Mezuzot Part 2 - Japanesee

メズザー(門柱)2

のりは洗い流せます。しかし、瞬間接着剤は削り取ることはできますが、洗剤や溶剤では落ちません。高分子化合物は表皮の上部を角質化して結合します。言い換えると、それがはがれるとき、接していた自分の一部は共に取れ、そこにあるはずがないしるしを残すのです。そのような結合は結婚を保つうえで、神さまが用いたものです。しかし、結婚関係以外において、それは良いものではありません。神はその罪を赦されるのでしょうか?もちろん。ではよみがえりやイエスが戻ってきたときにそれは問題となるのでしょうか?そんなことはありません。しかし、現在そのしるしは残ったままなのです。この結合には相互の弱さがあります。それはサムソンを感情的にし、デリラから霊的に影響を受け易くしたものなのです。

続けて見てみましょう。サムソンは愚かにも、彼の力の源がその髪の毛と関係するということをデリラに教えてしまいました。彼は主に関しての事柄を、主を信じていない者と共有してしまったのです。

『彼が深く眠っているとき、デリラは彼の髪の毛七ふさを取って、機の縦糸といっしょに織り込み、それを機のおさで突き刺し、彼に言った。「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます。」すると、サムソンは眠りからさめて、機のおさと機の縦糸を引き抜いた。』(士師記 16 章 14 節)

彼は自分が引き起こした悲運のどん底にいかに近づいているかを知らずに、もう一度うまくやってのけれるのだと思っていました。

15 節『あなたの心は私を離れているのに、―次に注目してください―どうして、あなたは『おまえを愛する』と言えるのでしょう。』

「あなたは私を愛してない!もし愛してるなら殺させてくれるでしょう。あなたは本当には愛してない。愛してるなら、あなたを襲いお金をいただくのに!」サムソンはどんなに愚かになったのでしょうか!彼が能なしのようにふるまったわけが分かります。この男は本当に狂っていました。そして、私も狂っていて、あなたも狂っているのです。罪は簡単にまつわりつきます。

この状況を理解しましょう。これは旧い契約のもとで起こりました。今、聖霊はすべて信

じる者のうちにあるのですが、当時はそうではありませんでした。旧い契約のもとでは、

ある特定の時期、ある特定の目的で、大祭司や預言者、王、族長、さばきつかさのような 人たちにしか聖霊は与えられませんでした。サムソンはそのとき、地上で唯一聖霊を与え られていた人であったかもしれません。彼はイエスの象徴として奇跡的に母の胎に宿りま した。また、主の使いが両親に現れ、その子の誕生を告げ、キリストが十字架を運びその 上に死んだように、サムソンも柱を運び柱をつかんで死にました。このように、旧約聖書 の中のすべての象徴が何らかのかたちでそうあるように、サムソンはキリストの象徴でし た。彼はその生まれる前から神に召されていた者であり、神が力を与えた者でした。彼は 神の御名のためにその御手が置かれている者であり、それは神の民の救いのためでもあり ました―サムソンはイスラエルのさばきつかさであったのです!神に召され、力づけられ、油注がれ、神によって雄々しく用いられました。しかし彼は絶えずその同じ愚かな罪にま いもどって行ったのです。

同じように、あなたは福音を証し、人々をイエスに導き、人の上に手を置けばその人が癒されるのを経験するかもしれません。神は御手をあなたの上にのべ、御霊に満たし、あなたを真に用いることができるのです。しかし、いまだあなたは同じ古い事柄に陥ることも可能なのです。サムソンはそうであり、私もそうであり、あなたもです―私たちすべてがそうです。神がこのジェイコブ・プラッシュのような者をなぜ忍耐しておられるかなんてことを聞かないでください―私も分かりません。幸いにも、私は神ではありません。なぜならもし私が神なら、ジェイコブ・プラッシュはどうなっているか分かりません。神が神であり、私が私であることに感謝しましょう。もし、私が神なら私はここにはいないからです。

次にサムソンがデリラに言ったことは罪が持つ欺く力と、結婚関係の中のみで保たれるべきそのようなつながりが生む弱さを示しています。16 節を見てみましょう、

『こうして、毎日彼女が同じことを言って、しきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほどつらかった。』

彼はなぜこのような口うるさい女を我慢していたのでしょうか。そのような関係にある男は誰でもおかしくなるものです。箴言は、争い好きな女と一緒に住むことは雨漏りしている場所で寝ようとすることだと表現しています。サムソンは彼のイスラエルのさばきつかさという地位のために、彼の望むどんな妻でもめとることができました。しかし、サムソンはデリラと固く結びついて、

