、他の神々や悪霊たちのことを述べています。旧約と新約はどちらもそれを告げています。エゼキエルははうものや悪霊などのシェディムが、神の聖所、主の家で崇められているのを見ました。カンタベリー大聖堂に行き、自分自身の目で異教徒の間でなされている礼拝を見てください。アンセルム・チャペル(Anselm
Chapel)に行き、仏教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、シーク教徒などの礼拝で溢れていて、“クリスチャン”たちがそれを受け入れているのを見てください。『あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。』
Midrash Garden 1 - Japanese
ミドラッシュ 園の中のイエス(1)
ジェイコブ・プラッシュ
モリエルミニストリーズに詳しくない人もいると思いますので、私たちがしているひとつのことを説明したいと思います。ユダヤ人信者たちを通して主が一世紀の教会を建て上げました。聖書はまずヘブライ人の文化に与えられました。私たちは初期のユダヤ人信者が読んだように、聖書を読むことを目標としています。何百年にもわたって、そのことをしようとした人たちはいました。特にプリマス・ブラザレンがそうです。私たちはこの終わりの日において、一世紀の教会がしたような聖書の解釈法を理解することは重要だと考えています。
(もうすでにご存知の方はすみません。しかし、この教えに耳が慣れていない人や、信仰に入ったばかりの人のために繰り返したいと思います。)
一世紀のユダヤ人信者が、ヨハネの福音書の最初の4章を読んだなら、創世記と似てい ると言ったことでしょう。ヨハネの福音書での「新しい創造」は、創世記の創造に対して ミドラッシュ(象徴・パターン)によって、それを深く探求しているものであると言うで しょう。ヨハネの福音書の中の「新しい創造」は、創世記の中の創造と関係があります。 創世記では神さまが地上を歩いていたとあり、人はエデンの園でそれを聞いたとあります。これはイエスのことを語っています。神学的な用語では、それはキリストの顕現と呼ばれ るもので、旧約聖書でのイエスの現れです。ヨハネの第一章ではことばは人となったとあ り、もう一度、神さまが地上を歩いているのです。
創世記で記されている、小さな光と大きな光とは、月と太陽のことです。ヨハネの福音書では、また小さな光である――バプテスマのヨハネが登場します。ヘブライ語の名前はヨハナン・ハ・マトビル(Yochanan Ha Matbil)と言います。そして大きな光はメシアであるイエス、ヘブライ語ではイェシュア・ハ・マシアハ(Yeshua Ha Machiach)です。
創世記では、神の霊が水の上を動いて被造物を生み出しました。ヨハネ3章では、水と霊によって生まれた者について書いてあります。また、御霊は水の上を動いて、今度は
「新しい創造」を生み出すのです。創世記の創造の三日目では、神さまは水に関する奇跡を起こされました。ヨハネ2章1節では、「三日目に」カナでの婚礼において、神さまはもう一度奇跡を起こされました。今回は「新しい創造」です。神さまは人に対しての最初
の計画を、アダムとエバの結婚のつながりによって始められました。イエスも、公の奉仕
をカナの婚礼において開始し、神さまの第二の計画も、結婚のつながりによって始まりました。ヨハネの福音書での「新しい創造」は、創世記の創造と多くの類似点があります。ミドラッシュ(象徴・パターン)的な考えをしているのです。
これのような聖書の箇所は無数に存在します。ユダヤ教の中でいのちの木といえば、ヘブライ語でエツ・ハイーム(ets hayyim)というのですが、いちじくの木に象徴されます。いちじくの木はエゼキエル47章と黙示録に登場しますが、最初のものは創世記の創造において登場します。ヨハネ 1 章でナタニエルがイエスに、どうして自分のことを知っているのかと尋ねたとき、イエスは答えました。『わたしは、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。』こう言ってイエスがナタニエルに示したかったのは、ただ彼が文字通り、いちじくの木の下にいたのを見たということではなく(それも含まれていますが)、イエスはミドラッシュ、またはユダヤ的な象徴を用いて、「わたしはあなたを世界のはじまり、創造のとき、園にいたときに見た」と本当は言っているのです。
創世記とヨハネの福音書は、「創造」と「新しい創造」です。聖書はパン屋の釜から出されたばかりの、一かたまりのパンと比べることができます。スライスされる前は、どちらの端も同じように見えます。同じように、主は初めから終わりまで告げています。これを切り開いてみると、ヨハネの福音書に当たります。多くの保守的プロテスタントはその同じヨハネが、黙示録を書いたと信じています。このような理解をもって見てみると、はじめは「創造」、次には「新しい創造」、そして「再創造」があるのが分かります。創世記を黙示録と比較して見てみるなら、似たようなものを発見します。もう一度、黙示録では、初め創世記で見たいのちの木を見ます。創世記49章ではヤコブの、イスラエルの十二部族に対しての預言があります。見てください、黙示録7、14章では再び十二部族が出てきます。
黙示録は「竜と蛇は投げ落とされた」とあります。私は間隙説で主張されているように、
恐竜が数百万年も古いと思っていません。蛇はかつて四足歩行または、二足歩行でした。それは歩いていたのです。
メキシコから中国まで、すべての文明で竜の物語が残っているのは興味深いことです。私は何度も、オーストラリアのシドニーにあるトランガ動物園に行きました。そこはとても素晴らしいものです!長さ2.7または3メートル、高さ90センチ、幅60センチから90センチ、そしてあなたをも食べることの出来るトカゲを、あなたはどのように呼びますか?それはコモド・ドラゴンです。恐竜という言葉の意味は単に「大きく、恐ろしいトカゲ」というものです。私はそれをこの時代に見ました。
話を戻すと、黙示録で登場する竜は迫害者としてのサタンです。蛇とは欺く者としての
サタンです。イエスはアベルが最初の殉教者であるとマタイ23章で言いました。『あなたの弟の血が叫んでいる』神は創世記の中でカインに言いました。黙示録ではどうでしょうか?祭壇の下にいる殉教者の血が叫んでいます。
そして、創世記でヨセフは女と星の幻を見たと言われています。再び黙示録では、12章で星をまとった女が現れます。類似点はこのように次から次へと続きます。そうです、それは一かたまりのパンのようなのです。スライスされる前は、どちらの端も同じように見えます。それを切ってみると、そこにパターンを見出します。「創造」、「新しい創造」、
「再創造」です。
この背景を考慮した上で、創世記3章を開いてください。創世記をヘブライ語ではベレシート(Bereshit)と呼びます。「はじめに」という意味です。5節『あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。』私たちはここで、ヨハネの書簡で警告されているように、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢を発見します。黙示録とヨハネの福音書の著者であるヨハネは、この三つの書簡の著者でもあります。彼の著作を通して、創世記に対してのミドラッシュを見ることが出来ます。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢はもうひとつの例です。
総括的にいうと、神さまの中ではふたりの人しかいません。最初のアダムと最後のアダムです。あなたが肉体的に生まれたとき、アダムから生まれました。あなたが生まれ変わったとき、最後のアダムから生まれました。それはイエスです。
第二のアダムであるイエスは、ある面においてアダムのようにならなくてはいけませんでした。アダムとイエスは、神さまによって、生殖の媒体無しに造られ、罪の無い状態で創造されました。しかし最初のアダムは罪に陥りました。イエスさまが私たちの罪を彼自身で負うために、十字架に行く前に、彼は最初のアダムがした反対のことをしなければなりませんでした。なので、マルコ1章では、イエスに対する試みを描くとき、アダムがそうであったように野の獣が彼とともにいたとあるのです。アダムの特徴を持ったイエスがここでは描かれています。そこにサタンが来て、アダムとエバが陥ったのと同じ三つの誘惑を与えました。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢です。最初のアダムが陥ったものに第二のアダムは陥りませんでした。イエスは十字架に向かう前に、最初のアダムが圧倒されたものを乗り越えねばならなかったのです。そして、その後にようやく十字架に向かう
ことが出来ました。そこで『悪魔はしばらくの間イエスから離れた』とあるのです。最初
に、サタンはイエスに、最初のアダムが陥ったのと同じ罪に、陥らせようとするしかなかったのです。そして次に、イエスは私たちの罪を取り去ることが出来ました。彼はアダムのしたことと、正反対のことを行うまで、私たちの代わりに十字架に行くことが出来なかったのです。最初のアダムが陥ったことを乗り越えるまでです。
ここで、「知る」という言葉に注目してみたいと思います。ヘブライ語ではラ・ダオート(la daot)、ギリシア語ではグノスコ(gnosko)と言います。アダムとエバが地を支配しろと言われる前から、蛇はそこにいました。彼らは悪が存在するということをどんな時でも知っているべきだったし、それが何かを客観的に知るべきでした。しかし、彼らはそれを自分自身で知るべきではありませんでした。それが存在することは知っておくべきでしたが、経験的に知ってはいけなかったのです。私たちはエデンの園にいのちの木があったことを知っています。善悪の知識の木もそこにありました。アダムとエバは二つの選択肢を持っていました。いのちの木、あるいは善悪の知識の木です。彼らは自ら神になること、持つべきではない知識を持つことを選びました。悪の存在を知るべきでしたが、それを自分自身で知るべきではなかったのです。これを理解するために色々な知識があるということを知らなければなりません。聖書から二つの例を見てみましょう。
最初の例は、贖いの日の大祭司に見ることが出来ます。大祭司だけが至聖所に入ることが出来ました。さらに一年に一回の贖いの日であるヨム・キプール(Yom Kippur)だけにです。しかしヘブル人は誰でもレビ記を読めば、至聖所の中に何があるかを知ることが出来ました。備品、備えのパン、契約の箱などの記述を読めるのです。その意味では、そこに何があるかを知ることが出来たでしょう。しかし、大祭司のみが、その中に入ることがどのようなものかを、知ることが出来たのです。なぜなら、そのために任命されていたからです。彼はそのために聖なるものとされ、区別されていたのです。区別されるとはヘブライ語ではメ・クデシュ(me kudesh)といいます。ヘブライ語の「知る」と、「区別する」という意味である「聖別する」という言葉はラ・ダオート(La daot)レ・ヒート・コデシュ(Le Heet kodesh)というように聖書ではしばしば一緒に使われます。誰でも至聖所の中に何があるかを知ることが出来ましたが、そのために聖められた人だけが、至聖所の中に入ることがどのようなものかを、知ることが出来たのです。
他の箇所では、この二つの言葉は、結婚に関して、お互いに関連をもって使われています。誰でもグレイの生体構造(という本)を買って、女性の体を見ることが出来ます。図表、チャート、卵巣組織の写真、卵管、子宮組織など、どんな女性の組織も見ることが出来ます。全てがその本にあります。誰でも女性の体がどのように成り立っているかを知ることが出来ます。ヘブライ語で「結婚する」とは「聖なるものとする」「聖別する」ことを
意味します。ユダヤ人の結婚式ではメ・クデシュ(Me kudesh)または、「この指輪をもって結婚します」と言います。それは文字通り「聖別する」ということです。モーセとイスラエルの律法によってあなたを自分のために区別するという意味です。つまり「結婚する」と「聖別する」という言葉は同じなのです。ヘブライ語で「結婚を完了させる」とは
「知る」という言葉です。