『それで、ついにサムソンは、自分の心をみな彼女に明かして言った。「私の頭に

は、かみそりが当てられたことがない。私は母の胎内にいるときから、神へのナジ

ル人だからだ。もし私の髪の毛がそり落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなり、普通の人のようになろう。」デリラは、サムソンが自分の心をみな明かしたことがわかったので、人をやって、ペリシテ人の領主たちを呼んで言った。「今度は上って来てください。サムソンは彼の心をみな私に明かしました。」ペリシテ人の領主たちは、彼女のところに上って来た。そのとき、彼らはその手に銀を持って上って来た。』(士師 16 章 17 節-18 節)

そこで、サムソンは全くのでたらめを信じたのです。彼は真実を告げました。

『彼女は自分のひざの上でサムソンを眠らせ、ひとりの人を呼んで、彼の髪の毛七ふさをそり落とさせ、彼を苦しめ始めた。彼の力は彼を去っていた。』(19 節)

ここでペリシテ人が彼を苦しめる前に、デリラが先にそうしたことに注意してください。誰もが自分の罪のために最初に裁かれるのではありません。罪への裁きが最初に起こることではないからです。いやむしろ、最初に起こることは罪による裁きなのです。罪自体があなたに敵対します。その後にその刈り取りが来るのです。

『彼女が、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます」と言ったとき、サムソンは眠りからさめて、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と言った。彼は主が自分から去られたことを知らなかった。』(20 節)

彼の力は無くなり、神を去らせたのにサムソンはそれを知りませんでした。私たちの罪は聖霊を悲しませます。聖霊は望ましくない場所には留まりません。聖霊が立ち去るのではなく、私たちの悪い生活が彼を立ち去らせると言ったほうが正しいでしょう。多くの人が私に聞くよく質問は、どの時点で聖霊は悔い改めない背教者のもとを離れるのかということです。この質問には答えることができません。その人自身にも分からないし、知ることもできないのです。「サウルもまた、預言者のひとりなのか」―サウルは主が去られたときに気付かなかったように、サムソンも同じでした。しかし、その後に何が起こるかを私たちは知っています。

21 節『そこで、ペリシテ人は彼をつかまえて、その目をえぐり出し、彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせをかけて、彼をつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。』

神の霊が去られたときに何が起こったのでしょうか?見ることができなくなり、力を失い

ます。それは霊的にも盲目になり、自分の十字架を負うための力を失うということです。

この時点ではもはや何もできません。なぜなら、もう手遅れなほどに行き過ぎてしまったからです。

神の霊はサムソンを去りました。盲目になり力を失いました。それが彼に起こったことであって、もし私たちも注意深くしていなければ、同じ事が私たちにも起こりえるのです。これは誰も免れることはできません。

続けて見てみると、22 節『しかし、サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めた。』ローマ 11 章 29 節には『神の賜物と召命とは変わることがありません。』とあります。神は一度与えられたものを取り去られはしません。私たちが“頭の毛”を失うことは一瞬ですが、伸びるには時間がかかるのです。それを一晩で失ってしまうかもしれませんが、取り戻すのは容易ではありません。信仰を失ってしまった背教者は、その分ゆっくりとしか回復しないのです。そのような者は盲目になり、力を失い、信仰の破船に遭ってしまったのです。

  1. 節『さて、ペリシテ人の領主たちは、自分たちの神ダゴンに盛大ないけにえをさ さげて楽しもうと集まり(ダゴンとは魚の姿をした古代ペリシテ人の神です。ロー マ・カトリックの主教が被っている長い帽子は元々ダゴン礼拝に起源があります)、そして言った。「私たちの神は、私たちの敵サムソンを、私たちの手に渡してくだ さった。」』

    古代中近東の考えでは、実際の敵との戦いは、単純に霊の戦いの延長線上にありました。それはダニエル書や黙示録ではっきりと確認できることです。また、他の説教でもそのことを説明しています。それゆえサムソンを捕らえたことは、ペリシテ人の頭の中では、ただ彼に力が勝ったということだけではなく、彼らの神がサムソンの神よりも強いということを意味していたのです。しかし、神は御名の栄光を現わさずにいることはありません―ご自身の栄光を他の誰にも渡しはしないのです。

  2. 節『民はサムソンを見たとき、自分たちの神をほめたたえて言った。「私たちの神は、私たちの敵を、この国を荒らし、私たち大ぜいを殺した者を、私たちの手に渡してくださった。」』