誰でも、女性の体の中がどのようであるかを知ることが出来ます。しかし、そのために 聖よめられた人だけが、その中に入ることがどのようなものかを、知るべきなのです。同 じように、誰でも、至聖所の中がどのようであるかを、知ることが出来ますが、大祭司を 除いては誰も、その中に入るということがどのようであるかを、知ることが出来ないので す。ギリシア語のグノスコ(gnosko)とも同じです。アダムとエバは悪と悪魔の存在をど んな時でも知っておくべきでした。彼らは、堕落する以前であっても、地の上のものは支 配されなければならないことを知っておくべきでした。それを客観的に知るべきであって、経験的には知るべきではありませんでした。知るべきでしたが、同時に知るべきではなか ったのです。
『このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』聖書の中で裸は単に、マウイ、ハワイやイスラエルのエラトにあるようなビーチの裸を意味していません。そのような場所の東洋宗教の人たちは、裸で泳ぎ、人が考えもしないような所に竜や花、その他の多くのものを入れ墨しています。彼らは野蛮人がするようにビーチを裸で走っています。しかし、これは最初に話していたことではありません。アダムとエバはそうです、文字通り裸でした。しかしそれ以上のことを示しています。黙示録のラオデキアの教会を思い出してください。『あなたは、みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。』イザヤが語ったように、裸であることは救いの衣を着ていないことを象徴しています。
アダムとエバは、今、救われる必要があると知りました。罪を犯したからです。それゆ え、罪悪感を持った彼らは、いちじくの葉をつづり合わせました。創世記と黙示録で読ん だことを思い出してください。黙示録において、いちじくの葉は諸国の民をいやしたとあ ります。なので、聖書的にいちじくの葉は善い行いの象徴なのです。アダムとエバがいち じくの葉をつづり合わせたように、堕落した人間はいつでも、罪のない神さまに向かって、善い行いで自分を正当化しようとするのです。
地上の全ての宗教は福音と正反対です。神さま――イエスは――園でアダムとエバがいちじくの葉を覆いにしているのを見て、いちじくの葉を認めず、罪を取り去るためには血
の注ぎがなければならないと言われました。宗教は人が善い行いによって神さまに近づこ
うとするものですが、福音は神さまが人に近づこうとするものです。そうです、それがどんな形であろうと、宗教は福音と正反対なのです。たとえそれが、戸別訪問するエホバの証人やモルモン教であっても、ミツボヴォート(mitzvot=善行)を守ろうとする正統派ユダヤ教であっても、勤行を行うカトリック教徒であっても、ハイジのイスラム教徒でも違いはありません。全ての宗教が、いちじくの葉をつづり合わせることによっての、神さまの前での正当化という、役に立たない試みを基礎としているのです。しかしながら、そこには救いの確信はありません。対して、聖書は『私たちの義はみな、不潔な着物のようです』とはっきり告げています。マザー・テレサの義は不潔な着物のようであると私が言っているのでしょうか?いいえ、私ではなく神さまです。
クリスチャンは救われるために善い行いをするわけではありません。本当のクリスチャンはむしろ、救われたので善い行いをします。私たちの義ではなく、私たちを通してのキリストの義です。これは人の手による宗教とは全く違います。私たちは自分の救いを得るために善い行いをするのではなく、救われたからそうするのです。このことによって、なぜイエスさまがいちじくの木をのろったかが分かります。葉はありましたが、実はありませんでした。同じように、イスラエルは律法主義に基づく、行いによる義を持っていましたが、御霊の実を持っていなかったのです。
私たちが理解しておかなければならないことは、葉はとても重要だということです。中東では日光がとても厳しいので、葉が無くては実を保つことが出来ません。特にいちじくの木についていえば、実は葉の下に育ちます。しかし、イエスさまがその木をのろったとき、いちじくのなる季節ではなかったと書いてあります。この話から私たちが気付かなくてはいけない警告は、『人の子は、思いがけない時に来る』ということです。私たちはいつでも準備を整えていなければなりません。そうです、葉が無くては実は保てません。ヤコブが『行ないのない信仰は、死んでいる』と言ったようにです。葉に悪いところはないのですが、しかし、それを食べることは出来ません。葉は必要ですが、最も優れた葉でさえも、実が無いことを補うことは出来ないのです。私たちは人を、その行いによって知るのではなく、その実によって知るべきです。注目すべきなのは、行いは実があることの証拠だということです。なぜなら、葉は大抵、実が出来るときに現れるからです。しかし、葉が多いということは必ずしも実があることを保証しません。
アダムとエバはいちじくの葉をつづり合わせました。今日、全ての宗教がしているようにです。多くの福音的ではない「教会」が自分たちはクリスチャンであると思っています。もし、「どうやって天国に行くのですか?」と尋ねたなら、彼らは、善い行いが悪い行いよりも上回っていることによってです、というようなことを言うでしょう。裸であること
を隠すために彼らは何をしているのでしょうか?いちじくの葉をつづり合わせているので
す。彼らはミサで何をしているのでしょうか?いちじくの葉をつづり合わすことです。モスクでは何が行われているのでしょうか?また寺や神社ではどうなのでしょうか?いちじくの葉をつづり合わせています。それが救いを得るために役に立たないにもかかわらず、全ての宗教がしているのは、いちじくの葉をつづり合わせることです。救いのためには、血による贖いが必要です。
この話にはまだ続きがあります。『そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。』ヘブライ語での「そよ風」は「すずしい」という意味もあるルアハ
(ruach)と言う言葉です。ヘブライ語での「そよ風」は一方で、「霊」という言葉でもあ ります。それはギリシア語ではニューマ(pneuma)といい、ヘブライ語ではルアハ(ruach)です。なので、ヘブライ語の本文では、聖霊の存在が暗示されています。『それで人とそ の妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びか け、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」』私たちはこの「園の木」について 語られているときに、終わりの日に関することを思い出します。イエスさまはいちじくの 木のたとえを見て、学べとは言われませんでした。ルカを見ると、彼は『いちじくの木や、すべての木を見なさい。』または、「他の木を見て学びなさい」と言われました。これは 今日の主題ではないのでただ示すだけにしますが、この箇所にはほとんどのクリスチャン が分かる、いちじくの木のたとえ以上のものがあるのです。実は、いちじくの木や他の木 のたとえは士師記9章に見出されます。続けましょう。
園の中では登場人物が紹介されています。何よりもまず、肉体を持つイエスとして現れ た神がいます。欺く者としてのサタン。そして裸の男です。今までのところ、登場人物は 神さま、サタン、裸の男の三人です。読み進めてみると、『彼は答えた。「私は園で、あ なたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」すると、仰せにな った。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならな い、と命じておいた木から食べたのか。」』あたかも、神さまは知らなかったかのようです。もちろん知っていましたが、アダムに挑んだのです。『人は言った。「あなたが私のそば に置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」』神さまは その全知によって、誰が最初に食べたかを知っていたにもかかわらず、エバのもとには行 かず、アダムのもとに行きました。あってはならないことですが、私の結婚生活や家庭、 またはあなたの結婚生活や家庭に問題が起こるなら、男性の皆さん、それは私たちの過ち ではないかもしれません。しかし、神さまによると私たちの問題なのです。男性は結婚の 関係の中で、神さまの権威なのです。
聖書の中で、男性が女性に霊的な権威を持たせたときには、いつも災難が起こりました。
アブラハムとサラ、アハブとイゼベルがその二つの例です。これはそのままエデンの園に
逆行してしまうことであり、それ自体、サタンの古いやりかたなのです。今日、なぜリーダーシップがこの過ちに陥ってしまっているのでしょうか?それはすぐ分かります。続けましょう。
人は12節で言いました。『あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。』そして神である主は女に言いました。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は言いました。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」神である主は蛇に言いました。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」――復活によってです。『女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので…』ここで注目すべきなのは、のろいはまず、サタン、次に女、最後に男に宣告されたということです。最初はサタン、次に女、最後に男。裁きは罪の順番に応じて与えられました。
堕落によって、男は鈍感になりました。また女も堕落によって、ひどく敏感になりまし た。夫と妻が救われた多くの場合、大抵、妻が先に救われます。必ずしもそうであるわけ ではありませんが、少なくともおそらく75%の割合で妻が先に救われています。もし、 夫が先に救われるなら、これも75%の割合で妻が次第に救われます。――状況は人それ ぞれです。しかし、妻が最初に救われた場合、より困難な状況になることが多いのです。 クリスチャンの女性は長い間、信じようとしない夫を深く悲しみます。なぜ女性が救われ やすいのでしょうか?それはより敏感だからです。夫と妻が導きについて一緒に祈ってい るとき、多くの場合、妻が最初に、明らかに主からの声を聞きます。それは堕落のために、男性は女性の敏感さに頼っているからです。一方で、女性のほうが聖霊の声を聞きやすい のですが、また、偽りの霊の声を聞いて、霊的な誘惑にかられ、偽りに陥りやすいのです。女性は男性よりも霊的な誘惑に対して弱いのです。それゆえ、ちょうど男性が女性の敏感 さに頼っているように、女性は男性の保護に依存しています。クリスチャンの結婚での服 従は互いにすべきことですが、それは違った方法によってです。平等ですが違う役割を持 って、そして、責任は男性が持つものです。女性は霊的な誘惑に対して弱いのですが、男 性には少しも聞こうとしない弱さがあります。この堕落した世界ではそのようになってい るのです。堕落の以前にもそのような傾向はあったかもしれませんが、堕落によって今の
ようになりました。
それは園で起こりました。次に神さまは御使いを遣わして言いました。「ここから出て行け、もう入ってはいけない」4章に入ると、御使いは「出て行け」と言います。この園で人は堕落し、この園で、神さまは男と女にのろいを宣告しました。そしてこの園において、天使は「ここに入ってはならない」と言いました。ここで人はその神さまの前で裸でした。
しかし、この園において、救いの約束がありました。『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く』ご存知の通り、エバはイスラエル を象徴しており、さらには教会を象徴しています。教会はキリストの花嫁であり、イスラ エルは神さまのおとめです。