しばしば、神はその御名のために、ご自分の民が不信仰であっても祝福を与えます。私たちはそのことを見落としがちです。

『彼らは、心が陽気になったとき、「サムソンを呼んで来い。私たちのために見せ

ものにしよう」』

神に背く者はいつもはずかしめを受ける状態になります。イザヤ 30 章で『しかし、パロの保護にたよることは、あなたがたの恥をもたらし、エジプトの陰に身を隠すことは、侮辱をもたらす。』(イザヤ 30 章 3 節)と書かれてある通りです。

『サムソンを牢から呼び出した。彼は彼らの前で戯れた。彼らがサムソンを柱の間に立たせたとき』(16 章 25 節)

ここでの“柱”という言葉はその町の柱を示しているようです。ペリシテ人はある間違いを犯しました。サムソンは十字架のもとに行く事ができなかったが、十字架を彼のもとに持ってきてしまったのです。

『サムソンは自分の手を堅く握っている若者に言った。「私の手を放して、この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ。」宮は、男や女でいっぱいであった。ペリシテ人の領主たちもみなそこにいた。屋上にも約三千人の男女がいて、サムソンが演技するのを見ていた。サムソンは主に呼ばわって言った。

「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」そして、サムソンは、宮をささえている二本の中柱を、一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。そしてサムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう」と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。』

ここでもサムソンはキリストの象徴です。完全に敗北したと思われたときに、その広げた腕はかつてない勝利をもたらしたのです。どうしようもないと思われたときに、犠牲を払いながらも相手を倒しました。

31 節『そこで、彼の身内の者や父の家族の者たちがみな下って来て、彼を引き取り、ツォルアとエシュタオルとの間にある父マノアの墓に彼を運んで行って葬った。サム ソンは二十年間、イスラエルをさばいた。』

サムソンは 60 年間イスラエルをさばいていても不思議ではありませんでした。しかし、たっ た の 20 年間であったのです。私は 無条件の “ 一度救われたら滅びな い

(once-saved-always-saved)”という教えを信じません。カルヴァン主義はキリスト教を歪めてしまいました。また、私は神が人々を失うために救うといったことも信じません。新約聖書で語られている“あなたを守ることのできる方”を知るためには、カルヴァン主義の間違った解釈とその真実を崩壊させた考えは必要ではないのです。「神の賜物と召しとは悔い改めなしにやって来る」と初期の時代に引用されました。

このことを理解するために、新約聖書の並行記事を見る必要があります。私たちは旧約聖書をイエスの現れである新約聖書に照らして解釈します。

1コリント 5 章『あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。』

―異邦人とは異教徒のことです。たいていギリシア語の学者たちは父の妻とは、その男の義母であったのではないかと考えます。いずれにしても、信者である人がその義母と近親相姦的な関係を持っていたなんて!パウロは「あなたがたの間に」と言っていることに注意してください。パウロはこのことをとんでもないことであり、醜く、道徳的に嫌悪感を持つほどで、異邦人でもしないことだと言っているのです。異邦人ですら、そんなことをする道徳観を持ち合わせていないのです。パウロは続けて

『それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。』

と言います。不品行に対して断固とした態度を取る者を、見かけだけ正しく、妥協しており、半分堕落した現代風の教会は高慢だと言います。それに対して神は、正しくないこと許す者が高慢だと言われるのです。

レイ・マッコーリー(南アフリカのペンテコステ派の説教者)は既婚者だった女性と結婚するために信者の妻と離婚しました。しかし、そのことに対して立ち上がって間違っていると言う者は、神の定める義の基準を守るために非難されるでしょう。教会内の不品行に対して立ち上がったのに、高慢だと言われるなら、あなたは不品行に対して何も言わない者を神のことばから高慢だと言えるでしょう。神は明らかな悪に立ち向かわない者を高慢だと言います。

パウロは 3 節で

『私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと

同じように、そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主{イエス}の日に救われるためです。』(1コリント 5 章 3 節-5 節)

これは誰でも自分の判断でできるものではありません。またつなぐことと解くことに似ています(マタイ 18 章 18 節参照)。どちらも動詞が現在進行形で表されるギリシア語本文を見ると、その言おうとしていることはさらに理解できます。天でつながれているものだけを地上でつなぐことができ、天で解かれているものだけを地上で解くことができるのです。(このことは特定の場所を支配していると言われているような悪霊とは何の関係もありません)同じように、上で読んだ1コリント 5 章に基づいて、パウロはこの人をサタンに渡すように導かれたのです。

ここで注目してほしいことはパウロは宗教改革者のようではなかったということです。彼はカルバン主義者ではありませんでした。パウロはカルバン主義者が言うように、この男は信仰を失い父の妻と寝たのだから、最初から救われていなかったという証拠ではないかとは言わなかったのです。またパウロは無条件に滅びないという考え(一度救われたら永遠に救われるというもの)を支持することは何も言いませんでした。この男がそのような堕落した状態にいながら、救いの確信を持っていられるとはほのめかしもしなかったし、そう考える余地さえ残さなかったのです。むしろ、この男が地獄に落ちる恐れがあるとはっきりと宣言しているのです。