反ユダヤ主義と信仰のある教会への迫害は、頭と尾のようなものです。同じコインの裏表ともいえます。私たちはそれを区別しますが、離して考えることは出来ません。神さまのこの世に対しての救いの計画は、イスラエルとユダヤ人、信仰のある教会への預言的な計画次第です。聖書では2種類の人、ユダヤ人と信仰のある教会がアブラハムの子と呼ばれています。イエスの再臨は、イスラエルとユダヤ人、そして信仰のある教会に対しての預言の計画いかんに関わっているのです。
このために、ユダヤ人と信仰のある教会には共通の敵がいます。イスラム教徒がなぜ、イスラエルとアメリカを嫌うと思うでしょうか?それは純粋に政治的なものでしょうか?違います。そこには霊的な理由があります。歴史の中で今、アメリカは福音的なキリスト教の中心地となっています。それはイギリスが百年、2百年前にそうであり、宗教改革のときにドイツやスイスがそうであったようにです。
『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く』まず、多神教であったローマ帝国を見てみると、ネロの統治の下に教会に敵対しました。数年後、彼らはティトスの下にユダヤ人に敵対しました。現代ではソヴィエト連邦の下の共産党は、誰を一番迫害したでしょうか?ユダヤ人と新生したクリスチャンです!宗教裁判、大虐殺、殺戮の時代を通して、ローマカトリック教会は、誰を一番迫害したでしょうか?ユダヤ人と新生したクリスチャンです。アラファトを支持した人たちは何と言っていますか?CNNでは報道されないこととは何でしょうか?イスラム教系のアラブの推進派は毎日欠かさず言っています。「まず、土曜日のやつら。次に日曜日のやつらだ。聖戦!聖戦!」言い換えると、まず、ユダヤ人を殺して、次にクリスチャンだということです。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置
くとある通りです。
全ては園の中で起こりました。この観点でミドラッシュを見てみましょう。
ヨハネ18章1節、『イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこに入られた。』四つの福音書の中で、唯一、ゲツセマネを園と認識しているのはヨハネだけです。この場合もやはり、ヨハネは創世記に対するミドラッシュを考えています。ケデロンとは西の神殿の丘、東のオリーブ山やハル・ゼイティム(Har Zeitim)の間にある、狭い谷です。ゲツセマネとはヘブライ語のシェメン(Shemen)すなわち「油」から来た名前です。私たちがシェメン・ゼィオート(Shemen ziot)と呼ぶオリーブ油は、ゲツセマネから運ばれ、儀式上今も使われています。彼らはオリーブ山に育ったオリーブを収穫し、ゲツセマネで搾ります。(実は今日も、オリーブ山には果樹園があり、専門家が言うには、樹齢二千年の木々があって、依然として成長し続けているとのことです。イエスの時代にもそれは存在したでしょう。オリーブの木は地震や汚染などの、環境的な災害に会わなければ極めて長生きするそうです)イエスが向かったのもゲツセマネの園でした。そこで始まったのです。神さまにとっては罪のあるすべての人よりも、罪の無いひとりの人のほうが、価値があります。そのために、ひとりの人が、すべてのひとのために死ぬことが出来たのです。
その園において、神さまは彼自身が私たちの罪を取り去りました。そして、わが子であるイエスに罪を負わせたのです。それは私たちが彼の義を着るためでした。
その場所で神さまはイエスに、私たちの罪を負わせることを始められました。
神さまの混ぜ物なしの怒りが十字架上で彼に注がれました。『ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか」と彼らに言われた。彼らは、「ナザレ人イエスを」と答えた。』イエスの本当の名前はラビ・イェシュア・バルヨセフ・ミ・ネツェレツ(Rabbi Yeshua BarYosef mi Netzeret)でした。彼らはイエス・キリストがどのような人かを知りませんでしたが、ラビ・イェシュア(Rabbi Yeshua)なら知っていました。死人を生き返らせ、ツァラトを癒し、水の上を歩いた、その人だということを。
『イエスが彼らに、「それはわたしです」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そし
て地に倒れた。』たとえそれが敵であっても、すべてのひざはひざまずきます。
聖書の中で御霊によって倒される出来事があった時、それは一生に一度の人生を変える出来事だったことを思い出してください。人が堕落しているときに何が起こるかは問題ではありません。その人が立ち直ったときに人生がどのように違うかが重要なのです。しかし現代では、多くのクリスチャンたちが毎週教会の礼拝でこの経験を作り出そうとしています!倒れるために列に並んでいるのはどのような人たちでしょうか。先週、倒れるために列に並んでいた同じ人たちです。そのような人たちはスリル感のために倒れようとします。何においてもそうですが、悪い、姦淫の時代はこのようなしるしを求めます。
聖書において、御霊によって倒れることが神からの祝福であるとき、当の人は前方に倒れます。後方に倒れるのは唯一、呪いと裁きの時だけです。キリストを捕えに来た人たちがそうでした。
こう言うとおかしく聞こえるかもしれませんが、人々が祈るために教会の前方に出ていくと、定められた“キャッチャー(倒れる人を支える人)”が後に続きます。その人たちは後ろに立って、ただ彼らが倒れてくるのを待っているのです!倒れることが要求されています。もっと言えば、倒れないといけないというプレッシャーがあるのです。彼らが行う祈りは体を揺らすもので、そのためにバランスを崩して倒れます。目を閉じ、感情的になったクリスチャンはそれが神の力だと思い、倒れてしまいます。しかし、彼らは間違った方向に倒れています。私は個人的にこのようなことを何度も目撃してきました。
人々はこの体験が神からのものであると主張します。もしかすればそうであるかもしれませんが、もし神からのものであったなら、それは神が怒っておられるというしるしです。私はこれが悪霊による欺きと組み合わさった、催眠誘導であると確信しています。たとえそれが神からのものであったとしても、裁きでしかないのです。
だれを捜すのか。イエスは、それはわたしだと言いました。ギリシア語で「それはわたしだ」とはエゴ・エイミ(ego eimi)と言います。ギリシア語で同じ言葉は、ヨハネ9章でイエスが「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」と言った箇所、ここもエゴ・エイミです。人々は石を投げつけようとしました。なぜならご自分を神さまと等しくしていたからです。
登場人物に戻って考えてみましょう。エデンの園での神は、人としてのイエスです。ゲ
ツセマネの園での神も、人としてのイエスです。しかし、エデンの園にいた、欺く者とし
てのサタンは今もいます。ヨハネの福音書で、弟子たちがイエスと共にゲツセマネに行く 前、ユダに何が起こりましたか?その箇所は単に、サタンが彼のうちに入ったとあります。個人的にサタンにとり付かれるのは、反キリストまたはにせ預言者か、ユダのふたりだけ です。『彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったの です。』聖書の中でユダを見る時はいつでも、聖霊は反キリストについて何かを教えてい ます。ユダも反キリストも、どちらもお金に執着します。どちらも兄弟をだまします。
「主よ。まさか私のことではないでしょう」――彼らは、イエスが、裏切り者が誰であるかを明らかにするまでは、分からなかったのです。同じように、イエスが明らかにされるまでは、人々は誰が反キリストかを知ることは出来ません。
もしあなたが繁栄信仰の福音(神さまは私たちがお金持ちになることを望んでおられるなど)や、エキュメニカル運動(福音的な教会と、ローマ・カトリックのような福音的でない教会がつながりを持つこと)を見抜けないなら、反キリストが到来したときにはどうなってしまうでしょうか。
ユダはどうやって人々を信用させたのでしょうか?彼はマザー・テレサの手法を使って信用させました。いちじくの葉です。「なぜこれを売って、貧しい人に施さなかったのか?」彼は人に取り入るため、貧しい人に哀れみを抱いているように見せかけました。良い人であると思わせるためです。しかし、彼はただ、誘惑し、カモフラージュし、人を操るために貧困の苦しい状況を使ったにすぎません。マザー・テレサは亡くなる前に、救いの確信が無いと言っていました。彼女がノーベル賞をもらった時に、彼女はインドの人をクリスチャンに回心させるためではなく、より良いヒンドゥー教徒、より良いイスラム教徒にするためであったと明らかにしました(注…詳細は引用のページをご覧ください)。それは彼女の福音です。彼女は彼らの体を洗い、威厳を持ってきれいな場所で死ねるようにし、父、子、聖霊の御名によって、彼らを地獄に送ったのです。
Midrash Garden 2 - Japanese
ミドラッシュ 園の中のイエス(2)
ジェイコブ・プラッシュ
反キリストも同じことをします。彼は貧しい人を気遣っているように装い、素晴らしい人道主義者だと思わせるのです。もし、あなたがマザー・テレサ――偉大な神の聖徒――についての、真実を言おうとするなら、ほとんどのクリスチャンが怒り出すでしょう。あなたはただ、引用するだけであるかもしれないのですが、彼らにとっては非の打ちどころのない人なのです。しかし反キリストと比べたら、マザー・テレサでさえイゼベルほど悪そうに見えることでしょう。
もう一度、ゲツセマネでは、欺く者としてのサタンがいます。その他にだれがいるのでしょうか?共観福音書をさっと見てみましょう。マルコ14章51節、『ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとした。』彼らがイエスを捕らえようとした時、裸で逃げた男がいます。彼は迫害の時に信仰を失ってしまう人々の象徴です。彼らは自分のいのちを救うために、救いの衣を着ずに逃げ去ってしまうのです。またそのとき、大ぜいの人がつまずきます。
迫害に関して問題なのは、迫害される必要の無い者が初めに、最も酷く受けるということです。しかし、他の人はそれが来たときには、背教してしまいます。
イエスが『人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。』(マタイ 24:10)と言ったことを思い出してください。明日にでもつまずき、あなたを裏切るクリスチャンとは、今日ベニー・ヒン(Benny Hinn)、コープランド (Copeland)やヘーゲン (Hagen)に聞き従っている者です。
また、登場人物に目を向けると、園には、神さま、サタン、裸の男がいます。『「だれを捜すのか。」と彼らに言われた。「それはわたしです。」』そしてもう一度、『「だれを捜すのか。」「ナザレ人イエスを。」「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。」』三回、イエスは「それはわたしだ」と言いました。『もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。』これは「集団共有」です。「集団共有(corporate
solidarity)」という言葉は神学用語で、多くの人のためにひとりの人が代表するときに用いられます。ヨハネの福音書ではこの集団共有が多く見られます。
それでは集団共有の例をふたつ示しましょう。バラバ(Bar Abbas)とはアラム語で「父
の子」という意味です。彼は今日のテロリストと同じような者でした。私はイギリスに住
んでいるので、IRA(アイルランド共和国軍)や UVF(民兵組織)がいる北アイルランドに頻繁に行きます。彼らはプロテスタントやカトリックのテロリストです。基本的には彼らは、政治的な宗教の名によって、組織的な犯罪のようなものを行っているギャングなのです。プロテスタントとカトリックの双方が行っています。彼らは基本的にはギャングであり、最も凶悪な種類の宗教的な偽善者なのです。バラバによく似ています。
「だれを望むのか?」ピラトは言いました。「このテロリストか、それともラビ・イェシュアか?」あなたがたはこの人殺しを望むか、それとも、少女にいのちを与えたラビを望むのか?目の見えない者の目を開き、足なえを歩かせ、耳の聞えない者の耳を開き、人々に愛、平安や真理を教えたこの者を?