もう一度言いますが、主は誰かを失うために救うことはしません。パウロが言っていることはこれです。もし、この男がこの長い間、習慣的に肉のために種を蒔き、悔い改めないなら敵は彼をほしいままにするということです。そのような状態なら、私たちは彼をサタンに渡し、いのちは失うが終わりに神を恐れ、悔い改めさせるようにするのです。多くの親が自分の子どもは大学に行くまではとても良い子で、信仰心のある子どもであったと言います。しかしその後に男の子は彼女と同棲し始め、女の子なら彼氏と同棲し、悔い改めることをしなくなるのです。(私の子どもたちはちょうどその年頃で、神がその罪から守ってくださるように祈っています)しかし、ある日そのわがままな子どもは家に帰って来て、ドアをノックして言います、「お母さん、お父さん。僕 HIV 陽性なんだ。一緒に祈ってくれない?」「僕カポジ肉腫にかかったんだ。もう余命は長くないって診断されて…。一緒に祈ってくれない?」これほどひどいことはありません!しかし、地獄で火に投げ込まれるよりはましなのです。

私は子どもが妻のお腹にいるときからその救いのために祈っていました。誰もが自分の子

どもを言い表せないほど愛しているように、私も愛していたので、メシアであるイェシュア(イエス)から永遠に離されているよりかは、生まれる前に死ぬほうが良いと実際に神に祈りました。

いのちは失うが、たましいは救われるのです。サムソンはもっと長い間、数十年実りある奉仕をするはずでした。罪は人を殺すことができます。ここで誤解してほしくはないのですが、すべての病気が何らかの個人的な罪の結果であると言っているのではありません。病気は人類の堕落の結果として引き起こされるという意味において、罪の結果です。しかし詩篇 32 篇やヤコブの手紙が言うように、罪は病気の原因となり得ます。現に1コリント

11 章では、主の食卓で心に秘めた罪があるとその飲み食いが私たちをさばくことになるとパウロは書いています。この箇所では主の食卓に対して罪を犯した信者は“死んだ”ではなく“眠った”と書かれているので、彼らがそのために地獄に行ったのではないことが分かります。信者は眠りにつき、未信者は死にます。同様に、父と母の世話をしなければ長生きできないことを新約聖書は明らかにしています。罪は実際に殺すことができるのです。1コリント 5 章やサムソンの生涯でもそれが分かります。私たちや子どもたちに起こってはならないことなのですが、地獄の炎の中で苦しむよりかは良いことなのです。神は失うために救いはしません。

サムソンは敬虔な妻をめとり、より長い期間イスラエルをさばくはずでした。神が備えら れていた恵みをすべて、サムソンは失ってしまったのです。彼はその召し、目、力、恵み、地上でのいのちまでも失ってしまったのです。何という悲劇なのでしょうか。しかし、ヘ ブル 11 章はサムソンのたましいは最後に確かに救われたと明らかにしています。サムソン はまつわりつく罪に倒れされました。それでもなお、神の恵みは勝ち誇るのです。

私が思うに聖書の中で最も難解で、痛ましい本はエレミヤが書いた哀歌です。その終わることのない頑なさや悔い改めることのない罪、国や首都、国民、子どもたちによる神への反抗に対しての報いが詳しく書かれています。聖書の中でも最も痛ましく、重苦しい書のちょうど真ん中にはこう書いてあります。『私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。』―哀歌 3 章 22 節-26 節を読んでください。

あなたは最悪の試練の真っ只中にいるかもしれません。しかし、主の確固たる愛は尽きることがありません。

あなたはクリスチャンであってもイエス・キリストを十分愛せていないかもしれません。

しかし、イエスさまがあなたを愛するのを止めることはできません。

確かにサムソンに起こったことは悲劇であり、1コリント 5 章に出てくる名も無き人に起こったことも悲劇、今日私たちに起こることも悲劇ではあるでしょう。あってはならないことなのですが、まとわりつく罪のために起こることがあり、実際に起こっています。今あなたが罪の中にいるのなら、もたもたせずに今そこから出なさい。罪は後にはあなたに歯向かうことが分かっているでしょう。その泥沼に陥るには方法はいくらでもあり、崩壊に向かうことは容易なのです。しかし、ひとつしか出てくる方法はありません。それはイエス・キリストの十字架です。

ジェイムズ・ジェイコブ・プラッシュ

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