「バラバだ」と彼らは言いました。バラバは私たちすべての状況です。正しくない者た ちのために正しい者が苦しんだのです。バラバ(Bar Abbas)は“父の子”という意味です。 私たちが御父の子どもとなるために、イエスは私たちの代わりに十字架に向かったのです。四福音書のすべてが法律の手続きをする法廷の中に、福音を位置しています。イエスは私 たちの身代わりに裁判にかけられました。バラバのためにです。四福音書すべてが、法廷 の中に福音を位置しています。御父を正しい裁判官として知らないかぎり、彼を愛の神と して知ることは出来ません。
今日、多くのクリスチャンがキリスト教を本来の“法律的な”背景から引き離そうとしています。“エマージング・チャーチ”の中にいる人たちは、キリストが私たちの罪の代価を支払ったということや、そのような用語には無縁です。その人たちは福音を贖いというより、ひとつの霊的探究として扱おうとしています。
もうひとつの集団共有は使徒のひとりに見出されます。私たちは英語においても、
「Doubting Thomas(疑い深い人)」という表現を持っています。トマスだけが疑ったのではありませんが、彼は「釘の跡を見なければ信じません」と言いました。ゼカリヤ12章
10節では、イエスが再臨した時、ユダヤ人が『自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ 見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。』とあります。これが不信仰なイスラエルが信じる時です。 彼らは釘の跡を見るからです。トマスは集団共有の一例です。彼は同胞のユダヤ人を表わ しています。
もうひとつの集団共有はこれです。「だれを捜すのか。」「イエスを」「それはわたしだ。この人たちを去らせなさい。」この人たちとは誰のことでしょうか?ペテロ、ヤコブやヨ
ハネは、あなたや私を表わしています。「だれを捜すのか」「イエスを」「それはわたしだ。
この人たちを去らせなさい」「それなら、ジェイコブ・プラッシュはどうなのですか?彼はコカインを売り、それで大学生活を支えていたじゃないですか?」「彼を去らせなさい。わたしを捜しているのでしょう。わたしを連れて行きなさい」「でも、彼はパトカーに火炎瓶を投げたような、キャンパスの過激派だったじゃありませんか?」「はい、わたしは彼がどのようであったか、何をしたかを知っています。わたしは彼をいちじくの木の下で見ました。彼を去らせなさい。」「同性愛者はどうなのですか?」「去らせなさい。わたしを捜しているのでしょう。わたしを連れて行きなさい。」「売春業者はどうなのですか?」「去らせなさい。わたしを捜しているのでしょう。」「売春婦はどうなのですか?」「去らせなさい。わたしを捜しているのでしょう。その人たちを去らせなさい」「去らせなさいだって?彼らは犯罪者じゃないですか!」「わたしは彼らを知っています。しかし、わたしを捜しているのでしょう。その人たちを去らせなさい。わたしを連れて行きなさい。そして、その人たちを去らせなさい」「あなたは誰ですか?」「わたしはあるという者だ。これが私の作った計画だ。わたしが園を歩いている者である。わたしがルールを定めた。そのルールによってすべてを行っているのだ。この人たちを去らせなさい。わたしを連れて行きなさい」
これが福音です。彼らは言った通りにしました。すべてが園で起こったのです。
園を続けて見てみましょう。ヨハネ19章を開いてください。もう一度、39節は園の場面です。『前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。』聖書の中で、没薬の使い方はひとつ、埋葬のために死体に塗ることです。イエスが誕生した時、黄金が贈られました。彼が王になるためです。乳香が贈られました。なぜなら、彼は祭司になられるからです。没薬も贈られました。なぜなら、彼が死ぬからです。スミルナにある教会にイエスが言ったことを思い出してください。「サタンはあなたがたを十日の間、牢に入れ、何人かを殺すでしょう」スミルナ(Smurna)とはギリシア語で没薬(smurna)から派生した名前です。
『そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料と いっしょに亜麻布で巻いた。イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、 まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。』創世記、またゲツセマネと同じく、 そこは園でなければなりませんでした。『イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。その日がユダヤ人の備え日 であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。』イエスは園の中に葬 られました。前日の土曜日、彼らはハ・シュル・ハシュリム(Ha Shir Hashirim)を読ん でいました。今日までシナゴーグ(会堂)では、そのハ・マヅォート(Ha Matzot)の土曜 日、過越しの週、雅歌(ソロモンの歌)として知られているメギラ(Megilla)が読まれま
す。雅歌4章6節を開いてください。多くの場合、福音書の出来事とイエスのいろいろな
話は、その週シナゴーグで朗読されていた箇所と直接関係があります。(例‥マタイ21章・25章、ヨハネ8章)
『そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、私は没薬の山、乳香の丘に行こう。』花婿は埋葬のために油塗られています。花嫁のために死ぬため、受け入れられる供え物をささげるためです。ソロモンのシュラムの女との恋愛は、キリストの教会との恋愛の比喩です。彼は埋葬のため、彼の花嫁のために死ぬため、油塗られているのです。これがシナゴーグで読まれていた箇所です。
雅歌の5章を見てみると、『私の妹、花嫁よ。私は、私の庭(園)に入り、没薬と香料を集め』とあります。別の言い方をするならば、「庭(園)に入って来なさい。庭に入ってきなさい」と言っているのです。これがその土曜日に、シナゴーグで読まれていた箇所です。
その次の日は、週の初めの日、日曜日でした。ヘブライ語ではヨム・リション( yom
Rishon)といいます。その日はユダヤのカレンダーでは、特別なヨム・リションでした。ヘブライ人の初穂の祭りだったのです。
1コリント15章20節を開いてください。ここは復活の章です。何と書いてあるでしょうか。『しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。』そうです、眠っているのです。『彼は、おまえの頭を踏み砕き、 [おまえは、ただ彼のかかとにかみつくだけだ。] 』眠っているのなら、いつか目を覚まします。いつも指摘してきたように、聖書では信者の「死」は死ではなく、眠りだと教えられています。ラザロは眠っていたとあります。少女もそうです。「タリタ クミ(Talitha Tekumi)」彼女は眠っていたのです。パウロは「眠った兄弟たちについて、深く悲しんではならない」と言っています。救われていない人たちは死にますが、信者は眠りにつくのです。これについては言うべきことがたくさんあります。聖書が、信者の「死」を眠りと表現するのには二つの理由があります。もちろん、一つ目は復活のためです。再び目を覚ますからです。眠りにおちた時、次に気付くのは自分が起きた時です。眠った信者たちはやがて復活の時に気付くのです。しかし、眠りにおちた時にはある事が起きます。意識が違う領域に入ってしまいます。そこでは起きている間に意味を成さないことが意味を成します。夢を見ている時には、死んだ人が生き返って、話しをすることもあるでしょう。夢の中では、過去の出来事を今、未来の出来事を今、見ることが出来ます。過去、現在、未来が同じなのです。出来事の起こった順序はあるのですが、時間という概念はありません。ギリシア語ではクロノス(chronos)と カイロス(cairos)という時間を表す言葉が、二つあります。永遠で
はクロノスはあるのですが、カイロスはありません。言い換えれば、永遠では時計が動く
ことはなく、もはや時計すら無いのです。年代順配列(chronology)であるクロノスはありますが、そこに時間は無いのです。
夢の中では、過去の出来事がもう一度起こったりします。ジョージ・ワシントンがデラウェアを渡っているのも見ることが出来るでしょう。何でも見ることが出来ます。将来起ころうとしていることも見れます。カリフォルニアへの旅行のようなものも見れるでしょう。未だ見たことが無いことも見ます。黙示録のように、死んだ人が生きているのを見るかもしれません。子羊は世のもといが置かれる前から、ほふられていました。彼は座についている24人の長老を見ました。彼は未だ起こっていない未来の出来事を、そこでその時、見ていたのです。眠りにおちると夢を見ます。生理学者は、私たちすべてが夢を見ていることを知っています。脳造影図や脳のアルファ波などによってです。皆が夢を見ているのです。
あなたの意識は違う領域に入り、そこは起きている間には意味を成さないことが意味を 持ちます。死んでしまったときはそのような状態です。そこで出てくる問題は、私たちの たましいは眠りにおちるのでしょうか?それとも主のもとに行くのでしょうか?というこ とです。私たちに関していえば、墓の中にいるのです。永遠に関していうと、それはすで に起こっています。エペソ人への手紙にあるように、私たちは天上において、キリストと 共に座についているのです。永遠に対して時間を適用することは出来ません。その点から カルヴァン主義は間違えています。永遠の保障とはあるのでしょうか?はい。永遠の中な ので、それはすでに起こりました。しかし、聖書の中で永遠の保障とは、一度救われたら、ずっと救われているということではありません。私たちにとっては、それは変わりえるも のです。永遠の保障はありますが、それはカルヴァン主義者の考えているようなものでは ありません。彼らはそのことに関して全て混同しているのです。
彼らは眠りにおちました。キリストは眠った者の初穂です。これはヘブライ人の初穂の祭りの、メシアによる成就です。その初穂の祭りである日曜日、ヨム・リションには何があったのでしょうか?それは過越の週の日曜日でもあります。その日曜日に、シナゴーグでは雅歌(ソロモンの歌)が、今日まで読まれています。日曜日のまだ暗く、夜明け前に、神殿から遣わされた大祭司が、ケデロンの谷へと降りて行きます。彼はケデロンの谷で、オリーブ山の後ろから射し込んでくる、最初の光を暗闇の中、待ちます。彼がその太陽の光を見ると、ケデロンの谷から生え出た最初の穀物を、儀式的に収穫します。それが初穂と呼ばれる物です。
すべての福音書には、イエスは日の出の時に復活したとあります。私がしばしば示して
きたように、太陽(sun)が昇るということは、御子(Son)がよみがえるということの、聖書文献学上の比喩です。旧約のイザヤ書でさえも、起き上がれそうすれば照らされると書かれています。しかし、よみがえった主の栄光は太陽よりも輝かしいものです。すべての福音書は、復活はまだうす暗いころ、日の出のちょうどその時だと書いています。その年、その日、その時に大祭司は初穂を収穫し、神殿に持って行きました。イエスはその復活の初穂としてよみがえられました。
それは園の中のことでした。では、園で何が起こったかを見ていきましょう。人は園において堕落し、園においてのろいを受けました。しかし、園において、神さまはわたしたちの罪を取り去り、そのために捕らえられました。また園において、彼は十字架にかけられ、そのつけられた場所には園がありました。彼は園において、私たちの代わりに十字架にかけられました。しかし、また他のことが園の中で起こりました。
ヨハネ20章1節、週の初めの日、ヨム・リションであるヘブライ人の初穂の祭りの時、ガリラヤのマグドル(その場所に塔があったとい